2013年11月01日
極私的な考察 『叛逆の物語』
先日『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』を鑑賞しました。
個人的に非常に知的な作品に巡り会って、ハイな気分が継続しています。
最近使わなかった自分のSF脳を刺激してくれて、活性化させてくれてます(汗
ちょっとここら辺で自分の考えを纏めてみようかと、駄文をつらつらと書きなぐってみます。
完全ネタバレなので、これから鑑賞しようとする人は絶対にこの先には進まないで下さい。
『叛逆の物語』考察
~仏教関係者にぜひ見て貰いたい作品~
もうひとりの主人公(真の主人公?)暁美ほむらの悪魔化というどんでん返しで幕を下ろした物語。
かなりショッキングな展開なので、賛否両論が巻き起こっているようです。
TVシリーズでまどかが(円環の理=神)となった事に対しての返歌のように、もうひとりの主人公
ほむらが(自称)悪魔化宣言をして、まどかが改変した世界を更に改変して幕を下ろした訳です。
まどか(神)対ほむら(悪魔)の構図と、映画の中の言葉の上ではなりました。
ここからは言葉遊びになりますが、はたして対決構図なのか?と思います。
ほむらの作りあげた世界は、TVシリーズでまどかが作った世界に対しての叛逆行為そのものです。
しかし、死んでしまった者たちが生きており、それぞれの本来望んでいた(であろう)人生を生きていく世界です。
ほむらとまどかのふたり以外、否、ほむら以外には幸福な結末となっています。
自らを「悪魔」と宣言したほむらがとった改変は、他者に対しては結構幸せな結末だとおもいます。
これが悪魔の仕業なのか?
「神」「悪魔」という言葉は、西洋的宗教観、とくにキリスト教の唯一神的な世界観からくる言葉です。
この物語を、多神教の仏教的世界観に照らし合わせると、全然違う世界観が見えてきそうです。
まどか≠神
TVシリーズでまどかが自らを犠牲として作りあげた世界(概念)は「過去現在未来すべての世界の魔女を消し去る」という概念。作中では(円環の理)となります。
魔法少女たちが穢れに身を滅ぼし魔女と化す前に、その穢れを消し去り安らかな気持ちでこの世を去る事ができる概念です。
円環の理は、現世のあらゆる事に対して影響を及ぼす事ではなく、唯一、魔法少女達が長い戦いの果てに倒れ、穢れで身を滅ぼすその時にだけ、力を発揮(姿を現す=アルティメットまどか)する事ができるチカラです。
これは一般的イメージの神のチカラとは違うのではないでしょうか?
魔法少女(人)の死の間際に現れ救済をするという概念(円環の理=まどか)とはなんだろうと考え、すぐに思いついたのは、仏教でした。
まどか=如来
仏教は多神教の宗教です。多くの仏様がそれぞれ役割を担って世界を守っています。
その仏様の中での最高位が如来です。
複数おられる如来の更に上位にいるのが阿弥陀如来。
臨終の際に名を唱えれば、極楽からお迎えに来て下さり極楽へと魂を昇天させてくれる仏様。
まさにこの作品で描かれた円環の理そのものです。
まどかは如来の象徴
この仮定を裏付ける証拠的なモノが劇中に描かれていました。
如来はほとんど必ず、おひとりの如来とふたりの菩薩の計三人で一組となっています。
これを「三尊」と呼びます。
京都のお寺など拝見できる仏像などで三尊と呼ばれているのがこのトリオです。
如来の両脇を固めるふたりの菩薩は脇侍と呼ばれ、いわばガードマンや秘書の役割でしょうか。
実はこの映画の中で、円環の理となったアルティメットまどかのガードや使いの役割でふたりの重要キャラクターが登場しています。
ひとりは、美樹さやか。
もうひとりは新キャラクターの百江なぎさ(巴マミを食べた魔女の、魔女化前の魔法少女)
このふたりは今回の作品でかなりの活躍を行いました。
魔女化したほむらを鎮め、いよいよ円環の理が実体化しアルティメットまどかが降臨する場面では、さやかとなぎさが露払いの様にまどかに従えていました。
まさに三尊の構図です。
わたしはこの事から、まどかは神の象徴ではなく如来を象徴していると考えました。
如来ならばどうして新キャラのなぎさを登場させたかも説明できると思います。
三尊で一組だからどうしてももう一人必要だった。
物語に登場する5人の魔法少女以外にもうひとり、それも5人の誰かと因果でつながっている者。
魔女化して円環の理に導かれている者。
TVシリーズで該当するのはただひとり。巴マミを食べたお菓子の魔女だけです。
ほむら→焔→炎→
まどかが如来の象徴ならば、もうひとりの主人公ほむらは何を象徴しているのか?
名前の通りに「ほむら」を耳で聴けば、すぐに浮かぶのは「火焔」
燃え上がる火焔のイメージを誰もが思い浮かべると思います。
仏教的世界で炎の象徴といえば、不動明王や愛染明王などの仏界の守護神である明王や、帝釈天・毘沙門天などの天部の軍神を思い浮かべる事は特別ではないと思います。
明王や天部の役割とは
ずばり、「修行者を煩悩から守り、魔物から仏界や仏法を守る守護神」です。
荒ぶる姿をし、仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭す。
仏法に敵対する事を力ずくで止めさせる。
外道に進もうとする者はしょっ引いて内道に戻す。
つまり、仏法である如来や菩薩を守護し、現世に極めて積極的な介入を行い民衆を救済し、時には裁くのが明王&天部です。
その姿は魔物に近い荒ぶる姿をしていますが、神や仏と対極にある悪魔や魔物ではありません。
仏教には降魔の為に自らが鬼と化すという考え方があります。
仏が現世の救済のため荒ぶる姿で出現した者が明王や天部であり、それらは「鬼神」とも呼ばれる事もあります。
悪魔≠ほむら=鬼神=明王&天部
わたしは、ほむらは鬼神(明王や天部)の象徴だと思いました。
理由は、ほむらがこの物語で何をしたのかを考えたからです。
ほむらは「叛逆の物語」でなにを行ったのか?
ひと言でいえば世界を再改変したとなります。
円環の理となったまどかを騙すカタチで、そのチカラからまどかの人間だった時の記憶を引き剥がし、同時に円環の理の一部を自らに取り込み、世界を再改変しました。
これによりほむらは、記憶の操作など改変後世界に自らのチカラを直接行使出来るようになりました。改変後世界の絶対支配者となったのです。
積極的に世界に介入するチカラを得たのです。
では、なぜこのような行為を行ったのか?
それは円環の理を守るため。
キュウべえ(インキュベーター)=真の魔
インキュベーターはご存じの通り、地球外生命体の端末です。
そしてこの物語の根幹を成す存在です。
かれらによって魔法少女となった者が、やがて穢れを浄化できず魔女化する。
魔女は災いをふりまき、その魔女を倒すために再び魔法少女と成る者が現れ、魔女を倒す事によって穢れをため込む。
インキュベーターは、魔法少女が魔女化するその際の膨大な精神エネルギーをエネルギーとして採取する。
永久機関の様な効率的なエネルギー採取システムの為に、一部の少女たちと云う限定的ではあるが、インキュベーターは人類を云わば管理・飼育している。
このインキュベーターによるエネルギー採取システムはTVシリーズのラストで、まどかの願い(円環の理)によって消滅してしまう。
過去現在未来、全ての世界の魔女を消し去る。という願いによって、魔法少女は穢れて魔女化するその間際に円環の理に導かれ消滅する事となった訳です。
もっとも効率的なエネルギー採取システムを失ってもインキュベーターたちはめげなかったというのが、今回の「叛逆の物語」の根幹です。
円環の理を観測する事。
観測できれば、やがていつか円環の理をコントロールできるであろう。
ほむらの正体
円環の理(=まどか)をインキュベーターから守るために、ほむらは鬼神(自称は悪魔)となりました。
自らが鬼神となり世界を改変し現世の絶対的支配者となったのです。
そして、新しい支配者は前支配者を服従させました。
キュウべえを使役する立場になったのです。
ほむら(鬼神)がいる限り、まどか(如来)の世界はキュウべえ(外道)による侵攻から守られるのです。
仏教世界観では、明王や天部の神々は如来や菩薩の化身と云われている事が多いです。
有名なのは、不動明王が大日如来の化身と云われているように。
ならば、ほむらは明王&天部の荒ぶる神様(鬼神)の象徴だとするならば、それは何かの化身ではないでしょうか?
ほむら→焔→炎→焔摩天=閻魔(大王)=
作品の中で「悪魔宣言」をしたほむらですが、仏教世界観に悪魔を照らし合わせても該当する者がいません。仏教では特定の魔者が存在しなく、雑魚の群れのような名もなき魔物ばかりです。
しいて云えば、地獄の大魔王の閻魔大王がいちばん近いでしょうか?
一般的な閻魔大王のイメージは、死者の生前の善悪を裁く恐ろしい地獄の裁判官の印象です。
しかし、本来の閻魔大王の役割は、死者が一刻も早く極楽へ行けるように、あえて心を鬼にし死者を裁く神様です。
死者とはいえ常に人を裁くという罪を、自ら背負う事を自覚し日に三度、高炉で融けた銅を飲み干し死者が受ける裁きの痛みを自らも受けるという神様です。
閻魔大王は元々は、運命・死・冥界を司る焔摩天と呼ばれる神様だったと云われます。
焔摩天とは、「大いなる聖炎」と解釈すればよいでしょうか。
ほむらの名前をすぐに思い浮かべてしまいます。
そして、焔摩天の別名・閻魔大王は、有名な仏様の化身だと云われています。
ほむら=地蔵菩薩
閻魔大王は地蔵菩薩の化身です。あのお地蔵様です。
どこででも見る事ができる、いちばん身近にいる仏様です。
地蔵菩薩は、本来は如来に次ぐ高い地位の仏様ですが、自ら現世に下り、弱い立場の人々を救済する仏様となりました。いわば現世の救済者です。
まどかの円環の理のチカラの一部を自らに取り込み世界を再改変したほむら。
いままでの支配者・インキュベーターを降魔し自らが新しいオーバーロード(英語意で絶対君主)となったほむら。
自らを「悪魔」と宣言し現世に直接介入できるチカラを得たほむら。
ほむらは鬼神の象徴であり、現世の救済者・地蔵菩薩でもあります。
仏教的世界観からみたまどか☆マギカ
死後を救済する円環の理という概念が在る来世を作ったTVシリーズ。
現世に降魔の荒ぶる側面と救済者の側面を併せ持つ絶対支配者(鬼神)を創造した「叛逆の物語」
これが仏教的考察から壮大な物語を読み解いた、結論です。
とても壮大なストーリーに圧倒されます。
そして、現世も来世も神様に護られた幸福な世界を感じます。
しかし、
実際の物語は、賛否両論が起こる問題作となっています。
バッドエンドなのかハッピーエンドだったのか、それさえも観た人ごとに違っている難解作。
なぜこのような事態がおきているのでしょう。
それは、まどか☆マギカという物語の真のテーマが大きく影響を及ぼしているからだと思います。
来世と現世の神の創造はあくまでストーリー骨格、器にすぎません。
その器の中にどんなテーマを盛っているのか、これが重要なのです。
~つらぬくただひとつのテーマ 永遠のすれ違い~
「絶対にあなたを救ってみせる。必ずあなたを護ってみせる」
暁美ほむらが鹿目まどかと交わした、いまわの際での約束。
この約束が物語の始まりであり、ほむらは最後まで約束を守りそれを果たしました。
ほむらの行動原理はただひとつ、この約束を果たす事であり、それは最後までブレる事はありませんでした。
何度も時間遡行を繰り返し、
何度も約束を果たせず、
何度もまどかのいまわの際に立ち会ってきたほむらには、初めから手段を選ぶ選択肢など無かった事でしょう。
更には、約束を果たせぬまま守るべきまどかに助けられたTVシリーズ最終話。
そして、まどかの犠牲のうえに構築された円環の理の在る世界。
この事実をただひとり知る存在となったほむらの心中に去来するものは何だったろう。
それでも孤独な少女は、友との約束を果たしました。
たとえ誤解されても、否定されても、悪魔と呼ばれても、永遠の溝が友との間を分かつとしても。
いちばん大事な友との約束を果たした結果、
いちばん大事な友の心から一番遠く離れた存在になってしまったほむら。
円環の理からまどかの記憶を引き剥がし、現世にふたたび人間のまどかを甦らせたのに。
手を延ばせば触れ合う事が出来る存在になったのに。
遠くココロは離れ離れとなり二度と通い合う事ができない。
それでもほむらは、まどかの存在するこの世界を護っていく。
まどかが存在し、死んで行った者たちが生きているこの世界を。
自分の様に人生の折り返しを過ぎた年齢には「ひとつのテーマ」として捉える事ができますが、この作品のボリュームゾーンのファンの世代には、生々しいリアルなテーマとして、まだピュアな柔らかいココロの一部に深く刺さってくるのではないでしょうか。
「友との誤解。交われない決別。永遠のすれ違い」
仲間との絆や友情、コミュニケーションが一番大事なナイーブな世代(人)にとっては、ほむらの決断は到底受け容れられぬ裏切り行為です。
ましてやTVシリーズで見事におさまった物語をひっくり返してしまったのだから。
空想の物語ではありますが否定的な感想が驚くほど多く聞かれるのは、誤解や決別・すれ違いという作品全体を貫くテーマに、多くの観客が身をつまされる思いを感じたからではないでしょか。
魔法少女モノというチョッと一般敵ではないカテゴリーの作品の中に、知的な探究心をくすぐる物語を構築し、その中にとても身近でリアルなテーマを納めた作品が、まどか☆マギカだと思います。
願わくば、拒否反応を感じた方々。
もし、自分を護る存在がいたらと考えてみて下さい。
誤解を受けていたり、仲間外れになっていたり、周りにいても眼中になかったり。
そんな存在が自分の周りにいて、気付かずに自分を護っていたとしたら。
誤解されながらも、無視されながらも、拒否されながらも、それでもあなたを護っていたとしたら。
「自分は護られている存在なんだ」
こんな考えを持って、もう一度作品を鑑賞して観てはどうでしょう。
違った物語がスクリーンに展開されるかもしれません。
だらだらと雑な長文にお付き合い頂きありがとうございました。
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Posted at
2013/11/01 23:07:06
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