今年は劇場鑑賞本数15本でした。
15…
驚くほど激減。
…でも、じつは。
同じ映画を観に12回劇場に足を運んでいます(汗)
今年は観た映画の感想纏めではなく、この12回観た映画を中心に一年を纏めてみます。
12回観に行った映画は勿論 『天気の子』
とにかくツボにハマりました。こういう映画を待っていました。
映画冒頭。
フェリーの船室での帆高の描写で仰け反りそうになりました。
意図して帆高の愛読本タイトルを見せてきました。
『The Catcher in the Rye』 邦題『ライ麦畑でつかまえて』
〈こんなジャンルの映画を描きます〉と云う、監督の明確な意思表示を感じ取り、吃驚仰天。
新海監督って、こんなに骨のある監督なのか!と、またビックリ!!
約40年ぶりにメジャーシーンで絶滅した映画ジャンルを観る事が出来ました。
『天気の子』のストーリープロットの根底には、かつて『アメリカン・ニューシネマ』と呼ばれた映画のプロットが流れています。
『俺たちに明日はない』
『イージー・ライダー』 『明日に向って撃て!』 『狼たちの午後』
『いちご白書』 『フレンチ・コネクション』 『ペーパー・ムーン』
『カッコーの巣の上で』 『真夜中のカーボーイ』
『タクシードライバー』
ニューシネマを代表する映画タイトルを挙げれば、どの作品もが映画史に名を残している名作ぞろい。
これら名作群に共通するのが、鑑賞後に湧き上がる複雑な感情。
けっして一辺倒な感想で終わらず、観た人の持っている価値観や感情傾向、アイデンティティ自体をも揺さぶってきます。
〈映画で人生を学ぶ〉って言葉が有ったりしますが、ここで言う『映画』とは、まさにこれら『ニューシネマ』を指しているンだと、自分は思っています。
聖人君子的な誰でも愛される人物を主人公にした映画とは真逆。
犯罪者やアウトロー、落ちこぼれ達を描くのがニューシネマ。
かれら道徳観的アウトローの生き様に、共感する項目を見つけてしまったり、カタルシスを感じてしまう自分に戸惑う、これこそがニューシネマの真骨頂。
『天気の子』では、帆高が大きな決断を行い陽菜を取り戻し、二人して天から落ちていく。
観た人の多くがカタルシスを感じたシーンだと思います。
〈落ちていく〉のにふたりは幸せ(であろうし)
観ている側も共感してしまう。
でも、選んだ道は万人の理解を得られるのか?
『天気の子』は、本場モノのニューシネマに比べればソフトタッチで初心者入門レベルですが、その代りに〈セカイ系〉という日本発祥の新しいジャンル要素を取り入れています。
ネオ・ニューシネマと呼びたい位な傑作です、個人的に。
(余談ですが、宮崎駿監督は『ラピュタ』でパズーとシータに〈バルス)を唱えさせました。負の側面が落ちきったラピュタ(理想郷)は天高く登っていきます。パズーとシータが落ちるのではなく、理想郷が人の手の届かない更に高みへと去っていきます。宮崎監督の優しさの側面を感じる演出だと思います)
落ちて行く事で観る側に強烈なカタルシスを与えたのが 『ジョーカー』
この作品は、正真正銘、本家本元、40数年の時を経て登場したニューシネマ。
最後のニューシネマとも呼ばれている『タクシードライバー』の直系遺伝子を色濃く受け継いだ作品です。
アメリカンコミックに登場する架空の人物を使って、人が落ちて行く様を、理詰めの脚本と迫真の演技によって描き切っています。
毎日疲れ切った様子で重い脚を上げて階段を上っていった大道芸人が、ジョーカーとして覚醒し軽やかに踊りながら階段を下りてゆく(落ちて行く)
すでに映画史に刻まれる事が約束されたくらい強烈なインパクトを与える階段シーン。
人が落ちて行く、悪に染まっていく、闇の中へと進んでいく。
それなのに、共感してしまったり、カタルシスを感じてしまったり。
また、そんな自分の感情に気付き戸惑ってしまう。
40年前のニューシネマを知らない世代にとっては強烈なインパクトだったと思います。
『天気の子』の国内興行収入が140億円。同じく『ジョーカー』が50億円。
まさに2019年はニューシネマ復権の年だったと思いますが、
このニューシネマってジャンルは、映画業界にとっては非常に面倒なカテゴリーなんです。
反社会的な人物やアウトロー、社会的脱落者を主人公にした映画群なので、その映画でいくら儲かったとしてもスポンサーが付きにくい。今の世は映画製作会社が製作費を全額捻出する時代ではなく、映画企画にスポンサー企業を集める〈製作委員会〉方式。
スポンサー企業は映画とタイアップする事で企業イメージアップや製品の販促ができ、映画会社は製作費や単独宣伝費を圧縮できます。
ニューシネマが復権すれば、年数をかけて作り上げできた映画ビジネスモデルが崩壊する恐れがあります。
アウトローや反社会的な人物、触法少年を主人公にした映画に、スポンサーとしてつく企業はどのくらいあるのだろうか。
映画製作会社とスポンサー企業の間を取り持つことで利益を得てきた広告代理店には絶対に復活して欲しくないジャンルがニューシネマでしょう。
『天気の子』に対してのネガティブキャンペーンのようなバッシング状況をみれば、ニューシネマに対しての一部業界の過敏なほどのアレルギー反応の強さがよく判ります。
でも、
いちど動き出した潮流は反対勢力が止めようとしても止められません。
興行成績が動き出した潮流の大きさを物語っています。
映画ジャンルの栄枯盛衰は、映画作品でしか成しえません。
エポックメーキングな作品が登場すれば、その1本で時代が変わります。
40年ほど前、繁栄を極めていたニューシネマは、たった1本の映画の登場で終焉を迎えました。
厳密にいえば数本の作品がニューシネマ終焉の引金ですが、決定打となったのは間違いなく、1977年公開のスター・ウォーズ劇場公開第1作
『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』
この映画の登場によりニューシネマは終焉を迎え、絶滅しました。
それから42年の時を経てニューシネマ復活の狼煙が上がった年に、シリーズの最終章が公開されたのは、何やら因縁じみたモノを感じずにはいられません。
『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』
ニューシネマを絶滅させたスター・ウォーズシリーズの最終章最終話。
アナキンの章 ルークの章 レイの章 と三章9作品が揃った訳ですが、全作品を通して見てみるとだいぶ複雑な物語となりました。
特に今回の作品を含むレイの章は迷走感さえ感じさせられました。
全作品を通して考えると、血筋を超えた絆の物語。もう少し踏み込めば血筋の否定の話だったとも思います。
物語の中で正しき義を行うのがジェダイの騎士。かれらは厳しい戒律を自らに課す事でそのチカラを維持してきました。
アナキンの章は、破戒の物語でした。
配偶者を得てはいけないというジェダイの戒律を破りパドメを愛してしまったアナキンの悲劇。
逆に、ジェダイの戒律さえなければ悲劇は起きなかった訳です。ひとの自然な感情さえも抑制しなければ維持できないジェダイの正義とは何なんでしょう…
そして、破戒の末に続くのがルークの章
本来ジェダイの戒律の中では存在する事がない、許されない存在なのがルークとレイア。
存在してはいけないジェダイ騎士の血筋が存在し、それが希望となった物語でした。
最終章 レイの章は、血筋を超えた絆と陰陽融合の物語。
レイは自らの怒りさえもチカラにする事ができます。時に暴走してしまいますが、感情のままにチカラを行使し自らの義を行う能力があります。
シスより生まれジェダイに磨かれた新しい可能性こそがレイ。
そして、禁忌の末の血筋は静かに途絶えていきました。
でも、その志は引き継がれてゆく。新しい可能性、シスとジェダイの融合の象徴であるレイによって。
2019年の映画は、40数年の時を経てニューシネマの復活と、ニューシネマを消滅させたスター・ウォーズ物語の完結という大きな出来事が同時に起きたドラマチックな年だったと思います。
そんな年に、映画ムーブメントの盛衰をテーマに据えた映画が公開されました。
映画オタクのタランティーノ監督作品『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
ハリウッドのいち時代を描いた作品です。
描かれている時代は、痛快娯楽西部劇が衰退してゆく時代。
そんな時代のハリウッド映画人たちの群像劇。
ディカプリオ演じるTVアクターが、TVの仕事(TV西部劇)が激減して愚痴交じりに吐く捨て台詞
『デニス・ホッパーのバカヤロー!』
が見事に時代を象徴しています。
デニス・ホッパーは、ニューシネマを代表する作品『イージー・ライダー』の監督兼主演。
タランティーノ監督が描いたハリウッドのいち時代とは、
悪者インディアンを退治するガンマンたちが活躍する痛快娯楽西部劇が、ニューシネマの台頭によって絶滅してゆく時代です。
西部劇を絶滅させたニューシネマは痛快娯楽スペースオペラによって消滅。
その後、娯楽映画王道の時代が40年ほど続き、スペースオペラ完結の年にニューシネマが復活の産声を上げました。
映画ムーブメントの潮目が変わろうとする年に、その映画界の潮目自体を題材にした映画を発表してくるタランティーノ監督は、やはりただのオタクではなく、天才なのかもしれません。
来年はどのような映画が登場し、ムーブメントがどのように推移するのか。
新作映画単体を楽しむ以外に別な楽しみが増えました。
やっぱ、映画は娯楽の王様ですね。