2024年05月18日
”私のミャンマー 2”からの続きです。
1996年、初めてのヤンゴン滞在です。
今思えば当たり前ですが、市中に銃を持った兵士はいません。いたってノンビリの街です。ただし、ヤンゴンの中心地はゴチャゴチャで忙しさは感じられました。
N社の所長から紹介された数名の現地在住の日本人の方にミャンマーでの医療についてお話をお聞きしました。お会いした時の第一声は、”こんな所によく来たね”でした。それはミャンマーをディスってのことではなくて歓迎の意味だと思ってました。なぜなら皆さんはミャンマーが好きなんです!帰国後に知りましたが、”ビルキチ”、”ミャンキチ”って言葉です。ビルマ(ミャンマー)好きってことです。
ミャンマーに儒教はないと思いますが、親を敬い、ポライトリーであり、日本人とは比べ物にならない敬虔な仏教信者です。(英国統治の関係でクリスチャンもそれなりにいますし、隣国の関係でモスリムもいます) 夜に女性が出歩いても安全な街でした。そして親切です、よく日本で財布を落としても返ってくるって外国人は驚いていますが、当時のミャンマーもそうでした。
そんな人々、街だからビルキチが生まれたんでしょうね。
医療関係の所の訪問ですが、公立病院には外国人は原則立ち入りができませんでした。お話を聞いた日本人の方からは、あんなんは野戦病院みたいなもんだから、行ったら病気になるよと。日本人に限らず外国人は私立病院に行くようでした。外国人が行くような私立病院には公立病院で働く有名な医師がアルバイトに来ていますから、ちゃんとエアコンのある私立病院の方が快適でありそこに教授なりの有名な医者が来ますからそこでの診察、治療の方が衛生的で快適です。機材もそれなりにはあるようでした。医療費は日本のような健康保険はありませんが、公立病院は原則無料です。タダだから何にもしてもらえないって言う人もいましたがね。私立病院は100%実費です。ですので、富裕層しか行きません。
実際、夕食をアテンドしていただいたY氏は私立クリニックの急外で診てもらってるとのことでした。この急外が外国人用診察室だったんです。面会のアポを入れていただいていたんですが、急用とかでその院長にはお会いできませんでしたが、後から分かったことでその後懇意にしていただいた元ヤンゴン第一医科大学学長のProf. Myo Myint(今後いっぱいこの方のことは書くと思います)さんでした。専門は整形外科です。
もう一箇所は、AEA(Asia Emergency Assistance)です。その後このAEAはSOSに変名します。
AEAは国外に移送できるならば移送する。それが生命に危険を及ぼすなら国内で治療するという考えの医療機関です。その国内治療のためにヤンゴン総合病院(ミャンマーで一番の病院です)の病室一室をキープしてるとのことでした。ここで初めてMedical Evacuation という言葉を耳にしました。Evacuationなんて聞いたことがなかったので(汗)。とは言え国外移送なんてそんな大事が頻繁に起こることはありませんので、外個人医師のいる小さなクリニックと言ったところです。この1996年の時点では郊外の小規模ホテルの中にあったような覚えです、その後、GAVIを飲めたインヤレークホテルに移転しています。
この私の訪緬の半年くらい前に、A病院の事務局長が訪緬しています。それはA病院の顧問弁護士事務所が企画するアジア経済視察団の一員としてです。そのグループには東京の有名なタレントプロダクションとかも入っていたようで、ミャンマー側との交流会ではそのプロダクションがミャンマー人を招聘してタレントにすとか、A病院が医療機材のドネーションをするとかの手形(カラ手形?)を切ってきたようです。ただし、ミャンマー側は経済関係の部署で保健省関係ではなかったようでした。
そのカラ手形の具体化も私のミッションにありましたので、まずは保健省(Ministry of Hualth)の役人にあう段取りはY氏にお願いしていました。ヤンゴンの保健省は局によって建物の場所が違いました。アポは保健省の保健局( Dept. of Heaith)でした。何を話したかは忘れました。多分、こんな計画をしてますってことだと思います。なんせ初めての保険省ですから。
私自身の記憶のBrush Upのために自分の資料ひっくり返して保健省の構成を。
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大臣ー副大臣の下に5つの局がある。
Dept. of Health Planning
Dept. of Medical Research
Dept. of Health
Dept. of Medical Science
Dept. of Traditional Medicine
海外からの窓口はInternational Health Divisionで、大臣直轄のような位置にある。それぞれの局のトップをDG(Director General)とよび、その中がいろいろな課にわかれている。
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です。
この私の滞在時に、シンガポール資本で新たな高級ホテルが建設が行われていて、ソフトオープンと言うことを知りましたので、次回の訪問のためにとそのホテルを訪問しました。セドナ・ホテルと言います。ホテルの後ろには大きなプールがあり、アイランド・バーがありました。担当の女性に部屋を見せてもらいました。まだ私も40歳くらいの若さで、女性とホテルの部屋で二人になるような経験もなくワクワクでした(笑)。当時のミャンマーですから、いかに新築の5つ星ホテルと言っても出張規約の宿泊費でカバーできるプライスだったので、次回はここにしようと思いました。
最終日の夕食はこのソフトオープンのセドナホテルにてお世話になったN社の所長、Y氏と一緒にとセットしました。多分、中華だったと思います。
翌日の朝はホテルをチェックアウトして空港に向かいますが、起床してから腹の調子が・・・・・・。
空港についても腹の調子は改善しません。ハノイへはバンコクで乗り継ぎです。
RGNーBKKは何とミャンマーエアーに乗ってました。多分これが最初で最後ですね。BKK-HANはベトナム航空でした。
ハノイに着いた時は腹は最悪でした。多分、ハノイでの初日は最悪だったような。それが初めての訪問するハノイの印象を悪くしたかな(笑)。後からこのお二方に確認しましたが、何も体調変化は無かったとのこと。私はミャンマーの歓迎を受けてたんですね。(笑)
4に続く
Posted at 2024/05/18 07:08:44 | |
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ミャンマー | 日記
2024年05月17日
ミャンマーことを書こうと思い立ったものの、30年近く前のことからなのでかなり記憶が曖昧です。幸いミャンマー事業の資料は捨ててはいませんが、デジタル写真は2000年以前のものはほぼありません。書きながら思い出しています(笑)。
カミさんには思いっきり冷やかされるし。
医療機関として私の勤務先を書いていましたが、これからはA病院とします。Aは病院名でなく、ただアルファベットの最初の字ということで。
この時の三都市訪問は。A病院の健診を利用していただいている大手商社のN社さんのお力をお借りしました。
ホテル、航空券手配はA病院に出入りの旅行社にお願いしました。まだネットでできる時代でもありませんでしたし、現地への連絡もFAXの時代でした。
ヤンゴンへはこの年に就航したANAの関空 KIX-ヤンゴン空港 RGNの直行便を使用しました。ラングーンからヤンゴンへの名称変更は1989年に行われていますが、空港コードのRGNは変わっていません。これはIATAが決めるようですが、色々小難しい規約があるようですね。
ANAがヤンゴンへの直行便を就航させた理由はなんだんでしょうか?当時のミャンマーはまだラスト・フロンティアと言われる前です。軍事政権として国際的にも制裁を受けている時です。ANAの国際線拡張を考えていたんでしょうか。当時はまだ民主党政権ができる前ですから、JALとの間隙を縫ってのアジア戦略だったのでしょうか。後で知りましたが、成田からのヤンゴン行きはJALが押さえていたとのことです。なので、ANAは関空からしか飛ばせなかったということのようです。このことの裏付けは、1998年(開業の正確な年は?ですが)には日航ホテル・ヤンゴンが開業してますから。
ヤンゴン空港に着陸し、私は蛇腹(ボーディングブリッジ)で空港ビルに入ると思ってました。でも蛇腹はなくタラップで降ろされました。そこに待っていたのは古〜い成田空港のバスでした。暑いのにエアコンが止まっていました。多分壊れていたんでしょうね。
空港ビルは古い木造でコンピューターも無いんでないかと思うくらいの建物でした。
この三都市訪問の前に南回りのSQで英国に行った時、中東の空港でのトランジットの際に銃を持った軍人を見ました。ミャンマーは軍事政権の国であるとの私の知識にて、ヤンゴン空港のイメージはこの中東の空港での経験とダブっていました。
結果は銃を持ちような人間は皆無でした。まあ拍子抜けです。
イミグレを抜けるとFAXで頼んであったホテルカーのドライバーが私の名前を書いた紙を持って待っていてくれました。
ホテルは当時外国人が泊まれるホテルとして当時新築されたサミットビューホテルでした。
着いた日の夕食はN社のY氏がアテンドしてくださいました。最初くらいはミャンマー料理となったのですが、その店は休みでした。止むなくロシア系のインヤレークホテルのメインダイに。そこでは私の好きなイタリア白ワイン GAVIが飲めました!もうこれで私はイチコロでした。ミャンマーへのネガなイメージはこのワインで消えました。ド単純なものです(笑)。
翌日、N社の所長(当時の日本の会社の事務所はほぼ駐在員事務所でした。支店ではありません)を訪ねました。そこで門外不出の当時の日本人会名簿のコピーを渡され、“〇〇さん、〇〇さん、〇〇さんあたりなら話を聞けるろ思います”と。その後自分で電話をしてアポをとり、お話を聞けました。数人の方はミャンマー人と結婚され、現地に長くお住まいの方でした。
戦後まもない時のヤンゴン(ラングーン)は、東南アジアで一番栄えてた街だったようです。バンコク、シンガポールから多くの視察者が来てたとのことでした。これを聞いた時はとても信じられませんでした。理由は荒れ果てた市街地を見てそんなことは想像できませんでしたから(笑)。
大丸百貨店もあったようです。その後は百貨店はやめ、大丸商事として営業されてました。
行って分かったことの多いこと。この後も、戦中、戦後の事で自分のトロさをもい知らされます(汗)。
3に続く、
Posted at 2024/05/17 07:12:23 | |
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ミャンマー | 日記
2024年05月13日
このブログを始めたきっかけは、2007年に直腸カルチノイドを発症しその後開腹手術を受けたことです。当時はネットに直腸ガンの書き込みはあるものの、直腸カルチノイドについては全く書き込みはありませんでした。
なので同じ思いをされてる方への情報共有を考えて始めました。とは言えPCにはそれなりに経験してましたが、ブログ、HPには全く知識がなくこの”みんカラ”にたどり着いて始めた次第です。私のブログのカテゴリーに”カルチノイド”というのがありますが、そこを見ていただければあります。
さて、私は愛知県西部の生まれで、家業は染色業でした。3代目になれなかった3代目です(汗)。これについては、また別項で書きたいと思います。
私が35歳の時に家業を廃業しました。その後、廃業の終戦処理に3年以上を費やして39歳の時にサラリーマンに転職しました。就職先は地元の医療機関です。
不思議にここの理事長家族と私の家族は親子3代同級生で、理事長とは幼稚園から高校まで一緒でした。ということもあって、最初は家業をしていた土地をその医療機関で買ってくれないかとの相談がきっかけでした。理事長は”土地は今は間に合ってるるけど、途上国に医療施設を作ろうと考えているけど、お前はそれやってみんか?”との提案を受けました。当時の私は会社の終戦処理の見込みもたってきたこともあり、その提案を喜んで受けさせていただくことにしました。
当時のこの医療機関には海外担当部署があるわけでなく、私は本業の医療事務をやっていて年1~2回のスポットでの海外担当でした。その海外担当は私一人でした。
じゃあなぜ愛知県西部の田舎の医療機関がこんな大それたことを考えたということですが、理事長は中部財界人との会合等で途上国に社員を赴任させる時に問題となるのは現地での教育、医療だと聞いていたそうです。確かにそうですよね。教育については医療機関としては何もできませんが、医療であるならばなんとかできるかもと考えたそうです。これは医療機関としての総意ではなく、この時点では理事長個人の思いつきの域を出ていませんでした。
ですので、この私のミッションはかなり内密でのことでした(笑)。医者、職員にしてみれば、そんな金があったら俺たちの給料上げてくれですよね。
そんな中、やっと初めての視察の時が来ました。ベトナムのハノイ、ホーチミンとミャンマーのヤンゴンの視察です。まだこの時点では、どこにするかは決まっておらず、まあそれをお前がきめてこいっていうことです。
1996年10月に、ヤンゴン、ハノイ、ホーチミン(当時の私はずっとサイゴンって言ってましたので以下サイゴンで)をそれぞれ一週間づつの視察に出かけました。家業の終戦処理中に処理をお願いしていた弁護士の関係でサイゴンに行ったことがあったので、出発時はサイゴンに決めようかと思っていました。
この1996年から私が定年になる20年間ミャンマーとは関係ができました。この最初の訪緬(ビルマを漢字表記すると緬碾)からのことを私の備忘録として不定期に書いていきます。2000年前は私はデジタルカメラを手にしてなかったようで、写真がほぼありませんから文字ばっかりですが。
2に続く
Posted at 2024/05/13 10:01:34 | |
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ミャンマー | 日記