2024年05月23日
私のミャンマー 5”からの続きです。
ミャンマーの軍事政権ですが、民政移管ができたと思ったらまたクーデターで今に至っています。ミャンマーに関わっての20年で覚えたミャンマーの歴史を少し自分の確認のためにも書きます。
〜1824年
隣接するタイ、バングラデシュ、中国からのいろいろな民族が流入、抗争があり、多くの王朝ができ、消滅していた。
1824年〜1885年
三回の英緬戦争により最後の王朝のコンバウン朝が滅亡し、英国の統治下に入ります。でも英国の直接当地ではなく、英領インドに配合されてインドの1州になります。これはチーママ(インド人)による過酷な統治時代だったようです。
例えば現在のヤンゴン大学はカルカッタ大学のラングーン分校からスタートしたようです。
1937年
1930年頃からミャンマーの独立運動が始まりますが、1937年 英領インドから分離され英国の自治領になります。
日中戦争が始まり、中国の補給路(援蒋ルート)を断つために日本軍はビルマに進撃します。これと並行して日本軍(南機関)がアウンサンを中心とするビルマ独立義勇軍をビルマ独立のために日本、台湾で訓練します。そして1942年にアウンサンの独立義勇軍は日本軍と共に戦い1943年にビルマ国が建国されます。
1944年 中国の補給路を断つ目的のインパール作戦が行われますが、最後は英国軍に負け日本軍は敗退します。日本兵は敗走しますが、マラリア、飢えで次々と倒れたようです。その兵士の死骸が多くの残り白骨街道と呼ばれています。
独立したはずのビルマですが、日本の傀儡政権でること、インパール作戦の失敗による日本国軍の衰退等により、アウンサンは日本と敵対し1945年にクーデターを起こします。連合軍がビルマを奪回します。
残念ながらアウンサンは1947年に暗殺されます。彼はビルマの真の独立を見ることはできませんでした。
1948年にビルマは英国連邦を離脱して独立します。しかし国内は混沌としていたようです。
1962年 アウンサンの部下であり、ビルマ独立30人の志士のメンバーだったネウィン将軍がクーデターを起こします。その後大統領になり、鎖国的なビルマ式社会主義を行います。この鎖国性がベトナム戦争等に巻き込まれなかったという利点のあったようですが。
インフレが進み、1985年くらいには世界の最貧国になってしまします。
そして、ネウィンは1988年に退陣します。
この1998年8月8日に大規模な学生運動デモが行われ軍が出動し大きな犠牲が生まれました。そして鎮圧されてしまいます。この1988年4月に病気の母を見舞いにアウンサンスーチーが英国より帰国していました。
この1988年8月8日がその後8888としてビルマ人に記憶されています。
その後、9月にクーデターが起こります。新たな軍事政権です。
アウンサンスーチーは NLDを結党しますが、自身は1989年に自宅軟禁されます。1990年に総選挙が行われNLDが圧勝しますが、軍政側はそれを認めず民主化勢力への弾圧を行います、
1992年にタンシェ(国軍上級大将)が国家法秩序回復評議会議長兼首相に就任します。内閣は存在しますが、その内閣の上に軍人だけの評議会が存在していました。当時の軍のトップ3人(タンシェ、マンエー、キンニュン)の体制が続いていきます。2002年にナンバー3のキンニュンが首相に就任します。どうも国連、アセアンとかの首相会合にタンシェが出席するとやたら避難されることに嫌気がさしてキンニュンに代わったのが真相のようです。しかし、2004年にキンニュンは逮捕されて失脚してしますます。
2006年に首都がネーピードーに遷都します。
2007年 軍の序列4位のテインセインが首相に就任します。
2010年 NLDがボイコットして総選挙が行われ、その後テインセインは大統領に就任します。この時点で、軍服を脱いだだけのことですが、一応軍事政権は終わったとなっていました。この頃から、ラストフロンティアとかの世界中からのミャンマー詣でが始まり、ホテル代は高騰していきます。日系企業の日本人数も倍増していきます。日本の援助もエスカレートしていきます。日本の支援で工業団地も計画され完成してました。
2015年 NLDが参加しての総選挙が行われ、NLDが圧勝します。しかし憲法上の理由でアウンサンスーチーは大統領になれず、国家顧問、外相を兼務することになります。
2020年に総選挙。これもNLDの圧勝ですが、軍が証拠もなく不正選挙を言い出して2021年にクーデターを起こします。クーデター後はアウンサンスーチーは裁判で罪人となり収監されています。
ネウィンが就任した1962年からずっと軍事政権が続いています。(2015年〜2021年は民主政権)
今回はここまでにして、7に続きます。
Posted at 2024/05/23 10:55:40 | |
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ミャンマー | 日記
2024年05月23日
”私のミャンマー 4”からの続きです。
帰国後に3に書いたように理事長には進出するのであればミャンマーと告げました。とは言え、ミャンマーとなると軍事政権国家というのが問題になります。当時の私にはミャンマーについての知識がほとんどありませんでした。
ですので、どういう形で進めるかも案が浮かびませんでした。
当時のA病院は新しい建物を新築中でした。つまり旧建物の備品をリニューアルしますから、旧品が出てきます。そに旧品をミャンマーに寄贈する案が浮上してきました。これについても病院に国外に寄贈した経験もありませんから、私が素人ながら一から始めることになりました。
A病院の顧問弁護士ルートで、今は故人ですが長くインドネシアに関わり、JBIC、JICAにも関係のあるMさんを知りました。そのMさんは在日本ミャンマー大使館(以下ミャンマー大使館)にも顔があり、そのMさんの紹介でミャンマー大使館とも連絡を取るようになっていました。ミャンマー大使館には我々の寄贈計画を華hしていました。何も知らなかった私ですから、日本からミャンマーまでの船代はミャンマー側にもっていただこうと考えて計画でした。結果としてはこれによって時間がかかってしまいました。
1997年は一度訪緬しています。前年に訪緬して少しは人を知った私ですので、その顔ツナギを考えての訪緬だったように覚えています。
宿泊ホテルは、1996年に下見したセドナホテルに。そこで、日航ホテルがヤンゴンにできるとのことを耳にして、日航ホテル関係者に会えないかと奔走し、会うことができました。建設は間組だったように覚えています。間組と言っても、日本人は数人だったとのことでした。まだソフトオープンもしていないホテルでしたが、この翌年から宿泊することになります。
写真が無いと書いてきましたが、少し思い出しました。軍事政権下のミャンマーで不用意に写真を撮ると公安、当局にしょっぴかれる可能性があると考えて、極力撮らないようにしていました。
そんなことで、1997年は顔ツナギの一年でした。
ミャンマーの歴史と軍事政権については次に。
6に続く
Posted at 2024/05/23 10:37:03 | |
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ミャンマー | 日記
2024年05月18日
”私のミャンマー 3”からの続きです。
ハノイのホテルはレイクサイドホテルでした。英語名でしたが、中国(台湾かもしれませんが)資本のようで、メインダイは中華でした。
N社のハノイ支店を訪ねました。その時に日本からの視察団が来ていたようで忙しくされていたので、not welcomeを感じていました。ここではハノイの日系企業一覧表をいただきました。ベトナム人の方のアテンドでハノイの会社訪問しました。
ハノイには外国人用の医療機関が多数ありました。ヤンゴンにあったAEAもあり、スイス資本のクリックもありました。AEAはヤンゴンのそれと同じポリシーでMedical Evacuationが可能であるならそうするが、ダメなら国内での治療というものでした。スイス資本のクリニックはそこまでの大掛かりなものでなく外国人医師のいるクリニックということでした。私の立場(日本の医療機関の人間)は話してますから、同業者ということでなかなか立ち回り辛かった覚えです。
企業訪問で記憶に残っているのは、野村が造成していたハイフォン工業団地です。会ったのは女性でした。こういう工業団地にクリニックを作るてのもありかなとこの時に思いました。
またその女性は数日後にここを退職してサイゴンのホテルに就職すると。彼女はもともとホテルで就労したかったようですが、ホテル経験がないとちゃんとしたホテルへの就職はできなとのことで、まずは途上国のちゃんとしたホテルで経験を積んでステップアップする計画だそうでした。なかなか勉強になりました。
アボが埋まらなかった時に、ホテルのフロントのおねーさんに頼みこんでハノイの観光案内を頼みました。市中の亀が御神体みたいな寺に連れてってくれました。彼女から説明(英語)を受けてる時に横から欧米人に割り込んできてその女性に質問します。了見の狭いは私ですから言葉にはしませんでしたが、バカヤローと叫んで!(笑)。
彼女にはお礼として夕食をと考えていました。ソフィテルホテルがハノイにあったのでそこでと思ったのですが、高額と思ったのでしょうか、もう少しリーズナブルなレストランに連れてってくれました。
そんないい思いができたハノイからサイゴンへ飛行機移動です。やはり、ベトナムエアーにて。
サイゴンもN社の日本人K氏にアテンドしていただきました。ヤンゴンのY氏もこのK氏も帝大の工学部卒とのことで、工学部から商社にかあとびっくりしてました。今は商社に理系からの就職っていうのは理解してますがね。
私は帝大ではありませんが、地方国大の工学部卒で良かったなあと当時は思いました(笑)。その後、自分の学科の卒業者名簿見たら、豊通が多かったし、日商岩井もありましたから、たまたま私の学年がなかったんですかね。学科は元々は機織科でその後、紡織科→繊維工学→繊維高分子工学→高分子工学→有機材料工学と変わっていきますが、いわゆる繊維科の時は豊通が多かったんでしょうね。当地には、豊田紡織、豊田自動織機がありますから。
サイゴンにもAEAがあり、デンタルチェアーが3台もありました。他にもハノイと同じように複数の外国人用クリニックが。ハノイよりは数が多かったですね。
この頃のベトナムは米国との手打ちが終わり、まさに離陸していく時だったと思います。サイゴンのAEAを見ると複雑な思いが生まれてきました。
ホテルはエコートリアルでした。3つの中では一番快適なホテルでした。日本食レストランもあり、久しぶりのカツ丼とビールは極楽だったことを今でも覚えています。
ハノイでホテルのおねーさんに良くしてもらったことで図に乗ってホテルのゲストリレーションの日本人のM氏(当然女性)にベトナムについて教えて欲しいから、時間がある時にいっぱい付き合ってくれませんかとオファーしてました。そうしたら、ちゃんと一度一緒にホテルのバーで飲めました。
そこでの会話というか話は今も私の中に残っていています。まあこういう途上国ですから、売春に話にもなります。
M 日本人が私にね日本人がどこに行ったら女を買えるんか?とへっちゃらで聞いてきますよ。
私 えっ、女性のMさんいですか?
M そう、私が女性ってことはお構いなしですよ。
私 (絶句)
M そこでね言ってやるんですよ。”あなた自分のパスポート見られてますか?そにはこの人間は日本国民だから帰国ではお守りくださいって書いてありますから、あなたは多分日本に送り返されるだけでしょうが、相手の女性はどうなるかわかりませんよ。当局に引っ張られて帰ってこれなくなったベトナム人女性を多く知ってます。そのお覚悟があるならお好きにどうぞ”と言ってやりますよ。
私 えっ、パスポートにそんなん書いてありますか。部屋に帰って直ぐに見てみます。
まあこんな会話で、あんまり色気のあることはありませんでした(汗)。でも、このことは自分の中ではセンセーションでその後の私の海外での立ち振る舞いには影響がありました。
この3都市訪問はやはり女性運はありました!
サイゴンの最終日にN社のK氏と一杯やりました。サイゴン滞在中によくゴルフしなくていいですかと聞かれていました。この時も聞かれたんで、”私はゴルフは大好きです。日本ではほぼ毎週自分の会員のクラブに行っています。でも職場(病院)の連中はこのミャンマー、ベトナム訪問は理事長命令でもどうせ大したことしてないんやろと思っています。もしゴルフして怪我でもしたら何を言われるか。ゴルフは帰ってから直ぐできますからお気遣いなく。ありがとうございます。”と。
日本への帰国は、ベトナムエアーでバンコクに。そこでJALに乗り換えて名古屋です。ヤンゴンを出る時に腹を壊しましたが、その後は何も無かったように覚えています。
3都市の候補地については、私の結論は出ました。ベトナムはToo Lateです。今から計画してオープンできるまでの時間考えてもすごい出遅れになります。かたや、ミャンマーは国際的に制裁を受けていて、まだ外国資本が動く気配もありません。そう我々にとってのニッチがあると思いました。
1996年の訪緬はこの一回だけでした。
5に続く
Posted at 2024/05/18 08:17:48 | |
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ミャンマー | 日記
2024年05月18日
”私のミャンマー 2”からの続きです。
1996年、初めてのヤンゴン滞在です。
今思えば当たり前ですが、市中に銃を持った兵士はいません。いたってノンビリの街です。ただし、ヤンゴンの中心地はゴチャゴチャで忙しさは感じられました。
N社の所長から紹介された数名の現地在住の日本人の方にミャンマーでの医療についてお話をお聞きしました。お会いした時の第一声は、”こんな所によく来たね”でした。それはミャンマーをディスってのことではなくて歓迎の意味だと思ってました。なぜなら皆さんはミャンマーが好きなんです!帰国後に知りましたが、”ビルキチ”、”ミャンキチ”って言葉です。ビルマ(ミャンマー)好きってことです。
ミャンマーに儒教はないと思いますが、親を敬い、ポライトリーであり、日本人とは比べ物にならない敬虔な仏教信者です。(英国統治の関係でクリスチャンもそれなりにいますし、隣国の関係でモスリムもいます) 夜に女性が出歩いても安全な街でした。そして親切です、よく日本で財布を落としても返ってくるって外国人は驚いていますが、当時のミャンマーもそうでした。
そんな人々、街だからビルキチが生まれたんでしょうね。
医療関係の所の訪問ですが、公立病院には外国人は原則立ち入りができませんでした。お話を聞いた日本人の方からは、あんなんは野戦病院みたいなもんだから、行ったら病気になるよと。日本人に限らず外国人は私立病院に行くようでした。外国人が行くような私立病院には公立病院で働く有名な医師がアルバイトに来ていますから、ちゃんとエアコンのある私立病院の方が快適でありそこに教授なりの有名な医者が来ますからそこでの診察、治療の方が衛生的で快適です。機材もそれなりにはあるようでした。医療費は日本のような健康保険はありませんが、公立病院は原則無料です。タダだから何にもしてもらえないって言う人もいましたがね。私立病院は100%実費です。ですので、富裕層しか行きません。
実際、夕食をアテンドしていただいたY氏は私立クリニックの急外で診てもらってるとのことでした。この急外が外国人用診察室だったんです。面会のアポを入れていただいていたんですが、急用とかでその院長にはお会いできませんでしたが、後から分かったことでその後懇意にしていただいた元ヤンゴン第一医科大学学長のProf. Myo Myint(今後いっぱいこの方のことは書くと思います)さんでした。専門は整形外科です。
もう一箇所は、AEA(Asia Emergency Assistance)です。その後このAEAはSOSに変名します。
AEAは国外に移送できるならば移送する。それが生命に危険を及ぼすなら国内で治療するという考えの医療機関です。その国内治療のためにヤンゴン総合病院(ミャンマーで一番の病院です)の病室一室をキープしてるとのことでした。ここで初めてMedical Evacuation という言葉を耳にしました。Evacuationなんて聞いたことがなかったので(汗)。とは言え国外移送なんてそんな大事が頻繁に起こることはありませんので、外個人医師のいる小さなクリニックと言ったところです。この1996年の時点では郊外の小規模ホテルの中にあったような覚えです、その後、GAVIを飲めたインヤレークホテルに移転しています。
この私の訪緬の半年くらい前に、A病院の事務局長が訪緬しています。それはA病院の顧問弁護士事務所が企画するアジア経済視察団の一員としてです。そのグループには東京の有名なタレントプロダクションとかも入っていたようで、ミャンマー側との交流会ではそのプロダクションがミャンマー人を招聘してタレントにすとか、A病院が医療機材のドネーションをするとかの手形(カラ手形?)を切ってきたようです。ただし、ミャンマー側は経済関係の部署で保健省関係ではなかったようでした。
そのカラ手形の具体化も私のミッションにありましたので、まずは保健省(Ministry of Hualth)の役人にあう段取りはY氏にお願いしていました。ヤンゴンの保健省は局によって建物の場所が違いました。アポは保健省の保健局( Dept. of Heaith)でした。何を話したかは忘れました。多分、こんな計画をしてますってことだと思います。なんせ初めての保険省ですから。
私自身の記憶のBrush Upのために自分の資料ひっくり返して保健省の構成を。
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大臣ー副大臣の下に5つの局がある。
Dept. of Health Planning
Dept. of Medical Research
Dept. of Health
Dept. of Medical Science
Dept. of Traditional Medicine
海外からの窓口はInternational Health Divisionで、大臣直轄のような位置にある。それぞれの局のトップをDG(Director General)とよび、その中がいろいろな課にわかれている。
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です。
この私の滞在時に、シンガポール資本で新たな高級ホテルが建設が行われていて、ソフトオープンと言うことを知りましたので、次回の訪問のためにとそのホテルを訪問しました。セドナ・ホテルと言います。ホテルの後ろには大きなプールがあり、アイランド・バーがありました。担当の女性に部屋を見せてもらいました。まだ私も40歳くらいの若さで、女性とホテルの部屋で二人になるような経験もなくワクワクでした(笑)。当時のミャンマーですから、いかに新築の5つ星ホテルと言っても出張規約の宿泊費でカバーできるプライスだったので、次回はここにしようと思いました。
最終日の夕食はこのソフトオープンのセドナホテルにてお世話になったN社の所長、Y氏と一緒にとセットしました。多分、中華だったと思います。
翌日の朝はホテルをチェックアウトして空港に向かいますが、起床してから腹の調子が・・・・・・。
空港についても腹の調子は改善しません。ハノイへはバンコクで乗り継ぎです。
RGNーBKKは何とミャンマーエアーに乗ってました。多分これが最初で最後ですね。BKK-HANはベトナム航空でした。
ハノイに着いた時は腹は最悪でした。多分、ハノイでの初日は最悪だったような。それが初めての訪問するハノイの印象を悪くしたかな(笑)。後からこのお二方に確認しましたが、何も体調変化は無かったとのこと。私はミャンマーの歓迎を受けてたんですね。(笑)
4に続く
Posted at 2024/05/18 07:08:44 | |
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ミャンマー | 日記
2024年05月17日
ミャンマーことを書こうと思い立ったものの、30年近く前のことからなのでかなり記憶が曖昧です。幸いミャンマー事業の資料は捨ててはいませんが、デジタル写真は2000年以前のものはほぼありません。書きながら思い出しています(笑)。
カミさんには思いっきり冷やかされるし。
医療機関として私の勤務先を書いていましたが、これからはA病院とします。Aは病院名でなく、ただアルファベットの最初の字ということで。
この時の三都市訪問は。A病院の健診を利用していただいている大手商社のN社さんのお力をお借りしました。
ホテル、航空券手配はA病院に出入りの旅行社にお願いしました。まだネットでできる時代でもありませんでしたし、現地への連絡もFAXの時代でした。
ヤンゴンへはこの年に就航したANAの関空 KIX-ヤンゴン空港 RGNの直行便を使用しました。ラングーンからヤンゴンへの名称変更は1989年に行われていますが、空港コードのRGNは変わっていません。これはIATAが決めるようですが、色々小難しい規約があるようですね。
ANAがヤンゴンへの直行便を就航させた理由はなんだんでしょうか?当時のミャンマーはまだラスト・フロンティアと言われる前です。軍事政権として国際的にも制裁を受けている時です。ANAの国際線拡張を考えていたんでしょうか。当時はまだ民主党政権ができる前ですから、JALとの間隙を縫ってのアジア戦略だったのでしょうか。後で知りましたが、成田からのヤンゴン行きはJALが押さえていたとのことです。なので、ANAは関空からしか飛ばせなかったということのようです。このことの裏付けは、1998年(開業の正確な年は?ですが)には日航ホテル・ヤンゴンが開業してますから。
ヤンゴン空港に着陸し、私は蛇腹(ボーディングブリッジ)で空港ビルに入ると思ってました。でも蛇腹はなくタラップで降ろされました。そこに待っていたのは古〜い成田空港のバスでした。暑いのにエアコンが止まっていました。多分壊れていたんでしょうね。
空港ビルは古い木造でコンピューターも無いんでないかと思うくらいの建物でした。
この三都市訪問の前に南回りのSQで英国に行った時、中東の空港でのトランジットの際に銃を持った軍人を見ました。ミャンマーは軍事政権の国であるとの私の知識にて、ヤンゴン空港のイメージはこの中東の空港での経験とダブっていました。
結果は銃を持ちような人間は皆無でした。まあ拍子抜けです。
イミグレを抜けるとFAXで頼んであったホテルカーのドライバーが私の名前を書いた紙を持って待っていてくれました。
ホテルは当時外国人が泊まれるホテルとして当時新築されたサミットビューホテルでした。
着いた日の夕食はN社のY氏がアテンドしてくださいました。最初くらいはミャンマー料理となったのですが、その店は休みでした。止むなくロシア系のインヤレークホテルのメインダイに。そこでは私の好きなイタリア白ワイン GAVIが飲めました!もうこれで私はイチコロでした。ミャンマーへのネガなイメージはこのワインで消えました。ド単純なものです(笑)。
翌日、N社の所長(当時の日本の会社の事務所はほぼ駐在員事務所でした。支店ではありません)を訪ねました。そこで門外不出の当時の日本人会名簿のコピーを渡され、“〇〇さん、〇〇さん、〇〇さんあたりなら話を聞けるろ思います”と。その後自分で電話をしてアポをとり、お話を聞けました。数人の方はミャンマー人と結婚され、現地に長くお住まいの方でした。
戦後まもない時のヤンゴン(ラングーン)は、東南アジアで一番栄えてた街だったようです。バンコク、シンガポールから多くの視察者が来てたとのことでした。これを聞いた時はとても信じられませんでした。理由は荒れ果てた市街地を見てそんなことは想像できませんでしたから(笑)。
大丸百貨店もあったようです。その後は百貨店はやめ、大丸商事として営業されてました。
行って分かったことの多いこと。この後も、戦中、戦後の事で自分のトロさをもい知らされます(汗)。
3に続く、
Posted at 2024/05/17 07:12:23 | |
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ミャンマー | 日記