• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ロンバードのブログ一覧

2024年07月17日 イイね!

私のミャンマー 15


14からの続きです。

新幹線を名古屋駅で降り、D会に向かうのですがそのトランスポーテーションが何だったかは忘れました(汗)。

D会病院に到着してまずは理事長室に。



病院の産婦人科外来の前で。



健診のフロアーで。





透析のフロアーで。



その後、老人保健施設へ移動して。





麻雀台の見学。



記念撮影でした。



その後は名古屋の宿泊先のホテルまで送り届けました。
ここではJCPF及び愛知県の財界人とのパーティがあったようですが、私は不参加でした。

翌日はJCPF側のセッティングになりますが、私だけはご一行に同行することに。

保健大臣は愛知学院の教授とゴルフになり、残りの保健省の方々は私が名古屋市内を観光案内です。
それなりのレストランでランチをと考えていたのですが、皆さんは異文化に多少お疲れで、ストリートサイドの食堂でいいよと言っていただきました。どこに入ったかは忘れました。

この日の宿の知多半島の温泉旅館 海風に向かいます。ここもJCPFのセッティングです。ここに送り届けて私は帰る予定でしたが、引き止められて泊まることに。まあ、それはそれでミャンマーの方々の生活を見れたので良かったと思っています。

まずは、屋上の露天風呂に。するとミャンマーの方々は大騒ぎです。最初は喜んでいらっしゃるのかと思いましたが、違っていました。よく考えれば当たり前ですが、ミャンマーの方々は大浴場は初めてで、お互いの裸の姿なんて見たこともなかったんですね。自分の裸を見せたことも。

夕食は海辺ですからナマモノ満載です。これも面食らってたと思います。

=====================================

ミャンマー人の一般論として、仏教信仰心の厚い方は酒は飲みません。また、牛肉を食べない方もいらっしゃいます。理由は宗教ではなく、家畜は家族との考えではと聞きました。農作業を一緒にする牛、馬を食べれるかというものです。

宗教に関しては、仏教徒が約90%くらいと言われています。当然、モスリム、クリスチャンもいます。そのため、祝日はそれぞれの宗教の日があります。

ミャンマーの仏教は南方上座部仏教で、これは古い日本的な言い方では小乗仏教になります。つまり敬虔な仏教徒ということです。日本人よりははるかに信仰心が厚いと思います。

======================================

そんな夕食はご一行には苦痛だったかもしれません。

部屋ですが、旅館ですから和室で数人で寝ることになります。

ここでも私のびっくりが。愛知学院大のこの世話役の教授が、保健大臣を床の間に寝せようとしました。VIPは一段高いところで寝るのだと説明します。これってどうなのと思って効いてました。これを日本の文化だと思われてしまったらね。

翌朝、このご一行でのNo.2になるチョウミンさんから、今後の日本滞在でこのような Japanese Hotel がセッティングされていたら、安いホテルでいいからシングル・ルームに替えるようにこの先の訪問先に連絡してくれと言われました。

そうだよなと思いましたが、結果的には連絡しませんでした。理由は、それぞれの受け入れ先が熟考してセットされているはずですから、面識もないD会の私が言うことでもないと考えて。

翌朝に名古屋まで戻り、愛知学院大歯学部キャンパスに。そこの見学後に名古屋駅に移動です。
次の訪問地のパナソニックの担当者の方が引き継ぎのために名古屋駅まで来ていらっしゃいましたので、ご一行をお願いして私はお役御免になりました。

この四日間は多くの経験ができました。

前項で書いてますが、医療科学局のチョウミンさとはこの四日間で大変懇意になれ、医療計画局のチーソーさんとは冗談が言える関係になり、ヤンゴン第一医科大学長のミョーミンさんとも面識ができ、今後のヤンゴンでの夕食会に招待できるようになりました。IHD課長のオーンチョウさんとは関係が進んで、その後いろいろ無理をお願いしていました。

私は、1980年に一年間英国に住んでいました。それは24歳くらいの学生でしたので、プレッシャーのかかる生活ではありませんでしたから、異国のしきたりとかを苦痛に思うことはありませんでした。
しかし今回は社会的地位のある方に異国の文化、しきたりをどう説明し体験していただくかの難しさを思い知らされたと思います。
間違いなく、いい経験でした。

16に続く
Posted at 2024/07/17 08:35:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミャンマー | 日記
2024年07月16日 イイね!

私のミャンマー 14


13からの続きです。

新大使の病院訪問が終わってすぐに、大使館からFAXが入ります。
ミャンマーの保健大臣一行が、スイス ジュネーブでのWHOの会議の後、日本に寄り当D会も訪問したいという物でした。やはり、前年の寄贈が効いているんでしょうね。ミャンマー側にD会が認知されたということですね。

とは言え、FAX受信からご一行の訪日まで1ヶ月しかありません。FAXでは人数とただ来るっていうだけですから、それからミャンマー大使館(東京)といろいろの折衝でした。これにおいては、新大使の病院訪問の際に懇意になった書記官との関係がいい方に働きました。

愛知県の訪問地は、D会と口唇口蓋裂教会(以下 JCPF)関係での愛知学院大学歯学部の二箇所でした。その後関西方面に行って関空から帰国すると計画でした。最初の計画では、愛知に寄ってから富士山観光して関西という物でしたが、関係者がそれは時間的に無理なので、新幹線の中から富士山を見てもらって納得していただくことになりました。

こういうことは皆さん考えることは一緒で、自分のところの訪問時間を多くとりたいことですね。私としては愛知県のことだけ考えればいいので、JCPFと調整を。

JCPFは政治家、財界人も理事になってますから予算があるのでしょうね。来日後すぐに東京で歓迎パーティしてますし、名古屋でもホテルで行っていました。

まずは、東京から愛知県への移動のため、私は移動前夜に東京に行きミャンマー大使館でご一行と対面です。そのメンバーは、

・保健省保健大臣  ケッセン准将
・保健省医療科学局局長(Director General)  チョウミン教授
・保健省医療計画局局長(Director General)  チーソー博士(医者ではない)
・ヤンゴン第一医科大学学長         ミョーミン教授
・保健省保健局課長(Director)        キンタン
・保健省の海外窓口のIHD課長(Director)   オーンチョウ

それに、JCPFのメンバーの歯科医チュチュソーウィン(以下チュチュ)が通訳として参加です。

ミャンマー大使館では多くの日本人がいました。元駐ミャンマー大使とかも。
そこで皆さんが大臣に対して使っている言葉が、”Your Excellency”でした。最初はなんのこちゃでした。多分それが理解できたのは、自宅に帰って体と思います(汗)。それは、閣下という言葉の英語です。その後は使いましたが、その後の保健大臣は私に対して大変フランクリーに接して頂いたのであまり使ってないと思います。

これもお恥ずかしいことですが、先日の日本の天皇の英国訪問でチャールズ国王と話される時に”Your Majesty”と言われていました。私はてっきり”Your Excellency”と言われると思いかまえていましたので?でした。国王には”Your Excellency”でなく、”Your Majesty”なんですね。
私の言い訳は、ミャンマーでは大臣には会ったけど、国王には会ってないのでそれは知らなかったです(笑)。

翌朝、品川プリンスの1Fで通訳のチュチュと初めてのご対面。彼女とはこれ以降今まで家族がらみのいい関係です。彼女はミャンマーの歯科大を卒業後、愛知学院大、岐阜大の口腔外科で勉強していましたので、日本語はペラペラでした。それも今まで会った外国人の日本語と違って、ちゃんと敬語が使えます。もうびっくりでした。彼女は日本には6年以上いたらしいですが、その間にミャンマーの衛生環境への免疫は消失し、帰国したら下痢になったとかの笑い話がありました。

その後、ミャンマー大使館に出向いてご一行と東京駅に。

予定通りに、新幹線から富士山を見ました。

この時の座席配置は多分IHD課長のオーンチョウさんが決めたと思いますが、これがその後の私のミャンマー活動に多大な影響が。私の隣席は医療科学局長のチョウミンさんでした。ここでチョウミンさんと隣席になったことで懇意にしていただくことになっていくのです。

名古屋についてからは、15にて。
Posted at 2024/07/16 10:39:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミャンマー | 日記
2024年07月15日 イイね!

私のミャンマー 13


12からの続きです。

時は1999年になります。

在日本ミャンマー大使館(以下 ミャンマー大使館)の大使も異動になり、新しい大使が着任されました。書記官も新しい方が着任され、この頃には私も品川のミャンマー大使館詣に慣れてきていましたので、早速新しい大使に面会しました。その時も、M事務所のMさんも同席されました。

新大使には前年の寄贈式典、寄贈パーティが無事に開催できたことを報告しました。前任の大使もD会病院を視察されたことを伝え、新大使にもぜひ視察していただきたい旨を伝えました。了承を得ましたので、今回もゴルフもセットすることに。

ミャンマーは旧宗主国が英国ですから、前首都ヤンゴンには1909年開場のヤンゴン・ゴルフ・クラブがあり、それなりにポピュラーなスポーツです。軍人でも階級が上の方はゴルフをされます。

この新大臣は、空軍出身でした。この新大使との会話で、戦闘機、爆撃機、輸送機などの英語名を知りました(汗)。つまりそれらを操縦していたってことです。

来院が近づくと、奥様、お嬢様2名、書記官を同伴してもいいかと連絡がありました。まあ今さら・・・。

病院見学はそこそこに、新大使は理事長、私とゴルフに。ご家族は病院スタッフが観光に。

夕食は犬山の旅館で食べました。私にとってラッキーだったのは、書記官と風呂に入ったりで、懇意になれたことです。その後の私のミャンマー入国ビザ取得、本国保健省との交渉等についてもいろいろ協力が得られましたから。

その後、この新大使はすぐに異動になりました。あまりいい噂がありませんでしたからね。でも、本当の理由はわかりません。

14に続く
Posted at 2024/07/15 08:31:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミャンマー | 日記
2024年07月14日 イイね!

私のミャンマー 12


11からの続きです。

寄贈式典、パーティは無事に終わりました。

これで私のミャンマーは終わりになるどころか20年の長〜い付き合いが深まっていきます(汗)。

後でわかったのですが、このパーティに参加いただいた日本人(日本企業)の方々には、D会がミャンマーに病院を作るという噂が流れていたようです(笑)。当時は清水建設さんは駐在員事務所でなくもう支店であったように覚えています。ミャンマー、ラオス、カンボジアを統括されていたような。

まあ、ミャンマーでの日本企業の商売(事業)は日本のODAのような援助がなければできないような環境だったと聞いていましたし。

パーティ翌日には前項で書きました歯科医のS先生のクリニックを、D会のスタッフで訪問しました。私がスタッフをそこに案内した1番の理由は、一般の家なりアパートでのクリニック開業はいかに問題が多いかを理事長に実感してもらいたかったからです。それは、電気と水です。S先生からクリニックの現状と医療環境について説明を受けます。そして理事長はじめスタッフは大体理解してくれました。

S先生のクリニックには発電機(ジェネレーター)と浄水器が取り付けられていました。
ミャンマーの電力事情は最悪でした。ほぼほぼ毎日停電が起こってました。これは私がミャンマー事業から離れる2017年まで変わりませんでした。理由は供給量が足りないからです。今もさほど改善されていないと思います。
当時、ヤンゴンへの一番供給量の多い発電所はバルーチャン水力発電所で、これは日本の援助で作られていますが、それもかなり老朽化していましたし、

ミャンマー全土の電線が古く、抵抗の多い設備のため、送電ロスも多いとのことでした。当時でももし送電線を新しくするだけでかなりの供給量アップになるとも言われていました。
そんな脆弱な電力環境ですから、停電は頻発します。

私はクリニックを開くのであれば、ホテル内がベストと考えていたので、理事長にはホテル以外で開業するリスクを伝えたかったのです。ホテルは自前の発電機を持っていますし、当然も水の浄化してます。
水道は一応あります。でもこれは英国統治時代に英国が作った古い物です。ミャンマーで日本人から教えられたことに、英国はちゃんとインフラを残していくが、日本軍は破壊して帰っていくだけだと。なんとなく納得してました。

日航ホテルヤンゴンですが、前にも書きましたがGMは雇われの西洋人(白人)でした。実質のトップは日本人のK営業部長でした。Kさんもミャンマーの医療事情には危惧されていて、もしに日本人医師がいることによる観光客アップは見込めるので、クリニック開業へのバックアップはすると言っていただいていました。私としてもホテル内での開業がベストと思っていましたのでその旨は伝えてありました。Kさんはホテルの監督省庁の観光省に掛け合ってみると言っていただいていました。

まずは、1998年の私のミャンマーでの活動は終わりです。

13に続く
Posted at 2024/07/14 09:54:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミャンマー | 日記
2024年07月13日 イイね!

私のミャンマー 11


10からの続き

今まで私が所属した施設名をA病院としてきましたが、ネットで調べればすぐにわかりますので、医療法人 D会とします。ブログ中はただのD会とします。

ミャンマー政府 保健省主催の寄贈式典は昼間に終わり、D会主催のパーティは夕方からです。

場所は日航ホテルです。

私にとっても、D会にとっても初めてのミャンマーでのオフィシャル・パーティですので、大変な緊張と戸惑いの中でのスタートでした。

ますは、慌ただしかった受付です。



保健大臣のケッセン准将の到着です。



以前にD会を訪問いただいた国務大臣マンマン准将の到着です。



在ミャンマー日本大使館の朝海大使の到着です。



結局、キンニュン第一書記(当時のミャンマー国ナンバー3)は寄贈式典だけで、このパーティにはいらっしゃいませんでした。

このパーティですが、ミャンマー式の場合、たとえ立食でもVIPにはテーブル、椅子を用意して、誰かが食事をサーブするということです。なので、3卓ほどテーブルを用意しました。

メインテーブルには、保健大臣、日本大使、D会理事長、National Health Commiteeのメンバー(他の省の大臣)・・・で、サブテーブルには保健副大臣、日本大使館の医務官、D会副院長、National Health Commiteeのメンバー(他の省の大臣)・・・でした。
3卓目は保健省の局長用です。

D会理事長のスピーチです。



続いて、保健大臣のスピーチです。



保健大臣のスピーチ中のサブテーブルは、



また、保健大臣のスピーチ中の保健省の局長の方々。(スピーチが終わるとテーブルにつかれました)



乾杯です。D会の副院長です。



パーティ中の写真を。







パーティ中の保健大臣と理事長です。保健大臣はあまり英語がお得意で無いようで、ミャンマー語の通訳が入ってです。



保健省の局長の方々。



前項の書いたAMDAの竣工式に出席されていた日本大使館の書記官の方がもどってこられてパーティに参加していただけました!



ここまでのミャンマー活動でお世話になっているN商社の所長と。



ここから、私の写真を少々。
保健省のInternational Health Divisionの係長とまだ打ち合わせしてます(汗)。



当時はSOSで今のAEAヤンゴンの所長と。



日本大使にお礼を言ってると思います。



パーティの終わりに近づき、保健省さん側から記念品をいただきました。





私も。



保健大臣と理事長の最後のご挨拶です。



保健大臣のお帰りです。



マンマン大臣のお帰りです。
真ん中の後ろの方が、その後私を大変可愛がっていただくことになるチョウミンさんです。この時は保健省医科学局長でした。その後、副大臣、大臣になられます。



これで無事緊張のパーティは終わりました。

D会からのスタッフで打ち上げを多分したと思いますが、全く忘れてます(汗)。

12に続く
Posted at 2024/07/13 07:51:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミャンマー | 日記

プロフィール

ロンバードです。 (2017年2月22日にニックネーム変更しました) 前に1988年CX GTI SeriⅡに乗っていました。黒のVISA GTも所有し...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2024/7 >>

 123456
78910 1112 13
14 15 16 17181920
21222324252627
28293031   

リンク・クリップ

今日の野草 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2025/10/31 14:10:10
最近気になったクルマ 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2025/10/22 14:05:18
シトロエニスト・ランデブー2025参加 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2025/10/09 15:28:46

愛車一覧

シトロエン C5 セダン シトロエン C5 セダン
BlueHDI180のディーゼルです。 Petrol 1.6Lターボから乗り換えました ...
スバル WRX S4 スバル WRX S4
2000年から乗り続けたレガシィB4 RSKから2020年7月に乗り換えました。 今まで ...
シトロエン C3 ハゲ (シトロエン C3)
'88CX Seri2 GTIを手放してからやっと購入したシトロエンでした。 C5が輸入 ...
スバル レガシィB4 スバル レガシィB4
12万Km超えました。でも今のレガシィーはデカすぎて・・・。この1~2年でサスはじめター ...

過去のブログ

ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation