15からの続きです。
前項に書きましたように1999年に大臣ご一行の来院後少し時間が経ったのち、12月に訪緬しました。
この1999年訪緬の1番の目的は、新たな医療機材の寄贈の説明です。前回の寄贈のようにD会の機種更新に伴う旧品の透析機5台、救急車1台、ベッド40床と検査消耗品の寄贈を行うことが決まったのです。この寄贈に関しては訪緬前にオーンチョウ課長と何回もFAXのやり取りで説明していました。(この時代はは、まだミャンマー側に電子メールが受信できない時でした) 他には、いつものようにミャンマーの医療関係実態調査と関係構築です。
以下はその時の出張報告からです(汗)。
1 International Health Divisionの訪問
私にとっては、ミャンマー保健省の敷居は低くなっていましたので、ミャンマー保健省の海外窓口のInternational Health Division(以下IHD)のオーンチョウ課長にアポをとって面会しました。
そこでは、
(1)D会からの次回の寄贈の説明
(2)D会の使用している透析液の説明
(3)ミャンマーの透析器の使用状況の写真撮影
(4)ミャンマーの透析液のサンプリング
をしましたが、オーンチョウ課長は医者ではありますが、透析の知識が無いと言うことで、国立ヤンゴン総合病院(以下YGH)に出向き担当者の方と面談することになりました。実はこれは大変なことなのです。原則、YGHには外国人は入れません。しかし許可を取っていますから、堂々と入れました(笑)。
2 YGH訪問
YGHは英国統治下の1899年に開院し、赤レンガのビクトリア様式の建物は1905年に落成している。遠目にはクラシックな建物ではありますが、近くで見ると赤いペンキが塗ってあることに気づき興醒めです。
院長室です。
1,500床のミャンマー最大の病院です。
付き添いは一人だけです。
他の家族は、病室に入れないのでこのように院内のどこかで寝てます。
YGHは、ヤンゴン第一医科大、ヤンゴン看護師大、ヤンゴン医療補助科学大の研修病院でもあります。敷地も広く、継ぎ足し継ぎ足しで建物があり、まあ迷路のようになってます。ミャンマーの医療の不思議で、小児科と耳鼻科は以外の診療科はあります。その二つはそれぞれ専門病院として独立しています。あまりに広いので、目的の診療科で病院構内の入り口が違います。
私がこの時点で知っているヤンゴン在住の日本人の方でYGHに入ったことがある方はいらっしゃいませんでした。皆さんが聞いておられたことは、写真のようにほぼ野戦病院のようで下手に行くと病気を拾うよというものでした。その頃知ったのですが、当時のミャンマーでは結核のコントロールはできておらず、結核罹患者が街にはたくさんいるってことでした。なので、バスには乗ってはいけないとかは聞いていました。
そんな驚かされたYGHの透析室に向かいます。
ここで得た情報は下記です。
・保有透析器は5台
・使用する水は井戸水でRO装置で浄化している。RO装置のキャパは10台であと5台の能力はある。流量は5,000ml/分である。
・現在の患者はここYGHで、15人。国立サンピア総合病院(Sanpya General Hospital)では、1人である。使用台数の割りに小人数であるが、その理由は、料金のようである。Myanmarは社会主義であるにも関わらず、医療費は実費負担である。診察代は、公立病院では無料であるが、薬、注射代等は実費である。
透析の場合、約1万円/回で、2~3回/週で、5万円~7万円/月で、Myanmar人の月給は、外資系(日本商社)で3~5万円、公立病院医師で、500円~3,000円を考えると、5万円~7万円/月は法外と思われる。透析のために、個人の家を売却することもあるようである。
この聞き取りにて判明したことは、ミャンマーには毒蛇が生息していて、農村部での蛇に噛まれる被害(snakebite)が多く、それに有用のようで、国立サンピア総合病院でも、その方面への利用のためにも台数を増やしたいと言っていらっしゃいました。
3 保健大臣との面会
IHDのオーンチョウ課長と面会した後、オーンチョウ課長から私がヤンゴンに来たことを大臣に報告され、約一時間面談の時間をいただきました。大臣のほか副大臣(ミャウー教授)、医療教育局長(チョウミン教授)ヤンゴン第一医科大学長(ミョウミン教授)、オーンチョウ課長が列席されました。
まず最初に、大臣から日本滞在中のD会の歓待に、改めて御礼を述べられ、理事長に宜しく伝えてくれとのことでした。
次に、次回のD会の寄贈予定の説明をさせていただきました。
大臣からは、上述のように透析器が、ヤンゴン市に集中しているため、北部、特にマンダレーに送りたいようでしたが、後のメンテナンス等を考えると、この寄贈透析器はヤンゴン市内においてほしいとお願いしました。後述のMyanmar Yutaniに、ある程度のメンテナンスは期待できるのと、D会からのパーツの輸送等を考えても、ヤンゴンの方が得策と考えたためです。説明後は先方よりは何も言われませんでした。
また、現在D会にて臨床工学技士がコンディションを保つために、時々運転をしていることを伝え、機械を止めることで機械のコンディションを悪くする恐れがあるので、ヤンゴン市に着いたら、とにかく早く病院に転送して、動かしてほしいとのお願いをしました。
ミャウー副大臣は腎臓の専門で、いろいろ専門的なことをきかれたが、残念ながら、私にその知識がなく、先方も諦められたようでした。寄贈予定の救急車の年式が古いことを気にしていらっしゃいましたが、副大臣だけがD会を見学してないこともあり、寄贈医療機械の年式を今後にわたって、心配のようでした。私は、D会は機材の新しさがセールスポイントの一つの病院だから、5年くらいで機械は更新するので、それ以上の古い機械は寄贈しないと返答しました。救急車だけが例外であると。
また、副大臣がD会がドクターの研修を引受ることを要望されました。先日、東京の新大使にも同じことを提案されたことを伝え、D会単独で行うより、日本の外務省のプログラムを利用する方が得策であるから、それを調べてから連絡すると返答してこの場を終えました。
4 医療教育局(Dept. of Medical Science)
大臣との面会の席で、チョウミン局長から局長のオフィスに来るようにとの言われていましたので伺うことになりました。5月の日本訪問時のことを非常に喜んでおられ、理事長によろしくとのことでした。
大臣の面会の席にては、副大臣からドクターの研修の話しがでたが、チョウミン局長からは看護師のことを考えておいでで、D会を訪問された時にD会の看護学校を見学されたのを覚えておられ、ミャンマーの看護学校の先生(看護師)を研修させてほしいとの要請を受けました。上記のドクター研修と共に、JICAのプログラムを調べねはと思いました。
私の印象では、このチョウミン局長が保健省関係者の中で一番インテリジェンスがあるように思っていました。局長は呼吸器の専門医で、英国のエジンバラ、グラスゴーに3年の留学経験があり、政府要人の外遊時に随行する医者とのことでした。局長は、2000年に退官(定年)のようでした。その後、クリニックを開設するのであれば、それにD会として関係を持ったほうが得策と思い、開業の気持を秘密裏に聞いてみたところ、もう開業していらっしゃいました。局長の他に、1~2名のドクターがいるようです。
5 日本企業回り
数社の日本企業のお話を聞きました。やはり状況は変化なく、日本のODA次第のようですが、日本政府も世界の目があるので大きな動きもなくお暇なようでした。人道支援目的の草の根無償資金協力なら可能性は高いようですが、金額が少ないので駐在員事務所を持っての会社にとっては割が合わないようでした。
一社は本社が名古屋ということで、同じ地元だからこれからは弊社をすり抜けせずに立ち寄ってくださいと言われました。ありがたいことでした。
6 ミャンマー・ユタニ社
日本人のKさんが社長をされている会社です。Kさんは日本で開運会社にお勤めでしたが、阪神淡路大震災で大きな被災をされ、その後ミャンマーにて起業された方です。奥様は壱番館という日本食レストランを経営されています。壱番館はヤンゴンの日本人駐在員にとっては無くてはならない場所になっています。
そのミャンマー・ユタニ社はニプロの代理店になっていまして、軍病院、ヤンゴン市内の市立病院にニプロの透析器を納入していらっしゃいます。なぜ公立病院でなく軍病院かというと、予算の確保スピードの違いで公立病院はなかなか決まらず商売にならないようです。
Kさんにはもう保健省のオーンチョウ課長から連絡があり、D会の寄贈予定のDRAKE WILLOCK製透析器がメンテできるかと問い合わせがあったようでした。経験はないが頑張りますと返答したということでした。ミャンマーユタニに置いて、透析器のメンテ、透析液、血液回路の消耗品の確保もなんとかなりそうで一安心でした。
7 ミャンマー国内情勢
自分で感じたこと、日本企業の方々から聞いてことです。
ミャンマーの経済は、昨年訪れた時(1998年)より、良くはなっていないようだし。部分的にはむしろ後退しているようにも思えました。確かに、ヤンゴン空港の改修工事(ODA)は再開され、そして事実上終了しました。
小渕首相がタンシェ議長と会談したことについては、最近の日本の首相が、ミャンマーの元首と会談したことが無いことから考えれば、画期的な進歩であるかもしれませんが、橋本前首相が12月初旬にミャンマーを訪問して、ODAではない政府援助をしたことなど、前進のようには思えます。
しかし、味の素がミャンマーから撤退しました。もともとミャンマーは、味の素の消費が多い国であったようです。今年、ミャンマー国内に、“味の素は健康に悪い”という噂が広がりました。出所は、マン・エー副議長のようであり、それはまるで“天の声”のごとくインパクトがあり、味の素は売れなくなったようです。味の素は保健省にデータを出し、安全性を説いたようですが、大臣が副議長に逆らえるはずもなく、大臣は味の素に会わなかったようです。味の素は、ミンガラドン工業団地の工場を閉鎖して、3人の日本人は違う外国の赴任地に異動されたようです。
また、依然として保護関税法の整備もなく、ミャンマーからの輸出品に税金をかけるという愚行も行われています。せっかくの低価格のミャンマー製品に税金を掛け、輸出競争力を自ら無くしています。基本的に、SPDC、内閣に経済の解る人がいないということのようですが、日本-ミャンマー商工会議所の会議にも出席されるエーベル大蔵大臣(准将)については、政策的には物足りないよう人であるし(人柄、英語力には評価はあるが)、タン・シェ議長、マン・エー副議長、キン・ニュン第一書記の上層部の判断が優先されるゆえ、大臣レベルの裁量があまりないことも、問題のようです。(味の素問題にも見られたように)
タン・シェ議長の後任問題の、マン・エー副議長、キン・ニュン第一書記の綱引きは今も行われているようです。ただ、もしマン・エー副議長が後任となると、経済の点では、後退と思われます。最近のミャンマーの場当たり的税制などは、マン・エー副議長の指導のようです。キン・ニュン第一書記が後任の場合は、政策的には前進するであろうが、武闘派のマン・エー副議長及び、その派閥の処遇を間違うと、クーデターの可能性もあると思われます。しかしながら、キン・ニュン第一書記の今までの行動を見るかぎり、その可能性は薄そうです。
これで1999年のイベントは終了になります。でも、この透析器の寄贈にて今後いろんなことが起こります。
17に続く