同時に、今日で昨年の正月早々に発生した能登半島地震から、ジャスト1年が経過。
思いおこせば2024年(令和6年)1月1日の15時半過ぎ、正月早々から母親が(グータラしている)父親に対してギャースカ怒っているのを目の当たりにしてウンザリした気持ちになり、家に居たくなかった自分は、母親から頼まれてた郵便を旧イトーヨーカドーの脇にあるポストに投函したのち、開いていたら、直江津駅近くにある立ち呑み屋さんへ軽く引っ掛けに行こうかな〜(?)なんて考えながら、直江津の街中を歩いていました。
16時07分。あと300mほどで、直江津駅前の交差点にさしかかろうとした時、突然スマホからエリアメールとともに、地震発生時の「ビャービャー音」が響き始め、最初にスマホの画面を見た時は「震度3」だったのですが…

その直後に鳴った、前述の「ビャービャー音」の後にスマホの画面を見たら、能登半島を震源とする「震度7」の大地震が発生(!!)の表示が出たと思ったら、ゴゴゴ(!!)という地鳴り・地響きとともに、自分の横にある直江津駅構内のはずれに停車していた特急「しらゆき」はじめ、まわりの電柱や、運転免許センターも含めた複合施設「うみらいず」の立体駐車場が崩れ落ちるんじゃね(!?)という勢いで激しく揺れ始めて、とてもではないのですが、自力で立てない状態が数十秒ほど続き、揺れが収まったと思ったら、その直後に上越市からの「津波警報が発令されました!!直ちに高台へ避難して下さい!!」という放送が流れたため、干支が兎年から辰年に変わったものの、龍が如く…ではなく(大笑)、脱兎の如くまわれ右をして、ダッシュ(!!)で家に戻りました。

家に戻る途中、中学校時代の同級生と、その子どもさん2人とバッタリ会ったのですが、お互いに違う町内に住んでいるので、避難場所は違うものの、途中まで一緒に行く事に。
同級生が住んでる町内は、避難場所が旧イトーヨーカドーの建物だったのですが、この時すでに旧イトーヨーカドーの店内は、パニック状態(!!)で、店員さんや、警備員さんが、必死にお客さんの避難誘導をしていました。
同級生と旧イトーヨーカドーの前で一時的に別れて(冒頭では、家に居るのがイヤだと書いていましたが…)家へ戻ったら、他の家族が貴重品と必要最低限の生活用品&食糧を持って避難すると言ってたので、自分もすぐに避難準備をして家族や、ご近所さんたちと、(当初の避難場所である)家の近くにある中高一貫校へ行ったのですが、鍵が開いておらず、全員そろってすったもんだしていたのですが、直○津中学校の体育館(高床式で、1階がピロティーになっている)が開放されたと言う事で、急きょそちらへ移動となりました。
直○津中学校の体育館へ避難したら、自分が住んでる町内の他にも、5つくらいの町内の人たちが避難して来てて、ゴチャゴチャな状態ではありましたが、この時は町内やら、年齢性別関係なく、体育館の床に布団代わりのマットを敷いたり、救援物資をバケツリレー方式で運んでいたのですが…一部の年寄りが、市役所の職員さんに対して「対応が遅い!」だのと文句や批判をぶち撒けて、怒鳴り散らしているのを見て、そのムダに有り余ってるエネルギーを、こっちに回してくれよと思ったりf(^_^;
自分も含めた町内の人たちは20時頃まで避難所にいたのですが、その中で「津波が関川を遡上して、直江津港周辺が浸水した」だとか「名立方面の国道8号が土砂崩れで塞がってる」という情報を仕入れたり、冬の寒さ&度重なる余震に震えながら、長い時間を過ごしました。
その途中、前述の中学校時代の同級生から電話が入って、お互いの状況を話したのですが、同級生は思っていたよりもヒドい被害に、ビックリしていました。
20時を過ぎた辺りから、だんだんバラけ始めたので、自分たちも様子見で一時的に家へ戻ろうってなり、突然の大地震からの避難で、心身共にボロボロになりつつも歩いて家へ戻り、家へ戻ってからは、家の中の後片付けを簡単に行って、大地震で止まっていたガスメーターの安全装置を解除したのち、風呂に入って、いろいろニュースを見てから布団に入りました。
ひと晩明けて、2024年(令和6年)1月2日。夜が明けて、少し明るくなってから、家のまわりの被害などを確認するので歩いて回りました。

※写真はあくまでもイメージですf(^_^;
確認したところ、液状化現象の跡が多数見つかり、それが原因で家の前の通りの地面に地割れや、隆起が起きており、自分の家の住宅と車庫もひずみ&一部損傷を発見!!

とりあえず、正月明けの早い段階で自宅の1階の居間の畳をはぐって縁の下を見てみたら…ものの見事に、液状化現象の影響を受けて、地面が沈んでいました!

それでも、上越市役所の職員さんの判定では「全壊」だとか「半壊」ではなく「一部損壊」だったため、とりあえず応急修理を施して、春の暖かい時期が来るまで様子を見て…となったのですが、それでも根本的な解決には至らず、4月の下旬ごろから本格的な修理が始まるまでは、自宅内では誰かが歩くたびにギシギシ音や、1階の床面が上下に沈み込むような感触がダイレクトに感じ取れたりf(^_^;

そんでもって、6月始めについに…と言うか、やっとこさ自宅と車庫の修理が終わったのですが、その翌々日の朝6時半に大規模な余震を喰らってヒヤヒヤした気持ちになったのは、ここだけの話でf(^_^;

よく、災害報道ニュースの中での、被災地の方々のインタビューで「あの日を境に、時間が止まってしまった…」なんて言葉を耳にしますが、自分の中では逆で、この半年間をふり返ってみると、その逆で「時間の進む速度が加速した」気がしました。年齢のせいかもしれませんが(笑)。
自分の自宅や、車庫は運良く「一部損壊」で、何とか復旧修理は完了したものの、震源地のすくそば…能登半島にお住まいの方々は地震での生活再建まで、まだまだ長く険しい道のりを進んでいる感じがします。
自分の力で何ができるのかはわかりませんが、この能登半島地震のできごとを忘れずに、微力でも何か力になれるようにして行ければ…と切に願いますm(_ _)m
Posted at 2025/01/01 21:58:31 | |
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