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2014年10月22日

土方歳三という男 秋の夜長にこの男の一生について考えるのはいかがですか?

土方歳三という男 秋の夜長にこの男の一生について考えるのはいかがですか? こんばんは。




超ご無沙汰の幕末ネタです。



過去のブログで、


お墓にお参りとか

沖田総司とか

近藤勇とか

幕末の笑える写真とか

幕末の美男美女とか

幕末の年表とか


いろいろやってきました。

懐かしい・・・。




そろそろ真打ち登場していいですか?



歴史全般好きです。大学でもゼミの専攻は日本史古文書購読でした。

ミミズみたいな昔の文書はある程度なら解読できます。

戦国では佐々成政とか竹中半兵衛とか蒲生氏郷とか好きです。




でも一番敬愛してやまないのが新選組。

特に土方副長であるのは、昔からのみん友さんならご存知のハズですよね~!



私が書くと思い入れが強すぎて偏った意見になってしまうので、客観的に一生を綴ったのを抜粋しましたのでここで紹介します。


興味無い方は眠れない時に読んで頂くとスッと眠れるかも知れませんね~。







土方 歳三(ひじかた としぞう)は、幕末期の幕臣、新選組副長。諱は義豊、雅号は豊玉。


新選組時代には、局長近藤勇の補佐役として数々の事件で武名を顕し、また隊内に厳正な規律を実施して鬼の副長と称され、剣豪揃いの隊士たちを慴伏させた。戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。明治2年5月11日、戊辰戦争の最後の戦場だった箱館五稜郭防衛戦にて戦死。享年35。

→まあ簡単に言うとこういう人でした。詳しく知りたい方は以下をどうぞ。長いですよ言っときますが(笑)




天保6年(1835年)5月5日、武蔵国多摩郡石田(いしだ)村(現在の東京都日野市石田)に農家の土方隼人(義諄)と恵津の間に生まれる。これまで6人兄弟の末っ子であるとされてきたが、近年になって発見された資料により、実は10人兄弟の末っ子であったことが判明した[要出典]。土方家は「お大尽(だいじん)」とよばれる多摩の豪農であったが、父は歳三の生まれる3ヶ月前の2月5日に結核で亡くなっており、母も歳三が6歳のときの天保11年(1840年)に結核で亡くなっている。また長兄の為次郎は失明していたため、次兄の喜六と、その妻・なかによって養育された。




少年期の歳三は、村では顔に似合わず「バラガキ」(触ると痛いイバラのような乱暴な少年)と呼ばれた。また、生家には、歳三が少年の頃に「武士になりたい。武士になったらこの竹で矢を作る」と言って植えたという竹がある。

→コレ土方さんちのまだありますよ~触れます!



これまで、11歳の時に江戸上野の「松坂屋いとう呉服店」(現在の松坂屋上野店)へ奉公に上がり、すぐに番頭と喧嘩をして郷里に戻ってきてしまったと伝えられていたが、近年発表された石田村の人別帳控により、数えの11歳時は石田村に在住しており、奉公には出ていないことが判明した。欠損もあるが、この人別帳から、歳三が奉公に出ていたのは数えで14歳~24歳の10年間と考えられるようになった。また17歳の時に松坂屋上野店の支店である江戸伝馬町の木綿問屋(上野店の鶴店に対し、亀店(かめだな)と称された)に奉公に上がり、そこで働いていた年上の女性を妊娠させてしまうといった問題を起こして(番頭に衆道関係を迫られたともいわれる)郷里に戻ったという説もあるが、前述の人別帳の存在から現在ではその信憑性が疑問視されている。どこへ奉公していたかは今後の研究課題といえる。

その後、歳三は実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地の剣術道場で他流試合を重ね、修行を積んだ。
→石田散薬、土方さんちでまだ売ってるよ~!


姉・のぶは姉弟の従兄弟でもある日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁いでおり、歳三も彦五郎宅にはよく出入りしていたといわれる。彦五郎は大火に乗じて命を狙われたことがあり、それを契機に井上源三郎の兄・井上松五郎の勧めで天然理心流に入門し、自宅の一角に道場を開いていた。そんな縁から彦五郎は試衛館の近藤勇と義兄弟の契りを結んでおり、天然理心流を支援した。

歳三はその道場に指導に来ていた近藤と出会い、安政6年(1859年)3月29日、天然理心流に正式入門している。文久元年(1861年)、近藤が天然理心流宗家4代目を継承。記念に紅白の野試合が催され、歳三は紅組の大将を守る役で出場した。

文久3年(1863年)2月、試衛館の仲間とともに、将軍・徳川家茂警護の為の浪士組に応募し、京都へ赴く。



文久3年(1863年)に起きた八月十八日の政変後、壬生浪士組の活躍が認められ新選組が発足。その後、新見錦が切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺。権力を握った近藤が局長となった。歳三は副長の地位に就き、近藤の右腕として京都の治安維持にあたった。新選組は副長助勤、監察など職務ごとに系統的な組織作りがなされ、頂点は局長であるが、実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされる。




池田屋事件



元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件の際は、半隊を率いて長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)方面を探索して廻ったが、こちらは誰もいなかった。すぐさま池田屋の応援に駆けつけたが、直ちに突入せずに池田屋の周りを固め、後から駆けつけた会津藩・桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組の手柄を守った。まだ立場の弱い新選組の事を考えての行動で、歳三らしい冷静な機転である。そのため池田屋事件の恩賞は破格のものとなり、天下に新選組の勇名が轟いた。さらに幕府から、近藤を与力上席、隊士を与力とする内示があったが、歳三は近藤を諌め与力よりも狙いは大名と、次の機会を待つよう近藤を説得したとされる。新選組内部では、常に新選組の規律を隊士らに遵守させ、規律を破った隊士に対してはたとえ幹部の人間であろうと切腹を命じており、隊士から恐れられていたとされる。そのため、新選組隊士の死亡原因第1位は切腹であったといわれている。また、脱走者は切腹または斬殺後見せしめにすることもあった。



その後、副長の山南敬助を総長に据え、副長は土方1人となる。隊に居場所がなくなり山南が脱走して切腹となった事件では、山南と土方との対立があったとされるが、実際は仲が良かったとする説もある。山南に宛てた水の北 山の南や 春の月との句もあり、これには土方の好きな「春の月」が入っており、山の南=山南とされて仲の良かったことを示しているとされる。その後も隊の規律を守るために河合耆三郎、谷三十郎、武田観柳斎らを切腹あるいは斬殺させた。伊東甲子太郎の結成した御陵衛士にスパイとして斎藤一を送るなどして伊東の近藤暗殺計画を未然に防ぎ、伊東、藤堂平助を暗殺し御陵衛士を壊滅させた(油小路事件)(御陵衛士、及び伊東、斎藤に関しては異説有り)。





戊辰戦争


慶応3年(1867年)6月、幕臣に取り立てられる。しかし同年10月14日、徳川慶喜が将軍を辞し大政奉還。12月9日に王政復古の大号令が発せられるに至り、幕府は事実上崩壊した。慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、歳三は墨染事件で負傷した近藤の代わりに新選組を率いて戦うが、新政府軍の銃撃の前に敗北する。その後、江戸城に登城した土方歳三は、佐倉藩江戸留守居役の依田学海に戦況を尋ねられると、「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」と語り、洋式軍備の必要性を痛感した。もっとも、歳三は鳥羽・伏見の戦いで敗北する以前の慶応元年頃から、これからは刀で戦ができない時代であると悟り、洋式軍備を進め始めてはいた。

鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍が大坂から江戸へ撤退した後、近藤は大久保大和、歳三は内藤隼人と一時名乗って甲斐国に向かう。しかし3月6日、甲州勝沼の戦いで敗戦。歳三は戦争前に急ぎ援軍要請へ向かったが成功しなかった。その後、流山で再起を図っていたが、4月3日、新政府軍に包囲された近藤が投降。このとき歳三が近藤の切腹を止めて投降を勧めたとも、最後まで投降に反対したとも言われる。歳三は江戸へ向かい、勝海舟らに直談判し近藤の助命を嘆願したが実現せず、慶応4年(1868年)4月25日、近藤は板橋刑場(現JR板橋駅前に墓所有り)にて処刑(斬首)された。

近藤投降後、助命嘆願のかたわら新選組を山口二郎(斎藤一)に託して会津へ向かわせ、島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流。4月11日に江戸開城が成立すると江戸を脱出し、歳三は秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を務めた。下館・下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させる。しかし壬生の戦いに敗走、新政府軍と再度宇都宮で戦った際に足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送されることとなった。会津では約3ヶ月間の療養生活を送り、この間に近藤の墓を天寧寺に建てたと言われる。

全快して戦線に復帰した後は会津の防戦に尽力するが、8月に母成峠の戦いの敗戦に伴い会津戦争が激化。歳三は援軍を求めて庄内藩に向かうが、既に恭順体制の庄内においては入城さえ叶わなかった。歳三は会津から仙台へ向かうことを決めた。同じように戦列を離れた大鳥圭介に対して斎藤一らは会津藩に忠誠を尽くすべきだと訴えたということが、箱館戦争後に現在の青森県で記録された古文書にある。土方は、会津藩領では新選組に復帰してはいなかった。そして、城下に残る山口達と、仙台へ天寧寺から離脱した隊士達とに新選組は分裂する。

仙台に至り、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。榎本と共に奥羽越列藩同盟の軍議に参加した。間もなく奥羽越列藩同盟が崩壊し、同盟藩が次々と新政府軍に降伏した後は、戦う地がある限りどこまでも戦うことを決意。新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて太江丸に乗船し、榎本武揚らと共に10月12日仙台折浜(現・宮城県石巻市折浜)を出航し、蝦夷地に渡った。





箱館戦争とその最期


10月20日、蝦夷地鷲の木に上陸後、歳三は間道軍総督となり五稜郭へ向かった。新選組は大鳥圭介総督の下で本道を進んだが、歳三には島田魁ら数名の新選組隊士が常に従っていたという。箱館・五稜郭を占領後、歳三は額兵隊などを率いて松前へ進軍し松前城(福山城)を陥落させ、残兵を江差まで追撃した。この時、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、軍艦「開陽丸」で江差沖へ向かったが、暴風雨に遭い座礁。江差に上陸して開陽丸の沈没していく姿を見守っていた榎本と歳三は、そばにあった松の木を叩いて嘆き合ったと言われ、今でもその「嘆きの松」が残っている。江差を無事占領した歳三は、一度松前城へ戻り、12月15日に榎本が各国領事を招待して催した蝦夷地平定祝賀会に合わせて五稜郭へ凱旋した。その後、幹部を決定する選挙が行われ、榎本を総裁とする「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)が成立し、歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。箱館の地でも歳三は冷静だったという。箱館政府が樹立され、榎本らが祝杯を交わしている時も歳三は1人沈黙を保ち、「今は騒ぎ浮かれる時ではない」と言っていたと伝わる。

1月から2月にかけては箱館・五稜郭の整備にあたり、3月には新政府軍襲来の情報が入ったため、歳三は新政府軍の甲鉄艦奪取を目的とした宮古湾海戦に参加。しかし作戦は不運続きで失敗し多数の死傷者が出るも、歳三は生還する。

明治2年(1869年)4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦する。その戦闘中に新政府軍は鈴の音を鳴らし、包囲したと思わせる行動をとり、自軍が包囲されたと思った土方軍は動揺した。これに対し歳三は「本当に包囲しようとするなら、音を隠し気づかれないようにする」と冷静に状況を判断し、部下を落ち着かせた。また、戦いの合間に歳三は部下達に自ら酒を振舞って廻った。そして「酔って軍律を乱してもらっては困るので皆一杯だけだ」と言ったので、部下は笑って了承したという。土方軍が死守していた二股口は連戦連勝。しかし、もう一方の松前口が破られて退路が絶たれる危険が起こったため、やむなく二股口を退却、五稜郭へ帰還した。



別れの時

そして明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣。新政府軍艦「朝陽」が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「この機会を逃すな!」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、「我この柵にありて、退く者を斬る!」と発した。歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。鬼のように戦い、馬上で指揮を執った。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたという。敵の銃弾ないしは流れ弾に当たったとするのが通説だが、降伏に頑強に反対する土方を除くために味方の手によって暗殺されたとする説もある。歳三の命令によって台場方面に進軍していた大野率いる兵士らは一時勢力を盛り返していたが、歳三の死によって突然乱れ、大野の必死の指揮にもかかわらず総崩れとなった。大野がやむを得ず引き返したところ、同じく陸軍奉行添役の安富才助から歳三の戦死を知らされたという。歳三の遺体は小芝長之助らに引き取られて、他の戦死者と共に五稜郭に埋葬されたとも、別の場所に安置されていたとも言われる。その場所は特定されていない。



享年35。榎本軍が降伏したのはその6日後のことだった。蝦夷共和国の閣僚8人で戦死したのは歳三だけである。




辞世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」。また「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」とも伝わっていたが、島田魁がまとめたとされる和歌集の巻頭歌「鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉(かな)あすはかばねの上に照(てる)かと」が、土方の辞世と考えられるとの説を、霊山歴史館の木村幸比古が述べている。




・・・というのが定説ですが、ご覧のように波乱万丈な生き方をされているので脚色されている部分もあります。


それも含めて私は好きなんですけどね(^^)


自分はこう熱く生きられるのか?お前の仕事に対する熱意はこんなものか!といつも副長に問われている気がしています。


自分の中で美化しすぎて変なヤツかも知れないのであまり思いを同僚や友人に話したりはしません(笑)




最後まで読んで頂いた方には土方歳三資料館で買ってきたクリアファイルを抽選で・・・やめた(笑)大事なやつだった!




では、来年5月11日に日野の土方さんちで皆さん集合しましょうね!












おしまい

ブログ一覧 | 歴史 | 日記
Posted at 2014/10/22 19:38:17

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この記事へのコメント

2014年10月22日 20:06
こんばんにゃ♪

【燃えよ剣】、、ですね~(*^^)v。
非情の掟が印象的です。

来年の5月11日は月曜日。

愉しみにしておりますww。
コメントへの返答
2014年10月22日 21:26
こんばんは♪

司馬遼太郎がイメージをある程度固定しましたね、龍馬もそうですが(^^)

命日にはほとんど毎年日野へ墓参りに行ってます。この日しか公開されない愛刀和泉守兼定を拝む事もできます!

しかし!もーのすごい数の歴女さんが行列作ってますからね~(^^;
覚悟して下さいm(__)m
2014年10月22日 20:09
わたしもトシさん大好きです!!
特に、燃えよ剣の土方像が一番好き♡
創作とはわかっていても…。

愚直なほどに熱くまっすぐに信じる道を生きた清々しい生き様に惹かれると同時に(しかもイケメンだし!)、いまの時代にあの人がいたら、この世の中をどう思うかなと思ったりもします(笑)
コメントへの返答
2014年10月22日 21:35
副長が亡くなった北の大地からコメントありがとうございます(^^)

大河ドラマの新選組!観てました?
三谷幸喜作品で面白かったです。

薬売りの行商が武士より武士らしく生き壮絶な時代を駆け抜けた男でしたね!天国と地獄を味わった人生だったと思います。

あの唯一の箱館で撮った写真が無ければこんなに人気にならなかったかな?(笑)
2014年10月22日 22:01
キター\(^o^)/

文才ありますねぇ☆
よくこれだけ上手にまとめれますね。
コピーして保存しときます(笑)

来年は月曜日…
休めたらいいけど無理だろうなぁw
コメントへの返答
2014年10月22日 22:25
土方さんが取り持ったみん友のtoshiさん、いよいよ本題のネタに突入です!

予定では永倉くんや斎藤くん、源さんや藤堂さん、山南総長とかやって最後に我等が土方さんの予定だったんですが…早まっちゃったかな(笑)

あ、ほとんど文章はコピーですから(^^;
こんな繊細な文章は書けませんよ~。

新撰組フリークで集まりたいですね!
2014年10月22日 22:07
こんばんは・・沖田総氏の血を引くきゃりーです(笑)!

いやぁ~またまた面白いブログですね♪

しかぁ~し!?
土方 歳三を語るには、やはり北海道上陸してからでないと函館市民が納得しないことでしょうv( ̄∇ ̄)ニヤッ

では早速! 来年の予約を受け付けますが(¬_,¬)ククク 
コメントへの返答
2014年10月22日 22:32
こんばんは~一番隊隊長(^^)

確か沖田くんは未婚のまま結核で亡くなったはずだが…(笑)隠し子?(・・;)

聖地巡礼したいですね~。
箱館山には悲しいですが行かなきゃいけないなあと思ってます。

レガシィで行けないので、千歳まで黒くて赤いプリウスで迎えに来てくださいね!

2014年10月22日 23:30
勉強になります。
僕はどうしても倒幕側の目線で幕末を見てしまいますから、正直なにも知らないんです。
でも、一度で理解できなかったので、整理しながら読み返す事にします(^^;
コメントへの返答
2014年10月22日 23:43
長州藩士の夢中さん、こんばんは。

萩にも絶対行きますからね!
幕末は一進一退の情勢の変化がありますのでかなり興味深いです。
長州は人材の宝庫ですよ、やはり松陰先生は偉大なんですね!
2014年10月22日 23:53
この記事、大作ですね~。素晴らしい!

長州びいきの自分から見れば敵役の土方ですが、合理的な思考と身分にこだわらない考え方は、晋作や奇兵隊と共通するものがあって、面白いな~と思ってます。

会う場所が違えば、同志としてわかり合えたかも知れませんね。
コメントへの返答
2014年10月23日 0:11
コメントありがとうございます(^^)

幕府びいきの自分から見ても長州や薩摩や土佐の人材は幕府の人間よりはるかに上をいってましたね。
幕府側の逸材と言ったら佐久間象山とか勝海舟ぐらいしか浮かびません(笑)

新撰組は思想集団ではなく警備、捕縛の実働隊ですからね、学はないですよ。

ただ新撰組は京都で尊皇派の志士を殺し過ぎたので怨みを買ってしまいましたね…。

幕末はホント楽しいですね(*^^*)
2014年10月23日 3:16
はじめまして。おじゃまします。
土方歳三とはなかなか渋いですね。ただ新撰組を自分自身を強くする為に生きたような人ですよね。愛刀の和泉守兼定も良いですよね。燃えよ剣読みました。
私も、戦国、幕末の歴史は大好きです。
私の愛車は、最終型レガシィツーリングワゴンのDIT Spec.Bです。型は違いますがよろしくお願いします。

コメントへの返答
2014年10月23日 15:39
はじめまして、こんにちは。
自分にも他人にも厳しいひとだったようですが、反面京都では「俺はこんだけモテるんだ参っちゃうよなあ~」みたいな手紙を郷里日野へ送ったりしてます。
奥さんは結局持たなかったですね。

彼の資料は読みあさり尽くしたのでなんか新しいエピソードがあれば欲しいですね!

レガシィDIT、カッコいいですね!
これからも宜しくお願いします(^^)
2014年10月23日 20:22
こんばんは。

久々の幕末ネタでしたね。
本日、お昼休憩中に拝見しました。
いつものように夜に見ているとそのまま寝落ちしてたと思います。(笑)
疲れていない時にもう一度じっくりと読みます。

斎藤一を見て、宇宙戦艦ヤマトの斎藤始を思い出してしまいました。

蒲生氏郷がお好きなようですね。
是非、ご講義をお願いします。
コメントへの返答
2014年10月23日 21:17
こんばんは。

ホントにご無沙汰してしまいました。
幕末ネタよりクルマネタに皆さん興味がおありなので、みんカラなので当然ですが、マニアックな幕末はお休みしていました。

かいつまんで書いてあるので面白いエピソードはまだまだたくさんありますよ!

新撰組はキャラクターが個性的でみんな好きですよ。斎藤一なんて影があって腕がたつし人気のひとりですね。

最近戦国武将は疎くなりました。
以前は城廻りしてましたが(^^)
ご講義なんてとんでもございませんm(__)m
2014年10月23日 20:54
こんばんは。
思わずコメ失礼します。

うむむtazzyさんサスガです!知らなかった事もあります!。

土方さんちに行きたいです!。

大河新撰組!家族全員で欠かさず観てました。

2週間前にウチの高2の息子、修学旅行だったのですが、京都で班別行動のスキを突いて【八木邸】に行ってきました!。
ワタシも遠い遠い昔、修学旅行で京都に行きましたが、金閣寺と銀閣寺と清水寺に行っただけでした、ウラヤマシイ・・・。

【燃えよ剣】、バイブルです!!!。
何度も何度も読み返してボロボロです。

ワタシが一番お気に入りのくだり。



 ついに敵味方十歩の距離となり、数分間そのままの距離で双方はげしく射撃しあった。
 歳三は、業をにやした。

 新撰組華やかなりしころなら、このくらいの距離にまできて、たがいに距離を大事にしあっていると いうことはなかった。

 歳三のそばに、かつての新撰組副長助勤斎藤一ほか六人の旧同志がいる。

 「鉄砲、やめろ、鉄砲をーー」
 
 と味方をどなりつけて射撃をやめさせ、

 「新撰組、進めっ」

 わめいて、門内へ突っ込んだ。

 斎藤一、歳三のそばをするすると駆け抜けるや、槍をふるって出てきた彦根兵の手もとにつけ入 
 り、上段から真二つに斬りさげていた。

 わっと血煙りが立った時には、歳三の和泉守兼定が弧をえがいてその背後からとび出した一人を 脳天から斬りさげていた。

 --新撰組がいる!

 彦根兵は戦慄した。
 どっと門内に逃げこんだ。


好きなんです~、歳先生。

宮古湾海戦もすさまじいですね、目的がブン取り。

二股口になると、もはや軍神ですね!。

またの幕末ネタ、楽しみにしております!。



コメントへの返答
2014年10月23日 21:57
こんばんは。
コメントありがとうございます。

日野の土方家は普通に普段は生活されています。洗濯物とかあるし(^^)
建家の一部を資料館として隔週日曜だけ解放しています。もちろん入場料取ります(笑)

廻りの住宅の表札を見るとみな「土方」なんですよ。この辺土方さんばかりに驚きました。

ご実家には土方愛さんという子孫のかたがいらしてお話を聞くことができます。歳三さんグッズも豊富です!

私も大河ドラマは一話も欠かせませんでしたよ!もう10年前になっちゃいますね。

八木邸、私も行きました!
芹澤さん暗殺の時の梁の刀傷、見ましたよ。
息子さんやるなあ…(*^^*)

燃えよ剣は私もはまりました。
一気に読んでしまいました!
まだ読んでない方は是非読んで欲しいですね(^^)d

こちらこそ幕末ネタあったらお願いします!お待ちしていますよ(^^)
2014年11月9日 22:57
こんばんは。
実は娘が幕末好きで自分が戦国時代好きなのでいつも喧嘩が絶えません。笑)
戦国時代の自由奔放さに比べ、徳川の世が長く続いた幕末にはヘンな道徳観(武士道?)が紛れ込んでいるのがやや気になりますがそれでも激動の日々だった訳ですよね。個人的には新撰組にシンパシーあります、先祖が荘内藩(酒田)出身なので。(薩長土肥勢は敵みたいなモンかな? 会津魂ほど極端じゃ無いですがw)
コメントへの返答
2014年11月10日 10:43
こんにちは。
コメントありがとうございます。

娘さんと歴史の話ができるなんてうらやましいですね!
私も戦国時代は好きでしたがここ10年くらいから急に幕末に目覚めてしまって、知れば知るほど面白くなってきました。
現存する写真があるというのはいいですよね~。
新撰組はその栄枯盛衰ぶりが(笑)ドラマや映画になりやすいですから、やけに隊士がみんな美系になってしまいますよね・・・特に沖田さん(^^)
新政府も幕府側も能力がある方はいますよね、死んではいけないひとが維新後生きてたらと想いを馳せます。

プロフィール

「14年前の今頃ちょうど出張中、出張中の仙台空港近くで津波に遭遇し車は流され、腰まで海水に浸かって近くの小学校に避難した。車ごと流される人を何人も見た。建物に通りすがりの何人も引き上げた。流された営業車の中のカバンは今でもここに。奇跡的に助かった命だから、まだ俺は死ねません。」
何シテル?   03/11 14:51
なんと13年目に ブログはもうさんざん書きましたので、おしまいです(^^ 更新はパーツレビューと整備手帳のみにします。

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