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2016年07月24日 イイね!

被爆電車653号に乗った 広島原爆

被爆電車653号に乗った 広島原爆今年4月の話になるが、中国放送と広島電鉄が共同で
「被爆電車特別運行プロジェクト」というのをやってたので乗ってきた。

昭和20年8月6日、江波で被爆した路面電車653号を当時の塗装に復元し、
市民に試乗してもらおうという企画である。

要申し込みで、今年8月までの申し込みはすでに締め切られてしまったが、
11月にもまたやるそうだ。

集合場所に早く行ったので、番号が1番だったw


被爆電車はグレーと青に塗られていた。敵機から見えにくいように
というような配慮もあったんだろうか?




内部もキレイに再塗装されており、「被爆電車」という言葉から想像する
おどろおどろしさ、暗さみたいなものは皆無だ。


シートはグリーン。床や窓枠が、当時のままのような感じがした。


車内にはモニターが数台置いてあり、運行中に被爆電車の説明や
広電の宣伝動画が流される。
乗客は十数人と、非常に余裕があった。


運転席の様子。マスコンというのか、操縦レバーが古めかしくて
もはやスチームパンクのようだ。








運転席の足元。


コースは、広島駅を出発し、西広島駅(己斐)で休憩、引き返して
原爆ドーム前で下車だった。
貸し切りでノンストップで走るので、優越感があって気持ちよかったw


まるで新車のようにピカピカだったので、正直「被爆電車」に乗ったという
感慨はなかったけれども、路面電車好き、原爆好きな方は申し込まれたら
よいのではないかと思う。ステッカーのような記念品ももらえた。

有名な御幸橋の写真を撮った松重美人(よしと)さんが、爆風で吹き飛んだ
路面電車の車内で多数の遺体を目撃している。
撮影しようと思ったが、あまりの悲惨さに撮影できなかったそうだ。


「はだしのゲン」でも、ゲンが死体だらけの路面電車を目撃するシーンが
ある。(愛蔵版 はだしのゲン第2巻 中沢啓治著 汐文社)より






昭和20年当時は、十代の女子学生が中心となって運行されていた。
若い男子は戦争に駆りだされていなくなってしまったからだ。

「チンチン電車と女学生」
(堀川惠子、小笠原信之 日本評論社)に詳しい。

当時のチンチン電車はパンタグラフが外れやすく、カーブのたびに外れて
長い棒を使ってつけないといけなかったそうだ。

女子電車乗務員を育成するため昭和18年開校した広島電鉄家政女学校は、
戦争が終わるとすぐさま廃校となった。
戦地から男子が戻ってきたため、女子学生は用済みになったのである。

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原爆資料館敷地内では、発掘調査をやっていた。






瓦やレンガなどが多数埋まっているようだ。
もっと調べれば、人骨も出てくるんだろうなと思う。






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2016年8月20日追記
ヌマジ交通ミュージアム(広島市交通科学館)へ行ったら、裏側に
被爆電車654号が展示してあった。








どうやってここまで運んだんだろうと、往年の地下鉄漫才のようなことを
考えてしまったが、普通に仮レールを敷いて移動、その後仮レールを
撤去だろうな。
Posted at 2016/07/24 10:45:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | 原爆 | 趣味
2015年04月03日 イイね!

広島原爆 中沢啓治 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる4 無名戦士之碑~土橋

広島原爆 中沢啓治 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる4 無名戦士之碑~土橋広島原爆 中沢啓治 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる3 皿山~江波火葬場跡の続き。

次に、中沢さんの父、中沢晴海(はるみ)氏の名前があるという「無名戦士之碑」へ
行った。中区の小網町交差点北西にある。
グーグルストリートビュー


晴海氏は生前趣味で左翼系の劇団活動もされていたそうだ。
特高警察に引っ張られ、1年以上拘置されたこともある。

「凍てつく大地にあなたは種子となった」と碑文にある。
特に原爆犠牲者に限定した碑ではないようだ。
「凍てつく大地」というと、むしろシベリアの強制収容所などを連想する。
比喩的な意味かもしれないが。

社会主義活動や解放運動全般の犠牲者のために作られた碑らしい。


説明文が横にあるが読みにくい。


裏に晴海氏の名前が刻まれているはずだと裏へ回ると、
そういうものはなく、ドアがついて中に入れるようになっている。


碑が中空でドア付きなのも驚いた。






銘板。


帰ってから調べると、名前が刻まれていると思ったのは自分の
勘違いで、晴海氏も合祀されているということであった。

合祀された人々の名前や死亡年月日、年齢、主な活動歴が刻まれた
銅板プレートが、碑内部に収められているらしい。だからドアがあったのか。

第50回広島県解放運動無名戦士追悼合祀祭 主催者挨拶

次に、土橋周辺へ行ってみた。「はだしのゲン」でゲンが大量のハエに
襲撃されるシーンがあるが、あの現場が土橋である。
土橋は繁華街で死体が多く、異常にハエが繁殖したらしい。
はだしのゲン 私の遺書」より。


また、同じく「はだしのゲン」に、路上にルーズベルトとチャーチルの絵が
描かれ、それを踏めと憲兵にゲンたちが注意されるシーンがあるが、
それも土橋である。
(「はだしのゲン」より)。


グーグルストリートビュー。土橋電停付近。
ゲンたちは寺町通りから土橋を抜けて可部へ向かったので、電車通りを通ったはずである。

「戦時中の土橋の歓楽街のアスファルトの坂道には米国大統領
ルーズベルトと英国首相チャーチルの似顔が描かれ、その横に
『鬼畜米英』と書かれていた。歓楽街への出入りのおりは、憎き
鬼畜米英を踏み潰して歩け、の指示であった」(「はだしのゲン自伝」P98)

はだしのゲン自伝には上記のようにあるのだが、この似顔があった場所が
よくわからない。今の土橋付近は平らで坂道なんてないし、歓楽街という
雰囲気でもない。どこにあったんだろう?

ゲンとは直接関係ないが、江波山気象館(旧広島地方気象台)にも
行ってきた。被爆当時の建物が現存している。
(左側の建物は、戦後増築したらしい)。




内部には、原爆の爆風でガラスが突き刺さった壁や、当時の気象記録が
保存展示されている。
被爆当時の気象台の様子は、柳田邦男著「空白の天気図」に詳しい。

数は少ないが、体験型のアトラクションもあり、大人でも楽しめる。

建築物としても、昭和モダンというのか、現代では見られない独特な
ディテールである。






屋上。


屋上から爆心方向を望む。


3月の終わりに行ったのだが、気候がよいのと東館が工事中で閉鎖されている
せいもあるのか、平和資料館は激込みだった。
被爆人形は撤去されたのかと思っていたが、まだあった。

原爆ドームは健全度調査中で、足場が組んであった。








より大きな地震に耐えられるようにするため、内側から鋼材で補強する
らしい。
現代の技術をもってしても、崩れかけた廃墟を崩れかけのまま保存する
というのは難しいそうだ。


広島訪問のもう一つの目的は、広島市現代美術館で開催中の
赤瀬川原平の芸術原論展」。


見応え充分であった。特に、若いころの写真や作品が多く展示されて
いたのがうれしい。5月31日まで。
Posted at 2015/04/05 13:35:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 原爆 | 旅行/地域
2015年04月03日 イイね!

広島原爆 中沢啓治 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる3 皿山~江波火葬場跡

広島原爆 中沢啓治 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる3 皿山~江波火葬場跡広島原爆 中沢啓治 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる2の続き。

再び広島を訪れる機会があったので、中沢さんたちが被爆後避難しようとした
皿山周辺や、しばらく間借りしていた江波界隈へ行ってみた。

皿山の北面は、昔は陸軍射撃練習場の的になっていた。
グーグルストリートビュー


国土地理院HPから、1939年の航空写真。
皿山から右上へ斜めに伸びる細長い長方形の敷地が陸軍射撃練習場。


現在の皿山北面。山の形が皿のようだから皿山ではなく、江波焼という
皿をこの辺りで作っていたので皿山だそうだ。


コンクリ擁壁の根元は菜園や公園に続く通路になっていた。






中沢さんたち(啓治、母のキミヨ、8/6に生まれた友子(朋子)は、
被爆後木陰を求めて皿山へ移動した。しかし、木陰という木陰にすでに
被爆者がうずくまっており、諦めて元の川口町電停に戻った。
はだしのゲン自伝」より。


現在の皿山。グーグルストリートビュー






頂上の皿山公園。


松の大木が何本も生えている。戦前からの木もたくさん残ってるんだろう。






皿山中腹から見る陸軍射撃練習場跡地。手前のバスが停まっている
駐車場と、屋上駐車場がある建物が広電。その向こうが江波中学校。


原爆投下後、大量の遺体が射撃場へ集められ、燃やされた。
人骨が3メートルほどの高さに何十カ所も山積みになっており、
それを戦後米軍がブルドーザーで潰して均した。

はだしのゲン わたしの遺書」より。


国土地理院HPから、1945年8月11日、原爆投下5日後の皿山周辺航空写真(米軍撮影)。
画像からはもちろん確認できないが、すでに大量の遺体が射撃場に集められていたと思われる。


戦後、江波中校舎建替工事の際、大量の人骨が出土したそうだが
まだまだ眠っているはずだ。


中沢さんたちは、江波の三軒長屋にしばらく住んでいた。

江波時代は地元民からヨソ者といじめられ、ずいぶんひどい目に遭ったようで、
晩年の講演のときも、まだわだかまりが残っているような口ぶりだった。

長屋の近くに火葬場があり、中沢さんは火葬の手伝いをすることもあった。
手伝いをすると、食料をわけてもらえるからだ。

その火葬場の跡が、江波山に残っている。

江波山気象館への歩道を進むと、火葬場の門が見える。
グーグルストリートビュー
長屋のあった場所も、この近辺じゃないかと思う。




「はだしのゲン」より。






火葬場の門。草むらにゴミが散乱しており、足場は悪い。


見上げると気象館がすぐそばに見える(右上)。


門の向こうはさらに草が生い茂っており、通るのが難しい。
イバラもあるので、引っかかると服が破けてしまう。


草むらの中にレンガが見えた。これが火葬場の炉だな。


正面側から。炉は2つ確認できた。当時は3つあったそうだ。


鉄製の扉が残っている。


下は灰の掻き出し口か。


周囲にはゴミの他に瓦もたくさん散乱しているが、火葬場建物の
瓦と思われる。


炉内部。片方は、天井が崩落している。


もう片方は形が残っていた。ここでも大勢の被爆者が焼かれたんだろう。




火葬場跡から急斜面をよじ登ると遊歩道に出る。


遊歩道から見た火葬場跡。ほんとに急斜面なので、登るのはまだしも
下るのは危険。まあ登山やってる人なら余裕だろうけど。


グーグルマップだと、大体赤丸辺りに火葬場跡がある。


気象館屋上から見た火葬場門。隣に虎の遊具があるミニ公園がある。


丸いのは砲台の跡か何かだろうか?


虎の表情。


虎の背中と気象館。


国土地理院HPから、1945年8月11日米軍撮影の江波山周辺。
広島地方気象台(現気象館)が確認できる。
火葬場と中沢さん一家が住んでいた長屋は、大体この辺りのはずだ。


拡大。


中沢さん一家は江波を出たあと、原爆ドーム近くの鷹匠町(たかじょうまち・現本川町)に移った。
鷹匠町を広島市の都市計画で立退き、吉島(よしじま)へ移り住んだ。
中学は江波中学に通った。


広島原爆 中沢啓治 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる4 無名戦士之碑~土橋へ続く。
Posted at 2015/04/05 06:44:25 | コメント(3) | トラックバック(0) | 原爆 | 旅行/地域
2014年07月17日 イイね!

広島原爆遺構を訪ねる3 袋町小資料館、旧日銀広島支店他

広島原爆遺構を訪ねる3 袋町小資料館、旧日銀広島支店他*タイトル画像は原爆資料館内部。

袋町小学校平和資料館にも行ってみた。
誰でも無料で見学できる。中は土禁であった。




ストリートビュー

原爆で袋町国民学校(現・袋町小学校)はコンクリート造りの西校舎を残し全壊した。西校舎も内部は廃墟となったが、外郭は残ったので、救護所として使われた。壁に書かれていた当時の伝言文が後に発見され、保存されている。

「ヒロシマ―壁に残された伝言」井上恭介著に詳しい。

内部は残念ながら撮影禁止であった。
壁の伝言だが、経年劣化でほとんどというか、まったく判別できない。
実物大のパネルが展示されている。

他にも、当時の焼け跡がついたドアや、煤がついた壁などを見ることができる。
半地下のビデオ室では、修学旅行中と思われる中学生たちが熱心にビデオを見ていた。

人の良さそうなおじいさんが、番をしておられた。

・旧日本銀行広島支店。
袋町電停前にあり、現在はイベントなどの催し場になってるようだ。
自分が行ったときは、美術関係の無人展示をしていた。
特に番をする人もおらず、フリーパスで見学できた。

被爆当時、非常に堅牢な建物だったため、建物自体のダメージは
少なかったが、窓から熱線と爆風が吹き込み、窓際に座っていた人たちは死亡している。

旧日本銀行広島支店(wiki)

ストリートビュー

入り口は大通りに面した正面からではなく、裏手のほうにあった。
入り口のストリートビュー

内部の様子。大学の芸術サークルの展示っぽい。




窓口の表示はそのままで残っている。




ここでおもしろいのは、地下の金庫室の中にも入れること。
ものすごい扉の分厚さである。


潜水艦を彷彿とさせる金庫室の丸い扉。


金庫室の内部にも、作品が展示されていた。
正直よくわからんが、若い方の表現活動に貢献してるのは
すばらしいことである。


別の金庫室内部。


格子状の洒落た扉もあった。


「HERRING HALL MARVIN SAFE CO.」とあった。
調べてみると、金庫で有名なアメリカのメーカーだそうだ。


ここでは他に、支店長室壁に残された爆風の痕跡なども見ることができる。
銀行内部に入ることなんてなかなかできないので、こちらもぜひ見学して欲しい。

広島市:旧日本銀行広島支店の活用

・原爆資料館の被爆人形。
資料館東館は、今年(2014年)9月から改修のためしばらく閉鎖が決まっており、
展示物入れ替えでこの被爆人形は撤去される。
被爆人形も見納めである。




原爆資料館は、展示物の足元に、雰囲気を出すためかガレキが敷いてあるのだが、なにげなく見るとハングルらしき文字が刻印されたレンガもあった。




被爆当時のガレキか?とも思ったのだが、そんなわけもなく
雰囲気を出すための飾りとして用意されたものだろう。
Posted at 2014/07/17 14:41:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | 原爆 | 旅行/地域
2014年07月17日 イイね!

広島原爆遺構を訪ねる2 レストハウス地下室

広島原爆遺構を訪ねる2 レストハウス地下室元安橋のたもとにあるレストハウス(大正屋呉服店→燃料会館)。
被爆建物として保存されているが、受付で頼めば地下室を見学することができる。

被爆当時この地下室にいた野村英三氏は、奇跡的に生き延びることができた。
野村英三氏の手記

地下室へはレストハウスの入り口を一旦出て、川に面したドアから入る。


ストリートビュー

地下室に入るには、このヘルメットをかぶらないといけない。


地下室への入り口。
受付のお姉さんはここまで案内してくれたが、地下室内部は一人でゆっくり見学できた。




内部は照明があるが薄暗い。ディテールをよく見るにはライトを持参したほうがいい。


工事現場っぽくもある。


奥の方に、千羽鶴が飾られていた。








階段の下にはポンプのようなものがあった。


案内板


レストハウスの地下室は、見学できることを特に大きくアピールしてる
わけでもないので、見過ごす方も多いと思う。
現地へ行かれる機会があれば、ぜひ地下室にも入ってみて欲しい。
Posted at 2014/07/17 03:53:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 原爆 | 旅行/地域

プロフィール

「どこにある?「京都、森に隠れた廃墟の庭」 http://cvw.jp/b/1463410/38269405/
何シテル?   07/24 09:40
HA24SアルトからL880Kコペンに乗り換えました
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