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2014年07月17日 イイね!

広島原爆遺構を訪ねる3 袋町小資料館、旧日銀広島支店他

広島原爆遺構を訪ねる3 袋町小資料館、旧日銀広島支店他*タイトル画像は原爆資料館内部。

袋町小学校平和資料館にも行ってみた。
誰でも無料で見学できる。中は土禁であった。




ストリートビュー

原爆で袋町国民学校(現・袋町小学校)はコンクリート造りの西校舎を残し全壊した。西校舎も内部は廃墟となったが、外郭は残ったので、救護所として使われた。壁に書かれていた当時の伝言文が後に発見され、保存されている。

「ヒロシマ―壁に残された伝言」井上恭介著に詳しい。

内部は残念ながら撮影禁止であった。
壁の伝言だが、経年劣化でほとんどというか、まったく判別できない。
実物大のパネルが展示されている。

他にも、当時の焼け跡がついたドアや、煤がついた壁などを見ることができる。
半地下のビデオ室では、修学旅行中と思われる中学生たちが熱心にビデオを見ていた。

人の良さそうなおじいさんが、番をしておられた。

・旧日本銀行広島支店。
袋町電停前にあり、現在はイベントなどの催し場になってるようだ。
自分が行ったときは、美術関係の無人展示をしていた。
特に番をする人もおらず、フリーパスで見学できた。

被爆当時、非常に堅牢な建物だったため、建物自体のダメージは
少なかったが、窓から熱線と爆風が吹き込み、窓際に座っていた人たちは死亡している。

旧日本銀行広島支店(wiki)

ストリートビュー

入り口は大通りに面した正面からではなく、裏手のほうにあった。
入り口のストリートビュー

内部の様子。大学の芸術サークルの展示っぽい。




窓口の表示はそのままで残っている。




ここでおもしろいのは、地下の金庫室の中にも入れること。
ものすごい扉の分厚さである。


潜水艦を彷彿とさせる金庫室の丸い扉。


金庫室の内部にも、作品が展示されていた。
正直よくわからんが、若い方の表現活動に貢献してるのは
すばらしいことである。


別の金庫室内部。


格子状の洒落た扉もあった。


「HERRING HALL MARVIN SAFE CO.」とあった。
調べてみると、金庫で有名なアメリカのメーカーだそうだ。


ここでは他に、支店長室壁に残された爆風の痕跡なども見ることができる。
銀行内部に入ることなんてなかなかできないので、こちらもぜひ見学して欲しい。

広島市:旧日本銀行広島支店の活用

・原爆資料館の被爆人形。
資料館東館は、今年(2014年)9月から改修のためしばらく閉鎖が決まっており、
展示物入れ替えでこの被爆人形は撤去される。
被爆人形も見納めである。




原爆資料館は、展示物の足元に、雰囲気を出すためかガレキが敷いてあるのだが、なにげなく見るとハングルらしき文字が刻印されたレンガもあった。




被爆当時のガレキか?とも思ったのだが、そんなわけもなく
雰囲気を出すための飾りとして用意されたものだろう。
Posted at 2014/07/17 14:41:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | 原爆 | 旅行/地域
2014年07月17日 イイね!

広島原爆遺構を訪ねる2 レストハウス地下室

広島原爆遺構を訪ねる2 レストハウス地下室元安橋のたもとにあるレストハウス(大正屋呉服店→燃料会館)。
被爆建物として保存されているが、受付で頼めば地下室を見学することができる。

被爆当時この地下室にいた野村英三氏は、奇跡的に生き延びることができた。
野村英三氏の手記

地下室へはレストハウスの入り口を一旦出て、川に面したドアから入る。


ストリートビュー

地下室に入るには、このヘルメットをかぶらないといけない。


地下室への入り口。
受付のお姉さんはここまで案内してくれたが、地下室内部は一人でゆっくり見学できた。




内部は照明があるが薄暗い。ディテールをよく見るにはライトを持参したほうがいい。


工事現場っぽくもある。


奥の方に、千羽鶴が飾られていた。








階段の下にはポンプのようなものがあった。


案内板


レストハウスの地下室は、見学できることを特に大きくアピールしてる
わけでもないので、見過ごす方も多いと思う。
現地へ行かれる機会があれば、ぜひ地下室にも入ってみて欲しい。
Posted at 2014/07/17 03:53:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 原爆 | 旅行/地域
2014年07月15日 イイね!

広島原爆遺構を訪ねる1 中国軍管区司令部跡

広島原爆遺構を訪ねる1 中国軍管区司令部跡広島は何度も訪ねているのだが、入るのに許可が必要だったり、ちょっとマイナーな被爆遺構へ行ってみた。

まずは広島城の敷地にある、旧中国軍管区司令部跡。
グーグルストリートビュー

護国神社の入り口脇にひっそりとある、半地下式の建物である。
中国軍管区司令部跡(wiki)

広島市みどり生きもの協会が管理しており、入るには許可が必要である。
僕が電話したときは、直接守衛室へ行って鍵を貸してもらい、入ってくださいということだった。守衛室のストリートビュー

名前を書いて鍵を貸してもらう。出るときは照明スイッチを切るよう念を押された。

司令部跡の鍵


二重の入り口は地面に水たまりができていた。




内部は4つの部屋に分かれている。
天井が低かったが、戦後に敷かれたと思われる床板のせいだろう。


入り口を振り返る。


案内図。




右奥の壁に、当時は大きな地図がかかっていたらしい。
柱の間にテーブルがあったそうだ。


一番奥は崩れかけており、柵があった。
覗いてみると、奥は埋まっていた(照明がないのでライトが必要)。
非常用の脱出口だったらしい。


地上部分。


小さな窓が何ヶ所かある。被爆時は、窓から爆風が吹き込んできて、
連絡役の娘さんたちが吹き飛ばされて気絶したそうだ。


地上は土が盛ってあり、現在は芝生で覆われている。


中央の塔のようなものは通気棟。




通気棟の横を上から覗いてみた。








慰霊碑横の説明パネル。


帰りは忘れずに照明のスイッチを切り、鍵をかけて守衛室に鍵を返して帰った。

参考リンク:中国軍管区司令部地下壕
Posted at 2014/07/15 20:31:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 原爆 | 旅行/地域
2014年07月15日 イイね!

広島原爆 中沢啓治 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる2

広島原爆 中沢啓治 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる2広島原爆 中沢啓治 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる1の続き。

次に、中沢さんが被爆後母と合流した舟入川口町電停前へ行ってみた。
「はだしのゲン」では、ゲンの目の前で家族が焼き殺されるが、実際は
中沢さんはその場におらず、家族が死ぬ場面を見ていない。
後に母親から詳細に話を聞くことになる。
グーグルストリートビュー

画像は「はだしのゲンが見たヒロシマ」より。


この弁当屋さんの前辺りで、母と合流できたそうだ。


当時の舟入通りは石垣で高くなっており、両サイドは畑だったそうだ。
「はだしのゲン」自伝より。


「おれは見た」より。


本川小学校平和資料館にも行ってみた。「はだしのゲン」に出てくる
元川小学校のモデルである。神崎小学校が焼けてしまったため、
中沢さんはこの本川小学校に通った。

グーグルストリートビュー

門を入って受付で名札をもらい、資料館を見学する。




資料館自体は小規模なものだが、当時のままの建物の重苦しさは圧巻であった。








中沢さんがその後通った江波中や、避難場所を求めてさまよった皿山にも行きたかったのだが、都合で行かれなかった。
江波中は旧陸軍射撃場があった場所に立っており、被爆者の遺骨が大量に埋められたそうだ。

江波居候時代に、住まいの裏手に火葬場があり、葬列についていって
火葬の手伝いをし、食べ物をもらったという記述が「はだしのゲン自伝」にあったのだが、江波山公園にその旧火葬場の痕跡が残っているらしい。
そこにもそのうち行ってみたい。

中沢さんの講演は広島と福山(沼隈)の2回行ったのだが、講演内容自体はほとんど同じだった。沼隈では、耳が聞こえない人用に、講演中同時通訳みたいな感じでボランティアの人が中沢さんの話を紙に書き取り、
それを字幕のようにスライドで映すサービスをやっていた。姉の英子(えいこ)の話のとき、書き写しの方は英子を仮名の「A子」だと思ったようで、スライドには
「A子が~」と映されていた。

余談だけど、沼隈講演の当日は激しい雷雨があり、会場の沼隈図書館につくと停電で明かりがついておらず戸惑った(開演までには復旧)。

広島では、中沢さんは口内炎ができたとかで話が聞きづらく、足もプルプル震えてて大丈夫かと思ったが、講演が進むにつれ熱を帯びてきて
これも聴き応えのある講演だった。
90分の予定だったのだが、60分ピッタリで中沢さんが話を切り上げてしまい、後は会場との質疑応答となった。司会の方もちょっと戸惑った感じだったので、中沢さんが時間を勘違いしたのではなかったか。

質疑では、「はだしのゲン」東京編の話になった。中沢さんによると、東京で隆太はヤクザの抗争に巻き込まれ殺されるが、勝子が隆太の子供を身ごもっており、勝子はデザイナーとして世界に羽ばたくということだった。

東京編の次に予定されていたフランス編で、最後ゲンは広島へ戻ってくるのかという質問も出たのだが、中沢さんは「それは読者の方が考えてください」と答えていた。

広島原爆 中沢啓治 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる3 皿山~江波火葬場跡へ続く。
Posted at 2014/07/15 15:42:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | 原爆 | 旅行/地域
2014年07月15日 イイね!

広島原爆 中沢啓治生家 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる1

広島原爆 中沢啓治生家 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる1僕は2012年に亡くなられた漫画家中沢啓治さんのファンで、講演にも2度ほど行ったことがある。DVD「はだしのゲンが見たヒロシマ」を見ていたら、中沢さんの生家や被爆地点が特定されていたので、現地へ行ってみた。

まず被爆地点だが、中沢さんは小学1年のとき、神崎国民学校(現・神崎小学校)の裏門付近で被爆した。ちょうど校庭に入ろうとしたとき、顔見知りのおばさんから話しかけれ、話をしてる最中に被爆。
コンクリート壁や門柱が熱線を遮り、倒れた壁と街路樹の間にできた三角スペースのおかげで奇跡的に助かった。
「はだしのゲン」や「おれは見た」に繰り返し描かれている。

「おれは見た」は、はだしのゲン以前に描かれた作品。より中沢さんの体験に忠実になっている。金の星社「原爆といのち (漫画家たちの戦争)」に収められている。

DVDでは、舟入中町の「神崎小学校入口」交差点で、ここで被爆したと
中沢さんが言われていた。

画像キャプチャはDVD「はだしのゲンが見たヒロシマ」より




ここでいきなり疑問なんだが、被爆地点はもう少し南ではないだろうか。

現在の神崎小学校は、被爆当時から100メートルほど北東に敷地が移動している。

> 戦後、校舎がなくなったため本川、舟入両国民学校で授業を再開しました。1950年4月に神崎小として再発足。
> 同年9月に、戦前より北東に100メートルほど移動した今の場所に新校舎が完成しました。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=26877

国土地理院のページに、1939年の航空写真があったので、現在と比較してみる。

現在(2001年)の神崎小学校付近


被爆前(1939年)の神崎小学校付近


現在の神崎小の南を東西に走る太い道路(2号線)は、戦前にはなかった。

現在の画像に、戦前の神崎小の位置を当てはめるとこうなる。


確かに、敷地が北東へ移動してることがわかる。

DVDで中沢さんがここで被爆したと言われていた神崎小入口交差点は、
現在の神崎小からまっすぐ西になるので、中沢さんが被爆したのはもっと南じゃないかと思うのだ。


神崎国民学校を拡大して被爆前/後の比較。
中沢さんが被爆したのは電車道(舟入通り)に面した裏門付近(矢印)だった。

矢印の下に街路樹があるのが見えるが、これが中沢さんが塀の下敷きに
なるのを救った街路樹ではないだろうか。

被爆前
DVD「はだしのゲンが見たヒロシマ」より


被爆後


赤矢印部分に、塀が切れたような場所があるので、おそらくここが
裏門だろうと思う。

中沢さん被爆地点は、現在でいうとスタープラザ舟入前付近じゃないだろうか。
グーグルストリートビュー

被爆直前シーン。「はだしのゲン」では、神山国民学校となっている。
目の前にいたおばさんは熱線の直撃を受けて即死した。
DVD「はだしのゲンが見たヒロシマ」より


「おれは見た」より


次に、神崎小学校の門柱が保存されているというので、神崎小へ行ってみた。
最近の小学校は警備厳重である。あらかじめ電話で確認し、インターホンで
断って敷地内に入った。


正門のすぐ近くに門柱は保存されていた。


以前ネットで見たときは、樹脂か木製の説明板だったが、石に変わっていた。


門柱は高さ170センチ台。あまり高くない。中沢さんから熱線を遮った門柱そのものかどうかはわからないが、小学校1年生で背が低かったので助かったんだろう。縦にヒビが入っているが、戦後人為的に2つに割られていたそうだ。




次に、中沢さんの生家があった場所へ行ってみた。
「はだしのゲン」で、ゲンの家族が焼け死んだ場所である。

DVD「はだしのゲンが見たヒロシマ」より




グーグルストリートビュー

正にこの地点で、中沢さんの家族が家の下敷きになって焼き殺された。

弟の進(すすむ)は画像の表札がある門柱下付近で頭を挟まれ、父の晴海(はるみ)は、画像左の隣家との生け垣の奥のほうで挟まれていたそうだ。
母・君江(きみえ)によると、姉の英子(えいこ)は一切声が聞こえず、即死だったのではないかということだ。





「はだしのゲン」より。


他人の家の前でウロウロするのは失礼だし怪しいのだが、感慨にふけってしまった。
もしも現地へ行く方がおられたら、当然だが現住人に迷惑のないようにしてほしい。

国土地理院の1939年の航空写真にも、中沢家が写っているはずだ。
おそらく赤丸あたりだと思う。


「はだしのゲン自伝」より、被爆前の中沢家。
西日の位置から、家の前の通りは東西だったことがわかる。


同じく「はだしのゲン自伝」より。家の倒壊シーン。
このように、弟は頭を梁に挟まれ、どうしても抜けなかった。


「おれは見た」より


広島原爆 中沢啓治 「はだしのゲン」ゆかりの地を訪ねる2へ続く。
Posted at 2014/07/15 14:42:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | 原爆 | 旅行/地域

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