自動車メーカーのスバルは今年、創業100周年
今回は100年前のスバルのルーツを探してみましたよ
(今回は長くて写真も多いです)
スバルは4月1日から社名を
「富士重工業株式会社」から 「株式会社SUBARU」へと変更


そして2017年はスバル創業100周年
初め聞いた時は、100年もクルマ造ってたか?と思いましたが
2017年は前身の中島飛行機(当初は飛行機研究所)が設立されて100周年
そこからカウントするの!? とも思いましたが
スバルが造っているのはクルマだけでなく航空機や
航空機の構成部品を生産をしているし

BRZが造られている群馬県太田市の本工場は、
中島飛行機時代の太田製作所
2010年と戦後の1947年を比較すると当時の工場が今でも残ってます

出典:国土地理院ウェブサイト
CKT20102-C49-4 2010/04/25(平22) USA-R444-151 1947/11/01(昭22)
1947年の写真は米軍に爆撃された跡が残っています
1945年2月10日に爆撃機による空襲を受けるが、投下された爆弾は
群馬の強い空っ風に流され東側(写真右側)に逸れたそうです
空っ風のおかげか? 爆撃を免れた工場は現在 BRZの他、
WRX現行型、LEVORG、新型IMPREZAが生産されています
本工場の南門正面へ続く、4車線の広い道

現在はエンジンやトランスミッションを生産する大泉工場にあった
太田飛行場へ完成した機体を搬送する専用道路だった道
ここで、しばし考える
この工場ができたのは1934年、昭和9年11月
まだ100年前じゃないですね
100年前を探して太田市内を移動します
中島飛行機は太田製作所以前は太田市のシンボル、金山の麓の
大光院(呑龍様)に隣接した 呑龍工場で軍用機や民間機を生産

ここで中島飛行機は発展成長を遂げ、生産数も急激に増えたため
太田製作所を作ります
現在はスバルの北工場

軽自動車を生産していた頃は、サンバーのフレームを生産してました
戦後はラビットスクータを生産しており北側にある駐車場に
当時のテストコースのバンクの跡も見ることができます
ここは中島飛行機が本格的に航空機製作を始めた場所

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中島飛行機の創始者、中島知久平は1917年12月10日に呑龍様の隣にあった
空き家の洋館に「飛行機研究所」の看板を掲げる
以後、この12月10日は中島飛行機の創立記念日と定める
~富士重工業三十年史より
簡単に100年前につながりましたよ!
しかし!?、
スバルの企業情報を見ると「創業は1917年(大正6年) 5月」
12月でなくて5月!
それと、
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中島飛行機の創始者、中島知久平
18歳の時に軍人を志して上京し、海軍機関学校を優秀な成績で卒業
後に海軍機関大尉となりアメリカやフランスへ航空事情を視察
航空機は将来、軍艦に代って最も重要な兵器となる事を確信して
飛行機の研究に没頭します
海軍を待命のまま生まれ故郷の(太田市)尾島町の養蚕農家の借家に
「飛行機研究所」の看板を掲げ・・・
~小学生の頃読んだ「まんが太田の歴史」より
「尾島町に戻って飛行機研究所を作る」というのが
記憶の中に残っていたので、太田市尾島へ移動します

ここは、昭和5年に衆議院議員に当選し政界進出を果たした
中島知久平が両親のために生家近くに建造した「旧中島家住宅」

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主屋の設計監督は宮内省内匠寮出身の伊藤藤一
建築の意匠・構造・素材において学術的価値が高く、規模も大きく
質の高い遺構であり、明治の宮殿建築としての特徴が見られる建物
~太田市HPより抜粋
建築費は当時の金額で約100万円
昭和6年に完成した大阪城の復興天守の建設費が約47万円
大阪城の天守閣の倍以上のお値段!
敷地面積は10000平方メートルを越える・・・

建物も大きく立派なのに、庭にある巨大なヒマラヤスギに驚いた
平成28年7月25日、国の重要文化財(建造物)に指定されました
建物の一部が地域交流センターとして公開されています
神社の拝殿のような重厚な造りの車寄せのある玄関から入ります
立派な造りの天井の車寄せの床は白御影石
太い柾目の柱の下には淡い桜色の岡山産の万成石
玄関入り口の白御影石の階段は継ぎ目のない1本もの
奥に見える大きなガラス戸のガラスはイギリス製・・・なんじゃそりゃ ^ ^
見学できるのは玄関棟の広間・廊下・洋風の応接間2部屋のみ

管理されてる方が細かいところまで説明してくれました
大きなシャンデリアとステンドガラスなどの豪華な装飾に目がいく

壁や家具にも綺麗な装飾が施されています
家紋の「下がり藤」がいろんなところにありますよ!

びっくりしたのが大理石の暖炉の中の電気ストーブ

藤の花模様に開けられた上の部分は装飾ではなく
水を入れると加湿器になったそうです
昭和5年にこんなものがあったんだ、群馬の太田に・・・
床は寄せ木の複雑な模様、玄関の天井の交差する木の組み方も凝ってます

解説を聞くたびに「はぁ~」と溜め息出ちゃう ^ ^
外に出て瓦を見ると、下がり藤の家紋がびっしり!(拡大してね)外からは次の間、客間、仏間、両親の居間を見れます
次の間、客間の天井は折上格天井でシャンデリアを吊るしていて
床には応接間に敷いてあった超高級ペルシア絨毯
襖や壁の下側に見られるシミは、昭和22年のカスリーン台風で利根川が
氾濫したときの浸水の跡だそうです
中島邸は会社や政界関係者の迎賓館でもあり、南側に流れる利根川の
河川敷の滑走路から離発着する飛行機を見せていたそうです

あれっ!?
利根川に滑走路があったのは知ってましたが、もう少し西にある
飛行機のラジコンのイベントをやってる滑走路辺りだと思ってたよ
中島邸の南側の滑走路跡辺りに行ってみました
これは昭和21年の航空写真
(赤枠:中島邸 青枠:格納庫、事務所など 黄:誘導路)

出典:国土地理院ウェブサイト USA-M159-A-5-98 1946/06/08(昭21)
ネットで調べていたら、同じように中島飛行機のことを調べてる人がいて
真似してみました
航空写真の青丸の所にBRZを置いて、後方に格納庫
この辺りが滑走路へ向かう誘導路
河川敷に出て鉄塔手前辺りまでが滑走路のようです
1917年(大正6年) 5月に作った飛行機研究所はこの辺りなのかな?
明確な場所はわからなかったよ・・・
滑走路があった河川敷へ降りてみる(車高が低いクルマは厳しいかも)
中島飛行機は翌年1号機を完成させ、ここで飛ばしますが失敗!
更に失敗を繰り返し、6号機にて見事に飛ばすことができました
自分も、ついに
スバルが世界に飛び立つ原点を見つけることができました!
え〜、なんだか最後は上手くまとまらないような感じですが
おしまい!
ご覧いただき、ありがとうございました
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Posted at
2017/04/09 06:31:52