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FRマニアのブログ一覧

2013年03月06日 イイね!

我が足跡を辿る④

本題の前に少し近況報告を。

先日地元・土佐でkirihataさんと車談義を兼ねてご一緒した。土佐弁を使えることもあり話が弾みに弾み夜遅くまでご一緒したが、とにかく濃いひと時であった(笑)。
特にベストモータリングのキャスターの方々のドライビングの違い、中嶋悟さんのワンハンドステアやセナ足などは大変刺激的であった。またご一緒出来ればと願っている次第である。
何よりも驚いたのがkirihataさんの非常にスムーズなドライビングであった。加減速のGの立ち上がりが穏やかであり無茶なスピードでもないから非常にジェントルであった。これは決して過大な表現ではないことを強く強調したい。
このようなドライビングは私自身心掛けてはいるが全く出来ない。何故そのようなドライビングを公道をサーキット扱いする無謀なスピードの運転より良しと考えているのか、それが構築され始めた大学時代を今回は振り返りたいと思う。


大分大学に入学した私は当初自動車関連のグループに入ろうとも画策していたが、結果それは現実とはならなかった。

まず第一に入学する時点で自動車免許を所持していなかったことが挙げられる。いくら前期日程で合格したとはいえ、いくら勉強嫌いの私とはいえ受験勉強に割く時間は流石に多かった。
私の出身高校はセンター試験終了後に学校へしかるべき手続きをとれば自動車学校への入校が許可されていた。従ってもしセンター試験前に進学先が確定して合格していれば迷わず自動車学校に入校していたであろうがセンター試験終了後時点で全く進学先が確定していない私に余裕などなかった。結果一度も自動車学校に行くこともなく大分に旅立つことになった。
おまけに高校卒業まで引っ越しの経験がない私にとってこの作業は四苦八苦の極みであった。家具家電等の準備のみならずアパートやインターネット等の契約も親におんぶに抱っこのままでは甘えにも度が過ぎる。もはやクルマに触れる余裕さえなかったかもしれない。

次に父親からの自動車関連のグループ加入に対する猛烈な反対である。ここでいう自動車関連のグループとは、自動車関連の部活やサークルを指す。これが建前だけならまだしも酒の席でも猛反対である。どう考えても本音である。金銭的な問題も大きいが、後々考えると私の将来を既に見透かした上での発言だったかもしれない。事実、最近になってカートがやりたくなってきた私にとって今自動車関連のグループに入ってメリットがあったかと振り返ると疑問符が付く。
そもそも何だかんだで父親からの影響がかなり大きいのが事実である。ロータリーエンジンに対して信仰心が無いことがその代表的な例である。

とどめは入学した年の体調である。大学のサークルのほとんどが入学してから実質2週間を新入生歓迎シーズンとしているが、入学式から僅か翌週にインフルエンザにかかってしまう。しかも40℃まで出たものだから堪らず親にヘルプを求めた程の精神状態である。結局最初の友人関係を築く上で1番動きたい時期を自宅で過ごすハメになり大学生生活のスタート大失敗である。親に早速大迷惑をかけたのもあるが、熱にうなされている間に自動車関連のグループに入る考えも何処かに飛んでしまったようである。
他にも色々あるが、表向きは以上にしておきたい。

熱が引いた頃には自動車関連のグループに入る考えもすっかり無くなってしまった私であるが、全くサークルに入らなかった訳ではない。インフルエンザにうなされていた時期に目を通してした文化系サークル紹介誌と「直感」で、あるサークルに在籍することになる。

これが随分車とはジャンルが違うから人生は面白い(笑)。入学式での手話通訳を拝見してその年の5月に手話サークルに加入した。
理由は様々あるが、やはり自然と手話に興味があったのであろう。よくよく思い返せば、中学の読書感想文で選んだ本が「愛していると言ってくれ」のノペライズ本であった。実は私自身クルマバカな一面の他に福祉に興味がある一面があり、その中で手話は1番興味があった。親云はく私が幼き時に知らぬ間に手を動かしていたらしいから、今思えば自然の流れかもしれない。
図々しくも手話サークルに入ってからはかなり顔を出すようになり、終いには部長まで経験をさせて頂いた。東日本大震災の年の入学式・卒業式では下手ながら手話通訳を経験した。無論、周りの方々の協力なしでは出来なかったであろう。改めて感謝の意を表したい。
車とはジャンルが違うが、行動力や達成感、そして自らが一生懸命したことで少しでも周りに笑顔ができる歓びなどは無駄にならずに全て身につけたと自負している。高校の少人数の水泳部とは違い大人数であったので悩みもしたが、それも力になった。もしこのサークルに入らなければAKBグループに対する偏見も無くならなかったであろう(笑)。そのくらい視野は私なりに広がった。
唯一心配なのが最近手話サークルに行ってないから手話の自己のレベルが下がりすぎていることぐらいである(笑)。少しばかり顔を出したいな。

おそらくその部長の年であったであろうか。私にベストモータリング休刊の知らせが届く。冗談かと疑って止まなかったが当時のベスモブログにとにかく早く思いを伝えたかったのでその旨を伝えた。それが偶然にもベスモブログのコメント第1号であり、局長のブログにも当時のコメントがしっかり残っている。誉れに思う反面、照れ臭いのも事実である(笑)。
休刊の知らせを聞いた際には書店にあったベストモータリングをとりあえずまとめて買った記憶があったが、そこに嘗ての面影はなかったのが非常に残念であったと記憶している。

こうなると全く車と疎遠に見える大学生活を送ってきた私であるが、確かに工学部自体に勉学や成績の面、さらには進路の面で強い嫌気をさした時期もあった。果たして今のままでいいのか、思いやられる一方であったのもまた事実である。

そんな時期に出会ったのがベストカーでの徳大寺さんの有難いお言葉である。
これは徳大寺さんの連載のコーナーで私と同じような悩みを抱えた方からの相談に対する回答から生まれている。

正確には覚えていないが、その方はこう徳大寺さんに相談を持ち掛ける。
「徳大寺さんこんにちは。私は車が好きで大学に入りましたが最近車に興味がなくなってきました。どうすればいいのでしょうか。」

すると徳大寺さんはまるで私にも語りかけるようにこう返す。
「それでいいと思いますよ。それが大学のいいところです。」

ああ、そうか。今の悩みは決して悪ではないのか。こう考えた私は何か胸のつっかえが取れた気がしてきた。確かに自動車も所持していないし走り屋にもなっていないし他のジャンルに汗を流している。でも、それはそれでいいではないか。

中学の時に「間違いだらけのクルマ選び」で様々なことを身につけたが、こうして再び徳大寺さんに勝手な思い込みとはいえお世話になった気がする。

さて徳大寺さんのお言葉で車に対する興味が復活したその前からガンさんがカートップやXaCARで連載をされているのは存じ上げていたが、工学部に入る前と後ではガンさんのお言葉の重要性は大きく変わってきた。工学部の人間から見たガンさんの魅力としてドライバーとしての素晴らしさもさることながら、実はエンジニアとしても優れていらっしゃるのではと考え始めたのが事実である。つまり、ガンさんはエンジニアとしての一面も持っていらっしゃるのではないのであろうか。そう思い始めたわけである。

昔からそうであったであろうが最近のガンさんは特に、ただ感覚だけで車を評価などしていないのがよくわかる。その評価の裏にはドライビングメカニズムが必ずある。メカニズムという言葉は余程工学的に車のみならずドライビングを捉えていらっしゃらない限りなかなか出てこない言葉だと思う。
自身、カートップのガンさんのインプレッションではテストドライバーの一面だけで見るには勿体無いように感じる。ブッシュや振動剛性のことなど、エンジニアとしてもガンさんのインプレッションから勉強できることは多々あるように最近考えているのも紛れもない事実である。
このように考えるようになってからは、何故ガンさんがそのような評価を下されるのか以前より踏み込んで考えるようになり、その度にドライバーのみならずエンジニアとしてもガンさんを憧憬の眼差しで拝見するようになった。これがガンさんに対する眼差しが昔と大きく変わった最大の要因である。


さて、以上で締めくく・・・られない!大事な自動車学校での日々を記すのを忘れていた(笑)。

私が高知駅から近い自動車学校に入校したのは大学入学して初めての夏であった。教習車は初代アクセラのガス仕様で教習車としては派手なブルーであった。ちなみにブルーはMT、赤はATであるのもこの学校の特徴である。
最初はクラッチもまともに繋がらず(今でも少し怪しいが)苦労したが徐々に自信が付き始めた。この時は当然敷地内でも制限速度は厳守。だからといって退屈なことはなく、ドライバーズシートからの視点からのドライビングは速度に関係なく難しく又楽しいものであった。とにかくスムーズなドライビングをするように指導されたのもあり、この頃からGについて考えるようになった。とにかく安全だけでなくショックの少ないドライビングにしようと苦心するのはこの頃から今でもずっと続いている。

やたら速度を出すよりもとにかくスムーズなドライビングをするように苦心するのは路上に出ても同じである。この際に驚いたのが、路上に出る前から既に気づいてはいたが、自動車学校の教官の方々のドライビングのスムーズさである。この方々はおそらくブレーキング時にアクセルを使わなくても普通にスムーズにGをコントロールしていらっしゃるなとか、とにかくGのコントロールが素晴らしい方が多かったのが事実であった。
乱暴にスピード出して勘違い運転など何のメリットもないなと確信を持てたのも教官の方々のスムーズなドライビングから得られたものである。
自動車学校にて、スピードを出さなくてもドライビングは楽しいということを学べたのは大変有意義であったと胸を張って言える。


結局自動車関連のグループに入らなかった私ではあるがその分F1観戦や貧乏旅行など家の外に出向いて決して出不精ではなかった。時には流れに身を任せてその結果視野も広がった。
だから我が人生の足跡、無駄なものは何ひとつないと確信を持っている。

みんカラをやり始めてから数カ月後にこのような名言を見つけた。YouTubeでアップされていた1986年マカオグランプリ時での五木寛之先生、徳大寺さん、ガンさんの御三方での対談で五木寛之先生が次のように述べられている。間違いがあれば訂正のクレームを入れて頂けると有難い。

「ガンさんが仰った、車を行きたい方向に行かせるというのは僕はドライビングだけの名言と思わなかったね。そうじゃなくて人生にも言える言葉だと思う。僕なんか本書いていてどうしても登場人物が勝手に行ってしまう時があるけど、そういう時は登場人物を行きたい方向に行かせてそれをわずかに修正する。そういうドライビングは、僕は大人なドライビングだと思う。」

この大人のチームにガンさん率いるLEON RACINGはなって欲しいと思う。
私も大人のドライビングができるように一生をかけて望みたい一心である。

以上でこのシリーズは締めくくりたいと思う。
これから先ホットバージョンが軌道に乗ればベストモータリングの復活もあるかもしれない。しかしただの懐古に終わっては読者の方々の心は掴めないと感じている。
ガンさんと中谷さんには是非主力になって頂きたいが、もっと理論的な切り口でやってほしいものである。最初はバトルはやらなくてもいいからガンさん、中谷さんそれぞれのドライビングメカニズムについてじっくり触れそのイズムを若年層の方々に伝えて頂きたいと考えている。ベテランだけでなく新しい血も必要であろう。
やがてそのイズムを受け継いだ方々がベストモータリングのメインキャスターとして活躍して頂ければ毎号私は買いたいものである。そのキャスターとして相応しいのは、私は荒聖治さんや谷口信輝さんがいいなと考えている。
おそらく私以上にベストモータリング好きな方の中には私の案を却下する方もいらっしゃるだろうが、とりあえずこれが私の案である(笑)。私と違う案の方をお持ちの方ともベストモータリング好きであることに変わりはないであろうからどんどん意見を交わしていき、またそこで自らの見識を広めるのも大いにありだと思う。

次回は私が望む理想のFRを挙げたい。主にテンロク以下クラス、2リッター相応クラス、大排気量クラスに理想はそれぞれあるが、その中で2リッター相応クラスにスポットを当てて取り上げたいと思う。
「中途半端な・・・」という声もあるだろうが、この「中途半端」に思えるクラスの日本車は海外で人気が高く、二極化して極端になってしまったスポーツカー市場の穴場になるのではと勝手に妄想 している。またこのクラスは日本のお家芸のようにも思っている。

妄想が出来上がり次第次回記すつもりである。
Posted at 2013/03/06 19:11:17 | コメント(3) | トラックバック(0) | 歴史もの | 日記
2013年02月20日 イイね!

我が足跡を巡る ③

本題の前に長い近況報告を。

ようやくテストも終わり悠々自的にブログに向き合おう、という計画が鼻風邪と共に崩れ去ってしまった。おそらく先週学校でもらったが「たかが風邪」と舐め切っていたバチが当たったようである。
龍剛さんのちゃんぽんをすする日には「花粉症」だと勘違いしていたが、翌日にはすっかり花粉症ではない状態になり、よりにもよって最後の試験だというのに酷い鼻詰まりと微熱で頭が回らず大苦戦。
よくよく思い返すと大分に来て通年性のアレルギー性鼻炎持ちの私があまり花粉症に悩まされていないのだから、日曜日の時点で疑うべきであった。
様子がおかしいので試験後耳鼻咽喉科に直行したら高熱になっていた。鼻うがいなどの処置をした後に帰宅すると38℃代まで上昇。終いには38.5℃というインフルエンザの時以来の高熱を出してしまった。

記憶している限りではまともに熱が出たのは新型インフルエンザで騒がれた2009年末のインフルエンザ以来である。実はこの年は2回もインフルエンザにかかっており、入学早々に私を襲ったB型インフルエンザでは40℃まで熱が上がり流石に危機を覚えた。
「うがい・手洗いをしている大丈夫であろう」という考えがいかに甘かったかを再認識させられた結果となった。
ドライビングでも同じだとは思うが、やはり思い込みほど怖いものはないと考えてさせられた数日間であった。
尚、ここまで熱にうなされると流石にやり取りをしていた方々には文章等とんだ迷惑を掛けてしまった。お詫び申し上げたい。

しかしながら、そんな中でもみんカラ関連で様々な計画が順調に進んでいることが何よりも喜ばしいことである。楽しみでしょうがないが、まずは風邪を治さねば・・・。

さて、先日お伺いした龍剛さんのお店だがここのちゃんぽんは「また食べたくなるちゃんぽん」であったことをご報告したい。私自身大のちゃんぽん好きであるが、それが裏に働いたのかちゃんぽんチェーン店で期待大のあまり大失望した苦い経験をしており外食でのちゃんぽんは控えていた。今回唐揚げちゃんぽんがえらく美味であることを事前に聞いていたとはいえ、この美味しさには大変驚かされた。
手作りで高品質の鶏肉に絶妙な味付けの唐揚げ、質のいいたっぷりの野菜、程よい湯で具合の麺に辛すぎないスープが綺麗にコラボする。何よりもこれからが誰ひとつも喧嘩せずに仲良くコラボしているのにさらに驚かされた。
一度御賞味あれ。

ちゃんぽんだけでなく、お店に置かれていた雑誌の種類にも驚かされた。私自身の経験上、どうしても車雑誌の中でジャンルが偏ってしまうがGENROQとREV SPEEDが同じ棚にあることに感銘した。
さらにはホットバージョンもお店に飾られていたから、根っからの車好きであることを強烈に匂わせる。それはご本人からも十二分に伝わって来た。ベスモ通の一面もあるようで「ガンさんはMR2は上手い」とか「土屋さんもMR2でスビンしてたな」と仰る辺り、かなりのベスモ通である。
どうりで走り屋の方々が集う訳である。

そんな熱いお方から同乗のオファーを頂いた。おそらくあの道を走るのであろうが、先日そこで首をやられてしまったのでそのオファーが実現するまでに首を鍛えなければならないなと痛感した。運動不足の私にも程があるな・・・。


さて、随分近況報告が長くなったが本題に入ろう。
その前に前回触れていなかったことについて事前に触れておこう。

中学3年の頃に「修学旅行で1番遊べるから」という安直な理由で後に通う高校に進学する決意をしたがその際に「高校で水泳選手を引退することを前提に全うしよう」ということで水泳部に入部する決意をしたのも事実である。
その高校への体験入学の近くになって諸事情でいきなりF1鈴鹿行きが決定し体験入学後ドタバタで初のレース観戦をした。しかし疲れていたのかなんとあの音の中最初と最後以外大爆睡するという大失態を冒す。おまけに近鉄白子駅までのバスの件で親子喧嘩。今となっては笑い事だが怒り狂いながら白子駅まで歩いたのを今でも強烈に覚えている。

そのような経験をした上での高校生活が始まったが、水泳ではいつもヘロヘロであった。無駄がとにかく多かった。
水泳、特に競泳では「常に前に進むこと」を要求される。しかし、いくら手足をバタバタ動かしても前には進まない。前に進まないから結局遅い。
そのジレンマを解消するためには無駄をなくしながらいかに前に進むかが要求される。自由形を例に取ると、手は水の抵抗を考慮して万歳をする角度で手を伸ばす。ただ伸ばすだけでなく手に荷重をかけるが、出来るだけ静かに水しぶきをたてないようにしなければならない。しかも手首を曲げずに力強く水を捉えてかく事もである。
キックに関しては出来るだけ足を曲げずに伸ばして足と水面が接する面積を出来るだけ広くする。いくらキックのペースを早めても基礎ができないと無意味である。
つまり1掻き1蹴りでどこまで進めるかが結局鍵となる。これができると無駄なエネルギーが減る分疲れも減る。

こう考えができた際に、実は無駄を無くさずに泳ぐことは車でいうタイヤのグリップ力を最大限に活かしながらドライビングするのと似ているのではないだろうか。そう考え始めた際にガンさんの凄さが少しながら分かった気がしてきた。

この考えは後輩を育成する過程で非常に役立った。ただし後輩ができるまでには時間を費やしたが(汗)。
この頃他の学校の水泳部では既に「スイミングスクール所属者」が多かったから対処にも慣れているのであろうが、私の高校にだけスイミングスクール所属者がいなかったのである。それだけ高校での水泳部のニーズが減っている証拠である。もともと1桁代の部員数で危機感は相当であったが、策もまともに考えていないツケがまわってきたのであった。おまけに諸事情で水泳部は分裂状態になった。
なんとしても廃部は免れたい一心であったので半年間スイミングスクールでお世話になったのも今は昔。あの時の行動力が今や局長に初めてお会いした時に繋がっていると自負している。

そんな部活動の一方で、進路もなかなか迷ったのも事実である。私自身元々が文系の頭であったが自動車系に行きたいこともあり理系の先生に進路相談をする。その先生が翌年から卒業時まで私の担任の先生になられるとは、この時つい知らずである。
この時あっさりと「理系に行きたいなら理系をやればいい」と言われたので、今まで悩んでいたのが愚行に思えた。

しかしながら、まだ大学に行くつもりはなかった。どちらかといえば整備士になりたいと思っていた私にとって、一体大学と専門学校のどちらが向いているか全く不明であった。
そこで水泳部が開店休業状態だったこともあり夏休みにオープンキャンパスに行くことにした。大学と専門学校、一体どちらに行きたいのかと。

今振り返ればどうしようもないくらい段取りが悪かったが、大学の方が向いていることに辿りつけたことは非常に大きかった。もちろん専門学校にもメリットはあったが、行った大学での研究がボディマテリアルについてという私にとって興味深い内容であったことがどうやら決め手になったようだ。
この時期今は亡きモテクニカルカレッジ神戸などのモータースポーツ専門学校にも資料請求をしていたが、オープンキャンパスですっかり大学に行く気満々になったのである。


この年に今のGT-Rが発表・発売されたから既にベスモ疾風録のファンであったと思う。毎月欠かさずベスモ疾風録を拝見していたのも良い思い出である。
確か最終回の締めくくりで局長が当時のベスモ(2008年2月号か3月号)の売上について少し触れていた気がする。
この疾風録でスーパーバトル誕生とF40登場の背景や雪上バトル、広報車事件など当時の動きが少しでも目に浮かべられたように思う。

この当時中・高生の間で携帯でのホームページが流行っていた。今ではその流行りがSNSに移ったが、当時私の水泳部でも携帯でのホームページを持っていた。
確か今のGT-Rがほぼ今の形でニュルブルクリンクでスクープされた際の記事を見て、あまりにも期待外れなデザインやメカニズムに憤慨して水泳部でのホームページで散々批判した覚えがある。
とにかく「重すぎる」、「ダサい」、「誰が4WDターボになんかしろと言ったのか」ともはや最近の週刊誌も顔負けの批判ぶりであったと思う。

事実、ベスモ2003年12月号での「出て来い!最強のGT-R!」という特集でベスモが現実的なパターンとして非常にネガティブな予想を出していた。当時のV35スカイラインクーペをベースにすると、もうスカイラインクーペで1500kgオーバーである。さらにアテーサETSとターボ武装で結局1.7tオーバーである。考えてみればベスモのネガティブな予想が当たっていたのである。

このネガティブな予想を覆すためにベスモはNSX-Rや911GT3(タイプ996)、アミューズZ33まで持ち込み締めくくりにはガンさんがM3 CSLを筑波でインプレッションしている。結局ベスモがGT-Rが求めていたのは後輪駆動のNAであった。しかもその後しつこく連載企画としてR32GT-RのNA・FR化までやっている程である。

この企画以前、つまり局長が編集長としていらっしゃった際のGT-R特集でもやはりバランスの取れたGT-Rが欲しい旨をベスモはハッキリとメッセージとして発信していたはずだ。

確かに今のGT-Rは速いかもしれないが、やはりベスモが散々プレッシャーをかけてもこの有様だから現時点でもGT-Rは期日内に発売したこと以外認めることはできない。
この場ではっきり申しておこう。水野氏が自らの独自論で車をつくるのは構わないが、GT-Rの名前をあんな重たい車にこれからも使い続けるつもりがあればバッシングをくらい水野氏が日産から離れたとしても何の悲しみもないことを。
GT-Rは開発側のただの自慰車ではなく、ファンが創りあげてきた車である。たとえニュルブルクリンクで何秒叩きだそうとFRのNAでなければそれはGT-Rではない。それでも本当に水野氏がどうしてもGT-Rとしてあの車にそう名付けるのであれば、まずはノーマルレイアウトのほとんどチューニングしていない状態でニュルブルクリンク24時間耐久を制してからにしろと。

熱くなり過ぎたが、当時からGT-Rに対するスタンスは変わっていない。

さて、軌道修正しよう。高3になり水泳部の存続も何とか保たれたが志望校は相変わらずボンヤリとしていた。私立大学は当時ル・マン24時間耐久レースに参戦しており、教鞭をとる方もニスモ総監督の柿元さんなど豪華であった東海大学に決めていた。対して国公立大学の方は行きたい所と偏差値が全く合わずにいた。
よりにもよって受験勉強にスランプが訪れた。幸いにも担任の先生のご厚意で京都工業繊維大学のOA入試を受けるもあえなく撃沈。しかしながら親は当然の如く国公立大学を望む。

そんな矛盾を抱えながらセンター試験も近づく頃。センター試験2週間前に進路相談を受けるが、その時に衝撃的な答えがこれまた「あっさり」と来た。

「九州行ったら?大分とか宮崎はどう?」

すっかり四国より東に行くことしか頭になかった私にとって開いた口が塞がらなかった。
帰宅後親に伝えると母親も口をポカンとさせていた。しかし父は私の偏差値を息子の知らぬ間に調べていたらしく、このことを伝える際には既に何もかも見透かしていた顔であった。
全く親とは恐ろしいものである(笑)。
あまり成績のことなど相談しなかったはずであるが・・・。

担任の先生の勧めで九州の大学を調べると大分大学と宮崎大学に目が留まった。可能性も偏差値からしてある。センター試験翌日の自己採点で、その結果をもとにした可能性判断も大分大学と宮崎大学は可能性が高かった。しかし、一般入試では国公立大学は1校に絞る必要があるので高知から近い方の大分大学に決めた。


よく「なぜ高知から大分に来たのか?」と尋ねられる方々が多いが、意外にも私でも腰抜けするぐらいの理由である。
あとは中学の時の修学旅行で、私だけの学年だけ九州であったことから、よくよく考えると九州に元から縁があったのかもしれない。

そんなにあっさりなのか・・・と思われる方も多いであろうが、国公立大学の一般入試までに既に東海大学に合格していて気持ちの余裕があったことやラッキーなことに倍率が異常に低かったこと、さらには入試問題自体が簡単であったことが重なり、難なく大分大学に入学する運びとなった。

幸運なことは意外にトントン拍子で来るのだな、としみじみ思った。


さて、本来なら今回でこのシリーズを締めくくりたかったがあまりにも長くなってしまったので、大学入学後から現在に至るまでの経緯は次回に延長したい。次回でこのシリーズの最終回にしたい。
パソコンではなくiPhone、つまり両手ではなく片手での執筆であったので大変時間がかかったのでどうか寛大な気持ちでこの酷い文章を受け止めて頂けると幸いである。
Posted at 2013/02/20 11:42:13 | コメント(6) | トラックバック(0) | 歴史もの | 日記
2013年01月30日 イイね!

我が足跡を辿る 番外編??

番外編として、先日書けなかったことを書きたい。


私は中谷さんの本を愛読していたと先日申したが、実はもう1冊愛読していた。中学時代であったと記憶している。

徳大寺さんの「間違えだらけのクルマ選び」である。おそらく2004年頃に発行されたものであろうか、記憶が定かではない。

この本も私の価値観を形成した本である。
私はよく軽自動車の規格を批判するが、それはこの本が間違いなく関わっている。


まず今の軽規格自体に限界が来ていることにそろそろ誰か警鐘を鳴らしてほしい。最後の改正から既に15年も変わっていないが、この数年だけとっても軽の在り方が随分変わっている。大きさも規制値一杯になり、伸ばせる可能性があるのは全高であろうか。しかしながら、トレッドを変えずにただただ全高を高くすると走りにいい影響などあるのか。車は水槽などではない。全幅をなかなか変えられない道路事情を考慮する必要があるにしても、アクティブ・セーフティの面で疑問は拭えない。

おまけに衝突安全の問題で重くなる一方でエンジンの規制値の変更はなし。660ccの64馬力にももう限界が来ているのではないだろうか。ターボはともかく、NAの方は660ccの重くなったボディをこれ以上どうできるのか。
燃費のことしか眼中にないのならいっそう自転車の製造に切り替えることを勧めたい。電動自転車の方がいいかもしれない。実用燃費がさほど変わらないのであればパワーがある方がどう考えても効率がいい。
大排気量の車を低回転で走らせても燃費が悪いというのなら、軽を高回転で走らせても燃費がいいと言えるのあろうか。

大事なのは「何に」乗るかではなく、「どう」乗るかである。

それが嫌ならもう少し馬力の規制値を緩和すべきであろう。いっそ660ccで120馬力程度出して欲しい。本当は両方すべきであるが。「今の規制で可能性はある」と主張するメーカーが多いが、そこまで言うならモータースポーツ等で成果を出して欲しい。VWやプジョーなどが驚くレベルの軽量高剛性ボディやシャシーを搭載した軽が出れば話が別だが、昔よりコスト優先の軽ワールドでそこまでするメーカーが現れるか・・・。
「軽なんか最高速度100km/hの設計で走ればいい」なんてことを言った某トップの方がいたが、このような方に「アクティブ・セーフティ」のことを言っても無駄だろう。


もうひとつの問題として、税金の問題である。軽と普通車との間にあまりにも税金の開きがある。ただの軽製造メーカーへの優遇にしか見えないのは私だけであろうか。
そもそも自動車の税金自体が異様に高すぎる。困ったことにEU圏で1番自動車税が高い英国の約3倍である。それで笹子トンネルの事故である。自動車所有者の方々が霞ヶ関と永田町に好きで貢いでいると思ってもらったら大きな間違いである。
普通車ユーザーをいじめるのも車離れの一因と思うのだが。

かなり書き散らしたが、日本の車(特に軽の規格)に対する私の鬱憤晴らしと流して頂いた方が幸いかもしれない。ただし、これらは私の本音であることについても重ねてご理解頂きたい。
Posted at 2013/01/30 03:22:58 | コメント(5) | トラックバック(0) | 歴史もの | 日記
2013年01月26日 イイね!

我が足跡を辿る②

さて、予告通りに続きに取り掛かろう。


ベストモータリングにハマった1人の少年がFRマニアとしてデビューする、その前年に国産スポーツカーにとって大変な壁が立ちはだかった。

「平成14年排気ガス規制」

これによって当時の280psターボであったGT-R、RX-7、スープラだけでなくシルビアまでも消えてしまった。局長がプリウスの件でベスモ1998年2月号について触れていたが、その当時280psが全盛期の時期であり一種の幼少期の思い出になっていたのもあって2002年のこの悲報にはただうなだれる他はなかった。
当時はインターネットという手段が家になかったこともあり、雑誌が情報源として相当な役割を占めていた。GT-Rの場合V6のFMパッケージの手段を使えばよかったのではと当時散々うじうじしたのも今となっては懐かしい。
280ps軍団が好きだっただけに何回過去のベスモに目を通したことだろう・・・。

そのような国産車の斜陽とは反対に、海外勢のスーパースポーツ軍団は活気を帯び始めていた。フェラーリF40の時代は500psなどごく一部だけであったが、ランボルギーニの進化でパワーウォーズに拍車がかかった。ガヤルドに至っては500ps以上である。エンツォ・フェラーリやカレラGT、SLRマクラーレンなどCFRPが使われたのもこの頃からであった。
日本以外に目を向けると実にスポーツカーに活気がついているのではないか!!
その背景もあり、GENROQを愛読し始めたのもこの頃からであると記憶している。


翌年、我が家にインターネット回線がつながりベスモのホームページにもよくいったものだ。FRマニアのデビュー書き込みは何のことかはっきり覚えていないが、在りし日のベスモのホームページのBBSであったのははっきり覚えている。
この頃であっただろうか。ベスモ2003年11月号で富士スピードウェイでリニューアル前のバトルをする企画があったが、その影響のせいか30°バンク事故の事柄がベスモのBBSが取り上げられていた。バトルでの「ガンさんブロック」がこの年が1番強烈であったこともあり、ガンさんをベスモから疎外させろという声が大きくなっていた。私自身この時に初めて事故のことを知った。
だからといってガンさんに対する思いを改めることなどなかった。


今だから言えるが、私はガンさんのことを当時はあまり好意的に見ていなかった。もちろん今では憧憬のまなざしを送っているが、そのきっかけは後で触れよう。
好意的に見ていなかったといっても、ガンさんの人格を否定していた訳ではない。実にくだらない理由である(笑)。

当時NSXのスタイリングが好みではなかった(今では好きだが)のに加えてNSXは非常にピーキーな一面があった。それもあり4WDターボが好きであったが、ガンさんの駆るNSX(特にNSX-R)はそれらを蹴散らしていた。ガンさんがあまりにも速すぎたので、いわゆるガンさんに対する妬み・嫉妬の感情があったのが原因である。
ガンさんにNSX、今では最強の組み合わせとしてうきうきするが当時は「またこの組み合わせかよ、勘弁してよ」と何回嘆いたことだろう(笑)。
これはカルソニックカラーのマシンを駆る星野さんにも該当するパターンである。
星野さんも今では魅力的な方として好きだが。
要は「不正は関係なしに速すぎるから・・・」という嫉妬心である。裏を返せばそれだけ素晴らしい方であるのだが、子供の私にはそんなこと考える余裕がなかった。
人間、日々成長であるなと今振り返ると恥ずかしながら思う。

その後も2003年のカー・オブ・ザ・イヤーでレガシィが選ばれた際にも「ガンさんがスバルからお金をもらったからレガシィに票を入れた」という批判の声が相次ぐなど、ガンさんが一部のネット住人から攻撃の的にされていた。しかし、当時の私にとって彼らの意見を聞く余裕などなかった。ベスモがすでに崩壊し始めていたからそれどころではなかった。


その結果が中谷さんのベスモの去就である。ショックの一言であった。
何よりも当時中谷さん著書の911についての本を愛読するほどのファンであったからたまったもんじゃない。
さらに当時ランエボ8MRやポルシェ911(997型)など中谷さんにテストしてもらいたかった車が目白押しであったので尚更である。
何回もベスモのホームページを通して中谷さんの復帰を願うメールを送信した。が、結局願いは叶うことなくベスモも休刊してしまった。
といっても諦めの悪い私は当時から健在しており、中谷さんの在りし日のホームページのBBSに911(997型)の感想を失礼ながら求めたこともあった。
ありがたいことに中谷さんご本人から、丁寧に中谷さんらしいお返事を頂いたのは今でも鮮烈に覚えている。その後、そのやりとりを私が知らぬ間に2chで取り上げられ散々私がバカ扱いされたのも今では懐かしい(苦笑)。

琢弥さんの降板も重く響き結局ベスモは2006年1月号をもって、休刊の知らせを聞くまで購読を取り止めた。
この頃から再び小学校時代でリタイアしていた水泳を始めようと動き始める。そして高校で水泳に打ち込み始めるが、そこでガンさんに対する思いが変わり始めていた長くなったので詳しくは次回にしたいが、簡単に申しておこう。


水泳、特に競泳の場合「少しでも無駄なく前に進むこと」が重要であるが、実はドライビングにも通じるのではないだろうか。
ガンさん、そういえばベスモでよく似たような言葉を口にされていたな・・・。

次回に続く・・・。

Posted at 2013/01/26 02:53:58 | コメント(4) | トラックバック(0) | 歴史もの | 日記
2013年01月19日 イイね!

我が足跡を辿る 番外編?

本来なら続きを書くべきであろうが、なにせ原案をあまり思いついていない。
ここでは、短いが局長への前回のコメントの返信を兼ねて私の家にベストモータリングが来た経緯を語りたい。昨日の晩にほろ酔い(!?)の際に尋ねた。


元々父は車好きであり車雑誌を頻繁ではないが目を通していたらしい。
よく考えれば車雑誌がちょこちょこあるなとは思うが、何しろ車好きよりも小説好きの一面が私には強く印象に残っている。特に五木寛之氏の著書は書斎に整然と並んでおり、サインをずっと子供のように待っている程である。


父がベスモ1991年4月号を初ベスモとして購入したきっかけは、かなり単純である。

ずばり、「スカイライン」が出ているから。どうやらR32が好きだったらしい。
あと、偶々行きつけの本屋に行ったらあったから。

車歴を聞いてもハイエースに乗り換える前までずっと日産車である。ベスモで日産度がこれ程濃い号もそうそうない、ということで購入したと当時を振り返っている。
おそらくベスモの購入のきっかけが「好きな車・気になる車が特集されているから」という方は多いのではないだろうか。特にスカイラインやロータリーファン、VTECマニアの方は更に多いのではないかと勝手に妄想している(笑)。

しかし、夫婦は似たもの同士と聞くが「毎号買う」という行為がないのはこの夫婦に該当していた。父は随分気まぐれに本屋に行き、「なんか面白そう」と思えば買う。私は勤勉な父に対して呪う程の忌々しさは抱いたことはないが、その時期が実はベスモ黄金期なのでブックオフでベスモを探す時には「毎号買っとけよ!!」と何回思ったことやら・・・。

ベスモ以外にもCARトップなどを購入していた父であったが、私たち兄弟がベスモを自然と強請っていたようだ。兄は直ぐに別の趣味に走ったようだが私はベスモにどっぷりである。父はどっぷりの私のためにベスモを購入していたようで、どうやらベスモに対するハマり方は直ぐに父を追い越したようである。
男3人がどっぷりベスモにハマったのがきっかけか、ついにはドリドリ土屋さんのイベントに足を運ぶことになる。
1994年に高知・大豊町に土屋さんがトークショーでご来高された際に家族で足を運んだらしく、S13シルビアを背にした幼き私が笑顔で映っている。車に決して詳しくない母でさえ、「MR2が壊れた」と当時の写真を見る度に懐かしむ程である。
昨年のスーパーGTオートポリス戦で土屋さんにお会いしたが、実は土屋さんを生でお見かけするのは人生2回目だったことになる。

私も記憶が曖昧であるほど物心がついた頃には車好きであるが、やはり幼少期にどんなものを見て幼生を過ごしたかが今に繋がっているようである。そういう観点から考慮すると、スーパーGTのキッズウォークは非常に有意義だと思われる。
加えて、車いじりをしない父の子にとって「筑波バトルの中毒性」はなかなか効果があったようで、車以外の乗り物ではなかなか見られない車の持つ「中毒性」にすっかりやられたようである。

その「中毒性」を見事に引き出していらした局長の存在を、大変失礼かつ残念ながら父はご存じではなかったようである(大汗)。もちろん私が局長の功績を、ネットに疎い父に随分長い時間話したのは言うまでもない。「この無礼者!」と叫ぶ方が多数いらっしゃるであろうが、この言葉を座右の銘にしていらっしゃるようであれば納得もするのだろうか。

「編集者は黒子に徹するべき」(訂正をしました)

局長の座右の銘に、どうやら父は自然と導かれたのかもしれない。でなければベスモに夢中の私が誕生することもなかったのだろう。


次回は前回の予告通りに文を綴りたい。


Posted at 2013/01/19 03:07:11 | コメント(3) | トラックバック(0) | 歴史もの | 日記

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