2013年02月02日
今回は緊急で本来書くべきものをすっ飛ばして書くことにした。お待ちしていた方に深くお詫びを申し上げると共にご了承を願いたい。
尚、今回は愚痴以上に過激な表現が多いので改めてご了承を願いたい。
ご覧になる際には、どうか寛大な気持ちで小僧の叫びを受け止めて頂けると有難い限りである。
以前AKBのことについてブログに記したことがあるが、それはメンバーの方にではなく「裏の大人の方々」への批判であった。プロフィールでもSKE48について好意的に見ていると記しているので決してアンチではないことは明言しておきたい。
実はこのみんカラを書く際はほとんどの確率でAKB48のオールナイトニッポンを聴きながらである。ああ、言っちゃったよ・・・。
しかしながら握手会等への費用は全て車雑誌関連に消えているので、「ヲタ」と呼ばれる方々よりは距離があるかもしれない。
今回の「丸坊主騒動」はAKB好きのNHKがとりあげる程の「問題」としてマスコミは大騒ぎである。結局AKB側の方々が「良かれ」と思ってやったことが全部裏目に出てしまったのが全てであろう。正直坊主には驚いた。週刊文春でスクープされてからの流れが余りにも速かったので不明な点も多いが、もう本人も反省していらっしゃることであろう。SKE48好きの私から言うと、研究生に降格の時点でかなりのペナルティであるのは重々知っている。この件で闇雲に批判する方がいるが、「事情を詳しく知りつくしてから」にして頂きたい。むしろこの件で非難・中傷する方々の中にどうも売名目的を含んでいる方が多々いてどうも目につく。
おまけにスキャンダルたるもの、芸能界につきものである。
私自身一時期各方面から批判に晒された時期があっただけに、「何をやっても全部裏目」ということは多々あった。なので私はこの件についてご本人に対して批判するのはやめようと思う。みっともない。
因みに私は一度体罰関係なしで「ほぼ坊主」に自ら望んでしたことがあるが、あまりにも似合わないのと冬だったことによる寒さで大後悔した苦い記憶がある。女性の坊主姿で思い出したのが、大々的に坊主姿でデビューした割にパッとしなかったあの歌手の方か三蔵法師であろうか。気のせいか今回坊主にされた方はその歌手の方よりは坊主が似合っているなと不謹慎ながらに思ってしまった。
今回のこの騒動、はっきり言って前兆は嫌という程あった。「火の立たぬところに煙立たぬ」とはまさにこのことであろう。例の広報車事件と構造が似ていると感じたのは私の悪い癖であろうか。大きい会場でコンサートをやるよりも運営側の体質の根本的な改善が強く望まれる。今のままではあまりにもファンと距離が出来すぎている。
今回の騒動はまだ反省の色がご本人から感じたのでいいだろう。寧ろ迅速な対応で安心した。「体罰」で騒がれるこの騒動で何故か思いだしたのが前FIA会長のマックス・モズレーである。
彼の場合、この騒動以上の大スキャンダルを引き起こしたにも関わらず坊主も謝罪もなかった。それどころか、次期会長の選出に関わるなど図々しいにも程があった。困った事に未だに影響力がある。私は未だにこの男が大嫌いであるのもこの一面からである。
いくら有能であったとしても彼は元々失言癖が多くて不快であったが、その大スキャンダルは当時のTopGearでも随分ネタにされた程である。この大スキャンダル、あまりにもド下劣で相当卑猥であるので詳しくは伏せざるを得ないが、「男の暴走の一面」をFIAの会長が曝け出してしまったと言っておこう。
あまりにも刺激の強い内容に当時のNHKも放送できなかったのであろうか。むしろこの男の方がYouTubeで当時坊主のスーツ姿で謝罪と退任を生放送で迅速に発表すべきであったのではないだろうか。彼には今からでも罰を受けてもらいたい程である。車好きとして恥以外の何者でもない。
結局彼に対する批判が多くなったが、F1のボス的存在であるあの方も老害以外の何者でもない。未だにFIAなどの対立等で揉めたり、とにかくみっともない。私の心がF1に今あまりないのもこの「笑えない茶番」が原因である。
これで日本GPにナイトレースを強要するなど、もうF1を私物化しているのが見え見えである。これでF1ファンを粘り続けようとする気持ちなど、私には更々ない。
「コスト削減」をやたらに強調するモータースポーツほど興味のないものはないからだ。
むしろAKBの騒動より事態は深刻であろう。日本どころか世界中でF1ファンが減るのも納得である。
結局AKB云々よりF1批判が目立ってしまったが、この男を思い出してしまった以上タイプが止まらなかった。要はいくらAKBのメンバーの方(F1でいうドライバーの方)がどうやっても司る者が無能だとどうしようもないという事を思い出した次第である。
しかしまさか高校時代に批判していた人間を再び批判するとは・・・。
Posted at 2013/02/02 03:13:03 | |
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音楽・芸能 | 日記
2013年01月30日
番外編として、先日書けなかったことを書きたい。
私は中谷さんの本を愛読していたと先日申したが、実はもう1冊愛読していた。中学時代であったと記憶している。
徳大寺さんの「間違えだらけのクルマ選び」である。おそらく2004年頃に発行されたものであろうか、記憶が定かではない。
この本も私の価値観を形成した本である。
私はよく軽自動車の規格を批判するが、それはこの本が間違いなく関わっている。
まず今の軽規格自体に限界が来ていることにそろそろ誰か警鐘を鳴らしてほしい。最後の改正から既に15年も変わっていないが、この数年だけとっても軽の在り方が随分変わっている。大きさも規制値一杯になり、伸ばせる可能性があるのは全高であろうか。しかしながら、トレッドを変えずにただただ全高を高くすると走りにいい影響などあるのか。車は水槽などではない。全幅をなかなか変えられない道路事情を考慮する必要があるにしても、アクティブ・セーフティの面で疑問は拭えない。
おまけに衝突安全の問題で重くなる一方でエンジンの規制値の変更はなし。660ccの64馬力にももう限界が来ているのではないだろうか。ターボはともかく、NAの方は660ccの重くなったボディをこれ以上どうできるのか。
燃費のことしか眼中にないのならいっそう自転車の製造に切り替えることを勧めたい。電動自転車の方がいいかもしれない。実用燃費がさほど変わらないのであればパワーがある方がどう考えても効率がいい。
大排気量の車を低回転で走らせても燃費が悪いというのなら、軽を高回転で走らせても燃費がいいと言えるのあろうか。
大事なのは「何に」乗るかではなく、「どう」乗るかである。
それが嫌ならもう少し馬力の規制値を緩和すべきであろう。いっそ660ccで120馬力程度出して欲しい。本当は両方すべきであるが。「今の規制で可能性はある」と主張するメーカーが多いが、そこまで言うならモータースポーツ等で成果を出して欲しい。VWやプジョーなどが驚くレベルの軽量高剛性ボディやシャシーを搭載した軽が出れば話が別だが、昔よりコスト優先の軽ワールドでそこまでするメーカーが現れるか・・・。
「軽なんか最高速度100km/hの設計で走ればいい」なんてことを言った某トップの方がいたが、このような方に「アクティブ・セーフティ」のことを言っても無駄だろう。
もうひとつの問題として、税金の問題である。軽と普通車との間にあまりにも税金の開きがある。ただの軽製造メーカーへの優遇にしか見えないのは私だけであろうか。
そもそも自動車の税金自体が異様に高すぎる。困ったことにEU圏で1番自動車税が高い英国の約3倍である。それで笹子トンネルの事故である。自動車所有者の方々が霞ヶ関と永田町に好きで貢いでいると思ってもらったら大きな間違いである。
普通車ユーザーをいじめるのも車離れの一因と思うのだが。
かなり書き散らしたが、日本の車(特に軽の規格)に対する私の鬱憤晴らしと流して頂いた方が幸いかもしれない。ただし、これらは私の本音であることについても重ねてご理解頂きたい。
Posted at 2013/01/30 03:22:58 | |
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歴史もの | 日記
2013年01月26日
さて、予告通りに続きに取り掛かろう。
ベストモータリングにハマった1人の少年がFRマニアとしてデビューする、その前年に国産スポーツカーにとって大変な壁が立ちはだかった。
「平成14年排気ガス規制」
これによって当時の280psターボであったGT-R、RX-7、スープラだけでなくシルビアまでも消えてしまった。局長がプリウスの件でベスモ1998年2月号について触れていたが、その当時280psが全盛期の時期であり一種の幼少期の思い出になっていたのもあって2002年のこの悲報にはただうなだれる他はなかった。
当時はインターネットという手段が家になかったこともあり、雑誌が情報源として相当な役割を占めていた。GT-Rの場合V6のFMパッケージの手段を使えばよかったのではと当時散々うじうじしたのも今となっては懐かしい。
280ps軍団が好きだっただけに何回過去のベスモに目を通したことだろう・・・。
そのような国産車の斜陽とは反対に、海外勢のスーパースポーツ軍団は活気を帯び始めていた。フェラーリF40の時代は500psなどごく一部だけであったが、ランボルギーニの進化でパワーウォーズに拍車がかかった。ガヤルドに至っては500ps以上である。エンツォ・フェラーリやカレラGT、SLRマクラーレンなどCFRPが使われたのもこの頃からであった。
日本以外に目を向けると実にスポーツカーに活気がついているのではないか!!
その背景もあり、GENROQを愛読し始めたのもこの頃からであると記憶している。
翌年、我が家にインターネット回線がつながりベスモのホームページにもよくいったものだ。FRマニアのデビュー書き込みは何のことかはっきり覚えていないが、在りし日のベスモのホームページのBBSであったのははっきり覚えている。
この頃であっただろうか。ベスモ2003年11月号で富士スピードウェイでリニューアル前のバトルをする企画があったが、その影響のせいか30°バンク事故の事柄がベスモのBBSが取り上げられていた。バトルでの「ガンさんブロック」がこの年が1番強烈であったこともあり、ガンさんをベスモから疎外させろという声が大きくなっていた。私自身この時に初めて事故のことを知った。
だからといってガンさんに対する思いを改めることなどなかった。
今だから言えるが、私はガンさんのことを当時はあまり好意的に見ていなかった。もちろん今では憧憬のまなざしを送っているが、そのきっかけは後で触れよう。
好意的に見ていなかったといっても、ガンさんの人格を否定していた訳ではない。実にくだらない理由である(笑)。
当時NSXのスタイリングが好みではなかった(今では好きだが)のに加えてNSXは非常にピーキーな一面があった。それもあり4WDターボが好きであったが、ガンさんの駆るNSX(特にNSX-R)はそれらを蹴散らしていた。ガンさんがあまりにも速すぎたので、いわゆるガンさんに対する妬み・嫉妬の感情があったのが原因である。
ガンさんにNSX、今では最強の組み合わせとしてうきうきするが当時は「またこの組み合わせかよ、勘弁してよ」と何回嘆いたことだろう(笑)。
これはカルソニックカラーのマシンを駆る星野さんにも該当するパターンである。
星野さんも今では魅力的な方として好きだが。
要は「不正は関係なしに速すぎるから・・・」という嫉妬心である。裏を返せばそれだけ素晴らしい方であるのだが、子供の私にはそんなこと考える余裕がなかった。
人間、日々成長であるなと今振り返ると恥ずかしながら思う。
その後も2003年のカー・オブ・ザ・イヤーでレガシィが選ばれた際にも「ガンさんがスバルからお金をもらったからレガシィに票を入れた」という批判の声が相次ぐなど、ガンさんが一部のネット住人から攻撃の的にされていた。しかし、当時の私にとって彼らの意見を聞く余裕などなかった。ベスモがすでに崩壊し始めていたからそれどころではなかった。
その結果が中谷さんのベスモの去就である。ショックの一言であった。
何よりも当時中谷さん著書の911についての本を愛読するほどのファンであったからたまったもんじゃない。
さらに当時ランエボ8MRやポルシェ911(997型)など中谷さんにテストしてもらいたかった車が目白押しであったので尚更である。
何回もベスモのホームページを通して中谷さんの復帰を願うメールを送信した。が、結局願いは叶うことなくベスモも休刊してしまった。
といっても諦めの悪い私は当時から健在しており、中谷さんの在りし日のホームページのBBSに911(997型)の感想を失礼ながら求めたこともあった。
ありがたいことに中谷さんご本人から、丁寧に中谷さんらしいお返事を頂いたのは今でも鮮烈に覚えている。その後、そのやりとりを私が知らぬ間に2chで取り上げられ散々私がバカ扱いされたのも今では懐かしい(苦笑)。
琢弥さんの降板も重く響き結局ベスモは2006年1月号をもって、休刊の知らせを聞くまで購読を取り止めた。
この頃から再び小学校時代でリタイアしていた水泳を始めようと動き始める。そして高校で水泳に打ち込み始めるが、そこでガンさんに対する思いが変わり始めていた長くなったので詳しくは次回にしたいが、簡単に申しておこう。
水泳、特に競泳の場合「少しでも無駄なく前に進むこと」が重要であるが、実はドライビングにも通じるのではないだろうか。
ガンさん、そういえばベスモでよく似たような言葉を口にされていたな・・・。
次回に続く・・・。
Posted at 2013/01/26 02:53:58 | |
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歴史もの | 日記
2013年01月19日
本来なら続きを書くべきであろうが、なにせ原案をあまり思いついていない。
ここでは、短いが局長への前回のコメントの返信を兼ねて私の家にベストモータリングが来た経緯を語りたい。昨日の晩にほろ酔い(!?)の際に尋ねた。
元々父は車好きであり車雑誌を頻繁ではないが目を通していたらしい。
よく考えれば車雑誌がちょこちょこあるなとは思うが、何しろ車好きよりも小説好きの一面が私には強く印象に残っている。特に五木寛之氏の著書は書斎に整然と並んでおり、サインをずっと子供のように待っている程である。
父がベスモ1991年4月号を初ベスモとして購入したきっかけは、かなり単純である。
ずばり、「スカイライン」が出ているから。どうやらR32が好きだったらしい。
あと、偶々行きつけの本屋に行ったらあったから。
車歴を聞いてもハイエースに乗り換える前までずっと日産車である。ベスモで日産度がこれ程濃い号もそうそうない、ということで購入したと当時を振り返っている。
おそらくベスモの購入のきっかけが「好きな車・気になる車が特集されているから」という方は多いのではないだろうか。特にスカイラインやロータリーファン、VTECマニアの方は更に多いのではないかと勝手に妄想している(笑)。
しかし、夫婦は似たもの同士と聞くが「毎号買う」という行為がないのはこの夫婦に該当していた。父は随分気まぐれに本屋に行き、「なんか面白そう」と思えば買う。私は勤勉な父に対して呪う程の忌々しさは抱いたことはないが、その時期が実はベスモ黄金期なのでブックオフでベスモを探す時には「毎号買っとけよ!!」と何回思ったことやら・・・。
ベスモ以外にもCARトップなどを購入していた父であったが、私たち兄弟がベスモを自然と強請っていたようだ。兄は直ぐに別の趣味に走ったようだが私はベスモにどっぷりである。父はどっぷりの私のためにベスモを購入していたようで、どうやらベスモに対するハマり方は直ぐに父を追い越したようである。
男3人がどっぷりベスモにハマったのがきっかけか、ついにはドリドリ土屋さんのイベントに足を運ぶことになる。
1994年に高知・大豊町に土屋さんがトークショーでご来高された際に家族で足を運んだらしく、S13シルビアを背にした幼き私が笑顔で映っている。車に決して詳しくない母でさえ、「MR2が壊れた」と当時の写真を見る度に懐かしむ程である。
昨年のスーパーGTオートポリス戦で土屋さんにお会いしたが、実は土屋さんを生でお見かけするのは人生2回目だったことになる。
私も記憶が曖昧であるほど物心がついた頃には車好きであるが、やはり幼少期にどんなものを見て幼生を過ごしたかが今に繋がっているようである。そういう観点から考慮すると、スーパーGTのキッズウォークは非常に有意義だと思われる。
加えて、車いじりをしない父の子にとって「筑波バトルの中毒性」はなかなか効果があったようで、車以外の乗り物ではなかなか見られない車の持つ「中毒性」にすっかりやられたようである。
その「中毒性」を見事に引き出していらした局長の存在を、大変失礼かつ残念ながら父はご存じではなかったようである(大汗)。もちろん私が局長の功績を、ネットに疎い父に随分長い時間話したのは言うまでもない。「この無礼者!」と叫ぶ方が多数いらっしゃるであろうが、この言葉を座右の銘にしていらっしゃるようであれば納得もするのだろうか。
「編集者は黒子に徹するべき」(訂正をしました)
局長の座右の銘に、どうやら父は自然と導かれたのかもしれない。でなければベスモに夢中の私が誕生することもなかったのだろう。
次回は前回の予告通りに文を綴りたい。
Posted at 2013/01/19 03:07:11 | |
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歴史もの | 日記
2013年01月12日
「FRマニア」誕生10周年を記念して始まるこの企画。
予告通り、我が歴史を振り返りたいと思う。
私はあまりプロフィール欄を充実させていない。単に書くのが面倒だったというのもあるが、そこまで生い立ち等を見せたくないのも一因である。プライバシーを考慮しながら書きたいので、プロフィール代わりと思って頂ければ幸いである。
私が生まれたのは四国は高知、県中部と東部の境目で18年もの間過ごした。
生まれた年にNSXやGTOが発売されたので、来年年男になる。となると、人生のどこかで遠回りしているのがバレてしまうな(笑)。
しかし遠回りしなければ局長にお会いすることなかったのであるから、人生たるものわからない。予定では来年度に大学を卒業するので、車関係の就職に大変焦っている。
それ以前に卒研に着手できるか否かに集中しているのだが、果たして・・・。
私が物心ついた頃には既に家にはベスモがあり、テープが擦り切れる程見ていたという。ベスモ以外で観ていたのは「きかんしゃトーマス」ぐらいであり、アニメや漫画はほとんど観なかった。アニメ好きの多い同世代には珍しいタイプだと自負している。もしベスモが家になかったら今頃電車か建築マニアになっていたのかもしれない。
ちなみに記憶に残っている自分で新品のベスモVHSのパッケージを開けて再生したのは1995年12月号、書店で親にねだって買ってもらったベスモは1996年7月号である。
後にベスモ以外の車ビデオを売り払ってはブックオフで過去のベスモを買う日々が始まるまで、実は1991~1995年頃のベスモはほとんど無かった。その影響かそのわずかのベスモを繰り返して観ており、繰り返しても飽きないレベルであったのが実直な感想である。1993年2月号に至ってはひどいノイズがあるレベルである(笑)。
さて、今でこそ後輪駆動好きであるが昔は4WDターボ大好き人間であった。元々R32GT-R好きであり、ランエボやインプレッサがだんだん速くなってきたことも重なって後輪駆動のNAには興味を示さなかった。
「ゼロヨンと筑波が速ければいい!!」という今とはかけ離れた、バランス無視の思考であった。今はグリップ派と自称しているが、その頃はドリフト至上主義であったのも付加しておきたい。
ドラテクの重要性にもその頃気づいておらず、ガンさんの偉大さも分からぬ男であった。あるゲームに出会うまでは・・・。
今も昔も中谷さんに憧れを抱いていること以外は随分考え方が違うその頃の私は、かなりの病弱であった。親が見かねてスイミングスクールに私を送り出したのは、確か1999年5月5日であった。こどもの日であったのは確かである。
この水泳が後にドライビングについて考えさせられているとはつい知らず、3年間スイミングスクールにいそしむ。この頃にゲームと出会うが、専らやるのはレースゲームであった。
しばらくしてすっかりゲームにはまった私がついにあるゲームを手にする。
「グランツーリスモ2」
とにかく、初代グランツースモのCMを見てからずっと欲しかったゲーム。当時としては衝撃的なグラフィックとリアリティな動き。このゲームを始めた当初は友人からほぼクリアに近いデータをもらったこともあり、まだ4WDターボ主義であった。あるトラブルに遭うまでは・・・
ある日普通にプレステでこのゲームを起動すると、GTモードのガレージにあった車が見事にない!!!どういうことだ!!!
なんとせっかく頂いたデータが見事に無くなっていた。思い当たる節もなく途方に暮れるが、いくら途方に暮れたところでデータは戻ってこない。ああ・・・。
気を新たに持ちライセンスを最初から取ることにした。後にスーパーライセンスまで取得するが、その過程である事に出くわす。
あくまでもゲーム内であるが、コーナリング特訓でS2000を使用することになった。いざ使ってみると・・・あれ、楽しい・・・。しかもドリフトではなくグリップの領域でアクセルで向きを思い通りに変えられる・・・。FRっていいな!!S2000楽しい!!
ゲームですっかりFRにはまった私は後輪駆動にすっかりはまってしまう。よくよく考えると私が86にあまりハマらなかった一因にS2000の存在があったのだろう。86に拘らなくてもシルビアやロードスターの存在がある、という考えも影響しているのかもしれない。とにかくFRにゾッコンの日々が始まった。
この頃からベスモに出ているFR車をくまなく見返し、ポルシェ928に理想のFR像を重ねるくらいの928好きになった。今でも928の復活を強く望んでいる。
しかし、これらのことだけでは今の価値観が当然形成できない。なぜガンさんの言葉を重んじるようになったのか、なぜダウンサイジング特集でNAを取り上げるほど後輪駆動のNAに興味を持つようになったのか。これらはまた次回にしよう。
Posted at 2013/01/12 02:48:06 | |
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