
弊ブログを御覧の皆様、御久し振りで御座いますm(_ _)m
夏バテから漸く復活しつつある所です。
今日は大切な日なので、束の間のブログ復活です。
今日のエボゴンはオイル交換の予定です。
来週は御盆に合わせて帰省しようと思っていますが、うちの会社は変則的な連休(帰省するには短い日程)になってまして、残念乍らゆっくり出来ません。
会社が御盆を形式的な習慣でしか思ってない事の表れでしょうね。
歯痒い思いでいっぱいです。「祖先をもっと大切にしろ!」
さて、毎日新聞の一面を見ると、オリンピック一色で、片隅に高校野球の今日の対戦とコラムがちょこっと。
と言っても、コラムもオリンピックの事しか書いてないんですけどね。
テレビは視聴率合戦、オリンピックはメダル合戦ですか?
作家の倉本聰氏も「ドラマも質が落ちた。テレビのせいだ。」と嘆いていました。
何か大切な事を置き去りにしていませんか?
国を代表するアスリートの皆さんには、「ジャンクスポーツに出る様な暇があったら、一生懸命に練習しろ!」と言いたいです。
国の代表に選ばれて、一生懸命に勝負して、それでもメダルに届かなかったら、それも実力でしょう?
健闘を称える心はどこへ行ってしまったのでしょう?
世界レベルで見て精神的に劣ってますね。
ちょっと、毎日新聞さんもっと大切な事忘れていませんか?
浮かれるのも程々にして欲しいものです。
今日は「長崎に原爆が投下された日」ですよ。
この出来事は新聞の一面にも値しないのでしょうか?
一面に置いたのは「広島原爆の日」だけですか?
戦争風化への綻びが全国紙に迄及んで来るとは、将来に不安を感じます。
ブログという事で勝手にウダウダと書いています。
「長崎原爆の日」を前に、とてもオリンピックを観て盛り上がろうという気にはなれません。
あの日、熱線に身体を焼かれ命を奪われた人達の魂は、永遠に長い一瞬を背負って今も彷徨っているのでしょうね。
得体の知れないものに命を奪われて成仏なんて出来ませんよね。
だけど、合掌する事位しか私には出来ません。
犯した過ちの大きさをもっと心に刻むべきでしょう。
戦争の勝ち負け以上に、戦争を始めた大きな負の遺産を残している事を世界がもっと知るべきでしょう。
日本語を間違えないで下さい。
戦争は自然に起こるものではありません。人間が始めるものなのです。
だから、戦争をやってはいけません。
昨日の事、病院に付き添いで連れて行ったフィリピン人から長崎の原爆の事を訊かれ、広島の原爆と合わせて診察の待合いの時間に戦争当時(犠牲者の数や投下された原爆の種類、その時の状況)から終戦とその後の現状を暫く説明しましたが、最後は暗い顔になってしまいました。
と言っても、彼の祖国を侵略していた国の人間なので立派な事は言えませんが。
それでも診察が終わると、彼に感謝されるとは因果な仕事です。
<以下は出典記事>--------------------------------------------------------
あの日、悪魔の原爆が家族奪った 長崎被爆者の誓い
長崎市の平和祈念式典で、被爆者を代表して「平和への誓い」を読み上げた森重子さん(72)=長崎市=は、原爆に家族の生活を壊された体験を語ることで平和の大切さを訴えた。
63年前の8月9日、「悪魔の原子爆弾は一瞬ですべてを焼き尽くし」、爆心地から約800メートルの中学校に通う兄を奪った。防空壕(ごう)にいた森さんは助かったが、兄を捜し回った母が翌年に病死。十数年前に姉、5年ほど前に妹を、原爆症とみられる病気で亡くした。「生き残っても後遺症で人を一生苦しめる凶器です」
「平和憲法と非核三原則を世界に広げることこそが戦争をなくし、核兵器の増大と拡散を止めるのに有効だ」と呼びかけた。「祈りや怒りで声が詰まったが、伝えたいことを強調できてほっとした」
森さんの「平和への誓い」の全文は以下の通り。
◇
あの日、私は9歳でした。当時、長崎市南部の南山手町に祖父母、両親、兄1人、5人の姉妹の大所帯で生活していました。
8月9日、朝からの空襲警報が解除になったので防空壕から出て空を見上げていると、友だちが防空壕に忘れ物をしたと言うので一緒に中に入りました。
その時です。突然強い風が吹いて持っていたロウソクの灯が消え、暗闇の中に火の塊のようなものが飛んできました。やがて近所の人たちが次々に駆け込んできて、皆口々に「大変な爆弾が落ちた」と叫んでいました。
私を捜しに来てくれた母はガラスの破片で背中に傷を負っていました。末の妹にお乳を飲ませていたとき、爆風で割れた窓ガラスが背中に刺さったのです。家族の無事を確認しましたが、浦上地区の中学校に登校した3歳年上の兄だけは夜になっても帰ってきません。その日の朝、兄はどういうわけか「頭が痛かけん、学校に行きたくなか」と渋ったのを、父が「なんか男が、頭の痛かくらいで学校ば休むな」としかったのです。
無理に送り出した父の悔やみようは大変なものでした。翌日から毎日毎日、父と母は浦上一帯を捜し、黒焦げの死体や、「水が欲しい」と足をつかむ瀕死の人たちの顔を一人ひとり見て回ったと聞きました。結局、兄を見つけることはできず、中学校で焼いたたくさんの死体から骨を一本だけもらい葬式を済ませました。私は今でも、兄がひょっこり元気な姿で帰ってくるのではないかと思っています。
両親は、ものすごい放射線を浴びていたのです。母は翌年の10月に亡くなりました。33歳、妊娠5か月でした。父もその4か月後に亡くなりました。残された私たち姉妹は別々の親戚に引き取られ、ばらばらの生活を強いられました。その後、姉と妹の二人は原爆症とおぼしき病気で亡くなりました。
悪魔の原子爆弾は一瞬ですべてを焼き尽くし、何十万人もの尊い命を奪い、生き残っても後遺症で人を一生苦しめる凶器です。核兵器の廃絶と平和を求める世界の人々の願いとは裏腹に、今なおアメリカなど大国のエゴで大量に保有され、拡散されつつあります。東西の冷戦が終わっても、民族や宗教の違いや貧富の差からくる戦争は現在も世界中で絶え間なく続き、多くの人々が苦しんでいます。
しかし、わが国は戦後63年間一度も戦争をすることなく、一人の日本人も戦争で殺されたり、他国の人を殺したりしていません。これは、多くの人々の犠牲の上に定められた平和憲法のおかげです。私は、この平和憲法と非核三原則を日本のみならず世界中に広げていくことこそが、戦争をなくし、核兵器の増大と拡散をとめる有効な手段であると考えます。
地球上のすべての人々が、いつまでも平和で豊かに暮らしていくことを願ってやみません。
2008年8月9日
被爆者代表 森重子
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デコトラに踊る「NO MORE HIROSHIMA」
ボディーに原爆ドームを描き、「NO MORE HIROSHIMA」の赤い字が躍るトラックが西日本各地を走り回っている。
広島市の運送会社長前村弘行さん(62)が結婚後、妻(61)の両親が広島で被爆したと知り供養のために始めた。23歳で最初に買った1台に描き始め、今年で40年目を迎える。今では所有車34台のうち14台が鮮やかな装飾で核廃絶を訴える。原爆詩人、峠三吉の詩を書き込んだ車もある。
注目度は抜群で、追い越しざまに手を振られたり、運転手が握手を求められたりすることも多い。前村さんは「走ることで、戦争はいけんちゅうことをわかってほしい」と話す。(石田貴子)
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私も中国道・山陽道で何度となく写真のトラックを見掛けています。
こう言う事が出来る会社は素晴らしいと思います。