この花の一節のうちに百種の
言ぞ隠れるおほろかにすな
この花の一節のうちは百種の
言持ちかねて折らえけらずや
万葉集から、桜の歌二つ。
先の歌は、藤原広嗣が娘子に桜の枝と一緒に贈った歌。後のは、その返歌。
「この花の一ひら一ひらのうちに、いくつもの私の言葉がこめられているのだよ。
だから、安易な気持ちでこの花を見ないでほしい。」
「この花の枝は、あなたのたくさんの言葉を持ちきれなかったので、
こうして折れてしまったのですね。」
今でこそ、桜と言えば、華やかなこと、栄えること、楽しいことを意味するようになって
桜のお花見など、盛んに行われるようになりました。(今年は自粛気味ですが)
でも昔は、もろさや、いつわりや、上辺だけのことと言う意味があり、
もろく散りやすく、頼りなく散っていくものでした。
春と夏の交替期に行われた鎮花祭には、もっとも切実な気持ちで、花のやすらうことを祈りました。
やすらうとは、躊躇するということで、そのままずっとそこに咲いてておくれ、という意味ですが
後に休息という意味に転じました。
そして、休息は、その後、人の疫病や、その他、生活上のあらうる災いを鎮めることに、そして、
災いを被った人への鎮魂、といった考えが拡がっていきました。
京都の「やすらい祭り」は、花の神によって疫病神を封じ込めるといったお祭りですよね。
上記の歌は、愛しい女性へ、どうか私の想いを察してほしいと贈った歌ですが、
桜の花には、愛だけに限らず、いろんな言葉、いろんな想い、願い、祈り、
そういったものがその一ひら一ひらに重ねあっている・・・・・
そう感じてやみません。
「花よ、やすらへ」
東北の地にも、早く桜の花が咲くといいですね。
桜の花一ひら一ひらに、みんなの祈りをこめて・・・・・・・
Posted at 2011/04/07 03:01:21 | |
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