
今回は少し詩的に綴ってみました。
基本的に僕の偏見かもですが、ご了承願います(^.^;
僕は、漢な車が好きだ。
乗り手が体力や気力など、ある種のエネルギーを消費しないと動かせないような車が好きだ。
(漢な車たちは”気合いが入っている”と思う。だから、乗り手にもそれなりの”気合い”が必要だ。)
昨今の多くの車のように、乗り手に迎合するのではなく、むしろ乗り手に負担を強いる、ある種乗り手を選ぶ車達が好きである。
運動性能のために様々な工夫を凝らし、作り手の情熱の感じられる車達が好きである。
漢な車は乗り手を選ぶ。
漢な車は乗り手に優しくない。
それは、乗り手に様々な種類の負担を強いるからだ。
だから、
漢な車に乗り続けていられる人っていうのは、適性のある選ばれた人だけだ。
漢な車は普通に運転するだけでも”気合い”がいる。
例えば、ある漢な車はステアリングが重い。
「片手でなんて回すなよ!」っと車の方から言われているかのように重い。
これはステアリング回すだけでも気合い入れて気をつけて回せよ!っていうメッセージだ。
クラッチが重い車もそう。
漢な車は問いかけてくる。
「そんなに速度出していいのか?
責任持てるのか?」っと。
むしろ、乗り込む段階から気合いのいる車も多い。
漢な車は問いかけてくる。
「本当に”オレ”(または”私”)を使う必要あるのか?」
「体調は万全か?」っと。
漢な車は乗り手を信用する。
自分が壊れてしまおうと、乗り手の操作に素直に反応する。
だからこそ、漢な車は乗り手に正しい知識、技術を要求する。
漢な車たちは慎重だ、そして、とても注意深い。
路面のわだち、雨の日、雪の日の路面の滑りやすさ、自分のコンディションを時にはラジオも聞こえないくらいの音や振動でうるさいくらいに伝えてくる。
機械は本来儚い存在だ。
必要がなければ、捨てられる。
人に使われる機会のない機械は失われてしまうのが常だ。
にも関わらず、漢な車たちは多くの人に愛されるようには出来ていない。
しかし、彼らは時に人よりも長生きするくらい人から愛される。
パーツなんてなくなってしまっても、その車よりも性能の高い車が周りに増えてきても、時に漢な車たちは変わらず、むしろ更に愛される。
なぜなら、漢な車たちは、作り手の情熱、その当時の夢を受け継いでいるからだ。
いつまでも、漢な車と付き合っていきたい。
名だたる漢な車があるなか、86乗りが失礼しました^^;
Posted at 2014/09/30 23:18:23 | |
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