
REOは右でも左でも無く、天皇制廃止論者でも無い。
ある場所を訪れ日本人の方には知っていただきたい場所、訪れて頂きたい場所と感じたのでブログって見ます。(重い内容も含まれます苦手な方はスルーして下さい)
その場所とは愛知県額田郡幸田町、西尾市、蒲郡市の境界にある「三ヶ根山」
安倍首相が集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案について記者会見し関連法案が15日に国会に提出されようとしている14日に偶然、三ヶ根山にある「殉国七士廟」や「戦没者慰霊碑」をお参りしてきました。
大東亜戦争で所謂A級戦犯を始めBC戦犯約1000名が、勝者による復讐のための裁判と言われる不当な裁判により見せしめ処刑されました。その方々の慰霊碑や戦争でお亡くなりになられた130にも及ぶ部隊の方々の慰霊碑も三ヶ根山にはあります。(フィリピン島戦線だけで約52万人の戦死)
このような悲惨な戦争など2度と起こさない為、安全保障関連法案について三ヶ根山について日本人は考えないといけないと強く感じた日となりました。
(A級戦犯、B級戦犯、C級戦犯と言う言い方に所謂を付けたのは、戦犯ではないからです。日本の主権回復後は公務死とされています。日本には当然のことながら戦犯は存在しません。)
「殉国七士廟」(廟敷地内写真は全てHPより引用)
「殉国七士廟」に祀られているのは、先の東京裁判で、A級戦犯として処刑された、板垣征四郎氏・木村兵太郎氏・東条英機氏・土肥原賢二氏・広田弘毅氏・松井石根氏・武藤章氏の7名の方々です。
東京裁判は、大東亜戦争の戦争責任追及裁判として、アメリカ・中国・イギリス・ソ連・オーストラリア・カナダ・フランス・ニュージーランド・インド・フィリピンの11カ国が判事を出して行なわれた裁判でした。
起訴は昭和21(1946)年4月29日。
4月29日は、昭和天皇の誕生日。
判決は、法治社会にあってはならない事後法(事件のあとで作られた法、法律には不遡及の原則があり、法のできる前の事件は裁けないのが原則)に基づく一方的なものでした。
そして、次の7氏が、A級戦犯として絞首刑の判決を受けました。
(前述とダブります)
板垣征四郎氏(陸軍大将、関東軍参謀長)
木村兵太郎氏(陸軍大将、ビルマ方面軍司令官)
東条英機氏(陸軍大将、内閣総理大臣)
土肥原賢二氏(陸軍大将、特務機関)
広田弘毅氏(文民、内閣総理大臣)
松井石根氏(陸軍大将、中支那方面軍司令官)
武藤章氏(陸軍中将、第一四方面軍参謀長)
(名前五十音順)
死刑の執行は、判決の翌月である昭和23(1948)年12月23日。
この日は、当時皇太子であった今の天皇の誕生日。
7氏は絞首刑後、即日荼毘に付されています。
7氏の各担当弁護士達は、ご遺体を家族に引き渡そうと、マッカーサー司令部に請願しましたが、しかしGHQは、一切受け付けませんでした。それどころか遺骨も家族に戻す事も許しませんでした。
それは日本人が7名を英雄崇拝の対象にするのを恐れて、一切の痕跡を抹消する為だったのでしょう。
そこで7氏の遺骨を奪う計画が立てられました。中心になったのは小磯国昭氏の弁護人だった三文字正平氏。三文字弁護士は、巣鴨プリズンにおいて処刑された7氏が、久保山で火葬されることを探りあてた。
火葬場の周囲は銃で武装した米兵に囲まれ場内に入れた日本人は飛田場長と3人の職員のみでした。彼らは米兵監視の目をかすめ、七氏の遺骨を七つの骨壺に納めることに成功しますが、隠した場所に香を焚いたため発見され、没収されてしまいます。
米兵は7氏の遺骨を鉄棒で粉砕し箱に詰めて運び去り、残った分は全部ひとまとめにして骨捨場に遺棄してしまいました。
その報告を聞いた三文字氏はあきらめず、米兵がクリスマスで浮かれる25〜6日の深夜、興禅寺の市川住職と共に飛田場長に伴われ火葬場に忍び込み決死の思いで、底に見える遺骨を苦心の末に拾い上げました。
火葬場から盗み取ってきた遺骨のことが世間に漏れては米軍の咎めを受けることになる。そこで戦死した三文字弁護士の甥の名前を骨壷に書きこれを興禅寺に預けて供養することになったのが、A級戦犯として処刑された七氏の秘められた供養でした。
サンフランシスコ平和条約調印。
日弁連は戦犯保釈特別委員会を立ち上げ、全戦犯の赦免勧告に関する意見書を政府に伝えました。それを機に戦犯釈放運動は全国に広がります。また、その後の数度に亘る国会決議により、「戦犯」とされた方々の汚名は一掃されました。
政府、国会は関係各国に釈放を働きかけ、昭和31年にA級の最後の一人が、33年にはBC級全員の出所が実現したのです。
主権回復後の日本では、戦犯として処刑された方や拘禁中に獄死した方はすべて「公務死」または「法務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われています。
つまり、日本には「戦犯」なるものは存在しないのです。
戦犯の赦免を受け、昭和33年4月28日に開かれた戦犯保釈特別委員会解散記念会で、三ケ根山を建立地に選び幡豆町当局との話し合いも纏まり、7氏の墓碑建設が正式に発表されました。
35年6月28日、東京駅から三文字氏や市川住職らに守られて7氏の遺骨が、三ヶ根山に到着、山頂の観音堂庫裏に安置され夜を徹して念仏供養され、そして翌日、納骨式がとり行われました。
8月16日にご遺族や関係者、さらに一般参加者数百名が参列し、最初の「殉国七士廟」墓前祭が行われました。
その後、殉国七士廟の周辺に、大東亜戦争での戦没者を祀る各部隊の慰霊碑が並ぶようになりま
した。
「昭和天皇三ヶ根山泊の意味。天皇の墓参」
昭和54年5月26日、昭和天皇・皇后両陛下は翌日に愛知県豊田市藤岡町(旧西加茂郡藤岡町)で開催される第30回全国植樹祭にご出席されるため、三ヶ根山の高台に建つグリーンホテル三ヶ根にご宿泊されました。しかし、植樹祭が行われる式典会場は豊田市、ホテルが有る西尾市と藤岡町は隣接しても居らず間に豊田市、岡崎市、幸田町を挟む非常に遠い不便な場所。宿泊施設はこのホテルに御宿泊されたのは陛下の強い御内意によるそうです。
ホテルは高台にあり、東京裁判で処刑された七人の「殉国七士廟」や「戦没者慰霊碑」が一望できます。植樹祭の27日当日、早朝六時頃に侍従職が、陛下をご案内しようと部屋に入ったところ、両陛下はこの殉国七士墓の墓碑と戦没者慰霊碑にお向かいになられて17~18分近く不動のままに佇立されていたといいます。
その翌年の11月8日にも美智子妃殿下と礼宮がグリーンホテル三ヶ根にご宿泊されて同じことをなさったのでしょう。さらに今上天皇も12月23日の命日に、この殉国七士墓に毎年お使者を寄せるのを欠かさないそうです。
三ヶ根山が大東亜戦争の慰霊の場で有る事が、あまり知られていないのは非常に残念ですが、昨今の政治問題化される様ならば、静かにひっそりあった方が良いのかもしれない。でも日本人には安全保障関連法案を考える場としても訪れて頂きたい。二度とあの忌々しい戦争を繰り返さない為にも。
万が一、戦争が繰り返されるようなことが有れば、その第一歩「安全保障関連法案」をゴリ押ししている安○晋○総理は戦犯と呼ばれるであろう。
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2015/05/15 13:59:33