REOが小学校の担任からエルトゥールル号遭難事故に対する紀伊大島の
人々の献身的な救助や日本全国から集まった義捐金にトルコの人々が恩に感じ
小学校の教科書で取り上げトルコ中が「世界一の親日国」だと聞き
トルコという国に興味を持った。
青少年期のバイブル番組「11PM」で山本晋也監督が「世界一の親日国」の
トルコ人々がトルコ風呂との名称に苦悩している「トルコ風呂」に代わる名称を
協会が公募していると何度も取り上げその後「ソープ○ンド」へ名称変更された。
純真無垢なREO少年は「トルコ風呂」が如何わしい風呂等とは露知らず
ここでも「世界一の親日国」が記憶の片隅に擦り込まれたが、
風呂通いする事も無く記憶も薄れながら時が経過した。
マスコミは大きく取り上げなかった2つの大きな出来事、
イラン・イラク戦争時、日本政府がお手上げ状態だった日本人216名を救った。
トルコ航空機が飛んだのは「エルトゥールル号遭難事故」の
御礼をしたまでとのコメントを聞き
東日本大震災でのトルコ救援隊の被曝の不安な中での献身的な活躍を知り
今日の日本とトルコとの国を超えた関係の礎を築いて頂いた紀伊大島、
南紀の方々の優しさに是非触れたい
又、遠い異国の地でお亡くなりになった方々の慰霊をと同地を訪れた。
長文になります。
You tubeへup頂いている方がいらっしゃいますのでご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=CGK6RS5RZW4
エルトゥールル号遭難事件とは1890年9月16日夜半、オスマン帝国
(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が現在の和歌山県串本町沖にある、
紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し587名の犠牲者を出した事故を言う。
この事件は、日本とトルコの友好関係の始まりと考えられている。
9月16日22時ごろに、折からの台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野崎に
連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールル号は、機関部に浸水して
水蒸気爆発を起こし沈没した。これにより、司令官オスマン・パシャを
はじめとする587名が死亡または行方不明になる大惨事となった。
事故現場の串本・紀伊大島の人々は、遭難者の救助に全力であたり、
危険を冒しながら69名を救出した。当初トルコ人を収容した樫野地区は
60戸ほどの小さな集落で、しかも裕福な暮らしではなく、トルコ人の介抱は
決して容易なことではなかった。しかし、なけなしの食料や衣類を惜しげもなく
提供し、普段は正月にしか食べない白米を炊き出して食べさせ、さらに
非常用の鶏もつぶして振る舞った。
神戸港に停泊中だったドイツ砲艦「ウォルフ」が大島に急行し、69名の生存者は
神戸に搬送、病院に収容されたので大島での介抱は一週間ほどであったが、
587名の乗員は死亡または行方不明となった。250名近い引き揚げられたご遺体は、
遭難現場である船甲羅岩礁を真下に見下ろす樫野埼の丘に大島の人々の
手によってお一人お一人丁寧に棺桶に入れ埋葬された。
又、打ち上げられた遺留品も島の人々によって丁寧に集められ
オスマン帝国へ返された。
エルトゥールル号遭難事故は非常に不幸な出来事であったが、
この時新聞を通じて大島村民による救助活動や、大日本帝国政府の
尽力が伝えられた当時オスマン帝国の人々は、遠い異国である
日本と日本人に対して、好印象を抱いた。
串本・紀伊大島の人々の献身的な親切や日本中から集まった義捐金に
対しトルコの人々が、その感動を忘れずに今尚子供達に伝え続けていてくれる事にも、
胸を打たれる。
それは、トルコの方々の恩義を重んじる気質に由来するものであろう。
日本人に相通じるものを感じたのは私だけでは無い筈。
トルコから「エルトゥールル号遭難事故」の御礼
■日本人216名を救ったトルコ航空機
イラン・イラク戦争時の1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが
「今から48時間以降に、イランの上空を飛ぶ飛行機は民間機であろうと
無差別に撃墜する」と宣言した。イラン在中の日本人も、
慌ててテヘラン空港に向かった。
世界各国は自国民の救出をするために救援機を出した。
しかし日本は自衛隊の海外派遣不可の原則のために自衛隊機を飛ばせず、
日本航空は労組の反対もあって「航行安全の保証がない限り臨時便は出せない」と
救援機を飛ばす事を拒否。
日本政府は素早い対応が出来ず空港にいた日本人はパニックに陥った。
現地邦人の誰もが絶望の淵に沈んだ時、手を差し伸べてくれたのがトルコだった。
危険を押してトルコ航空の飛行機が到着した。
トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。
タイムリミットの、1時間15分前であった。
当時、テヘランには600名を超えるトルコ人がいたにもかかわらず、
日本人を優先して助けてくれた。(トルコ人の多くは最も危険な陸路で避難した) なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。
駐イラン・トルコ大使のイスメット・ビルセル氏が、駐イラン日本大使の野村豊氏の
懇願を受け、本国に救援機派遣を要請してくれたこと。イスタンブールに駐在していた
伊藤忠商事の森永堯氏が、知己であったトルコのオザル首相に直接、救援を依頼したことが、
直接のきっかけでは有るが、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏の次のような
話が根底にあるのは間違いないであろう。
「エルトゥールル号の事故に際して、日本人が行ってくださった献身的な救助活動を、
今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の歴史教科書で学びました。
トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っていて日本人に感謝しています。
トルコ航空機が飛んだのはエルトゥールル号の御礼をしたまでです。」
■東日本大震災でのトルコ救援隊
平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災では、世界の20を
超す国々が救援隊を日本に派遣してくれた。
彼らは被災地に入り、行方不明者の捜索・救助や、がれきの
撤去作業、医療活動などに精力的に携わり、その活動にわが国は大いに助けられた。
しかし、福島第一原発の事故の深刻さが明らかになると、撤収を選択する国が続出した。
被曝する事を考えればそれは仕方のない事。
しかしそのような中、各国からの救援隊の中では最長で最後まで、宮城県石巻市、
多賀城市、七ヶ浜町など被災地の現場に踏み止まり、最前線で活動を続けてくれた国が
トルコでした。帰国された隊員からは、強い日本は必ず立ち直る、そしてトルコ国民は信じ、
祈りますとのメッセージを記されていた。
東日本大災害時は海外多くの国々の救援隊。最後まで残ってくれていたトルコ救援隊に
感謝するとともにご援助いただいた国々の発展を切に願います。
「エルトゥールル号遭難事故」への紀伊大島の人々の献身的な救助や日本全国から
集まった義捐金をトルコの人々は恩に感じてくれ小学校五年生の教科書で取り上げ
その教育を受けたトルコの人々が、「世界一の親日国」と思ってくれるのは
非常にありがたく胸が熱くなる。
「エルトゥールル号遭難事故」を日本側から前面に出す恩を着せる様な事は好まないが、
「日本人216名を救ったトルコ航空機」と「東日本大震災でのトルコ救援隊」の
恩は日本の子供たちへ教え伝えてきたい事である。
上記文は紀伊大島のトルコ記念館でお伺いした事、資料、WEB等を
当方が纏めたものでございます。
内容に不備、事実と異なる点がございましたらご連絡ください。
確認の上、変更させていただきます。
(トルコ航空機の救出人数は215名との資料もございますが、
こちらでは串本町hpより216名と致しました)