![避難所へ 避難所へ](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/blog/000/023/200/693/23200693/p1m.jpg?ct=52e4a2a5074e)
今日は、
先日のオフで90thさんから引き継いだ支援物資を持って、大船渡に行ってきました。
実は丸4ヶ月となった11日にも行ってきたのですが、その時は避難所には行けず終いだったので、改めて行ってきました。
大船渡に入ってまず目にしたのは、震災後初めて煙突から煙が出ていたことです。
ある意味大船渡のシンボル的存在の煙突から、また煙が出ているってだけで、何か嬉しくなりました。
一度実家に行き、その後地元の避難所の漁村センターに行ってきたのですが、あいにく近所の顔見知りの人は出払っていていませんでしたが、残っていた人達と話をすることができました。
最初に物資を届けに来た旨を話すと、感謝の言葉と深々と頭を下げられ、『この用紙に住所・氏名・連絡先を記入お願いします』と言われ丁重に断ったのですが、『全国から支援いただいた方々はもちろん、直接物資を運んでいただいた方々を絶対に忘れないようにするためですから』と言われてしまい、断りきれず記入してきました。
漁村センターの入口に目をやると、下の画像のように名簿が掲示してありました。
名簿には、のべ274名(団体)の名前と物資の内容や量がこと細かに記載されていて、これを見てなぜ記入する必要があるのか納得しました。
そればかりでなく、物資を届けてもらったお礼として、センター入口で避難されている方々と一緒に記念撮影をし、その方々ひとりひとりに写真とお礼状を送っているとのことでした。
『自分達にできることは、今はそのくらいしかありませんから』その言葉が非常に印象的でした。
それから色々な話をしていたら2時間以上も経っていました。もちろん面識がある人ではなかったのですが、やっぱり同郷の人と思うだけで色々と話ができますね。
以下話をしてきた内容を簡単にまとめると、
○津波当日
避難したと思ったらあっという間に波がきて、いたるところで爆発がすごかった。
『大船渡はもう終わりだ』と本当に思った。
○翌日~1ヶ月間
燃料が全くなく電気もないため凍える寒さの上、食べる物はもちろん飲料水がほとんどなかった。
支援物資も届き始めていたが、燃料不足で運ぶ手段もなかったので、背負える限りの物資を持ってかなりの距離を何度も歩いて運んだ。
『この時期が一番辛かった』
○2ヶ月~今現在
ある程度ちゃんと食事ができるようになり、ほとんどの人が瓦礫の撤去作業に従事している。
仮設住宅も少しずつ着手しはじめ、センターから離れる人も出始めた。
中には一度センターから出たものの、また戻ってくる人もいた。
震災前の大船渡市の人口は約4万人だったが、人口の流出が激しく4ヶ月が過ぎた現在では『すでに3万人を割っている』
○これから少し先のこと
漁村センターに残っている人は現在19人で、今着手している仮設住宅に全員移り住めることが決まっている。これから仮設住宅に移るにあたり、家具や生活用品はもちろん、食料の確保が課題になる。
全員が仮設住宅に移り次第、避難所の片付けを始める。近々地域の会合をし、今後どのようにしていくか相談する予定。
人口流出が激しいため、地域の解散の可能性もありうる。
○もっと将来のこと
セメント工場の再稼動は決定しているものの、水産業の復興のメドもたたず、企業誘致等で新たな産業を見出さない限り、更なる人口流出は避けられない。
定職につき収入も安定しなければ、仮設住宅の入居期限も2年では済まないかもしれない。
かなり簡略に書き出しましたが、このような内容の話をしてきました。
やはり将来への不安が毎日つきまといますが、『今はまず瓦礫の撤去を終わらせること』それだけだと言っていました。
『だから何もなくても時間があるなら来て見て。毎日少しずつでも風景は変わっているから。この風景を絶対に忘れちゃいけない。』
最後には、『まずは元の生活に近いくらいに戻ることが当面の目標。この街から出るつもりはないよ』
その言葉を聞いて、ものすごく嬉しくて涙が出そうになりました。
別れ際には、『がんばっている人にがんばってとは言えませんが、とにかく体だけは大切に』というと、『ありがとう』と笑顔で見送ってくれました。
やっぱり浜の人は優しく強くたくましいですね。
今後も足を運び、できる限りの支援は続けていきたいと改めて思いました。
長くなってしまったので、番外編に続きます。
最後に、
今回支援物資を集めていただいた90thさんはじめ、物資を送っていただいた皆様方に厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
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Posted at
2011/07/20 00:15:14