柴田神社と北ノ庄城址 2
投稿日 : 2015年07月29日
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6月の撮影。
柴田神社へ行って来ました。
柴田神社はJR福井駅のすぐ近くにあり『柴田勝家公及び お市の方が合祀されています。』
柴田公園内には半石半木と云われた「九十九橋」が縮小されたイメージで復元されています。
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青い色は笏谷石の特徴です。
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西向き画像。向こう側は木製です。
左に見える道路は通称 城の橋(じょうのはし)通り。
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上:西向き
下:東向き
そしてこの「城の橋通り」にはかつて、JR線を跨ぐ陸橋があったのです。
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古いCDにこんな画像が残っていました。
記録では、2003年10月10日となっています。
上:陸橋上(東向き)から北を。JRの高架化工事が進んでいます。
下:ほぼ同時刻・・・数km先には国道158号線の起点があります。
「城の橋陸橋」として長年 慣れ親しんで来ましたが、近い将来無くなる事を見越して撮ったもの と思われます。
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上:2004年10月12日・・・JR福井駅前を南下した辺り。
城の橋陸橋は豊島跨線橋が正式名称だったんですね。
下:2005年7月27日(ほぼ10年前だ!)・・・城の橋通りを東進していますが、既に陸橋はありません。日立の看板で位置関係がつかめると思います。
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上:この日の九十九橋。九十九橋と言えば、命日の4月24日に首なし勝家公とその家臣らが馬で行列すると言う伝説が有名ですが、明治か大正か昭和初期?か それ程遠くない昔に「見た」「蹄の音を聞いた」と言う話が身近です。もっとも見たものは死ぬそうですが(笑
下:九十九橋に程近い堤防にて。浜町付近・・・料亭街の名残。
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もう一つ、九十九橋にはこんな伝説が有ったのを思い出しました。
『九十九橋は、天正年間、戦国時代の勇将柴田勝家が築造したもので、北半分は木材、南半分は石材で造られていました。
この橋の築造について、母と子の悲しくも美しい物語が伝えられています。
勝家は、石場の石工頭の勘助に、石材四十八本の切り出しを命じ、もし期限までに納めないと死罪に処す、と申し渡しました。
勘助は部下を励まして四十七本は切り出しましたが、残りの1本がどうしたことか、寸法が少し短くて柱に適しません。期限は迫ってくるし、あらたに切り出すのでは間に合いません。
勘助は思いあまって死罪を待つばかりでした。勘助には年老いた母がいました。病気で寝ていたのですが、息子の悩み苦しんでいるようすを見て言いました。「私には、かねてから用意しておいた石棺があります。その中に、生きたまま私を入れてください。この石棺を台にして柱を建てれば、寸法の不足を補うことが出来ます。私が人柱となって橋をお守りしましょう。」
勘助は、息子を思う母の悲しい決心に泣きながら従いました。
この人柱は、水ぎわから西南二本目の柱だと伝えられています。
天谷 修三
参考文献『福井むかしばなし』
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