東京丸の内の変遷について
投稿日 : 2024年03月24日
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皆様いつもご覧頂きありがとうございます(○・v・)
前回、八重洲について語らさせて頂きましたので今回は「丸の内」を採り上げていきたいと思います!
★★★★★★★★★★★★★★(・∀・)/
時は明治43年(1910) 11月11日。
東京丸の内で女性の他殺体が見つかりました。被害者は「木下つや」という19歳の娘で、両腕が縛られ首に刺し傷がありました。犯人は結局わからず、この「お艶殺人」は迷宮入り事件として名前を残すことになりました( ノД`)
殺人現場は東京府庁にも警視庁にも近い場所でした。そんな場所でなぜ犯人がわからなかったのか、不思議に思えるかも知れません。
しかし当時の丸の内は、夜の7時ともなればほとんど人通りが途絶える閑散とした荒野でした。
そもそも現場は三菱本社の隣の「草原」で、まるで目撃者がいなかったのです。
信じられないことに、わずか100年前は丸の内には広大な荒野が広がっていたのですね(><)
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わが庵は松原つづき海近く富士の高嶺を軒端(のきば)にぞ見る」
これは江戸城を築城した太田道灌の歌です!
この歌の土地こそが丸の内であるとされています。松原が続いている美しい海。そして富士山…今の東京駅前にはそんな光景が広がっていたのですね(○・v・)!
徳川家康が1590年に江戸城を居城とする前は、丸の内
あたりは東京湾の一部で日比谷入江と呼ばれていました。
築城から2年後。
この入り江が埋め立てられて江戸城が拡張されました。そして新たに外堀が作られ、外堀であったものが内堀となった為に、御曲輪内(おくるわうち)と呼ばれるようになりました。
日比谷入江
https://minkara.carview.co.jp/userid/1845399/car/3513806/5214105/photo.aspx
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埋め立てられてからは大きな大名屋敷の町に生まれ変わりました\(^o^)/
大名の屋敷が24あまり建築され大名小路と呼ばれました。奉行所や評定所も置かれ、外堀には要所に橋が架けられて通行できるようになっていました。
現在の「赤坂見附」や「四谷見附」にその名残がある、見附と呼ばれる見張り付きの城門が設置されて厳しく監視されていました( ノД`)
丸の内は基本的に「武士の町」であり江戸の町人にとっては近寄りがたい明確に区分けされたエリアだったのです(・∀・)
★★★★★★★★★★★★★★★★★(・∀・)
余談ですが…
都内で「町」を「まち」と読む地名はじつは少ないです。主に武士の住むエリアでした。お暇な方は探してみてください(○・v・)!
それは次の機会に採り上げようと思っています\(^o^)/
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ところが幕府は皆様ご存知の通り、倒れます。
明治維新後のこの地は荒涼とした雰囲気に包まれました。
明治に入ると廃藩置県が行われ、大名たちはその地位を失います。幕府は当然ありませんから江戸の大名屋敷も不要になりました(><)
大名小路は主を失った屋敷であふれ、朽ち果て、行き倒れや、乞食同然の人がいる、すたれた町になってしまったのです( ノД`)
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明治政府はこうした大名小路に目を付けます。
宮城となった江戸城に近く大名屋敷が兵舎に転用できるため、ここに軍の施設を作ることにしました。
こうして丸の内は軍隊の町になっていきました(・∀・)
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明治初期の頃は反乱を抑えるなど、対内的な役割を持っていた軍隊ですが、やがてアジアに進出してきた欧米列強の振る舞いを目の当たりにして、対外的な意味合いを大きくしていきます。
軍備が拡張されるようになると丸の内の施設では手狭になっていきました。その為より広い土地がある大名の中屋敷へと移転することになりました。
大名はことごとく地元へ戻り、かつての大名屋敷を引き受ける人物はおらず、あたりは廃屋が広がる場所になってしまいました。
結局、大名屋敷は取り壊されて官有地となりました( ノД`)
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以下、三菱地所ホームページより引用
長文ですので嫌な方はスルーしてください…
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★(・∀・)
1880年代中盤に入り、欧米列強の東アジア進出が激化する中、危機感と焦りを抱いた明治政府は軍備の拡張を図るため軍部を移転することを決定したのです。
移転のための莫大な費用は、丸の内一体を払い下げることで捻出することにしたのです。
しかし、当時のエリアは草が伸び放題の荒れ地だったうえ、皇居近くという場所のため建築認可基準が厳しく誰も価値を見出せないような場所だったのです。
なかなか買い手が見つからなかった政府が話を持ちかけたのが、当時の三菱社社長の岩崎彌之助でした。
その頃、岩崎彌之助が重用していた荘田平五郎は、造船業界などの実情視察のために英国に滞在していました。
先進的なロンドンの街並みを見て衝撃を受けた平五郎は、日本にも西洋式のビジネス街が不可欠だと痛感していました。
そんな折に陸軍が丸の内を売りに出したことを知り、即座に「買い取らるべし」の電報を彌之助に送ったのです。
皇居のすぐそばに広がる丸の内こそが、日本のビジネス街にふさわしい場所だと直感したのかもしれません。
平五郎の思いを受け止めた彌之助は、1890(明治23)年に丸の内一帯を買い受けました。価格は128万円。
当時の東京市の年度予算の3倍にものぼり、まわりからは無謀と揶揄される決断でした。軍の施設が次々に移転していくなかで丸の内はスカスカの原野となっていき、一帯は「三菱が原」と呼ばれるようになります。
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以後、三菱は大規模な再開発に乗り出し
明治27年に丸の内最初のオフィスビルである三菱一号館が竣工しました。
地域内の道路整備を行ったうえで、次々と洋風の建築物を建てました。
赤レンガの建築物を中心としたそれらの建物が、ロンドンの景観を思わせたことから、一帯は「一丁倫敦(ロンドン)」ともてはやされるようになりました。
さらに大正三年(1914年)には東京駅も完成。第一次世界大戦による空前の好景気が追い風となり、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長したのでした(・∀・)/
三菱の手でオフィス街が築かれたこの地区は、現在に至る三菱グループ各社の本社や三菱地所所有のオフィスビルが集中するようになっています(○・v・)!
本日も長文に最後までお付き合い頂きまして
ありがとうございました━━ヽ(*´∀`*)ノ━━☆
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