
もう7年も前の話。
ずっと心の奥に留めていた一緒に走っていた友人のバイク事故の話です。
それは海沿いの緩やかなカーブが続く、おそらくライダーなら誰しも顔がほころぶような快走路でのことだった。
快走路とは言ってもその日は休日で交通量も多く、前方は車で詰まっていた。
前の車が路肩の何かを避けるようにセンターラインに少しだけ寄る。
原付バイクでも走っているのかと思ったが、ロードバイクで並んで走る親子だった。
当然、バイクと自転車では速度差があるので、前方の車に続いて僕は自転車を追い抜く。
同時にトンネルに入った。
薄暗いトンネル内はオレンジ色のナトリウムランプが申し訳程度に灯っている。
後続の彼も、僕と同じようにロードバイクを追い抜き、トンネル内へ入ってくる。
しかし、彼がトンネルに入ったであろうその瞬間、インカムから聞こえたのは、
彼の叫び声だった。
「あぁッッ!!!」
その大声にビクリと身体を震わせ、咄嗟にミラーを見た。
薄暗いオレンジ色の照明の中、青白いLEDヘッドライトの光が一瞬きらめき、彼の車体がフロントタイヤを支点にして逆立ちするのが見えた。
ガシャンッ!!!
そのまま一回転し、彼とバイクは路面に叩きつけられた。
彼は路肩のロードバイクを避ける際に安全マージンを取り過ぎて、センターライン上に設置された大型のキャッツアイを踏んでしまい、操舵不能となった様子だった。
ガリガリガリガリッという、金属と体が同時に路面に削られる音が、狭いトンネルの中で何倍にも増幅されて響く。
その間にも、対向車は何事もなかったかのように僕の横を通り過ぎていく。
『待ってくれ。その先には彼がいるかもしれない。』
もし彼が対向車線に飛び出していたらと想像しかけて、慌ててその考えを頭から追い出した。今はそれどころじゃない。そうと決まったわけじゃない。
早く彼を助けなければ。
しかし、今すぐ停車する…ことはできない。
左にカーブしているトンネル内で停車すれば、自分も後続車に追突される恐れがある。
幸い短いトンネルだ。
安全にトンネル外へ出たのち、Uターンすべきだと判断し、出口へと急ぐ。
「なぁ、おい!!大丈夫か!?」
さっきまで雑談していたインカムで叫ぶ。
大丈夫なわけがない。
それでも、薄暗いトンネルの中で、そう叫ぶことしかできなかった。
激しい滑走音が収まると、インカムのスピーカーからはノイズ混じりの、場違いなほど呑気な音が聞こえてきた。
「ぐー……ぐーーー……」
いびきだった。
僕はその音に”彼の死の気配”をハッキリと感じたことをよく覚えている。
自分のバイクの小さなミラーでは彼の姿は確認できない。呼びかけにも反応はない。僕よりずっとバイク歴が長く、運転もうまい彼が、こんな場所でこんな転び方をするなんて…
まだどこかで信じられずにいた。
短く狭いトンネルを抜け、対向車が途切れた隙にUターンする。祈るような気持ちでトンネルの中を探した。
いた。
急停止したであろう後続車のヘッドライトに照らされて、彼は路上に横たわり、ぴくりとも動かなかった。先ほど追い越したロードバイクの親子が駆け寄り、彼に必死に声をかけている。
「大丈夫ですか!聞こえますか!」
僕も彼の近くにバイクを停め、転げ落ちるようにして駆け寄った。ヘルメットを脱ぐことすら忘れていた。
「おい!大丈夫か!」
頭から落ちたことを物語るように、ヘルメットには無数の傷がついていた。シールド越しに見える顔は、薄暗い照明の中でもわかるほど青白く、汗を滝のように流しながら、傷だらけのヘルメットの中でいびきをかき続けていた。
転倒の衝撃でわずかに左へねじれたヘルメット。
そのチークパッドが頬から口元を圧迫し、苦しそうだった。それでも——
「救急隊が来るまで、動かさない方がいいでしょう。」
ロードバイクの父親が、静かに、しかし有無を言わさぬ口調で言った。その通りだ。脊椎を損傷している可能性を考えれば、安易にヘルメットを外すことはできない。
「呼吸がうまくできていない。舌が喉に落ちているかもしれません。呼吸しやすい姿勢にしますから、体を締めつけている服を緩めてください」
真剣な表情でそう指示され、僕は無言で頷くことしかできなかった。最悪の事態を想定してくれ、そう言われている気がした。
オレンジ色の薄暗い光の中、ヘルメットのあご紐をほどき、ジャケットのジッパーを下ろし、グローブを外し、ベルトを緩める。
「救急車と警察呼びます!」
後続車のドライバーだった。20代前半ぐらいの青年が二人。
ひとりはトンネル外へ出て、必死で目標物になりそうなものを探してくれている。
そこで初めて、他の後続車のドライバーたちが、二次被害防止のために交通整理をしてくれていることに気が付いた。感謝の気持ちと申し訳なさと、彼が目を覚まさない不安で泣きそうになった。
同時に前方から一台のバイクが走ってきた。事故直前に僕らの前を走っていたNinja400だった。
「後ろのバイクや車が急についてこなくなったから何かあったかと思って…。」
彼もすぐに状況を把握する。
「…大丈夫じゃなさそうだね。この先に消防署があるから、直接行って救急車呼んできますよ!」
「ありがとうございます…!お願いします…」
横倒しのままだった彼のバイクを起こし、路肩へ寄せる。ハンドルが曲がっていたが、クラッチは切れた。タンクカバーは上から押しつぶされたようにひしゃげているが、ガソリンの入ったインナータンクに損傷はないようだった。
「目が開いたぞ!!」
ロードバイクのおじさんが僕に向かって叫ぶ。彼のもとへ急いで駆け寄る。
「救急車くるから!!もう少し頑張れ!!」
汗でぐっしょり濡れた手のひらを握って声をかける。彼と目が合った気がした。すると、力が入っているのかわからないぐらい、微かな握力で握り返してきた。意識が戻ったんだという安堵から極限だった緊張が少しほどける。
永遠のように長い五分が過ぎ、救急車と消防車が到着し、続いて警察もやってきた。
そこからはあっという間だった。救急隊員が三人がかりで頭を固定しながら慎重にヘルメットを外し、痛む場所を聞きながらタンカに乗せていく。彼はぐったりとしながらも、指差しで痛みのある場所を伝えていた。応急処置をしながら搬送先を探す救急隊の傍らで、僕とロードバイクの父親は、事故の目撃者として警察の聴取に応じた。彼の名前、生年月日、住所、電話番号。SNSだけの繋がりで本名すら知らない友人関係が珍しくない時代に、こういう時こそ、彼のことをちゃんと知っていてよかったと思った。
「壊れたバイクはどうされますか?」
「レッカーを手配します」
「では、路肩に寄せておいてくださいね」
幸い、彼と僕は同じ店でバイクを買っていて、レッカーサービスの使い方も知っていた。連絡すると最寄り店へ取り次いでくれ、五分もしないうちに折り返しの電話があった。最寄り店舗から四十分ほどで現場に来られるという。もしこれが叶わなかったら、途方に暮れていただろう。
「では、これで引き上げます」
てきぱきと動いていた警察官がそう言って現場を後にする。
「ご迷惑をおかけしました。ありがとうございました」
さっきまでの慌ただしさが嘘のように、トンネルの手前には僕と僕のバイク、そして壊れた彼のバイクだけが取り残された。
気がつけば救急車が走り去ったのは1時間以上前になっている。
彼はもう病院で手当を受けられているだろうか。
レッカーを待つ間、少し腰を下ろして息をつく。傷ついたバイクに目をやると、シートバッグの中に財布などの貴重品が入っていることを思い出した。レッカーに運ばれてしまう前に取り出して、病院に届けよう。
そこでふと、スマートフォンホルダーが破損しているのに気づいた。だが、取り付けられていたはずのスマホがない。転倒の衝撃でトンネルの中に転がっているのかもしれない。
再びトンネルの中へ歩いて戻る。しかしいくら探しても見つからない。救急隊が持って行ったのか、それとも側溝にでも落ちてしまったのか。もしまだこの中にあるなら、画面を光らせて見つけられるかもしれない。そう思って電話をかけてみる。無意識に耳に押し当てると、聞き慣れた呼び出し音が鳴った。光る物がないか、トンネルの中を見渡す。
プツッ。
コール音が途切れた。
「もしもし」
彼が出た。
「は、話せるのか!?」
スマホは、彼が持っていた。
「救急隊が持ってきてくれてたみたい。今、先生に診てもらって、右の鎖骨と左の親指を折ってるくらいで済んだって。てか、なんで俺、病院にいるの?」
…は?
「お前…事故ったこと、覚えてないのか?」
聞けば、トンネルに入る直前から、病院でMRIを受けるところまでの記憶がすっぽりと抜け落ちているという。トンネルの中で意識が戻ったように見えたあの瞬間のことも、救急隊員に痛む場所を指差しで伝えていたことも、本人はまるで覚えていなかった。
「レッカーの立ち会いが終わったら、荷物持ってそっち行くから。今はとにかく安静にしてろよ」
迷惑かけてごめん、と力なく答える彼に、気にすんな、とだけ返して、病室番号を聞いてから電話を切った。
それからまた一時間ほど待って、レッカーが到着した。最寄り店まで運び、そこから定期便で地元の店まで届けてくれるという。ようやく身動きが取れるようになったところで、自分のバイクに跨り、彼の搬送先へ向かうことにした。事故発生から、およそ三時間が経っていた。
ぐぅ、と腹が鳴る。そういえば、昼食を食べに向かう途中だったことを思い出す。それでも、食欲は湧かなかった。今はただ、一刻も早く彼の待つ病院へ向かうしかない。
エンジンを始動させる。いつも以上に気を引き締めて、僕は走り出した。
…という感じで、ハンドルを握る者として色々と貴重な経験となりました。
連日SNSで事故の写真やニュースが流れてきますが、いざ、身近な人が事故に遭うと何もできない自分に驚きます。
少しでも、自分の運転、他人の運転を見直すきっかけになれば幸いです。