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毛呂のブログ一覧

2020年04月02日 イイね!

買い換え検討録2019~20【Season 2】①

買い換え検討録2019~20【Season 2】①
この次章「Seson 2」はしばらくしてから書くつもりでしたが、私がこうして呑気にみんカラにアクセスできるのもいつまでなのか分からないのでさっさと書く事にしました。

先に言っときます。←またかよ

自分の備忘録ですので他人から見たらどうでもいい事が詳しくダラダラと書いてます。
長文苦手な人は読まずにスルー推奨です。


◆N-BOX納車とその後

年が明け、1/18(土)の大安吉日。生憎の雨でしたが無事にN-BOXは納車されました。
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ちなみに、あとで分かったけど契約日も大安吉日でした。
何台も買ってきた私ですが、恐らく後にも先にも共に大安なんて二度と無いだろうねぇ。
さすがに車検証登録日は違ってたけど。


奥にちらっと映ってるモコたん、達者でな!
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・・・モコはその後、最近になって某県の中古屋で倍額で売られていたのを発見。


早速、納車祝いという名目の慣らしを兼ねて片道40kmくらいかけて外食へ。

川崎が誇るソウルフード、ニュータンタンメン。
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注:担々麺ではありません。

数あるこのチェーン店の中でも、ここ、●●店の味がサイコーでした(過去形)。
が、年明けに食べた時と同様、今回もちょっとイマイチ。
「この●●店、味が落ちたな。。(-_-;」
どうも一般ウケにシフトしてるのか、もしかしたらコストダウン目的もあるのか、スープの出汁が薄くなったような?
トッピングのニラも半分くらいに減ってしまった。
何よりもこのメニューの一番の売り、みじん切りニンニクと挽肉の量が激減しとるんです。(上の画像は追加トッピング後)
有料のみじん切りニンニク増しオプションもあるのだけど、そんな追加をしなくてもガツン!とした味がこのメニューの真骨頂だと思ってたので時代の変化にガッカリです。←早い話し、年寄りのボヤキ

って、食いものブログを書いとる場合じゃないか。


◆両母親の乗降性確認

その翌日、嫁母を乗降させてみると、結果的には何とか乗降できるようになったけど少々手こずりました。
義母曰く、モコの時はヒンジドアに捕まって乗り込んでたのにそれが無いから怖い、とな。
嫁も私もビックリ。

モコの時は、ヒンジドアに必要以上に荷重をかけられてドアがフラフラ(ガタガタ?)動くので「怖い!」と言うし、ドアに掴まれてはバタついて危ないから「ここ(Bピラー)に掴まって!」と促してもなかなか上手くいきませんでした。

一方の週1~2回のデイサービスの送迎車(旧型タント)にはなんとか乗降できているのだし、その際にヘルパーさんが介助してるのと同じやり方でサポートしてるのにそれでも怖いという。
何度かやり直してどうにかできるようになったけど、なんでこうなるんだかなぁ。。。

嫁曰く「私がサポートして車に乗るって事はヒンジドアの車に乗り込むって固定概念があるのかも?」と。まぁ、そうだとするなら納得いくのだけど、ほんまかいな?
1週間後には慣れたようなのでホッとしたけど一時はどうする!?ってマジで怖かったっす。
そもそも、D巡りする際に嫁母も同行させれば良かったんだけど、恥ずかしいからと頑なに拒まれてたんだよね。
無理にでも連れて行けばよかったかなぁ。。
ま、結果オーライになったのでヤレヤレですが。

一方の我が母の方は、覚悟はしていたけどステップの段差に往生してしまいました。
それでも予想していたよりはスンナリ(本当のスンナリではないが)乗れて夫婦共々、「ホッ(-o-:」。
がしかし、
「これなら毎週自宅に帰っても良い感じだからよろしくね」と。。

夫婦共々、(・_・;←硬直


◆以下は読まない事を推奨

以下は恥晒しになる事を承知での暴露です。
多分、介護を知らない人はドン引きだろうから読まない方が良いよ~♪

詳しく書くと前回まで書いたブログの文字数を超えるくらいのストレスガス爆発な文字数になるのだけど、超まとめて書くなら、お袋を家に帰らせる、というのは滞在時間は僅か10時間程度なのだけど、その4~5倍くらいの精神的労力がかかるのです。
何から何まで全てが大変。やることなす事、嫌味は言われるわ、勝手に落ち込まれるわ、等々、詳しくは書けませんが体力疲弊の方がはるかにマシだわい。
だから夜に特養へ送り返すと、その後、特養の駐車場から出発するのも嫌になるくらいの疲労感に襲われるのです。

最初のうちは献身的だった嫁もさすがに今では「え?もう今週末に一時帰宅だっけ?もー勘弁してくれ(>_<)」と漏らすほど。
当然、俺にそのストレスを当たり散らされる。送り返した後は再び実家に戻って片付けと掃除をする時の虚しさと言ったら、、、どう書いていいか分からないくらい超複雑。

かと言って(何か口実を付けて)一時帰宅の頻度を減らすと電話やメールの大応酬。
ガキの頃から「年寄りは大事にしろ」とは言われてるも、さすがにこれではホント死ぬわ、こりゃ。

いちお、お袋の名誉のために補足すると、4年くらい前まではこうではなかったし、今がこんな風になるなんて感じなかったくらい、いわゆる「フツーのおばちゃん~婆ちゃん」でした。たまに噛み付かれる時はあったが(^^;
それが4年前の自損事故で車のキーを取り上げてからパーキンソン病の進行が顕著になったのをきっかけに、少しでも病気に歯向かおうとする必死な考え、それに加え、認知症、一般的な老化に伴うボケ、またそうなってきている自覚もありながらそれを認めたくない自分、等々、その他諸々も合わさって今のお袋になってしまったんだと思う。

ほんと、お袋は豹変してしまいました。

但し、面白い事に(ま、あるあるな話しだと思うけど)特養の施設内では借りてきた猫のように大人しい「いい人」らしいのだ。ま、そのイイ人ぶってるストレスの発散もあるのかもね。

だから可能な限り一時帰宅なども叶えてやっとるつもりなのだが、それをすると前述のとおり。
さすがにバテた時は嘘の休日出勤+嫁も仕事って事にして間を開けるも、翌週は帰宅願望ストレスがさらに溜まった状態での帰宅なのでさらに疲れる。

こんな状況に追い込まれて何年も経つので傍から見てれば「いい加減慣れろや」と言われそうなんじゃけど、未だにちっとも慣れないねぇ。
てか、年々、いや、日進月歩のようにこのレベルが上がっていくのだからついて行けない、ってのが正直なところ。逃げれる穴があるのならそこにずっと居たいと思うくらいになってしまった。

ええ、ほんと、介助介護で酷い鬱になっちゃいました。
もうちょっと酷くなったら、マジで心療内科に通おうかとも思ってます。
実のところ、そんな境遇にいたのでみんカラなんぞ呑気に見れなくてしばらく雲隠れしてたのでした。

とりあえずは鬱がまた酷くなってきたかなーと思いつく都度、何年か前にNHKが放送したNHKスペシャル「介護殺人」の録画を見直しては、「俺はまだそこまで酷い環境では無いんだ。毎日の面倒を見なくて済む環境になったのだからそれを幸せだと思わなくては。」と自戒しとります。
ほんとね、せっかくの休日に「会社に行く事がとても心待ちになる」なんて思ってもみなかったからねぇ・・。

グダグダと書いちゃいましたが、これが後の話しに大きく関わってる部分なんです。

つづきは明日

Posted at 2020/04/02 23:55:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | 介護 | クルマ
2017年08月22日 イイね!

ま、人生なんてこんなもんだ(2017年版)

ま、人生なんてこんなもんだ(2017年版)注:人の死に関する内容です。苦手な方はスルーください。


このブログのタイトルはみんカラ3年目の1年間(2016.06~2017.06)に使ってたオイラのページタイトルでした。
まさか今またこのセリフが出て来るとは思わなかったなぁ。。


前回のブログに書いた通り、我が親父の余命は「長くて1年」と宣告されてしまいました。
が、実際のところはその宣告を受けたたった8日後、というか感覚的には7日後の夜更けに急変してしまい、緊急連絡で皆が駆け付けるも、それを待たずに逝ってしまいました。
・・・詳細は後刻のブログに書くと思いますが、緊急連絡時には既に逝ってたと思われます。

83年と1ヶ月と2日の生涯でした。





前回のブログを書いた8/1の2日後、再び調子を崩してしまい、血圧の大幅低下でその日に予定してた人工透析も中止になってしまった。ハラハラしたものの、同日夜にお袋や嫁と向かった頃には復調。
翌朝は俺が出張前に、昼間は従兄弟が、夜は嫁が、見に行けど数日前までの安定度に見えていた。
特に夜、言い換えると亡くなる数時間前に嫁が様子を見に行った時には、短い言葉ながらも話しの受け答えもできるわ、痰が詰まり気味だったので看護師が吸引器を宛てると、当て方が悪かったのか「いてぇなぁ!上手くやってくれよ」と怒るわ、昔のべらんめぇ調な親父らしい言葉も出てたそうだ。
さらには看護師から「血圧も十分に戻ったので、明日は人工透析を再開しますね」の言葉もあった。
だから「あー、もうこれで山は越えたな。一安心♪」と嫁も自宅に帰還。誰もが安堵した。
ところがたった数時間後に再び急変しただけなくそのまま逝ってしまうとは誰もが想定外でした。

本人の立場を想った見方をすれば、急に血圧低下と脈拍低下になってそのまま、、だったらしいので殆ど苦しまずに逝ってくれたのは良かった事なのかな、とは思います。


人の最期なんてこんなもんなのかねぇ。。
正直に言うと、呆気無さ過ぎな最期、でした。。

某歌舞伎屋さんちのマオちゃんなんて亡くなる寸前にエビジョーに「アイシテル」なんて言ってたんだぞ。そんなドラマチックな終焉のカケラも無い最期でした。


それでも親父に一言謝りたいのは、入院中に一度も家に帰してあげられなかった、事だな。
最初に入院した病院、その後の療養病院へ転院後も、親父はしきりに「家に帰らせろ」と訴えていた。
その訴えは最終的には俺の判断で叶えてやることはできなかった。

せめてお袋が病の身でなければ、とか、俺が腹をくくって介護離職すれば、叶えてあげられる道筋は無いことは無かった。
が、お袋の病には特効薬は無し。嫁が代わりに離職したって透析通院の都度に親父の巨体を抱き抱えられるわけがないから俺が介護離職するしかなく、そしたら娘の学費はどうするんだ?自分たちの老後資金はどうするんだ?等々の理由で諦めるしかなかった。

見るに見かねて「1日だけの外出許可で帰らせてあげよう」と思い付き、病院に相談するも「体調が良い日なら1日限定で許可を出せなくはないですが、このお歳(高齢)の方ですと一度家に帰ってしまうと『もう病院には戻らない!』と言い出して聞かない患者さんが多く、やっと戻しても暴れるのを制止したり鎮静剤を打ちざるを得なくなったりして、その後のケアが大変になるのでお勧めし難いです(>_<)」と言われてしまい・・・実際、親父はそう言い出しそうな性格・・・で諦めざるを得なかった。


結局、親父の帰宅願望を叶えてあげられたのは、亡くなった直後から棺桶で寺へ移動するまでのたった1日半・・・およそ38時間程度しか無かった。

親父以外の家族の事情も踏まえると仕方が無かった事とは言え、お袋が妻として行動や判断できる状況に無かったことから俺が全ての判断を下していたので、これらの責任は全部俺の責任だ、と自責の念にかられている今日この頃である。

その一方で、これまでにしてきた処置しか選択肢が無かったじゃねーか、と諦めきっている自分も居る。
後の葬儀の時に叔父にも言われたが、出来る範囲の事は十分してあげたんじゃないか、と。


客観的に見たら後者が正解なのだろう。
でも31年前に起きた我が家史上で最大の悪夢が来た時代を思い返すと、不十分な気がしてならない。


ここまで書いて気付いた。
今の時点になっても親父に対して言ってやりたい本心本音の言葉が思いつかないのだ。
悲しみの言葉、感謝の言葉、嫌味(普段の弄り)の言葉、後(お袋)は任せろ的な言葉、どれも思いつかないままだ。

勿論、実質の喪主として、告別式後の出棺時の挨拶、前倒し初七日後の忌中払いでの挨拶、共にそれらしい言葉を使って挨拶はできた。
が、喋りながら思ってた。「ちょっと違うんだよなぁ。。。」
ではどう違うのか、ホントはどう言いたかったのか、は、自分の中でまとまっていないのだ。

31年前、弟の突然の事故死の時もそうだった。
その後の毎年の命日が来る度に想いを馳せるが言葉にはならなかった。
ようやく言葉に出来たのは31年も経った今年の3月、東北の某所に行った時だけだ。

一方、友人や同僚の訃報を知った時には夫々本心本音の言葉がすぐに出た。

・・・肉親が相手だとこうなるものなのだろうか?
それとも、晩年は認知症で俺の存在まで忘れることもあったのが俺にはショックだったからだろうか?
それとも、我が家の場合は弟の事故後の顛末という特殊な事情のためなのか?(←意味不明ですんません)

強いて言うなら一言だけある。
「やっと弟の所に行けるね。」

葬儀のお経の後、棺桶に花を手向ける時にも言ってやった。
「〇〇(弟)の事、頼むぜ」と。


結局、肝心な親父自身への言葉がまとまるのは時が経つのを待つしかないと思う。
しばらく先になりそうだな。。。

弟の時みたいに31年もかかるんだろうか?
だとしたらその時の俺って83歳。・・・おいおいっ、俺、生きてるのか???



親父に対する言葉がまとまらない一方で、自分自身には確実にまとまってる言葉はある。

「ま、人生なんてこんなもんだ。」

親父の死を粗雑に扱ってる意味ではない。
余命1年を宣告されたのにたった8日で逝ってしまったのだ。
亡くなる瞬間を誰も看取ってあげられなかったのだ。
「こんなもんだ」と割り切る気持ちが無ければ、残された者にとってはずっと尾を引きずってしまうではないか。



葬儀が終わった翌日からすぐに、死後直後からサポートしてくれた従兄弟へのお礼回りや寺へのお布施(支払い)、役所への届け出、に奔走した。役所には「ざ・お役所仕事」の縦割り仕事に泣かされた。
先日は葬儀屋への支払いも終え、残すところ、予約待ちの年金手続きと法務局(登記変更)のみ。
と思ってたら四十九日の段取りも始めたし、盆休みが明けて仕事も始まった。

実親死亡だと会社から特別休暇が出るので、当然それは利用した。そしてそのまま盆休みに突入したので総計12日もの休暇期間となった。
そのお蔭で各種手続きをする日程が多く取れたのだから、その点ではこのタイミングで亡くなった親父に感謝だな。
しかし集中力を欠いて取り組んだせいもあって、この休み期間は全て、葬儀 or その後処理 or お役所 or お袋介護系 or 親族の新盆遠征、等で埋まり、休まる日はほぼ無かった。




現時点で一番欲しいモノ。
それだけは簡潔明瞭だ。



休みがほしい!(笑)

・・・丸一日、外からの連絡を一切断ち切り、無心になって横になりたい。
もうほんと、これ以上の望みなんて何もない!ってくらいに休みがほしい!!!←感嘆符を100個くらい付けたいほど(笑)←だったらこんなブログを書かずに寝ろや。


♪金も要らなきゃ女も要らぬ~、わたしゃもうちと休みがほしい~♪
なんて唄が有ったなぁ ←「休み」じゃなくて「背」だろ

でも今のこの忙しさ加減が、親父が亡くなった事へのネガティブな想いをさせない作用もあるのだろうね。



まぁ、手続き完了まであともう一息だ。頑張んべぇ!
・・・事前打ち合わせで色々面倒だと知らされてるのですんごい憂鬱ですが。。。w



追伸:
昨日(8/21)にアップした8/1分の日記。
アレを書いた時は本当に死期が迫ってる実感が沸かなかったので「知らん方が良かった」なんてホザいてしまいましたが、結果的には「知っておいた方が良かった」のだと思う。

実際の余命は短すぎたけど、何も聞かされなかったよりは覚悟の度合いが違っていたと思いますからね。
聞かされていなかったらもっと呆然としていたのかと思われます。

強いて言えば、親父自身に教えるべきかと悩む前に逝かれてしまいましたが。。
もっとも、もし仮に数ヶ月存命していたら伝えるべきか悩んでいたでしょうねぇ(-_-;

そーいう意味では、



と思うようにしよう。

・・・ほんと、赤塚不二夫って軽く見えて実は奥が深いセリフが多いな、と思う。


【お願い】
お悔やみコメントはご遠慮くださいませm(_ _)m
・・・親父への言葉がまとまってないため、どう答えたらいいのか分からないので。。
Posted at 2017/08/23 01:53:52 | コメント(4) | トラックバック(0) | 介護 | 暮らし/家族
2017年08月01日 イイね!

知らない方が幸せ

知らない方が幸せ今日は既に8月21日。
3週間近くも前の8月1日に書いたっきり、微修正とアップしてなかったので今更ながらのアップです。
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「知らない方が幸せ」って有名(?)な言葉がある。

奥様や愛娘が寝静まった深夜、こっそりエ○動画を見ながら○コ○コしてたのが、実は嫁にも娘にもバレバレだった。
・・・だとしたら、貴方はその事実を知った方がイイですか?知らない方がイイですか?(・。・;


オイラがもしそうだったら、、、う~~~ん、、、悩むなぁ。。。(-_-;
やはり、「知らない方が幸せ」だろうか(-。-;




と、まぁ、おふざけな例題を書いてしまいましたが、、、

実は先週、入院中の親父が熱を出し、その処置内容と今後について担当医が話しをしたい、と連絡が来た。
「発熱如きでなんだろ?ま、大したことはあるまい♪」とおっとり刀で病院へ馳せ参じたら、、、

色々と説明され、現状はどうにか良くなるでしょう、って言葉を貰ったのだが、その最後に余命宣告されてしまった、、、のだった。



「長くて1年持つかどうか。」





親父は昨年の2月に首の脊髄の手術をするべく市内の某総合病院に入院したが、入院早々に様々な事が起きて+起こされて手術は順延。
そうこうしてる間に足腰が弱まってしまい自力での歩行ができなくなるわ、認知症も起きてしまい、これでは手術後のリハビリができない、と判断され手術を断念することになった。
そして同年6月に長期療養病院に転院させられた。
元々腎不全に伴う週3回の人工透析が必要な身体であった事に加え、自力歩行ができなくなってしまったため、人工透析を続けるためには透析設備を持った病院へ入院するしか道が無かった、って流れだった。

当時で81歳。
その当時でも既に8年近くも人工透析を続けていた。
年齢と透析の年数が長くなってきてたので、オイラはシロートなりに「命はそれほど長くはないかもな」と想像していた。
そしてこの療養病院に転院直後の各種検査結果の報告を担当医から聞いた際に、今後の参考に教えてほしい、と頼んで余命を聞いた。
が、予想外に良い結果だった。
「透析患者は普通、長期に及ぶと血管が脆くなりやすくなるんです。ですがお父様の場合の血管健康度はかなり良く、血圧も若干高いながらも他の高血圧症の方に比べればかなり低い。その他も(詳細失念)・・・な訳で、まだまだしばらくはご健康なままだと思いますよ。」

家族の短命を祈ってたわけではないが、高齢+長期の人工透析患者だから期待してはいけない、と思ってたのでホッとするよりも驚いた、と思ったのを今でも覚えている。


それが急転直下。
病院へ向かい詳しい話を聞くと、肺炎をこじらせてしまい、高熱で食事を摂れないほど弱ってしまっていた。
レントゲンを撮ったら右側の肺は水がたっぷんたっぷんに溜まってたのが判明。
(補足:医者曰く、高齢の透析患者は少なからず右側の肺に水が溜まりやすいそう。但し今回の量はかなり異常。)
画像を見せてもらったら左の肺は上から下まで真っ白(←健康体と全く同じ)に対し、右側は肺のシルエットも分からないほどの真っ黒状態だったのだ。

この画像だけ見ると医学シロートなオイラは「もうヤバいんじゃね?(・_・;」と焦ったが、医師は
「食事が摂れないほど弱ってるので栄養素は鼻から管で与えます。そして肺炎に効く抗生剤が何種類かあるので・・・(詳細割愛)・・・まぁ、時間はかかりますが1~3週間で肺炎は落ち着いて、また自力で食事が摂れるまでは戻ると思いますよ」
と割と楽観的なコメントだった。

但し、
「容態が食事できるまで戻っても、肺の水を抜くのは長期戦です。その間にまた肺炎を起こす事が多いです。透析をしてない人なら利尿を促す薬を投与して肺の水を短期間で抜けますが、透析患者にはそれはできないんです。だからほんとに時間がかかりますしリスクもあります。」
とすぐには少し前までの親父には戻れないと警告された。
そしてさらに
「経験則だけでの話しですが、と前置きしますが、この年齢と肺からすると、長くて1年持つかどうか、ですね」
と、まさかの余命宣告をされてしまったのだ。


1年2ヶ月前の入院時に聞いた話し(前述)とはまるっきり違うではないか。
高齢者だし当時は肺炎リスクは想定外だったろうから、当時の楽観コメントに文句を言うつもりは無い。
それでもたった1年と少々で状況がガラリと変わった事に頭が理解するのにしばらく動揺してしまった。
少しでも気を落ちつけようと自制し、無理に質問を考え、聞いた。

毛「という事は、会わせたい親族は今のうちに会わせた方が良い、って事ですね?」←聞くまでもなく当たり前だろ。でも余命を聞かされたばかりで頭が少々パニック気味だったこの時点ではこんな事しか思い浮かばなかった。

医「そうですね。でもさほど慌てる事はないと思いますよ。今の時期は暑いですからお見舞いに来る方が高齢の方なら少し涼しくなった頃でも十分間に合うと思いますよ。」

医「でもね、これだけの高齢だといつ何があるか分かりませんからね。。」

最後のセリフが引っ掛かったが、急変さえしなければさほど急いで親族を呼び出す事はないな、とちょっと安心した。

挨拶を済ませ、親父の病室へ向かった。
親父は熱で苦しんでるような風には見えず、比較的普通な様子で寝ていた。
「これが肺炎をこじらせて余命1年を宣告された人の病状か?」
と懐疑的になった。
勿論、説明通りに鼻から管が通されていたのはいつもの見舞い時と違うのだが、
「風邪なんて滅多にひかず、インフルエンザになった事も無い親父が、肺炎、ねぇ???」
と医学シロートにとってはただただ不思議・謎・疑問な感覚だった。
起こして話しかけようとも思ったが、熱が出てるんだからやめとくか、と結局起こさず=話しはせずに病院を後にした。

実家に行き、お袋と嫁に一通りの話しを説明。
お袋も余命1年の言葉には驚いていたが、一通りの話しを聞いてからは「まー、あのお父さんはバケモンみたいに元気な人だから、あと2~3年は生きるかもね」と呑気モードになった。
今にして思えば、ボケて話しの前半(余命)を忘れていたのかもしれない。。


・・・


余命宣告をされてから今日(8/1)で4日経った。
その間の土日は見舞いに行けどガッツリと寝てたので話しはできず。月曜火曜は仕事で帰りが遅くなったため嫁に文句言われながらも頼んだが(嫁の親もちょうど厄介な状況が重なってたので病院のハシゴは辛い時期だった)、看護師に聞いた限りでは熱も37℃まで落ちて経過は悪くないそうだ。

やれやれ。大した事にはならなそうだ。
ちょっと一安心。


さてと、、、
こんな半分安心した状況下になってしまうと、親族、言い換えると親父の兄弟、にどのように説明しようかと悩んでしまった。

親父の親族は皆、口が悪いので
「なんだよ、余命1年だって言うから来てみたのに至って元気そうじゃねーか。これなら俺の方が先に逝くよ!」
などと言われそうだ(笑)


ま、今度の週末に落ち着いた時間が出来たら電話してみようかな。。


そもそもだ。親父よ、ほんとにあと1年しかないのかよ?
この4日間、ずーーーっとそんな違和感しか感じない感覚なのだ。

ある意味、余命を「知らない方が幸せ」だったのかもしれない、とマジで思った次第。



*:続きがあるのと、コメ返を書ける時間が無いというかコメ返を書く頭が回らなさそうなので
しばらくコメントOFFにさせて頂きますm(_ _)m
Posted at 2017/08/21 23:44:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | 介護 | 暮らし/家族
2017年07月31日 イイね!

介護カー(電動回転シート)

介護カー(電動回転シート)相変わらず多忙にかまけてブログをサボっていたら、あらま、7月も1つも書かなかったことになりそう、、、って事で7/31の23:59になってこの画面を立ち上げた。
・・・投稿ボタン押すのはどう見ても8/1だなぁ。。。


スマホの画像を整理していたら介護カーを撮っていたので忘れんようにこっちに上げる事にしました。


最初に見たのはレヴォーグ1.6GT、ウイングシート(電動回転シート)仕様。
*:4月の訪問なのでD型ではなくC型です。


でも、C型なのに何故かホイールはA~B型。介護カーだとちょっと仕様が違うのかな?
(補足:D型介護カーはC型以降のアルミに変更された模様。)

我が家が回転シートにするのかはまだまだ未定ですが、「回転シート車ってどんな動きじゃい?」「どれれくらいのスペースが要るんだろ?」と思ってたので色々と見てきました。

実際に座って動かしてみたら、メタボ予備軍のオイラの身体でも難なく「ヴィ~~~~ン」と動いてくれるのね。



身長170㎝、典型的昭和の胴長短足のオイラの座高でもシート格納時は自動でリクライニングしてくれるので頭がピラーや屋根にゴツン、って事にはなりませんでした。
なので我が親(結構縮んだから140cm程度か)は楽勝。


ちなみにシートが外に出ている時の車内側はこんな感じ。




で、気になる必要スペースは、というと車椅子からの移動となると結構必要なのだと痛感。

↑こんな感じに車椅子を直角に横付けしなければならないので


おおよそ、1.2~1.3mは必要だと判明。
・・・床のパネルが1枚60cmなのでそこからの目算。

我が実家の真ん前だと結構厳しいねぇ。。。(-_-;
何にせよ、実車でそれが見れたのは良かった。


後日、と言っても7月だけど、XVの回転シート車も展示されてたので見てきた。


まぁ、回転シートのメカは全車同じでしょうから必要スペースはさして変わりませんね。


それよりも、シートそのものも回転シートは1種類しかないのか、

運転席はスポーチィシート+オレンジステッチなのに、回転シートは普通のカタチ+ステッチ無し。。
まぁ、そんなもんなんだろうけど、ちょっと寂しいな。。。


オマケ:

XVを見に行った時はちょうどD型レヴォーグ&WRXも展示してあったのでちょっと見てみた。


D型からはシートヒーターが標準装備になったのね。(1.6GTのみウェザーパックとセットオプションだったか?)

シートヒーターはフォレで気に入ってた機能なのでオイラがレヴォB型買う時も欲しかったけど16万円もする革シートとのセットオプションだったので泣く泣く諦めたんだっけ。
うらめしやぁ~。

一方でシフトゲート周りや電動Pブレーキスイッチ周りがブラックアウトになったけど、これはあまり食指が出ず。
自分のシルバーも気に入ってるわけじゃないけど、内装がより真っ黒黒助になるのもなんだかなぁ、って感じに見えた。


ステリモが標準装備されたのは良い事だと思うけど、何故に地図の縮尺(広域・詳細)ボタンを廃止しちゃったのか?
カーナビ本体での操作だとタッチパネルになってしまうのでブラインドタッチでの操作がしづらいんですよね。そこをステリモで補完してくれたから重宝してたのに廃止してしまうのは改悪じゃないか、と。


つーことで、書いてる途中で夜間巡回と風呂にも入ったので7月中のアップはできなかったブログですた。
Posted at 2017/08/01 01:09:37 | コメント(3) | トラックバック(0) | 介護 | クルマ
2017年04月02日 イイね!

見舞いのつもりが見舞われた

見舞いのつもりが見舞われた
■前置き■
超ド長文です。そしてクルマネタは殆どありません。
人に読まれるとは考えず、出てくる人物の健康状態を備忘録(将来との比較用)として書いてる要素が強いです。
またその都度に昔の事を思い出したりしてそれも回顧録的に書いてしまったので、とんでもないド長文になってしまいました。

長文見るのが苦手な人は読まないことをお勧めします。
遠慮なくイイねも押さずにスルーください。


■本文■

先週末、母方の祖母の見舞いに静岡県の三島へ行ってきた。
今年で93になる祖母が足をぶつけて足の小指にヒビが入ったらしい。
初めて聞いた時は「足の小指、それも骨折じゃなくヒビの程度なら大騒ぎする事でもないか?」と本人も周りも思ってたが、ギブスして1ヶ月経てどまだ完治の見込みが無いそうな。
そこでさすがに様子を知りたく、見舞いに行く事にした。


■前日までの事

実は先週、祖母と同居している叔父Cとの密談(笑)も兼ねてオイラ単独でフラッと行ってこようとしたのだが、箱根が積雪&チェーン規制のために断念。
夏タイヤに交換したのが早かったなぁと後悔。
・・・てか、3月最終週に箱根にチェーン規制が出るほどの雪が降る、なんて記憶の範囲では無かったような・・・(・_・;

今回は母親と嫁も帯同。そして恐らく帰路は大量の土産も持たされるため、軽のモコでは箱根の登坂が苦しいから必然的にレヴォーグ、、、の筈が先日書いた自損事故で未だ入院中のため、Dに頼んでこの日だけ代車を借りた。

「軽以外、そしてカーナビが付いてれば何でもイイから貸して♪(^人^)」
とお願いして貸してくれたのは、


トヨタ・ルーミー。

じゃなくて、、、トヨタ・タンク!
でもなくて、、、


ダイハツ・トール。ですね。


え?違うか(^^; ダイハツ製だけどね。。。
スバル・ジャスティね。


1.0L N/A のグレードはG。通称スマアシのスマートアシストⅡ付き。
■コンフォートパッケージ ■パノラミックビューモニター&ナビアップグレードパッケージ ■LEDヘッドランプ 
・・・MOPもてんこ盛り仕様。

試乗記は別に書くとして、こっちは見舞い日記。


前日の時点で母からいくつかリクエストを貰っていた。
・行く途中、親父の病院へ見舞いに行きたい。
・祖母宅からの帰り道の際、同じ市内の友人宅に寄って欲しい。

頼まれたのはこの2つだけだが、きっと、
・祖父の墓参りにも行きたい
と言う筈。
過去、墓参りにも連れて行けと言わなかった事が無かったくらいに毎回のお約束事なのだが、何故か今回は言い出さないので意志を聞こうとも思ったが、ボケの確認にすべくわざと黙っておいた。


墓参りはともかく、親父の見舞いに行きたい、と言ったのには驚いた。
見舞いに行っても自分の事を女房だと認識してくれないから嫌になったのだ。
だから母はもう4ヶ月以上は顔を出していない。

親父が自分の女房だと認識できなくなった理由。。。
親父が入院したと同時に母の病状進行が加速したとは前回書いたが、その病状進行とともに顔の老け具合も加速したのだ。この1年で5~10歳くらい老け込んだ形相になってしまった。
血を分けた息子の俺でさえ「もし顔を1年も見てなかったら別人だと思うだろうなぁ(-_-;」なくらいだ。
一方、生涯入院となった親父は認知症となり、直近の10~20年分くらいの記憶が飛んでしまったようなのだ。
そんなところへ老け顔に変貌した妻の顔を見せても信じてくれないのだろう。
さらに言えば、20年くらい前に亡くなった親父の母(俺から言えば父方の祖母)だと思い込んでるのである。
・・・てか、お袋と死んだ婆ちゃん、ちっとも似てないのにどうしてそうなるんだか。。。(-_-;

実のところ、親父は俺に対しても「たまに見舞いと入院費を支払いに来てくれてる知らないおっさん」と思ってるらしい。
今年に入った頃だったか見舞い中に看護師が巡回に来た時、看護師に「あら、息子さんが来てるのね。じゃまたあとで来るねー」と言われた際、親父が「え?息子?」と言ってたからだ。
俺も母みたいに落ち込みたくないからそこに突っ込むのが恐く、「俺、誰だ?」と質問せずに流した。
「ま、息子でも便利屋おっさんでもいいか。毎回来てくれてる事だけでも覚えてならマシだ」
と開き直る事にしている。

そんな親父のところに見舞いに行きたい、と母が言い出したのでビックリした。
もっともその訳を聞くと、
「たまには様子見ないとね。お婆ちゃんとこ行った時に○として○○の○○○○○は○○○○○○○、からねぇ」
な理由だった(-_-;;;;。 伏字は明かせませんが。。
・・・ほんと、こういう見栄っぱりで面倒な性格、どうにかしてくれ!(-_-メ

だからそれを反面教師にしたバカ息子が自虐好き&恥もネタにして晒してしまう変態ムスコに育ってしまったんじゃ。←そりゃおめーの言いがかりだろ


見舞いの前日、祖母が住む叔父C宅に電話して大雑把な時間と食事の有無を申し合わせた。
・12時前には着く予定。
・昼食は叔父宅で用意してくれる。
 度々ご馳走してくれるうなぎ弁当を出来立てすぐに持って来るから12時までには来いよー、と言われた。
 …ここのうなぎは絶品なので絶対に昼前に行くぞ!w
・市内の友人宅にも寄りたいらしいので夕刻より前には出る。

それを母に伝えると、昼食を用意させてしまう事に恐縮していたが、「外食してから行くと時間がかかってしまって婆ちゃんちに長居できないでしょ」(…母の食事スピードはえらく遅くなってるので軽食でも1時間近くかかる)と説得し、了承得た。



■そして当日
・・・って、前日までのネタでブログ1~2本分の長さだっちゅーの。。。

朝10時頃に出発。
9時過ぎ、遅くとも9時半には出るつもりだったが、嫁も母も支度に手間取って遅れた。
それらも見越して事前に煽ってはいたが、、、つくづく、女っつーのは時間がかかる生き物じゃ!凸(^^;


出発してまずはリクエストどおりに親父の病院に行くつもりだった。
が、ドタキャンされた。

俺「まずは親父のトコ(病院)に行くで」
母「お父さんところ?どうして?行かなくていいよ」
俺「へ?お袋から頼んで来た事だろ?」
母「私、そんな事を言った?」
俺「・・・。」マジかよ(・_・;と頭の中で呟く
 「たまには様子を見たい、って言ってたよね?」
母「出発遅れたし、○○(叔父C)がお昼までに来いって話しだったよね?」
俺「うんそうだよ。でも見舞いの時間をほどほどにして車も飛ばせば間に合うよ?」
母「まあ、いいよ(行かない)」

これは認知症の一環なのか、単なるもの忘れなのか。。
進行するのはパーキンソンだけで勘弁、せめて認知症は悪化しないでほしい。。。(一般論からするとまず無理だが。。。)
・・・と思いながら箱根方面に向かうべく海岸沿いの国道へ。


世間の学生は春休みシーズンだが、渋滞は全くなかった。
但し少し進んでからはちょっと異様な光景だった。
片側2車線の西湘BPでは、ほぼ全車が何故かお行儀よく左車線を走ってるのだ。それも制限速度の70km/hよりもやや遅いくらいだから60~65km/hくらいだったか。そして右車線=追い越し車線を走っている車は、、、視界の範囲ではゼロ。
この道路で右車線がガラガラなのはしばしあるが、休日の昼間でゼロってのは初めてだ。

その原因はすぐに想像がついた。
あちこちの路肩(というか非常停止帯)で一般車と覆面パトカーあるいはパンダカーがセットで停まってるのだ。
そう。速度取締り。
西湘BPに入ってからまだ3kmくらいしか走ってないのに上下線合わせて早くも3組見かけた。
なるほど、だからほぼ全車が警戒して走行車線に留まっているのだろう。
(もっとも、本来はこれが正常な走り方なのだろうが。。。)

何にせよKサツさん、この日はまだ交通安全週間でもないのに気合いが入ってますな~(-_-;
オイラも昨年は2度も納「税」したから今年は勘弁、とばかりに左車線の隊列で大人しく走る。
が、時折50km/hくらいにまで落ちるので「ケーサツが恐いからって速度落とし過ぎじゃよ~凸(^^;」としばし追い越し車線へ。
が、このクルマ、高速での加速はかなりしんどい。。
アクセルを踏み増ししてタコメーターは4000越rpmに上がるも、速度計の針の角度は徐々に徐々にしか上がっていかない。
軽のモコよりマシなのは当たり前だが、1.0Lあるならもうちょっとは欲しい。
やはりカタログ値ですら1トン以上、それに俺より体重軽いとは言え合計3名も乗車なのが辛いのかも。

という事で、トロトロ加速ながらも左車線の車たちを抜いていく。
そうそう、抜く車の車種と乗員が「それらしいクルマと青い制服」かを要チェックしながら、だったな。
そしてオイラが抜く都度に何台かが俺の後ろに付いてきて、あっという間に10台くらいも引き連れていくような格好になったのには苦笑した。
彼らが「だよね?抜いても良いんだよね?」と思ったのか「アイツに付いて行けば自分は捕まらんだろう」と思ったのかは分からんけど、ゾロゾロと大勢追従してきたのには「そんなに追い越し車線に行きたかったらなんで先にそうしなかったの?」と思った。



小田原を超えて箱根にさしかかった。
家族連れで箱根越えする際はいつもなら箱根新道で登るのだが、「桜が咲き始めてるかな?お袋にとっちゃたまの外出だから見せたろう♪」と考え、桜並木がある箱根ターンパイクで登る事にした。
がしかし、結果はまだツボミ。3分咲にすらなってないようで残念。通行料720円をドブに捨てたなぁ(>_<;

その一方、山の中腹辺りからは、先週降った雪がまだ路肩に残ってた。。。

こんな箱根の4月、初めて見たかも(・_・;

結局、特に見所はないまま箱根を超えた。
数年前にできた新名所、三島スカイウォークも混雑してたからパスした。
まぁ、過去の総計で何百回も箱根を往復してる家庭なので今さら箱根の景色、ってのもなんだかなーだけど、せっかくだから何か見せてやりたかったなぁ。。。

箱根を下って三島市に入る頃になって母が言い出した。
「おじいちゃんのお墓にも行かないと」
はいはい、そのつもりでいたし親父の見舞いも見送ったから時間の問題は無し♪、それよりも、、、
ホッ・・・(・o・; 毎回墓参りする記憶は生きてたんだな。
そして寺の近くの花屋で献花と線香を買ってお寺へ寄り道。

寺の駐車場から祖父の墓まで、大人の足なら大体1分~1分半。
前回(昨秋だったか?)の母ならば歩行器(乳母車みたいな押し車)を使って大体4~5分かかるほどに足の動きが悪くなってた。
だから今回は「プラスもう1分(計5~6分)ってとこかな」と思っていたらさらに遅く、7分近くかかった。
正月にIKEAに連れてった時はもう少しまともに歩けていたので予想以上に遅くなって驚いた。
・・・やはり2月の大転倒事件以来、病状進行が1段上がったレベルではなく2段と見るべきか。。。

墓に着き、墓前で手を合わせた母。
墓の中の父親に一体何を話してたんだろうか。。。


墓参りを終え、母を車に乗せて時計を見たら11時40分くらいだった。叔父宅までは10分程度だから余裕だな、と俺は車の外でちょっと一服(-。-)y-~~~
・・・してたのだが、車の中ではお袋が何処かに電話をかけて話し始めた様子が見えた。
そして後席から嫁がその会話を制止するような挙動も見え、そして諦めたと言うか呆れている表情に変わった。

なんだなんだ?と車に乗って聞いてみたら、夕刻に行くはずだった友人宅に今これから行くと連絡したのだそうだ。
おいおい、そこまで寄り道したら12時到着は無理だろ(・_・;
俺「あのさ、、、おばさん(友人)の所には夕方に行くって言ってたよね?」
母「そうだっけ?でもここから近いから良いじゃない」
俺「近いけどさ、、、叔父貴が出来立ての弁当持って来るから12時までには来い、って言ってたじゃん。多分今頃はもう鰻屋に着いてる頃だぜ?せっかく時間を見計らって買いに行ってもらってるのに、弁当が冷めちゃうよ?」
母「あ・・・(と思い出した様子)、でも約束しちゃったから。。。手短かに終わらせるからいいじゃない。」
俺「はいはい(-_-;(・・・手短かなんてありえねーだろうなー、と頭の中で呟く)」

寺から5分程度で友人宅に到着。
この友人宅は団地でエレベータも無いので母の足では上がれない。だから俺と嫁は車から降り、車を談話室代わりにした。母の友人が入れ代わりに車に乗り込んで談笑が始まった。

たまにしか会えない友人だからゆっくり話しをさせてやりたい気もあるが、叔父Cが出来たて弁当を用意して待ってる筈だからヤキモキした。

俺がチビ・ガキだった頃、言い換えると母や叔父Cも若い頃、二人の仲は良くも無ければ悪くも無かった。何処にでも居るような、たまに仲良く・たまに喧嘩もする姉弟の仲くらいの関係だった。
が、歳を取ったからなのか、母の病気が発覚し病状も進んできたからなのか、叔父Cはやたら母に親切にしてくれてるようになった。
叔父Cも70歳近くなったので安全運転上、不要不急の箱根越えは控えるようになったので直接会う機会は半減したが、会った時の献身さは以前とまるで違う。姉貴の体調を気遣ってたまに様子を聞くべく俺に電話もしてくれる。

今回の場合は、叔父C曰く「たまにしか来ないし姉貴(母)が大好物だったウナギ屋に連れてってやりたいけど店が狭くて(母の)歩行器は店に入れないからな。だからその店のうなぎ弁当にして自宅で食べるしかないけど、せめて出来立てを食わせてやりたいから時間(12時)に間に合わせてくれよ」と言われていたのだ。
そんな親孝行ならぬ姉貴孝行な姿勢に応えてあげたいから時間には間に合わせてあげたかった。

それはお袋にも伝えていたのだが、談笑がさらに盛り上がっている雰囲気からすると忘れているようだ(-_-;
談笑というより、母の友人が一方的に喋りまくり、母は相づちを打ってる、って感じか。
お袋、無口になったなぁ。。。(パーキンソン病のせいだとは分かっちゃいるけど、ねぇ。。。)

時計が12時ジャストになる頃、仕方なく叔父Cに電話して遅延連絡。
「せっかく出来立てを持って帰ってきたのに冷めちまうじゃねぇかよぉ(>_<)、あのクソバカ姉貴めぇ!(笑)」。
口では笑っていたが頭の中ではガッカリしてたんだろうなぁ。。。すんません、叔父Cm(_ _)m

談笑開始20分経った頃、話しに割って入って「待たせてるからそろそろ行こうか」と促すも、もう少しだからと遮られ、後にもう一度割って入ったがまた遮られ、結局12時45分過ぎになってやっと出発。。。

病気の事を棚に上げられるなら文句を言いたい(笑)
「女同士の話しってのは、、、ほんとにもう・・・凸(-_-;」

それよりもビックリしたことが。。

俺「叔父貴が出来立て弁当を食べさせたいから12時までには来いよ、って話し、しておいたよね?」
母「え?そうだったっけ?」
俺・嫁「(ぉぃぉぃ)・・・・(・_・;」

いかん、やっぱり物忘れが酷くなったか。。。
(認知症も始まってはいるが、コレはどちらかというと老化に伴うもの忘れ。。。だと信じたい。。)

およそ10分後に叔父C宅に着いた。
「お疲れさん!よく来たな~♪ でもまずは、冷め切る前にさっさと食ってくれ!(笑)」
とせかされたのは言うまでもない(^^;
本来の目的の筈の婆ちゃんの見舞い挨拶もそこそこに卓上にホレホレと並べられ、「遅れて来た分、急いで食え(笑)」的なオーラを感じ、素直にまずはご馳走になる事に。


すみの坊 のうなぎ弁当。
三島のうなぎの有名店は何軒かあれど、母は勿論、オイラもここのが一番美味いと思う。

…かつては「うなよし」で名を馳せた店だが、当時の主(おそらく初代)が亡くなり、その主の遺言どおりに一番弟子に店を継がせたものの、しばらく後に支店舗の主の息子から「店の名前まで使うな」と言われ、仕方なく店舗名を変えたそうな。(注:三島で聞いた噂話なので一部違うかも。)
しかし変わったのは店の名前だけで味は全く不変。有り難い。やっぱり美味い。

因みに、ネット上での三島の鰻屋で一番人気は広小路駅前の桜屋(さくらや)だそうだ。
実際、叔父宅への移動の途中に桜屋の前を通ったが店前に30人近くも人が居た(恐らく殆どが順番待ち)のには驚いた。千円以下で食えるラーメン屋ではなく、最低でも3千円以上もする鰻屋なのにだ。
(注:後で叔父から聞いたが客の9割は地元以外・・・観光客らしい。ネットでの高評価が拡散されてるのだろう。)

すみの坊やうなよしよりも2割近く高額なお店だが、残念ながらオイラにはその価格差分も美味いと思えないんだが。。。
強いて言えば桜屋はうなよし/すみの坊よりかはややピリ辛なタレか。
ピリ辛のが食は進むけど、ウナギ本来の旨味をスポイルしてしまうと思うんだけどなぁ。。。

所詮は日頃B級メシの味しか知らない奴の戯言。

それと、もう旧い話しとは言え、この店の店主はかつて違法事件(他車のナンバーを盗難&無登録の自車に付け替え)で逮捕の悪いイメージも頭に残ってるから桜屋には10年以上行ってない。

ま、舌の違いとグルメサイトの評判力は恐るべし、ってとこか。


なんにせよ、1年以上ぶりに食ったすみの坊のうなぎ。少し冷めていたけどやはりめちゃくちゃ美味かった♪
*:電子レンジで温めると鰻がパサつくので未使用。

って、、、
婆ちゃんの見舞いに来とるのにウナギのウンチク垂れて感慨にふけってる場合ではないぞ(・_・;


婆ちゃんと一緒に食事をしながら叔父Cから詳しい話しを聞いた。
細かい話しなのでそれは割愛。

90をとうに超えた婆ちゃんは思った以上に気丈そうで一安心。喋り口調と声量はちっとも衰えてない。
つか、90過ぎでこんなに元気な婆ちゃん、なかなか居ない。100歳越えは堅いね、とは親族一同の一致意見。
声量が小さくなり口数も減った母とは全くの正反対だ。
パーキンソン病だからそうなるのは仕方が無い事だが、2人が喋りながら食事してる姿を見てると、まるで親子が逆転しているようにすら見えるほど婆ちゃんは元気そのものだった。

でも足の小指の小さなヒビ如きで、それもわざわざギブスもハメて固めてるのに、1ヶ月経てどまだ治ってないのには少々不安。
しかし医者曰く「年寄りなんてこんなもんだ」なんだそうだ。

歳のわりにはかなり健康な方だと思うが、さすがにギブス付の足だと歩きがフラフラになってしまうので歩く際は人の補助がないとかなり危ない。
だから叔父C夫婦もその介助が大変そうだ。

歳をとるってのはそーゆー事なんだよな。。。(-_-;

しかし骨折にしても、気を付けようと意識したって無駄だろう。
こういう事をやってしまう時は「気を付けなきゃ」って意識が一瞬抜けた時に限ってやっちゃうんだよ。と婆ちゃんが笑いながら言ってたがまさしくその通りだと思う。

何はともあれ、元気そうだったから良かった。
まだ目途は見えないが早いとこヒビが治ってギブスが取れる事を祈るばかり。


そんな話しが終わる前には俺や嫁はとうに弁当を完食してた。
いやー、何度食っても飽きないし美味い♪

ってそんな話しではなく、俺が完食した時点での母の弁当はまだ2割程度しか進んでなかった。
そうだ、うっかりして気を回さんかった。。。
弁当が冷めたせいもあって鰻もご飯も若干硬くなってしまったので、病状進行により手の力が入りにくい母にとっては箸では食べづらくなっていたのだ。タレを多めにかけたので大丈夫だろうと思い込んでしまってた。

母が1人で自宅に居る時に同じような硬さの食事を食べる場合ならば、外見を気にせずスプーンやフォークにしているのだが、自分の親兄弟が目の前にいてはウナギ飯をスプーンで食べるのは恥ずかしいからか、懸命に箸をこじりながら食べている。
俺も親兄弟の前だからその意地(見栄?)を見過ごすべきかとも思ったが、さすがに目に余ってきたので「スプーンの方が楽に食えるんじゃね?」と促し、スプーンを用意してもらった。
スプーンに換えてからは多少は楽に食べれるようになった。
が、傍でその様子を見ていた婆ちゃんの眼差しが、如何にも「こんなになっちゃって・・・」と悲しむ表情になっていたのは申し訳なく感じた。。

後に嫁も言ってたが、これではどっちの見舞いだか分からなくなってきた。。。

結局母の弁当は残り1/3くらいのところで食べきれなくなり、やめた。
2年くらい前あたりから食欲は落ちているが、それでも最近の食欲量からしたら食べた方かもしれない。

俺はこの時既に婆ちゃんが食べきれなかった寿司(祖母は鰻が苦手)5貫を引き受けて腹パンだった。しかしウナギが残るのは勿体無い。
叔父Cも叔母C、嫁も「いや、もう無理!」となり俺に回ってきた。。。

・・・結果、「しばらくウナギはもう要らん(-_-;」


少し経った頃、隣町に住む叔母A夫婦がやってきた。叔母Aは母の1歳下の筈だから多分74歳。
旦那の叔父Aは、、、いくつだっけか?80になってしまったっけか?

叔母A宅は20km程度の距離なのでちょこちょこと、昨日も祖母の様子見に来ていたのだが、
今回、姉(母)が来ると聞いてわざわざ来てくれた。

そして母娘談義が盛り上がってきたようなので祖母の部屋には女性陣のみにさせ、自分ら男共は別部屋で話す事にした。


男部屋での話しは殆ど母の病状進行を聞かれる事に終始した。
ま、こっちもそのつもりだったから質問攻めはウェルカム。

母に久しぶりに会った叔父二人は共に、「もうこんなに歩行困難気味になってるとは思わなかった!」と驚いていた。
叔父Cは昨年の夏頃に来てくれていたが、その日の母は特に貧血が酷くて動けなかったので「今日だけ特別に動きが悪いだけ。だから普段はもっと動けるだろう」と思ってたそうな。
だから2月に縁側からダイブ(転倒)した事件の話しを初めて知った時は半信半疑だったそうだ。それが今日、本人の動作を見て凄く納得したそうな。

叔父C「独居してるくらいだから、もう少し動けるものと思ってた。よくあの動きで生活できるなぁ!」

叔父A「痛々し過ぎて見てらんかったよ。もう本人がどんなに嫌がってでも施設に無理矢理放り込むくらいしないと今度こそ死んじまうぞ?」

叔父達と直に会った時に話そうと思ってた事を話した。
ホントは叔母も居た方が良かったが、タイミングが作れなさそうだから叔父達から伝えてもらう事にした。

・・・同居と特養施設入りは絶対拒んでいる事。最大の理由は「一人でゆっくりしたい」。そして「特養は90代の人ばかりで80代すら少ない。だから自分(75)の世代は誰もおらず、ヨボヨボのお婆さんばかり見てたら気が滅入って病状がさらに悪くなりそう」だ。
本人が「これなら入ってもいいかも」という施設はリハビリ設備と介助が拡充しているがあまりに高額すぎて数年分くらいの予算しかない。
医師もケアマネも強く施設入りを何度も推しているがそれらの理由で拒み、ズルズルと独居が続いている事。
そこでそれらを踏まえ、いつ転んだりヒートショック(寒暖差)で次こそ死に至ってしまったとしても、仕方が無かったと諦める覚悟で独居する。一方、もし骨折などで寝たきりになってしまった場合は観念して特養に入る、という方向で母とは取り決めた、等々。

言い換えると、今日は親族に「こういう身体の状態と今後の方針だから、いつ転んで死んだり、骨を折って寝たきり化するか分からない状況だから予め覚悟しておいてね。もしかしたら此処に来れるのも今日が最期になってもおかしくないし、多分、婆ちゃんよりも先に逝くかも。」と伝えに来たのが俺にとっての一番の訪問目的なのだ。

叔父C「でもお前さ、口ではそう簡単に言うけど、お前ら夫婦自身は本当に覚悟できてるのか?死んじまったらそれまでだから良いけど、死なずに寝たきりになったりして中途半端になる方がお前ら家族の負担はもっとデカくなるぞ?施設に入ったって見舞いの頻度で疲れるって話しを良く聞くんだよ。」

うーん、心の中でまだ迷ってたトコを突いてきたな(^^;

俺「それは在宅フル介護するよりはマシだって思うようにするしかないかな。嫁も覚悟はしちょる。それよりも不安なのがね、すんなり施設に入ってくれない気がするんだよね。。
2月のダイブ事件よりも前にお袋と(前述の)そうする口約束をしとったのに、いざあの事件が起きてみて、その後落ち着いてから『もし寝たきりになってたら特養に入ってたぞ?』と言ってみたら、特養だけは絶対ヤダ!って言い出したんだよ。たった数週間で口約束を反古されたのかボケで忘れたのかは判らんけど、それを聞いて参っちゃってねぇ。。そう言われてしまうとやはり入れづらいよね。(-_-;」

そして案の定、怒られた。

叔父A「ばーか。そうなってでも敢えて施設に入れてしまうのが息子の愛情ってもんだら?約束が違うって突っぱねてでも施設に入れちまえ!(中略)施設に入れるのは可哀想だ、って思ってるんだら?そんなのは間違いだ。
○ちゃん(俺の娘)がまだ学生なら共稼ぎを続けなきゃならんべ?ならばお前らが完全看護なんてできんだろぉが?できない事を無理してやろうとするな!
お前のお母さんだって今は頭が固くなって我が儘ババァになっとるけど、いつかあの世に逝ってから自分のせいで息子が苦労してたと気付いたらきっと悲しむぞ!」

・・・頭が痛い。。神も仏も信じない俺にとって最後の部分は理解できないが、前半~中盤のセリフは頭が痛い。ほんと、その通りだ・・(-_-;

俺「・・・だよねぇ。俺もこの話しが他人事なら叔父さんと同じ事を言ってたと思うよ。でも自分の親となるとなかなか踏ん切りがつかないんだよねぇ。。」

この後は込み入った話なので、中略。そして最後は

叔父C「分かった。いざそうなった時は俺が背中押す。それでいいだろ?」

俺「イイ歳して甘えてごめんね。。。宜しくお願いしますm(_ _)m」


叔父達に色々と叱責されたが、実は悔しくもなく腹も立たず、むしろ嬉しく思えた。
親父の代わりに怒ってくれた、って感覚が妙に嬉しく思えたのだ。
考えてもみれば、親父は存命してるとは言っても入院と認知症によって、事実上、父親&母の旦那としては機能しなくなってたもんな。

また、叔父Aは叔母Aがこの家の血筋の旦那なので血のつながりはないのに、オイラが幼少の頃から我が子かの如くよく叱ってくれてたな。歳を取ってさすがに少しは丸くはなったものの、口の悪さと説得力は十分健在だった。

そもそも、親の世代に怒られるっての、何十年ぶりなんだろうか?

50を超えたイイ歳こいて親(の世代)に怒られるのは情けないもんだが、それ以上に「歳を取ってから怒られるのって、有り難いもんだなぁ」とシミジミと感じた。

俺にとっはは今回の訪問での一番の収穫だ。

友人や家族も有り難いが、親族も有り難いもんだな、と再認識。
…実のところ、親族への有難味は冠婚葬祭以外ではこの日が初めて実感したかもしれない。。。



隣りの女部屋も話題が落ち着いたようだ。
程なくして叔母夫婦はお先に~、と帰宅した。

時計を見たら15時を回っており、いつの間にか母と嫁の間では帰りがけに嫁側の母親の見舞いにも行こう、となっていた。
なので我が家もそろそろ退散させて頂く事にした。


この叔父C宅というか祖母宅に来る度の唯一の有難迷惑な事。それは土産を余りあるほど持たされる事だ。
事前に「今度こそ土産は無くて or 少なくていいから」と伝えていても、やはり大量の食材や菓子を持たされた。
モコじゃなく普通車で来てよかった。。。

ただ、毎回楽しみにしてる土産の1つは今回も持たせてくれたので、それだけは有り難くこの数日は晩酌代わりに頂いてる。

自家製の「あんこ」だ。

一食分取り分けた後の画像ですんまそん。。。


今は亡き祖父が存命だった頃、この家は自家製の和菓子屋を営んでいた。
饅じゅう類、羊かん類、の定番和菓子は常に20種類近く作って店頭販売していた。
俺はガキの頃からその中でも田舎饅頭とかしわ餅(5月限定)が大好物。
というのも、その中に入っているあんこが絶品なのだ。
親戚だからって贔屓やお世辞抜きで、本当に美味すぎる。
シンプル且つ甘過ぎず微かな塩っ気もいいアクセントで小豆の潰れ具合の食感が絶妙。どんだけでも食べれてしまう。

オイラは物心付いた頃から和菓子はこの家の菓子しか食わされてなかった。←変な意味は無く、単に経費節減 
だからこの味に慣らされてしまったからか?とも思ったが、店を開いていた頃の子供の日(5月5日)の時期になるとこのあんこが入ったかしわ餅がバカ売れになるから間違いないだろう。
うろ覚えを少なめに勘定しても裕に5千個/日以上は売れたほど。ネットなんぞ無い時代だから生のクチコミで広がったのか、わざわざ島田や浜松から100個単位で買いに来るお客さんも居たほどだった。

余談だが俺が小学生一杯くらいまでのGW時期は決まってこの家に泊まり込みでかしわ餅作りをやらされていた。
この時期だけは親族大集合。
出来上がった餅にあんこを入れて包んだり柏の葉を包んだり、箱詰め、時には店頭で売り子をやったり。。

この時期以外ではまず見た事が無い、レジの中に聖徳太子(当時の1万円札)が大量にあったのを見て「この店、ボンボロだけど実は超お金持ちだったのか♪」と子供ながらに思ってたっけ。←実態は他の期間が赤字で年間を通してトントンしかならんかったらしい。

昼食時は忙しすぎるので葉で包む前のかしわ餅をつまみ食い的に済ます。3~4日で総計30~40個は食べた筈。だからさすがに後半時期は飽きたっけ。
あ、、、だから当時の我が家は子供の日でも柏の葉に包まれたかしわ餅を食べた事が無かったな。。(・_・;

そしてGW最終日に爺ちゃんから「はいご苦労さん!」とバイト料代わりの小遣いを貰ってお役目終了。
伊藤博文(当時の千円札)を2人くらい貰ったと思う。
今にして思えば総計20~30時間は裕に働かされて2千円とはどんだけ時給が安いんじゃwと冗談で突込みたくもなるが、
当時はお年玉以外で唯一貰える伊藤博文なのでめっちゃ嬉しかった。
でもそのままおもちゃ屋に向かって欲しかったスーパーカーのプラモを買って終わってたなー(遠い目)。


そんな店も爺ちゃんの他界と共に跡継ぎ不在で店を畳んでしまった。
それでもこのあんこのレシピだけは婆ちゃんと叔父Cの頭に焼き付いてるので、今回のような訪問時には作ってくれるのだ。

正直な所、土産はこのあんこだけで良いんだけどねぇ(^^;
しかし厚意だからなかなか断れん。。。((-_-;;


帰り際、俺と婆ちゃんだけが玄関に居た時の事。
毎回のお約束で婆ちゃんに小遣いを渡し(叔父にバレると怒られる)、婆ちゃんは恐縮しながらも受け取ってくれるが、そこで寂しそうに呟いた。
「私なんてもういつ死んでもいい年なんだからさ、お母さんと(病気を)代わってあげたいよぉ。。。」
・・・やはり母親ってのはそう考えるもんなんだなぁ。。。

後で嫁から聞いたが、女部屋で話してる時、母は殆ど自分から話しをしなかったのだそうだ。
昼の友人と話した時よりかは数割増しで話したそうだが、全般的には全然話さなかったも同然らしい。
・・・病状が進み、声量が小さくなると共に喋る気力が失せたせいだと思う。
その様子を婆ちゃんはずっと見てただろうから余計に心配にもなるんだろうな。

俺「なったもんは仕方ないよ。俺も口喧嘩を売りながらだけどどうにか支えるからさ♪」
婆「あんな身体になっても口喧嘩はするのかね!?それは良かった!」

・・・喧嘩自体は好ましい行為ではないが、喧嘩、それも口喧嘩ってのは脳ミソを回して「次はどう言ってくるか、どう返してやるか」と頭をフル回転させようとするのだから、この病気のリハビリにもなるのだ。
・・・度を過ぎるのは不味いが。。。
婆ちゃんもそれを何処かで聞いてたらしく、そして孫と口喧嘩をしてると知って少しは安堵してくれた。

でもホントのところは、最近は喧嘩する気になれないほどに身体も頭(脳)も衰退してきてるので、口喧嘩は殆ど無くなってしまった。だから婆ちゃんにウソをついちまったかなぁ、って少々自己嫌悪。。


土産をごっそり積んで叔父宅を出発した。

帰路の箱根越えも異常なほどに車が少なく、順調だった。
国道1号の箱根の静岡側(登り車線)は整備されて片側2車線区間も増えたので、遅い前走車がいても追い越しラクラク。
・・・と思ったのだが、ルーミー、じゃなくてジャスティか(実は今でも名前をすぐ忘れる)では3名+荷物満載状態(推定総計220kg)での登坂はかなり厳しい。
ドンクソ遅い、って事は無く大型トラックについて行く程度のペース(登坂で50km/h定速)は出せるが、いざ抜こうとして追い越し車線に出るもCVTでエンジンは高回転になるも、音ばかりで加速は僅かなのだ。

箱根+人数+荷物の組み合わせでは、トール・・・じゃねーっつーの、ジャスティN/Aでは辛い、が結論ってとこだろうか。ターボを試してみたいが、別(内装)の視点で代替候補になるのは無さそうなので、これまでにしとこう。


箱根を超え、西湘BP、そして途中で降りて嫁の母親の病院へ。

嫁と母を病院玄関で降ろし、自分は駐車場へ移動+一服(ーoー)y-~~~してから中へ。
ところが俺が病室に着くやいなや、母がもう帰ろうか、と言い出した。

何?なんか変な事でもあったのか?・・・と疑心暗鬼になって嫁にコソコソ話で聞いたら、、、
嫁のお袋さんから出てくる言葉に嫌気が差してしまったらしい。
「寝てばかりで疲れたー」「つまんない」「リハビリしたくないー」等々。
前日に大阪に住む長男が突然見舞いに来たそうだが、同じような言葉ばかり言ったせいで怒って帰ってしまったらしい(^^;

母も今までくらいに頭が回れば「そんな事を言ってないで頑張りなさいよー」くらいは声掛けできてた筈なのだが、返す言葉が思いつかなくて居にくくなってしまったそうなのだ。

嫁の母親にも参ったが、自分の母もまたさらに頭の動きが悪くなったのかなー。。。


その後は母と嫁が「お腹すいた」と言い出し、途中の回転寿司屋へ。


日がまだ沈んでないというのに、嫁は喋り過ぎ、母は久しぶりの外出で動いたからなのだろうか。
一方の俺は昼食のうなぎ弁当を母が残し、婆ちゃんも寿司を残したので残飯整理係をしたため、全く食えず。
・・・味噌汁のみ、というオイラ史上最少の夕飯だった。


そして母を送り届け、GSでガソリン補給(満タン返し約束)し、タンクを←くどい・・・ジャスティをDに返却しに行った。

そしてようやく帰宅。

帰宅後すぐに叔父C宅へお礼の電話をした。
そして叔母Aの家にも電話した。
電話に出た叔母Aは既に叔父Aから今日の男部屋の概要を聞いていた。
今後の方針にも理解を示してくれたが、心底ではどうなのだろうか。。
「姉ちゃんがこうなったなんて実はまだ信じられなくてさ。。。まだ気持ちが受け入れられないんだよねぇ。。」
と寂しそうだった。。
「でも私の事は気にせずにね、何かあったら自分達の考えでやって良いからね!姉ちゃんの事、頼むよ!」

俺「ちょちょちょ!まだ死ぬ訳でもないし永遠の別れでもないのに変な言い方しないでよ~w」
と何とか少し笑わせ、また遊びにも行けるはずだし連絡もするから、と伝え電話を切った。


ここでようやく小腹が減り、今日貰ったあんこで

おしるこにした。



その後、深夜になってから再び実家へ行った。これは毎晩の日課。
また大きな転倒で身動きができなくなってるかもと思い、毎晩、就寝する前後(大体23時過ぎ)を見計らって様子を見に行ってるのだ。
だから口が悪い我が家では「生存確認」と呼んでいる(^^;

行ってみたらベッドでテレビをボケーーーっと見ていたが、久しぶりに親兄弟に会えたせいか、心なしか表情も顔色も良く見えたので連れてった甲斐があったな、とホッとした。

これでこの夜は俺も気持ちよく寝れるだろう、と安堵した。








・・・・ここで終われば「結果はオーライ♪」なブログで終わっていただろうねぇ(・_・;
しかし世の中、そんなに綺麗に終わる話しは無いのだd(・_・;


ふとキッチンを見渡すと、医師やケママネから「絶対禁止の絶対約束!」とされてるガスコンロを使った形跡が見つかった。
料理好きだったお袋がコンロを使えんってのは可哀想な話しだが、火災への注意能力が劣り速攻消化の動きもできない身体になったからには絶対的に容認しちゃならん事だ。

俺「あのさー、ダメって約束したコンロ、使ったでしょ?」
母「え?(・_・;;使ってないよ?ホントに使ってないよ。」
  ↑補足:二度言いする時は大体ウソをついてる時、と研究済み(^^;
俺「嘘こけよー(-_-;。小鍋に(今日貰った)あんこがベッタリ残ってるぞ?」(そして実物を見せる)
母(バレたか、な表情になり無言。)
俺「なんで鍋にしたん?」
母「レンジより鍋の方が(火にかけた方が)美味しいからねぇ。。。」
俺「じゃー、今日は調子良かったから良しとするけど明日からはまた絶対禁止だよ。次にやったら今度こそ先生(医師)にチクるからね!」
母「先生にだけは・・・(-_-;」

・・・なんだか、文字にすると親子が反転したような会話だな(・_・;

それよか、きっとまた目を盗んでやる筈だなぁ。
ホントの火事になる前にマジで対策考えなきゃ。。。

こういう事が鬱積するから、結局この夜も寝つきが悪かった。


中途半端な終わり方ですが、
おしまい。



こんなつまらんブログを最後まで読んだあなた、、、

Posted at 2017/04/08 00:54:54 | コメント(5) | トラックバック(0) | 介護 | 暮らし/家族

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