
自分なりの東日本大震災の体験記です。
東京都心での被災ですので東北の悲惨なレベルに比べれば屁にもならないレベルです。
当時の事を時系列で書き並べただけなので起承転結が無いどころか何の面白みもないです。
あくまで自身への備忘録目的で書いてますので、基本、読まずにスルー希望です。コメントもいつ返せるか分からないので遠慮します。。。←だったらわざわざアップするなよ ←でも同様境遇に居た人が読んでくれたら懐かしがってくれるかなーと。。。
■本文■
東日本大震災から6年。
サンイチイチ。
サンてんイチイチ。
等々、色んな呼び方ありますが、オイラ的にはサンイチイチになってます。
9.11=きゅーいちいち(アメリカ同時多発テロ:2001(平成13)年9月11日)
2.26=にーにーろく事件(日本陸軍将校のクーデター:1936(昭和11)年2月26日)
に自然と併せたのかな。
みんカラ始めて4度目となったこの時期。
毎年この時期になると色んな人が当時の思い出を書かれてはそれを拝見してました。
それと同時に
「おっしゃ、オイラも自分の記録として書き残すか♪」
と思ったものの、書き出したら止まらず。。。
結局、毎年書きかけては途中で止まってた、の繰り返しでした。
ですが丸5年も過ぎた事だし、細かい事を忘れんうちに仕上げておこうかな、と。
なので、毎年書いた文章を半ば強引にくっつけただけなので、つぎはぎだらけで状況が前後してる部分もあるので、気付き次第、修正や加筆します。←いつになるのやら
2011(平成23)年3月11日。
その日は東京都心の職場勤務だった。
某高層ビルの30階に勤務。
このビルは今時の免震構造ではなく耐震構造だった(と地震後に知った)。
ま、築20年は経過してるそうなので現代の主流となってる免震構造なんて無かったか。
■地震発生■
何の予兆も無いまま14時46分を迎えた。その時は自席でパソコンをパチパチしてた。
縦揺れで始まった。
椅子に座ってる尻にズンズンと軽い突き上げを感じ、そして今度は緩やかな横揺れに。
いつもの如く周りの同僚たちと「あー(地震が)来たね~」と話す。
いつもだったらそのまま揺れは納まって地震ネタの会話もそこで終わり。
が、この時は違った。
横揺れが徐々に激しさを増し、「ちょっ、、、ちょっとこれ、デカいんじゃね?」と、いつもの地震とは大きく違う感覚に焦りだす。
過去の地震でもそうだけど、高層ビルの高層階(中層階?)での揺れ方は1階とか数階での揺れ方と全く違う。
TVなどでしばし見る自身の再現映像だとか地震シミュレーターの揺れ方とは違い、揺れの振幅速度は少し遅く、しかし揺れの幅(長さ?)がやたらある感覚。
後の報道で知ったが、すぐ近くの同じ構造の54階建てビルは3秒間に108cm、28階でも52cmも横方向に揺れていたそうな。・・・http://www.nikkeibp.co.jp/article/sj/20110511/269504/?P=6
まさしくそんな感じの揺れ幅だった。
床続きの営業フロアに目を向けると、営業マンは大半が外出中だったがそれでもアシスタントの女性陣を中心に40~50人くらいが居た。
皆、自席に座ったまま両手でデスクを突くように支えて揺れに耐えようとしてる。そして一体どう対処したら良いの?的な表情になり、徐々に口数が無くなる。
営業フロアの遠くの方を見るとこの部門のトップの事業部長が居た。だが彼も頭が錯乱状態なのか「ハトが豆鉄砲食らった」かの如くの表情のまま微動だにしない、いや、しないじゃなくできない、か。
大地震の時にありがちな「みんな、逃げよ~!」なんてできないくらい揺れが激しいので、自ら動こうなんて発想ができないのだ。
フロアの書棚は地震に備えて壁面に固定してあれど、ガラス扉越しに見える中の書類は大暴れ状態。そして扉のないオープン棚からは15cm幅サイズの推定4~5kg前後の大型書類バインダーが何冊か滑り落ちた。
天井から吊るしている物は無いが、天井版がミシミシと鳴き出し、このままさらに揺れて歪みが増すと天井に埋め込んだ棒状の蛍光灯も歪められて割れてしまうのでは?と不安に思い始める。
こういう時って消防法で定められたフロア防災責任者が音頭をとるんだろうけど、こんな凄まじい揺れは誰もが初体験だろうからか防災責任者の総務部長すらも揺れに耐えるだけで必至そう。
しゃーないので不肖私がフロア中に聞こえる大声で、いや、聞こえるように言わんといかんから怒鳴り声だったな、、、
「蛍光灯が割れるかも!机の下に潜れ~~~!」と怒鳴った。
「そこまで酷くはならないでしょ?」的に言い返されるかな?と思ってたけど意外に皆、「そーだよね!」と揺れによろけながら机の下に潜ってくれた。
後で隣りの部の部長から「よくあの状況で言えたくらい冷静だったねぇ~」と感心されたが、オイラも冷静じゃなかったよ。
けど、あまりのパニック状態で誰もが言葉を発する事ができずにいたので、誰かが言わなきゃあかんよな、って発想からだった。
それと、怯えて何も出来なかった事業部長や総務部長を見て少しキレたってのが大きかったかも。。。
それでも呑気な同僚が仕事のPC越しにどこかの気象サイトを調べ、
「震源は宮城沖らしいよ!震度7!」
「え~!東京じゃないの!?」
「し、震度、ななぁ~~!?」
「宮城って500kmくらいも離れるよね?」
「宮城で震度7だからってこっち(東京)がこんなに揺れるわけないでしょ!まさか同時多発地震だとか!?」
などと、揺れに耐えながらこんな会話もしてた。
そして自分も含めた何人もが携帯電話…当時は殆どの人がガラケー…を使って家族等への安否確認連絡も試みてみた。
でも、ダメ。全然ダメ。
リダイヤルボタン⇒発信ボタン⇒(不通音)⇒切ボタン⇒リダイヤル・・・を何回、何十回繰り返しても繋がらない。
しばらく後に同僚が「ケータイメールを何度か再送信したら繋がった!」と教えてくれ、皆一斉にメール(ドコモで言うiモードメール)にしたところ、私は10回くらいのリトライで送信できた。
あとは返信が来ることを祈るばかり。
数分後、そろそろ揺れが納まるかな?と思った途端に第二波の揺れが起きる。
油断しかかった頃に2回目なので私も皆も想定外で驚いた。
気弱そうな女性数名が「キャー!」と悲鳴を上げ、そして泣き出した。
でも誰も構わない。いや、構いたくても構える余裕が全く無いくらい、自分自身がどうしたら良いの?で頭が一杯イッパイ。勿論私もパニックでしばらくは他の事を構う事が出来なかった。
その直後、ガシャーン! と凄い音が聞こえたのでそっちに目を向けると、高さ1mくらいの棚に置いていたタワー型PCが落下してた。
ヤバい。出火でもしたら一大事だ。
部下と慌ててそこへ向かうも揺れが凄くてまともに歩けず。四つん這いな姿勢で落下したサーバーに辿り着いた。動作確認とか復旧なんて後回し。まずは火災だけは避けるために電源ケーブルを抜いた。つか、その程度の事しかできない状況だった。
でもケーブルを抜いた直後くらいには地震の直接波は止まったのか、恐怖感を感じさせるような強い揺れは納まった。
それからしばらくは、公園のブランコの如くゆ~らゆ~らと10分以上も揺れ続くのだった。
それが耐震設計ビルの動きなのだそうだ。←考えてもみりゃ当たり前。
そういえばビル管理室からの緊急放送はいつあったのか、は忘れてしまった。
少なくとも揺れ出した初期段階では無かった。
・・・その反省を踏まえ、この年の防災訓練から細かくそして迅速な対処ルールが決められたそうな。
■本震収束~避難所へ■
揺れが落ち着いた頃だったか、家族から返信が着信。
家族全員は家に居て全員無事。食器棚から何枚かの皿が落ちて割れた程度で済んだらしい。とりあえず安心。
長女からも「ラックの上のスピーカーが滑り落ちそうでずっとそれを押さえてた! おとん(私)が大事にしてたスピーカーを守ってあげたんだから感謝してよ!」と暗に小遣いをせびる(?)メールも来たので状況的には余裕があるんだな、と尚更に安心。
つか、地震が来たら真っ先に倒れるだろうなぁ、と思ってた食器棚が倒壊しなかったのは意外。
・・・後に確認したら、棚の下段に重たい物を集めてたので重心が低かったのが良かったのかも。
話しを会社に戻す。
耐震構造の高層ビルがこんなに長く揺れるなんて知らなかった。
地震はもううんざり。せめて免震型にしてくれ。。。
余談だが、この震災の数日前に採用したばかりの女性の派遣社員は、週明け早々「高層ビルでの勤務はもうできない」という理由で辞めてしまった。
他にも後述する筈の福島の原発事故をきっかけに両親と共に関西に移住すると言って出社せぬまま辞めた派遣社員も居たな。
揺れが収まってきた頃から皆も仕事そっちのけで情報収集に奔走。この時点では東北地方沿岸部に津波が来ると見た覚えがあるが、それよりも自分達がこれからどうなるのか、ばかりに頭が行ってたから眼中になかったのかもしれない。
そして自分たちにとって死活問題となる都心の交通機関が全て寸断されてると知る。
都心の鉄道が全線止まってしまったのだった。
こんな経験、生まれて初めて。陸の孤島ってまさしくこういう事か?
「マジ?(・_・;帰れねーじゃん?これが世に言う『帰宅難民』ってやつ?(^^;」とふざけ口調で周りと話してたが、この時点では心底実感してなかったからふざけられたのだろう。
その頃だったろうか、宮城に大津波が来た事をネットの文字で知った。
その少し前に聞いた時の津波予報では確か10mの高さと言ってたから、浜辺周辺はともかく、あまり大したことではないだろう、などと思ってた。
・・・この当時の素人想像では「10m程度の津波なら浜辺でもせいぜい数百mしか押し寄せないだろうし、防波堤や岸壁があるとこなら被害ゼロでしょ?」としか思ってなかったのだ。
だからそれよりも部下や同僚の帰宅の方策、そして自分の帰宅、に頭が一杯だった。
■意味のない広域避難所へ移動■
総務部がビルの管理室と協議し、広域避難所に一旦移動する事になった。
帰宅指示が出るのに備え、帰り支度の格好でね、とのオマケ付。
このエリアの指定避難所は500mほど離れた大きな公園だ。
外は寒いだろうから移動前にトイレに行っておこうと行ってみたら、、、個室(大きい方)は珍しく満室。
そして各個室の扉越しに「ゲ~~~ッ」「オ…オェ~~~ッ」と聞こえる。。。
そう。下からではなく上から。リバースってやつ。
あの揺れ方だったから船酔いみたいになったのだろう。
「頑張って出し切ってね~」とだけ言ってやった
さて、避難場所に行くには30階から1階まで降りなければならない。
当然、エレベータは緊急停止したまま。だから階段で下りるしかない。
それ自体は年に一度の防災訓練歩いてるので大したことではないが、いざ本番で降りるとなるとやはり心なしか落ち着かない。それでも他の階から降りてくる人達も含め、比較的に落ち着いていた。
ただ、石膏ボード製の壁面(使用頻度が低い非常階段だから材料ケチってるんだよね)のところどころに巨大な亀裂や割れ落ちたところを見る都度に「これ、ヤラセじゃなくリアルに出来たんだよねぇ?」と思うとゾッとした。
広域避難場所の公園に移動した。
点呼を取って全員居るのを確認。
その後、どうなるの?どうするの?オフィスのビルの安全はエレベータ以外は確認できてたから戻る?
答えは「まだ何も決まってないからしばらく待ってて」だった。
受け身の立場で見てたらイライラしてただろうなぁ。
・・・当時は震災後の対処方法に詳しいルールを定めてなかったので、その都度に総務部長が人事部や社長室と連絡を取り合っててバタバタしてたっけ。
寒い中を30分ほど待っただろうか。結果、即時業務中断+帰宅指示が出された。
但し鉄道が殆ど動いてないので、遠方からの通勤者はオフィスや近隣のホテルに宿泊を推奨、とした。
もっとも、そうなる事を見越していた同僚が近隣のビジホを調べていたが既に全て満室だったそうな。マン喫にも問い合わせたけどこれまた満室でいつ空くか分からないそうな。
これで居場所は自分たちのオフィスしかない事が確定。。。
それにしても、そこそこ寒い天気の日に防寒はおろか風を避ける設備も無い公園に来た意味はなんだったのだろう。
オフィスの建物構造に異常がないのは割と早いうちに分かってた。
停電にもならなかったので照明もあるし暖房も効く。
水道も問題無いのもすぐに確認が取れてた。(備考:ガスは元々ない。)
だがこの当時はそれらの確認とは一切関係なく、「大災害時には避難所に行きましょう」ってルールしか無かったからだ。
さて私の自宅までは推定60~70km。
既にJRは終日運転打ち切り+翌日の運行も全く未定を発表済み。
徒歩で12~14時間歩けば帰れる計算だが、家族の無事は分かった事だし、途中で食料・飲料が入手できるかの保証がないため断念。他の中長距離通勤組の約10人+総務部長とでオフィスに戻る事にした。
その他大多数の社員は自宅が20km以内だそうなので、その連中達の殆どが5kmくらい離れた渋谷に向かって歩いていった。
自分の部下も全員渋谷に向かった。(渋谷には多方面に向かうバスがあるのだそうだ。)
「お前らの事だから渋谷に行っても帰らずに飲むんだろ~?w ま、固い事は抜きにして飲んでも確実に帰れるルートを見つけて帰ってくれや」と見送った。
そう言えば事業部長はマイカー通勤だからと数名の部長を連れてさっさと帰っちまったな・・・(-_-;
この部門のトップならば全員が帰るまで会社に残れよ~。
と思ったが、そこまでするのは戦争の時に沈没する戦艦の艦長か。。。
かくいう自分も、部下は勿論、周りの若い連中にしばし気を配るも、終始そうしていたわけじゃないからな。
やはり自分自身が帰れるのか?、家族のその後は?親は?あ、嫁の親はどうだ?とか、他の事にも頭が行ってたのだから文句は言えないな。
■オフィスに戻る■
オフィスに戻るべくビルの1階まで戻れど、エレベーターはまだ動いてなかった。
被害は無いようだが点検しないとしないと動かせられないという。そしてその点検をする業者がまだ来てないのだそうだ。
その時は「まじかー!(>_<)」と仕事が遅い事に嘆いたが、後で詳しく分かったがそりゃそうだ。
既に周辺の道路は大渋滞となってるので到着が遅れてる。そしてこの周辺の全ての高層ビル全てが止まってるであろうから、恐らくは1000~2000基のエレベータを10社に満たない程度のメンテ会社が診なきゃならんのだろうから仕方ないだろう。
だから30階まで階段で歩く羽目に。
日が暮れ始めた頃だから17時半くらいだったか。一旦オフィスまで戻ってもその後に夕飯で下に戻る、そして往復すのは大変だろう、と皆でコンビニで弁当や酒を買い込んでから階段を上る事に。
その時点ではコンビニの在庫はまぁまぁ有ったような記憶。
さぁ、30階めがけて上るぞ!
しかしこれが予想を超えるほどに疲れた。
自宅のマンションでも「健康のため」とばかりにたまにエレベータを使わずに階段で乗降してるので、「10階毎で少し休憩すれば余裕でしょ♪」と思っていたら大間違いだった。
最初は10階くらいでヘバってしまい数分休憩。そして5階くらい上ってまたヘバり、の繰り返しで結局30階まで7回くらい休憩しながらの帰還だった。
歳と運動不足を強ぉ~~~く感じた瞬間だった(>_<;
よくよく考えてもみれば、一般家庭向けのマンションとオフィス向けのビルとでは1フロアの高さが1m以上の違いが有るもんな。マンションに例えれば40~50階相当の高さなんだよね。
ほんと、今後人事異動があったら、今より高いフロアは丁重に、いや、強硬に辞退しよう、と思った。
オフィスにようやく戻りつき、何はともあれでっかい画面のテレビで情報収集しましょ、と会議室の大型テレビをオフィスの大フロアに持ち込み、皆で状況確認する事に。
オフィスのフロアにはTVアンテナのコンセントは無いが、実験室から電線部材を持ち出してTVのジャックに繋げたら映った。
さすが東京タワーから近場なんだなぁ、と感心。
(注:当時、東京スカイツリーはまだ建設中)
■各地の被災状況に驚愕する■
しばらく帰宅できない気分をふっ飛ばすために誰からともなく
「さぁ~今夜は仕事はしなくて良いから気楽に過ごそう♪」
などと言いながら早速ビールを開けて乾杯♪
そしてテレビをつけて最初に映ったのが渋谷駅周辺の大混雑だった。
同僚達と同様に、渋谷に行けばバスがあるだろう、と思った人達が大集結してたのだった。
ぱっと見ただけでも何千人って規模の人達が映ってる。5千人は下らなかったんじゃないか?
・・・これじゃバスが数百台あっても足りやしない。
「あいつら可哀相に~(^人^;、(画面に向かって)こっちに戻ってこいよ~」
などと酔い始めでもあるので笑ってた。
そして他のチャンネルに変えた。
そのチャンネルでは千葉のコンビナートが大炎上していた。
「マジっすか!うち、ここから数kmのとこですよ!(@_@;」
と同僚がさらなる帰宅目途がつかなそうな状況にガッカリしてた。
そしてまたチャンネルを変える。
そのチャンネルでは茨城?福島?の沿岸部の日産の完成車モータープールが映った。
スカイラインらしき車が100~200台くらい並んでいたから北米輸出用インフィニティかな。
そこに津波が押し寄せ、スカイライン達が次々にぶつかり合いながら津波に飲まれていくのだった。
「まじ!?勿体ない!(>_<;」
「これ、売れずに廃車だよね?」
「軽く凹んだ程度のクルマだったらタダでくれないかな?」
などと、哀れみを感じながらも酒のお陰でバカも言う始末。
そしてまたチャンネルを変えたのだったか、その局のままで中継場所が変わったのだったかは覚えてない。
そこからが壮絶だった。
岩手や宮城、そして福島の津波映像だった。
本震以後、私も含め数名が何度かケータイのワンセグTVを見ていたが、津波が襲ってきた時の映像は初めてだった。
この時になってようやく東北がとんでもない事になってるのを知った。
ガキの頃に「日本沈没」というドラマを見たが、、、
確か、東芝日曜劇場の枠だったかな、、、
まさしくあんな感じの映像が目の前を襲ってきたのだった。
そして今でも胸に突き刺さったまま頭から離れなくなった映像を見た。
地名は覚えてないが、漁港の映像だった。
カメラの向きは終始固定だったので防災カメラだろうか。
津波の後の、陸から引き潮がだくだくと港の岸壁に流れ戻ってくる映像だった。
「すげーっ!こんなとんでもない水量が戻るほどの大きな津波だったの?」
とこれだけでも十分驚愕モノだったのだが、その引き潮を眺めていたらどんでもない事に気付く。
どう見ても人の身体としか思えないもの、、、水面に浮かんでる部分だけしか見えないが、多分、脚とか腕だと思う・・・がいくつも引き潮に流され、岸壁へと飲まれて行くではないか。
誰かが「今の・・・、人、だよ・・・ね?」と聞いた。
私も他の同僚も同意したくない同意の表情をするのがやっとだった。
後に様々な震災特番が放送されるも、その時の映像はそれっきり見た事が無い。
さすがに不味すぎる映像なのだろう。
酒の酔いが一気に冷めてしまった。
いや、こんなもんを見てしまったら酔えるわけがない。
既にビールを3~4本空けた営業氏が
「俺達さー、あんだけの揺れを受けてかなりの被災者気分だったけど、これに比べたら屁にもならんよね」
と言ったと同時に顔面蒼白になり、トイレへ吐きに駆け込んでしまった。
日頃はビッグマウスな彼だが、こういうのには誰よりも弱い。
こういう時に人は普段見せてない部分をさらけ出しやすいのかな。。。
その後も各地の悲惨な映像を見た。いや、見させられた、っていうか、
見たくないのに見てしまった、というか。。。
その後も何時間経っても各地の中継、そしてこの時を待ってました!とばかりに地科学系の学者だか似非評論家みたいのがこの地震のメカニズム説明の繰り返し。
9.11(北米での同時多発テロ)の時などは自称軍事評論家が出てきて勝手な憶測を並べてた、あんな感じ。
あの時(9.11)は他国での出来事でもあるからか、わりと冷めた目で見れたので「くだらん御託を並べるだけでギャラ貰いやがって(-_-;」と聞く耳を持たんかったけど、今回は違う。
この後はどの程度の余震が来るのか?
家に帰れるのか?
週明け、出社できるのか?
色んな不安というか疑問が渦巻いてたので、似非でも何でもいいから可能性のある情報なら仕入れておきたい気持ちのが強かった。
そしてまた岩手宮城エリアの新たな津波や火災映像が流れる。
過去の大規模な災害、、、そう、阪神大震災の時も次から次へと新たな被災映像が流れていたっけ。
ただ、失礼ながらあの時は自身は全く被災していなかったせいもあってか、傍観者な視点でしかなかった。
せいぜい「いずれ募金活動するから奮発しないとな!」程度だった。
しかし今回ばかりは違った。
上手く書けないが、自分達も被災した影響が強いんだろうな。
23時ごろ、エレベータが復旧したとの館内放送が流れた。
飲み直したいのに階段で行くのはもう嫌だったので感謝感激。
皆で地下のコンビニに買いに行ったが、、、
まるで、今日で店じまい?な光景だった。

震災当日に何故かこれだけはケータイカメラで撮ってあった。。。
ほとんどのモノが売り切れ。
恐らくは他のフロアに入ってる企業も会社に泊まり込みを決め込んでまとめ買いしていったのだろう。
■帰宅できる♪のか?■
それらの報道の間、TV画面の上や両サイドには各地からの速報や交通情報が出ていた。
自分の通勤路線、JR東海道線は勿論、都心のJR路線は終日運休の全滅宣言のまま。
一方で私鉄地下鉄は少しずつではあるが復旧予告が出始めた。
復旧線区に住む同僚達は帰宅しだした。
そして23時くらいからの字幕だったか、今度は小田急電鉄が24時から運転開始、と表示された。
それも終夜運転するのだと。凄い!
それに引き替えJRは東海道線以外も全く動こうとしない。
・・・ったく、JRめぇ。。。国鉄気質が抜けずにたるんでるな!凸(-_-;とその時は思った。
JRに頼ってたらいつに帰れるのか分かったもんじゃない。
だから他の私鉄で少しでも地元に近いところまで行って、そこから路線バス、最悪は徒歩しかないな、と思ってた矢先に最も地元に近い私鉄の小田急が動き出す事になってホッとした。
24時を少し回った頃に、小田急沿線に住む同僚が先発隊として帰宅した。
そして新宿駅から電話してくれ、運行本数間隔や混雑具合を教えてくれた。
感謝m(_ _)m
ロマンスカー(特急)と快速急行はさすがに動かないが、急行と鈍行が動き、昼間のダイヤを12時間反転したダイヤで動いてるのだとか。
通常なら終電なんてとっくに出た時間なのに、帰宅難民を配慮してか大盤振る舞いな発車間隔じゃないですか!
小田急、すごいぞ!
それに引き替え我がJRは。。。(-o-; ←くどい
■意外と時間がかかった帰宅■
私は飲みかけの酒の後処理などもしてダラダラしてたせいか、結局午前2時半くらいに会社を後にした。
その時点でまだ4名居残っていたが、買い直した酒で酔いが回ってるのか
「もぉ~めんどくさいから会社に泊まる!♪」
だそうだ(^^;
小田急小田原線で本厚木まで行き、そこから約13kmで自宅。
小田急江ノ島線で藤沢まで行き、そこから約15kmで自宅。
いずれもどうにか徒歩で帰れる距離。バスが無くても夜明け前には自宅に着くだろう、と思ってた。
ところがいざ小田急の駅に着いたら急行は運行中止に。。。
ま、いっか。。。
丁度、本厚木行の鈍行があったので乗った。座席は空いてなかったけどさほどの混雑ではなかった。
鈍行に乗っても急行に抜かされないからホイホイ進むだろう、と気楽に考えてたけど、そこは12時間反転ダイヤ。急行に抜かれる駅ではしっかりと3~5分も停車するのだった。
厳冬の1~2月は過ぎたとはいえ、深夜の午前3時くらいに停車駅の度に扉が全部開くのはなかなか寒くてしんどい。
だからか、途中の駅から車掌が気を利かせて1車両あたり4扉中1扉のみを開けるようにしてくれた。
有り難い。。。m(_ _)m
こんな配慮、JRにはできるかなぁ? ← しつこい
てか、1扉だけ開閉操作ができるなんて初めて知った。
がしかし、ダイヤ通りなら1時間と少しで本厚木駅に着く筈なのに、結局3時間近くもかかった。
その遅れの主要原因はしばし起きる余震の度に減速、徐行、時には停車して安全確認を取るからだ。
それは仕方ない。
そういえば、時折ケータイから鳴り響く緊急エリアメール。
びーっびーっびーっ、、、あれ?ぶーっぶーっだったっけ?
そこそこ混んでる電車の中では殆どの人のケータイから同時に鳴り響くからやかましいのなんの(^^;だったな。
何度も鳴るわりには大きな揺れは来ないので、徐々にオオカミ少年みたいに感じてきた。
・・・本震の時に鳴れっつーの(-_-;
ただ、そのエリアメールの1つだったか、ヤフーに自動送信登録してた災害メールだったか、「長野県で震度6」ってのが着信した時には車内が凍りつく気配を感じた。
皆、帰宅難民ばかりなのか同僚や友人同士で乗り合わせてる人は居ないようで、誰もが会話なぞしてないんだが、このメールが届いた時には車内のあちこちから溜息や絶句が充満したのだった。
恐らくは私と同様「東北だけじゃなく長野でも大きな地震、一体日本はどうなっちゃうんだ・・・?」な感じだったのかな。
結局、長野方面で目立った大きな地震はそれ止まりだったようで良かった。
でも後日に原発が爆発して「一体、日本はどうなっちまうんだ?」と再び思う事になるなんて、この時は予想だにしなかった。
それから数時間が経った午前5時50分くらいだったか、ようやく本厚木駅に着いた。
事実上、徹夜の朝帰りな気分。
だからなのか、電車から降りる人達の顔に「さぁ、もうすぐ家だ♪」なんて表情は誰一人として無く、ひたすら疲れていた。
改札を出てバス・タクシー乗り場に向かう。
この時間なら初バスがある筈。15kmくらいもあるのだからやはり少しでも楽して帰りたいので地元の駅行きに乗ろう、と思ったもののバス乗り場にはバスが1台も止まってなかった。
それどころかタクシーもマイカーでのお迎えも1台も居ない異様な光景だった。
時刻表を見るとこの時間でもある筈なのにおかしいなぁ、と思ってたらバスの運ちゃんの制服を着たおっさんに呼びかけられた。
「お兄さん、バス乗りたいの?」
「ええ、XX駅行きに乗りたかったんだけど、しばらく来ないんですか?」
「すみませんねぇ。夕べの小田急終夜運転に併せてウチ(神奈川中央交通)のバスも終夜運転にしたので、どのバスもその後の運転手が確保出来ないわ、おまけに燃料もあまりないのでしばらく出れないんですよぉ~」
「がーーーん(>_<;」
しゃーない、歩くか。。。(-_-;
と一瞬は思ったものの、朝まで一睡もしてなかったので頭がボーっとしてるし身体もけだるいので、金はかかるけどタクシーにしよう。
とタクシー乗り場に振り向いてみるとタクシーは1台も居ず。不思議なのは待ち客も一人も居ない。
小田急から大量に降りたお客さん達ってみんな歩いて帰ったのか?(・_・?
そこへ運良くタクシーが1台やってきたのでそれに乗り込む。
乗り込んでから「しまった、現金持ってたっけ?」と慌てて財布の中を調べると5千円しか残ってなかった。
夕べの酒代。居残った管理職が私だけだったので気遣いとプライド?意地?いや、見栄だな?で1万円札を出してしまったまま釣銭を貰ってなかったんだっけ・・・(-_-;
「すんません、XX駅方面に向かって欲しいんですけど手持ちが5千円しかないので(^^;、メーターが5千円になる手前まで乗せてください(>人<)」
「お~(笑)、全然問題ないよ♪」
乗車中はずっと昨日の運ちゃんの話しばかり聞かされた。
本震からほどなくして鉄道が全部止まってしまったせいで厚木近辺の道路はこれまでになかったほどの大渋滞だったそうな。
あまりに動かないので客に「このまま行くよりも降りて歩いた方が早いですよ?」と促すも「いえ、これに乗るまで20kmくらい歩いてきてもうヘトヘトなんです。お金かかって良いから乗せてってください」だとか、
運ちゃんのシフト勤務時間が終わって回送(タクシー会社へ帰還)中に停められ横浜に行きたいと言われるも、何時間かかるか分からないし、ガス(燃料)がもう無いんだよ、と断るも、「お願いです!どうしても行かなきゃならないんです!XX万円(←失念)払うから連れてってください!」と泣きつかたり、とか。
なんでも労使協定が厳しいタクシー会社らしく、無線で相談したけどシフト厳守で断れ、だったそうな。。。
もう散々な日だったらしい。
でも勤続十ウン年の中で3本の指に入るくらい売り上げが良かった日でもあったそうな。
「人間ってこういう緊急事態になるととんでもない事をするもんだねぇ。札束で顔を叩かれるような事を言われたのは初めてだよ~」
と同時に
「お客さん(私)みたいに5千円しかない、って人も居るんだから、ほんと人間いろいろだよねぇ~(爆笑)」
・・・すんませんねぇ(^^;
でもそんな売上げレコードを記録したばかりのおかげで
「今日もあまり売り上げがあっても自分の成績にはならないからね。だから途中でメーター止めてお客さんの家まで行ってあげるよ♪」
・・・感謝感激モノでしたm(^o^)m
自宅までもうあと僅か、ってところのJR東海道線の踏切まで来たところで降ろしてもらった。
踏切には貨物列車が停まっておりすぐには開かなそうなのと、どうせだから近くの吉野家の朝定食を食ってから帰ろうと思ったからだ。
運ちゃんに丁重にお礼を言って降り、タクシーで来た道を少し戻って吉野家に向かう。
この吉野家、以前も何度か朝定食を食べに行ったことがある、が朝はいつも閑散としてた。
それがこの日ばかりは駐車場は満車+沿道の国道に2~3台駐車場待ちが並ぶほどの大盛況。
昨日から皆が生活ペースが狂ってるんだろうな。。
焼鮭定食を食べたかったがなんと売り切れ。
仕方なく、というより、吉野家ならやっぱりこれか。
「注文お願いしまーす。並、玉子、味噌汁ね♪」
お新香も付ければよかったな。。。
それにしても徹夜明けの吉野家。入社間もない頃は徹夜が多く、その帰りの定番だったと思い出し、懐かしかった。
完食後、改めて帰宅の途に。
が、なんと、先ほどタクシーから降ろしてもらった踏切にはさっきの貨物列車が停まったままだった。
あ、、、地震直後からJRは全線ストップと言ってたから、まさかこの貨物列車は一晩中ここに停まったまんまか?
と気付く。
あ~~~(>_<)、家は目と鼻の先にあるのにぃ~~~!
一瞬、このまま貨車の連結部分あたりをくぐって渡ってしまおうか?(^^;と悪い考えも浮かんだが万が一に隣の線路に列車が来たらシャレにならん。
諦めて1.5kmくらいかけて回り道した。。。
最後の最後になって凄く疲れた。。。
■すぐ寝るつもりがTVに釘付け■
家に着いたのは7時を回った頃だったろうか。
案の定、家族全員まだ夢の中だった。
すぐに寝たいが、まずは風呂に入りたい。
風呂のスイッチを入れ、湧くまでの間、TVを点けた。
当たり前だがどの局も地震報道ばかり。
津波の映像も幾多も出てくるが、殆どが昨夜会社で見た映像ばかり。
一方で昨日からの震度5以上の地震回数(数字は失念)にはえらくびっくりした。
昨夜も電車の中で思ったっけ。「一体、日本はどうなっちまうんだ?」
などと思ってたら長女が起きてきた。
地震発生直後からの家の中の事、寝起きだというのに興奮気味に事細かに話してくれた。
地震が落ち着いてしばらくしてからお湯を出そうとしたらずっと水のままで湯が沸かせなかったらしい。
が、長女がスマホで検索してどこぞのサイトから地震による自動弁が閉じたからと調べ、自分で解除してお湯が出せるようになったのだそうだ。
高2のオナゴにくせにそんなん調べて直すなんて大したもんだと感心。
風呂が沸いたので入った。
あれだけの地震だったのに、水道も電気もあるしガスもある。幸せだ。
と日頃は空気と同じ程度にしか感じてなかったインフラに感謝した。
東北は散々な状態なのだから申し訳ないくらいだ。
湯に浸かったまま寝てしまったらしく、目が覚めた時は9時を過ぎてた(筈)。
風呂から出たら家族全員が目を覚ましていてしばし話したが、風呂で寝てたくせにまた睡魔が襲ってきて、そそくさと布団に潜った。
まさかその後に目覚めた数時間後に原子力発電所が爆発するなんて知る由もなかった。
とりあえず、ここで一旦打ち切ろう。
あれから6年経った東北。これからも頑張ろう!