こんばんは
7月6日(日)に埼玉県の行田に蓮と忍城の見学に行ってきました。
朝6時半に出発し、7時半ごろ古代蓮の里につきましたが
すでに駐車場は一杯で待つこと10分ぐらい。
蓮の開花期間中は駐車場は有料になります。
入場すると一面ハスの花で一杯で こんなに咲いているのは
始めて すっごく綺麗
クローズアップ
展望台にあがるとき、お近くにお住まいの歴史好きのみんともさんから
電話。みんともさんのお友達も一緒で忍城を見に行く共ことで、忍城で待ち合わせ
忍城
関東七名城に謳われた忍城は文明年間(1469~86年)の初め頃に築城され、上杉、
北条氏との戦いにも落城せず、石田三成の水攻めにも耐え、戦国の世を生き抜いた名城です。
パンフレットと似たアングルで写真撮影
合流後、みんともさんから解説付きで見学
みんとさんが 近くの史跡も回るとのことで、駐車場も考慮し、
愛車に3名乗り古墳群へ
ここは、忍城の水攻めの際に石田三成が本陣にした場所だそうです。
ここから忍城をみた風景は
な感じです。
ここで、小腹空いたので行田名物 ゼリーフライを所望
おからを主とし茹でたジャガイモを混ぜ合せ、つなぎに鶏卵を加えてコロッケのようにまとめて素揚げして作る[1いわゆる「おからコロッケ」の一種で、軽食としてソースをつけて食べられることが多い。
ゼリーフライの由来は、行田市持田にあった「一福茶屋」(現在は閉店)の主人が、日露戦争で中国東北地方に従軍した際、現地で食べられていた野菜まんじゅうを基にアレンジしたものと言われ、店売りされた詳細な年代は不明なものの、明治後期には既に確認されている。名称の「ゼリー」はゼラチンで固めた菓子の「ゼリー」ではなく、形状や大きさが小判に近いことから「銭富来(ぜにふらい)」と呼ばれていたものが訛り、「ゼリーフライ」に変化したともされているが、行田周辺の産物が布であったことから「布来(ふらい)」の説もあり、定かとはなっていない。
そこから石田堤
天正18年(1590年)の関東平定において、忍城城主・成田氏長は小田原城に籠城し、残った士卒・兵・地元農民ら3000が忍城に立て籠った。攻城の総大将に任じられた石田三成は力攻めを行ったが、周囲は沼や深田という足場の悪さにも守られ、城攻めは遅々として進まなかった。そのため、三成は忍城を望むことができる丸墓山(現・丸墓山古墳)の頂きに本陣を構え、水攻めを発案し、忍城周囲に総延長28kmにも及ぶ堤を築いた。
総延長28kmに及ぶ堤をわずか1週間で作り上げたと言われるが、実際には自然堤防や微高地を巧みに繋ぎ合わせたものと思われる。堤が完成した後、利根川・荒川の水を引き入れたが、城にはあまり水が溜まらなかった。
その後、増水したため、堤が決壊して石田方に多数の溺死者が出て、水攻めは失敗に終わった。
そこから、群馬の太田へ2台で移動。
まず、世良田 東照宮
その前にお昼ご飯
和風レストラン 葵のランチ
天麩羅蕎麦 1000円なり
世良田東照宮
新田源氏のふる里 徳川氏発祥の地
東照宮の一覧が有りましたが、全国で数百は有るみたいです
御朱印帳持って行くの忘れた
世界に二つの縁切寺の満徳寺
江戸時代、時宗の尼寺であった徳川満徳寺は、鎌倉の東慶寺と並んで縁切寺として著名でした。
男女差別が厳しかった当時にあって、不法な夫(男性)から妻(女性)を救済するという縁切りの特権が認められた、いわゆるアジール(避難所)は世界に二つしか存在しませんでした。満徳寺と東慶寺の2つの縁切寺がそれです。
満徳寺は徳川家の位牌所だったので、歴代将軍の位脾を始め、ゆかりの人たちの位牌があります。家康は特別に御神殿に祀られ、尊崇されました。しかも「東照大権現 神儀」の裏には「大相国一品徳蓮社崇誉道和大居士」の戒名が刻まれています。
千姫の供養塔
館林城跡、
天正18年(1590年)の徳川家康の関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となった。
尾曳(おびき)城ともいう。15世紀に築かれたとされる。徳川四天王の一人榊原康政が石垣や天守を持つ近代的な城に造り変えた。現在、一部の遺構を残しているのみで、跡地に市役所、文化会館、市立図書館、向井千秋記念子ども科学館などが建てられている。
榊原のお墓
Posted at 2014/07/07 21:10:59 | |
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