
以下、ぼんやり考え事。
人に伝えると言うことはとても難しい。
人と対面する度にそう感じる。
自分の脳みそを30分のビデオテープに録画して、
見せることができたらどんなに楽だろう。しかし、それは無理だしそもそも映倫ギリギリだ。
そこで、
「思いを伝え行動を促す。」
という目的のために、
「数値化・記号化」という手段は
良く利用する。
この「数値」というものは非常に便利だ。
受け手がある程度数値に対する
イメージを持っていれば、
ぶれることなく、相手に伝達できる
共通言語。
ただ、この「数値」にも弱点がある。
計測者が考えうる計測点にのみ
「数値」は登場する。
逆に言うと、
計測しない点には数値は存在せず、
放置されることとなる。
また、「数値」は便利な反面、
特有のわかりやすさが災いして、
そこに込めた思いはどこかに消え失せ、
「数値」を満たすことそのものが
目的になってしまうことがある。
「数値」は悪くはないが、
至上ではないと感じる。
一方で、人間の感覚は素晴らしいと思う。
たとえば、
ドライビングにより生じている問題を、
「違和感」としてドライバーは感じ取っている。
「何となく気持ち悪い。何となく乗りにくい。」
この、「何となく」というグレーな表現に、
人間が60兆個の細胞で感じる様々な物理現象が織り込まれている。
「数値」にして、
森羅万象全ての事象を再現する為には、
このレベルの計測ができて、
初めて成立できるものなのかもしれない。
「何となく」を突き詰めれば、ドライバに起因するものであれば、
自動的に矯正されていくものかもしれない。
しかし、道具側の問題であった場合、
「スポーツカーはこんなもの。」
「ファミリーカーだから仕方がない」
という、耳にさわりの良い言葉で、感覚が騙されていく。
それがマインドにうまいこと作用し、
刺激的ですごい事に見えてしまうことも否めない。
うーむ。矯正が機能しない。
話が若干それましたが、
既述の通り、
「数値」は伝えるための「手段」の域から出さない方がいいようだ。
興味に支配される聞き手に対する、
伝え手の責任も小さくない。
いずれにせよ聴き手が「数値」を目指してしまうなら、
短視眼的に達成を目指せない、
色々と要素を含んだ「数値」を
利用したほうがよさそうだ。
その点で、
「Gをコントロールする」という概念は、
非常によく出来ている。
「G」も計測された数値であることは否めないが、一言で「G」と言っても、
速度、姿勢、舵角、ブッシュ類・サスペンション・トレッドのたわみ、グリップ、CF、CR等々様々な要素が詰め込まれ、
最終的にドライバが肌で感じ、
破綻し、物理の限界点を知る、
ドライビングに関するマクロ的な数値が「G」だと思う。
ただし、当然ながら
「G」を出すことが目的ではなく、
あくまでコントロールするドライビングを為すことが目的だ。
つまり、
「G」をコントロールするということは、上記要素を全てコントロール下に置く事を意味する。
こう考えると、マクロ的な数値管理は悪くない。
物理現象と人間の感覚のインターフェースとして、
これ以上のものはないと思う。
よくよく考えると、様々な違和感は「G」の変異で感じている。
「怖い」と感じるのも、
人間の鋭いセンサーが、未経験の「G」領域もしくは過去の破綻経験を無意識に感じて反応した結果とも考えられる。
そういった意味で、ドライビングを考えるときの「G」中心の理論は、
非常に適切だと改めて思った、土曜日の夜。
自分の興味はここに向いている。
今、MFIを読み返しながら、独り言。
ちと長いけど、ノイローゼではない。
ちょーっと早めの5月病でもない。
最後までお付き合い頂いた方は、有り難うございました。

Posted at 2010/04/08 01:46:00 | |
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