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くろまめたろうのブログ一覧

2016年07月21日 イイね!

駆黴院

駆黴院「駆黴院」という名称は、のちに遊郭の所在地名を冠して「○○病院」と改称された例が多い。
幕末、横浜滞在中のイギリス人医師G.B.ニュートンは、横浜に寄港するイギリス人のうち、上陸して娼妓に接した者のほとんどが性病に感染するのを見て、娼妓に対する検黴および駆黴が必要であると考え、この旨を江戸幕府に建言した。幕府側では、このようなことは日本古来の風習に照らして女子に対する甚しい侮辱であるとして物議を醸したが、イギリスでは娼婦の性病検査は既に実施されていたためにこれを容れ、慶応3年9月横浜に駆黴院が設置された。ついで神戸、長崎にも設置された。
当時は外国人への伝染を予防するのが目的であったので、一定の制度のもとに行なわれたものではなかった。しかしその効果は小さくなく、検黴の重要性が認められた。その後、大阪では、オランダ軍医ボードウィンが患者の多くは黴毒性疾病であることを指摘し、日本人の間でこれほどまでに梅毒が蔓延しているのは娼妓の駆黴が行なわれていないからであるとして、娼妓検黴法の実施を建言した。京都では、医師の明石博高が祇園の一力楼主である杉浦治左衛門を説き、明治3年7月に祇園幸道に療病館という病院を建て、検黴・駆黴を行なった。
これら各地における設置に促され、明治政府は明治9年4月全国の遊郭所在地に駆黴院を設置し、ここに日本で初めて検黴制度が出来た。
Posted at 2016/07/21 10:18:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年07月19日 イイね!

エリザベス・アン・シートン

エリザベス・アン・シートンリザベスは1774年8月28日にニューヨーク市で社会的に著名な夫妻のリチャード・ベイリー博士とキャサリン・チャールトンの2番目の子供として生まれた[3] 。ベイリー及びキャサリンの一族は、ニューヨーク区域では初期のヨーロッパからの移住民である。エリザベスの父親の両親はフランス人で、カルヴァン派のプロテスタント教徒(ユグノー)であり、ニューヨーク州のニューロシェルに住んでいた。

父親のベイリー博士はニューヨーク衛生管理官たちの長として、船でニューヨーク湾のスタテン島に上陸する移民たちを世話することに専念した。黄熱病がこの街を襲った時にも、それと同様にニューヨークの住民たちを看病した(黄熱病は、1785年に4ヵ月で700人もの死者を出している。)[4]。ベイリー博士は後にコロンビア大学で最初の解剖学の教授として奉職した[5]。エリザベスの母親はイングランド国教会の司祭の娘である。この司祭・エリザベスの祖父は、ニューヨークのスタテン島にある聖アンドリュー教会(聖アンデレ教会)で30年間教会主管者を務めた。 つまりエリザベスは、(アメリカ独立革命以後)聖公会の環境で育てられたのである。

1777年、エリザベスが3歳の時に母親のキャサリンが逝去した。その死因は一番下の子供の出産に起因すると考えられている。母親のキャサリンが死んだ翌年の始め、エリザベスの父親は残された2人の子供に母親を与えようとして、シャーロット・アメリア・バークレイと結婚した。彼女はジェコブス・ジェームズ・ルーズベルト家の一員だった。この新しい母親は、教会の社会奉仕活動に参加しており、奉仕巡回として自分が貧しい人の家を訪問し食べ物や必要物資を与える時に、幼いエリザベスを連れて行った。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/22/Appletons%27_Seton_Elizabeth_Ann.jpg/210px-Appletons%27_Seton_Elizabeth_Ann.jpg]
エリザベス・アン・シートン アップルトン画

キャサリンの父と継母の間には5人の子供ができたが、この夫婦は離婚する結末となった。結婚生活が破たんした時、継母であるキャサリンは、エリザベスと姉を拒絶した。するとエリザベスの父は更なる医学研究のため、ロンドンに旅立った。そのため、エリザベスとその姉は、一時的に父方のおじであるウィリアム・ベイリー、その妻サラ・ペル・ベイリーと共にニューロシェルで暮らすことになった。

エリザベスは暗闇に包まれたこの期間を経験したし、二人目の母を失って感じた喪失感が、後にエリザベスの日記に表れている。これらの日記には、自然・詩そして音楽、特にピアノに対する彼女の愛情、読んだ本からのお気に入りの一節、それと同じように、宗教的な情熱、内観や黙想を好んだことが書かれている。 エリザベスは流暢なフランス語の使い手、素晴らしい演奏者、努力家の乗馬の騎手でもあった

Posted at 2016/07/19 10:23:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年07月19日 イイね!

マムルーク朝

マムルーク朝13世紀半ばにフランス国王ルイ9世率いる十字軍(第7回)がエジプトに侵攻してきた際、アイユーブ朝のスルタン、サーリフが急死した。サーリフ子飼いのマムルーク軍団バフリーヤは、サーリフの夫人であった奴隷身分出身の女性シャジャル・アッ=ドゥッルを指導者とし、1250年にマンスーラの戦いでルイ9世を捕虜として捕らえ十字軍を撃退すると、サーリフの遺児であるがシャジャル・アッ=ドゥッルの子ではないトゥーラーン・シャーをクーデターによって殺害し、シャジャル・アッ=ドゥッルを女性スルターンに立てて新政権を樹立した。女性スルターンにはマムルーク以外のムスリム(イスラム教徒)の抵抗が強かったため、同年にシャジャル・アッ=ドゥッルはバフリーヤの最有力軍人アイバクと再婚し、アイバクにスルターン位を譲った。以後、マムルーク出身者がエジプトのスルターンに立つようになるので、シャジャル・アッ=ドゥッルもしくはアイバクをマムルーク朝の初代スルターンに数える。
アイバクはかつてのバフリーヤの同僚マムルークを追放し、自身の所有する子飼いのマムルークを立てて権力を確立したが、バフリーヤの支持を受けて権力を保持しつづけていたシャジャル・アッ=ドゥッルとも対立し、暗殺された。シャジャル・アッ=ドゥッルもすぐに殺害され、やがてアイバクのマムルークの間からクトゥズが台頭してスルターンとなる。
1260年、モンゴルのフレグの軍がシリアに迫ると(モンゴルのシリア侵攻(英語版))、クトゥズはバフリーヤの指導者バイバルスと和解し、アイン・ジャールートの戦いでフレグの将軍キト・ブカ率いるモンゴル軍を破った。この戦いの帰路でクトゥズと再び対立したバイバルスはクトゥズを陣中で殺害し、自らスルターンとなった。
マムルーク朝の事実上の建設者となったバイバルスは、フレグの開いたイルハン朝や、シリアに残存する十字軍国家の残滓と戦い、死去する1277年までにマムルーク朝の支配領域をエジプトからシリアまで広げた。
Posted at 2016/07/19 10:20:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年07月15日 イイね!

タンネンベルクの戦い

タンネンベルクの戦い ポーランド王兼リトアニア大公であるヴワディスワフ2世率いるポーランド・リトアニア連合軍は、主力部隊がポーランド人、リトアニア人(ベラルーシ語版)(リトアニア人とルーシ人)、ドイツ人(のちに結成されることになるプロイセン連合加盟諸都市の市民)から構成され、そこにボヘミア人(チェコ人)、ルーシ人、リプカ・タタール人、オランダ人の援軍を加え、39,000人だった。一方、他のいくつかの騎士団を含むドイツ騎士団は、騎士団長ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン(英語版)を指揮官とし、27,000人であった。

7月15日、ドイツ騎士団はグルンヴァルト村の南方に陣営を整えた。対する連合軍は、ポーランド国王が朝のミサを行っていたため配置が遅れていた。騎士団側も自分から事を仕掛けることを望まず、正午近くになってからようやく戦闘が始まった。

戦いが開始されると、リトアニア軍が先陣を切って攻撃を開始した。騎士団の左側面への最初の攻撃ののち、主にタタール人(リプカ・タタール人)からなるリトアニアの軽騎兵は沼沢地へと撤退し、騎士団はこれを追走した。一時はポーランド国王の陣営まで兵を進めたが、ここでリトアニア軍が体勢を立て直し、騎士団へ反撃した。実はこれは攻撃が失敗して敗走したのだと見せかけて敵兵をおびき寄せ敵陣を間延びさせるという、機動力のあるタタール人軽騎兵を利用した陽動作戦であり、ドイツ騎士団はこれに気づかずポーランド・リトアニア軍の罠に嵌ってしまった。これによってドイツ騎士団側の左翼が前に出て陣形が伸びたところを見計らい、ヴワディスワフは敵の右側面への総攻撃を命令した。

最後には、ポーランド貴族の重騎兵軍団が正面から騎士団の隊列を打ち破り、連合軍の勝利に終わった。ユンギンゲンは死亡した。野営地に撤退する途中に、戦争に協力したポーランド人の農民に殺されたものと推測されている。
[Jan Matejko, Bitwa pod Grunwaldem.jpg]
Posted at 2016/07/15 10:18:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2016年07月15日 イイね!

七年戦争

七年戦争七年戦争は、ヨーロッパにおいては、イギリスの財政支援を受けたプロイセンと、オーストリア・ロシア・フランス・スウェーデン・スペイン(1762年参戦)及びドイツ諸侯との間で戦いが行われた。並行して、イギリスとフランスの間では北アメリカ、インド、各大洋上で陸海に渡る戦いが繰り広げられた。プロイセンとオーストリアとの戦争を第三次シュレージエン戦争[1]、北米での戦争をフレンチ・インディアン戦争、インドでの戦争を第三次カーナティック戦争とも呼ぶ。これらの戦争を総称して七年戦争と呼ぶこともある。
オーストリアがフランスと同盟を結んだ外交革命、400万対8000万と言う圧倒的な人口格差など[1]、当初プロイセンは敗勢を余儀なくされ、その命運も尽きるかと思われたが、プロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)の適切な戦争指導と、エリザヴェータ女帝の死によるロシアの離反によって戦局は打開され、幸運にも戦争はイギリス・プロイセンの側に有利に帰着した。
Posted at 2016/07/15 10:15:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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