2014年01月08日
2011.3.11『悪夢の始まり』
2011年3月11日。
私の長い生涯のうち、何の変哲もない単なる一日で終わるはずだったこの日は、しかし私にとって、生涯忘れられない日となりました。
この日私は、岩手県盛岡市で仕事中でした。
数日前に年度末の人事異動が発表され、この日は仕事が終わった後に送別会が催される予定でした。
私は残留組であり、特に何ということもなく、いつもどおり仕事をしていました。
午後2時46分。
突然、耳慣れない音が、職場内のあちこちでけたたましく鳴り響きました。
(なんだ?)
何人かが携帯電話を確認するのを見て、その音が携帯電話から発せられたということは分かりましたが、私の携帯電話は鳴らなかったため、何の音か分かりませんでした。
ただ、無性に嫌な感じのする音でした。
その直後、テレビで緊急地震速報が発表されました。
そこでようやく、先程の携帯電話の音が緊急地震通報の音であることを、私も理解したのです。
その数秒後でした。
凄まじい揺れが、建物を襲いました。
当時、私の職場は5階にありました。
狭い部屋にキャビネットやらをうず高く積み上げていため、そのキャビネットが崩れ落ちては大変だと、慌ててキャビネットを押さえに行きました。
揺れ始めてすぐに、電気が消えました。
私の職場は非常用電源があったため、すぐに電源が切り替わり、電気が再点灯しましたが、非常用の光量の弱い、オレンジ色の頼りない灯りでした。
揺れは長く続きました。
そしてどんどん強くなり、弱まる気配は全くありませんでした。
(これは今までの地震とは違う!)
私はこれまでの人生の中で、何度も大きな地震に遭遇してきました。
秋田県沖地震や三陸沖地震、宮城内陸地震など、震度6クラスの地震の体験は片手では足りないくらいでした。
しかし、今回の地震はそのどれとも違いました。
いつまでも揺れ、いつまでも強くなり続けました。
まるで、全ての物を壊してしまおうという意思を持っているかのような、恐ろしいまでに凶暴な揺れでした。
私は恐怖を感じました。
生まれて始めて、地震を恐ろしいと思いました。
揺れている間は、誰が何をしていたか、周りがどうなっていたかなどを確認する余裕はありませんでした。
ただただ恐ろしい、早く収まってほしい、それだけでした。
実際の時間にして1分くらいだったでしょうか。
月並みな表現ですが、本当に永遠に続く時間のように感じました。
ようやく揺れが収まると、周りの人達は互いに声を掛け合い、散乱したものを片付け始めましたが、特に緊迫した様子はありませんでした。
岩手では大きな地震が多いので、この時点では、私の周囲では私を含めて誰も深刻に考えていなかったのだと思います。
非常用電源に切り替わったおかげで、テレビはまだ映っていました。
テレビでは、大津波警報の発令を伝えていました。
『数メートルの津波が来るおそれがある』
それを聞いたとき、前の職場の心配が私の胸中をチラリとかすめました。
前の職場は、海の目の前にあったからです。
『津波が来たら、俺達は真っ先にやられるな』
現実には来ないけど。言外にそう付け加えて、目の前に広がる海を見ながら、同僚とよくそんな話をしていました。
前の職場にいた5年間で、覚えているだけで3回、震度6クラスの地震に遭遇しました。
しかし、一度も大きな津波は来ませんでした。
だから、今回も大丈夫だろう。根拠なく楽観的にそう思い、前の職場の心配はすぐに忘れてしまいました。
それよりも私は、すっかり停電してしまったこの後の方が心配でした。
時間は午後3時頃だったので、まだ周囲は明るかったのですが、外を見ると信号が消えていて、周辺が停電していることが分かりました。この時私は、職場の辺りだけが停電しているのだと思っていました。
しかし、揺れが揺れだけに復旧には時間がかかるかもしれない。そうなると面倒だな。
私が考えていたのはそんな程度でした。
地震から数分後。
この時はまだ、全く何も分かっていなかったのです。
しかし。
さらにその数分後、信じられない光景がテレビに映し出されました。
宮古市の魚市場を、定点カメラで写した映像でした。
画面上部、湾の方から水が流れ込み始め、魚市場の敷地を飲み込んで行きます。
『なんだこれは…』
初めて見る津波の映像に、愕然としました。
水は瞬く間に魚市場の敷地全部を飲み込み、渦を巻き、まるで弄ぶかのように軽々と車を押し流していきました。
職場の皆と一緒に、呆然とその様子を観ていると、突然悲痛な叫び声が飛び込んできました。
『陸前高田市に大津波が襲来!!!』
悪夢の始まりでした。
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Posted at
2014/01/08 20:13:17
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