![日本における自動車レースの“曙” その1 日本における自動車レースの“曙” その1](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/blog/000/036/769/071/36769071/p1m.jpg?ct=704a841fd953)
東京都と神奈川県の境を流れる多摩川。その下流、東急線の鉄道橋と中原街道の丸子橋が近接して二つの都県を結ぶあたりから、少しだけ上流に、神奈川県側の河原をさかのぼっていくと、ちょっとフシギな光景に出会う。
一般に河川敷がゴルフ場やその練習場になっていたり、また野球用のグランドとして使われているのはよくあることで、多摩川でもそれは例外ではない。平地にはグランドやバックネットがあり、サイクリングロードがある。堤防上には、ジョギングに絶好と思われる道もある。
ただ、そのエリアだけは、河川敷より一段高くなった堤防土手の景色がほかと違っている。その土手には、あたかも平らな河川敷を見下ろすかのようにして、人工的な造型の“階段のようなもの”があるのだ。
その“階段”は、段差というには数が多すぎ、また、土手を上り下りするためのステップとしては、あまりに横に長すぎる。では何なのかということになるのだが、ふと、これは人を座らせるための座席なのではと思いつくと、この造形物のナゾが少し解けてくる。そう、この段差は河川敷を見下ろして座るため、そして河川敷で行なわれるものを大勢で観戦するための座席があった、その痕跡なのである。
記録によれば1936年(昭和11年)というから、もう80年以上も前のことになる。多摩川河川敷のここ(現・川崎市中原区上丸子天神町)に、日本で初めて「常設」の自動車レース場がつくられた。それが「多摩川スピードウェイ」と呼ばれたレーシングコースで、そのときに形成された観戦スタンドの痕跡が階段状の段差となって、いまに残っているのだ。
とはいえ、今日のその場所には、この観客席の残骸以外には、ここがかつてレース場だったことを示すものは何もない。ちなみに、この“階段”と、多摩川河畔を走る自動車道路を挟んで向かい合う格好で店を開けているコンビニで、「多摩川スピードウェイ」の場所を尋ねても、何も知らないという答えしか返って来ない。
こうして常設のコースが設定されたという事実から、もし、日本の「レース発祥の地」を定めるとするなら、それはこの「多摩川」であろうと私は考えている。ただ、複数の自動車(四輪車)が速度を競って走る「競走」という形態のパフォーマンスが日本で初めて行なわれたのは、この「多摩川コース」出現の1936年を20年ほどさかのぼる1915年(大正4年)のことだった。そして、その自動車競走のステージとなったのは目黒の競馬場である。このあたりのことについては、日本自動車工業会発行の『日本自動車工業史稿』が詳しいので、以下、それに準拠しつつ、本稿を進めることとする。
さて、四輪車のレースがなぜ競馬場で行なわれたかというと、前述のように、常設のレーシング・コースがこの時点では存在しなかったからだ。競馬は、1860年代の明治の開国以後、日本でも盛んになり、競馬場も各地につくられた。当然ながら競馬場はあくまで競走馬が走るための施設であり、馬以外の何物かが競技場(コース上)を走ることについては、どの競馬場も難色を示した。
しかし、ただひとつ目黒競馬場だけが、ターフ(芝生)の上を自動車が走ることを許諾したのだという。一説では、目黒競馬場の閉鎖が近かったからだともいわれ(とはいえ目黒競馬場が実際に閉鎖されるのはこの10年後なのだが)、また、競馬界の活性化のために、このような“異種イベント”があってもいいという競馬場側の判断があったという説も残る。
目黒競馬場におけるレースの開催は、大正天皇即位記念の大正博覧会に便乗したもので、米国ロサンジェルス在住の邦人有志が四台の「競走車」(マーサー、スタッツ、ケースなど)を日本に持ち込み、その四台で選手を替えて“走行ショー”を見せたものだという。ただ、自動車自体がそもそもレアであった時代で、このレースも観客は予想外に少なく、興業としては赤字に終わったといわれる。
(つづく)(文中敬称略)
( JAMAGAZINE 2011年8月より)
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2015/11/09 17:13:47