
レーシングカーとしては、特異な成り立ちのクルマ──。マツダ製の、この耐久レース用プロトタイプ・カーにこうした評言を与えても、それは決して不当ではないはずだ。普通、レースに参加しようとする場合なら、まずはレギュレーション(規約)から入るであろう。参加すべきレースは、いま、こういうルールであり、そしてメーカーであれば、それに対応した最も適切なクルマを自社から探すか、それに応じたマシンを新たに作りあげる。
F1グランプリのエンジンで言えば、1960年代以降を見ても、「1500ccまで」から「ノンターボ3リッターとターボ付き1・5リッター」の混走時代を経て、最低重量が変わり、最大気筒数が「12」と決められ(1981年)、今日はターボ不可の3・5リッター、12気筒以下になったという歴史を持つ。(1992年現在)
もし、F1に参加したいのなら、そのような“決め”にその都度対応し、クルマなりエンジンなりを作り続けなければならない。あるいは、そのレギュレーションをじっくりと研究して、どうすれば有利か。もっと言うなら規則に“スキ間”はないのかと、エントラント(参加者)は知恵を絞る。それが「レース」である。
マツダのレース活動も、もちろん、このようなレギュレーションとの闘いと無縁ではない。別な意味では、並みのメーカーよりずっとシビアだという側面もあるのだが、このメーカーの場合、「レースする」以前に、ひとつの大きなテーマがあったはずだ。そして、そのテーマに合わせて、参加すべきレースを探し続けた。こう言った方が実状に近いのではないか。
そのテーマとは、そう、ロータリー・エンジンである。このエンジンの存在証明を行なう。あるいは、そのディベロプメント状況をアピールしたい。このテーマが何よりも先にあり、そこからレースへの参加という活動が生まれた。
普通のエンジンのような往復するピストンを持たない、始めから回転してしまう(!)円運動=ロータリー・エンジンを、世界で唯一、商品化することができたメーカー。そのマツダは、自己主張の場として「レース」を選んだ。これがマツダのプロトタイプ・レーシングカーのルーツで、そこには“走る実験室”という以上の、もっと切実な情熱と悲願が込められていたはずだ。
ある日本のメーカーの意欲と技術、そこから派生した世界へ向けての“叫び”とその集大成。それが、このレナウン/チャージ・カラーに塗られたマツダ「787B」というクルマの本質である。
マツダのロータリー・パワーは、その誕生の年の1967年から、レーシング・フィールドに打って出た。まったく新しいコンセプトによるエンジン(ロータリー)を載せたクルマは、速くて、そして耐久性も十分で、レースを走っても壊れない。その証明のための、カラダを張ってのチャレンジだった。見方によってはリスキーであろうとも、しかし「ロータリー」にとっては、その挑戦は必要なことだった。
果たして、レーシング・フィールドでの「ロータリー」の戦績は目覚ましいものだった。それ故に、このエンジンをどのクラスに位置づけるか。それが逆に、大きな問題にもなった。排気量という数値から見ると、この“回転エンジン”は、ほとんど3クラスくらい上のパワーを吐き出したからである。(現在は「排気量×1・8」というのがロータリー・エンジンのハンディキャップ係数になっている)
そして「市販車・改」によるレース活動の次に、ロータリー・パワーが目指したのがル・マン24時間レースであった。1983年、ロータリー・エンジンを搭載したオリジナルの純レーシングカーが、サルテ・サーキット(ル・マン)を初めて駆けた。その時、総合17位となったマツダ「717C」が、今日の「787」にまで至るマツダCカーの原点である。
以後、ル・マンには毎年違うエンジンを持ち込んだと言ってもいいくらいの、絶え間ないディベロプメントとともに、ロータリーのマツダは「ル・マン」の常連のひとりになっていく。カン高い特有のロータリー・サウンドは、日本で聞くよりずっと風景に溶け込んで、だだっ広くてフラットなサルテの夜によく似合う。
(つづく) ── data by dr. shinji hayashi
(「スコラ」誌 1992年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
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モータースポーツ | 日記
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2016/01/28 03:40:22