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2016年03月09日

フォードの不在……《4》

フォードの不在……《4》 “馬なし”のクルマに触れた時、これは馬車とは違って「大衆車路線」でイケるぞ!……と直感した(らしい)ヘンリー・フォード。彼の言葉を借りれば、「家族全員が乗れる大きさがありながら、運転や手入れがしやすいコンパクトなクルマ。価格も低く抑え、ある程度の収入を得ている人なら必ず購入できるようなクルマ」を作りたいと念じたわけだが、いきなりそんなことを思いつく人物とは、いったいどういう“人となり”だったのか?

ただ、この書「 THE FORD CENTURY 」では、そのへんについては慎重に、ひとつ“バリア”が張ってある。つまり、「これまでに百を超す数の伝記でヘンリーの人物像が描かれていますが、いくつかの側面を強調する一方で、全体像が曖昧になってしまって」いるそうで、また、ヘンリーが貧しく育ったというのも事実ではないという。

……ということであるなら、この「 THE FORD CENTURY 」に登場するヘンリー関係の事象だけを並べてみよう。まず、ヘンリーの父ウイリアム・フォードはアイルランドの出身で、アメリカに移住したのが1847年だった。ミシガン州に農地を350ドルで買い、1850年に、米国人の父と英国人の母の間に生まれたマリーと結婚。ヘンリーはその長男で1863年の生まれ、ウイリアム&マリーの夫妻には子どもが6人いた。

フォード家は中流の農家だったが、ただ長男のヘンリーは農作業にはあまり興味を示さず、機械が好きで、よくひとりで時計を分解していたという。そんな長男を母マリーは咎めることなく、静かに見守っていた。だが、その母マリーは37歳の時に、死産が原因で世を去ってしまう。この時、ヘンリーは12歳だった。

そして、1876年。13歳のヘンリーは蒸気を動力とする自走式の車両に出会う。これで、ヘンリーの運命が決まったと「 THE FORD CENTURY 」は書く。さらに同書はこの年に、カスター将軍の死、ナショナル・リーグの結成、電話の発明といったことが起こり、そして、フィラデルフィアでは博覧会が行なわれたと記す。

アメリカの歴史でおもしろいなと思うのは、この年がそうであったように、フロンティアの西部では、騎兵隊とネイティブ・アメリカンが軍事的に対峙している一方で、かたや東部のシカゴでは、プロ野球のリーグが始まるという、この国のそんな「幅」の広さである。この年、第七騎兵隊を率いるカスター中佐は、モンタナ州のリトルビッグホーンで、クレージーホースが指揮するスー族の大軍に無謀な闘いを挑んで全滅した。また、フィラデルフィアの博覧会には、世界最大の蒸気エンジンが出品され、父ウイリアムはその資料をフォード家に持ち帰っている。

さて、16歳になったヘンリーは、デトロイトに出て働き始めた。機械工場に勤め、時計の修理も行ない、17歳の時には造船工場の見習い工となる。ここで初めて、ヘンリーは内燃機関を目にする。その後、19歳でいったん父の農場に戻り、蒸気の農業用エンジンを農具につないで動かしてみることを行なった。その後に、蒸気エンジンを“いじる”ことが仕事につながって、蒸気機関のメンテナンス作業員として雇われ、各地を渡り歩いている。

こうした実務でキャリアを積んでいったヘンリー青年だったが、21歳の時にはデトロイトでビジネス・スクールに入学している。そこで、経理、経営、そして機械製図を学んだ。そして1888年、25歳のヘンリーは、3年前から付き合っていたクララと結婚する。父ウイリアムは16ヘクタールの農地を、新婚のヘンリーとクララに贈った。

その農地を、ヘンリーは蒸気エンジンを使って開墾し、小さな家も建てた。同時に、ガソリン・エンジンについての資料を読み始め、自転車に付ける2気筒エンジンを自作してみる。そして「2年にわたり、いろいろなボイラーを試してみたが、最終的には路上車両を蒸気エンジンで走るというアイデアを断念するに至った」(ヘンリー)。蒸気機関はかなりの量の木材や石炭を一緒に“運ぶ”必要があるので、コンパクトさが求められるクルマには向かないという判断だっただろう。

そして、機械をいじるメカニックとしての能力に優れたヘンリーは、デトロイトにあるエジソン照明会社にスカウトされた。この会社から月給40ドルを呈示され、「いつかは農場暮らしから脱却すると決めていた」ヘンリーは、この仕事を受ける。そしてデトロイトに転居し、この会社で当時の最先端技術であった「電気」について習得していく。

ここまでを、ちょっとまとめてみると、農作業より機械いじりの方が好きだったし、それで仕事としてお金をもらえるようにもなっていたヘンリーだが、かといって農業に関わりたくなかったわけではない。農作業の機械化も試みたし、父の稼業である農業と自分が仕事とした機械、その接点をヘンリーは探していたとも見える。さらに言うなら、アメリカ人とその生活、それと機械やエンジンの関係について、ずっと体験的に考えてきた。それがヘンリー・フォードの若き日だったのではないか。

ともかく1891年に、ヘンリーは自営の農地を出てデトロイトに引っ越した。この時に用いたのは荷馬車だったという。引っ越し用の馬と馬車を操りながら、ヘンリーは、こういう時に馬を動力源としないビークルがあれば……と実感していただろうか。また、馬というのは従順な動物ではあるが、たとえば女性にとっては扱いにくくなるような時があることにも、ヘンリーは気づいていた。

さて、彼が仕事をする場としたデトロイトは、当時のアメリカにおける工業の中心地だった。デトロイト川と五大湖で、水運にも恵まれていた。また近郊で炭酸ソーダを産出したので、化学工業が発展した。そんな街に、「電気」を仕事としながら、なお機械やエンジンへの興味は失っていない青年が住むことになったわけだ。

ひとつ興味深いのは、ここまでヘンリーには、何の成功もなかったかもしれないが、しかし、ひとつの失敗も、また挫折もないことだ。親とは違う稼業に就くことを誰かに反対されたわけでもなく、そして、メカニックというか修繕工としての仕事はずっと確保していて、ゆえに貧乏もしていない。そして、良縁にも恵まれた。

その一方では、趣味として(?)当時の最新テクノロジーである蒸気機関や内燃機関に(フィジカル=肉体的に)ずっと触れ続けている。いわば、幸福な“エンジンおたく”としてそのへんにいそうな青年でもある。そして1993年、30歳になっていたヘンリーは、ついに単気筒エンジンを自作する。

彼が勤めたエジソン照明会社は、エンジンおたくの青年に“寛大”で(?)ヘンリーに小さな作業室の使用を許したという。そして、ヘンリーはここに入り浸り、勤務時間以外でもここにいて、ガソリン・エンジンの製作に夢中になるあまり、給料をもらに行くのを忘れることもあったと「 THE FORD CENTURY 」は描写する。

さらに同書は、その年のクリスマス・イブ、30歳のヘンリーができあがった単気筒エンジンを自宅に持ち帰り、妻クララに手伝ってもらって、キッチンで、そのエンジンを二人で始動させた。そんな伝説的なエピソードも盛り込む。

(つづく)
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Posted at 2016/03/09 14:19:27

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