
「それはもう、何十回となくされた質問だからね……」。1999年の某日、くつろいだオフの日の星野一義は、笑いながらこう言った。だが、この「何十回」というのは、それほどまでに「そのこと」をみんなが聞きたかった逆証明でもあった。
「日本一速い男」──このプレッシャーの極みのような看板を自ら背負いつづけ、そして同時に、その名をいつも裏切ることがなかったドライバー。70年代から90年代までの長きにわたって、日本のレース界に君臨しつづけた、パッション溢れる実力派パイロット。その星野一義に、人々が聞いてみたかったことは、ひとつしかなかったであろう。そう、あまりにもシンプルなこの疑問である。「星野さん、あなたはなぜ、F1に行かなかったのですか?」……
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星野一義のその熱いレーシング・ドライバー生活の中で、彼がF1に限りなく“接近遭遇”したことが少なくとも三回ある。その最初の機会が1976年だった。この年、世界のトップクラスのドライバーとマシンが富士スピードウェイにやってきた。「日本F1」である。
その頃、国内でも一部のコンストラクターが、F1マシンの開発をスタートさせていた。そして、この「世界一」と噂されるレースのレベルが果たしてどのくらいのものか、ハードとソフトの両面で関心が高まっていたのが70年代後半でもあった。そういう風潮にもミートして、このイベントは大きな関心を集め、そして「世界」を迎撃するというかたちで、星野ら日本のトップ・ドライバーが富士に参集した。このとき29歳だった星野がゲットできたマシンは、旧型のティレルだ。
いまは無いティレル・チームだが、この頃は最新のテクノロジーを駆使したトップレベルのチームであり、レギュレーションの隙間を巧みについたF1史に残る「6輪マシン」を擁すトップ・コンテンダーだった。しかし、もちろん星野には、そんな最新マシンは回って来ない。
この6輪ティレルを駆るのはジョディ・シェクター。彼は後年にフェラーリへ移り、1979年にはワールド・チャンピオンになる。そのシェクターは、レースウィークで初めてF1マシンに乗り込む星野に向かって、こう言ったという。「いいかい、右から抜いてほしいときには、右手をこう挙げて。左から抜いてほしいときには、左手を──」
こうして始まったF1ウィークの本番の日、すなわち日曜日は、いかにも富士らしく、ひどい雨になった。だが、この雨を心の底から喜んでいるドライバーがひとりいた。星野である。雨は、マシンの性能差を消す。だから、クルマが劣勢であるドライバーは、雨だけを待っている。雨という条件が加わったとき、レースはマシンではなく、ドライバーの腕の勝負になる。
果たして、後方(21番グリッド)からスタートした星野は、先行するマシン群を抜きに抜いた。星野だけが雨をハンディとしていなかった(と観客には見えた)。最新6輪ティレルのシェクターに追いついたのはヘアピンだったが、そこでも並ぶ間もなく、星野はシェクターを抜き去る。「おい、抜いてほしいときには、手を挙げるんじゃなかったのか!」。星野は、ヘルメットの中で叫んでいた。
だが、星野が3位にまでポジションを上げ、タイヤ交換のためにピットに戻ったとき、彼のピットには、スペアのホイールがもう一本も残っていなかった。このレースをフィニッシュまで走りきれないことを知らされた星野は、ピットに止めたマシンから降りられない。バイザーが曇っているのではなく、涙で前が見えなかった。
およそ20分間も、そうしていただろうか。星野は「よしっ」と声を出すと、ヘルメットを脱いだ。並みいるF1ドライバーの中での、3位というポジション。単にハードウェアが欠けていたことによるリタイヤ。雨の中の、星野一義のすばらしいパフォーマンスだった。
しかし、この「日本F1」のあと、この極東のアグレッシブな、そして30歳を目前にしたドライバーを、自チームの次年度のために獲得しようというF1チームは、ついに現われなかった。
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星野は、自分の肌で「F1」を知った。そして、知ってしまった以上は、そこで闘いたかった。1976年以後の星野は、F1というフィールドを渇望したというよりも、そこに凄い世界があるならそこで闘いたい、そして闘うだけでなく、そこで勝ちたいと念じ始める。
それは、16歳で静岡から上京し、モーターサイクル・レースのトップチームに入った時に、自分より速い人たちがゴロゴロしているのを知った驚きと屈辱に似ていたかもしれない。こういう場合に星野は、自分よりキャリアがある人たちが、いまの未熟な自分より速いのは当たり前だ……とは決して考えない。
なぜ、俺は遅いんだ? なぜ、俺はあの人たちに勝てない? この無謀なまでのハングリー精神が「レーサー星野一義」の真骨頂であり、つねに勝利を求めるスピリットは、16歳の時から既に始まっていた。1976年のF1体験は、星野に、この少年の時の敗北感と、そこからの無限の上昇志向をよみがえらせた。
星野は1978年以後、ヨーロッパF2への参戦を試み始める。そして一方では、国内でのレース活動も精力的に行なった。この国内活動については、当時、最も観客を呼べるドライバーは疑いなく星野一義だったから、国内のオーガナイザーやスポンサーが星野を手放したがらなかったという方が、おそらく正しい。そして星野は、そういうことを無視できない男である。義理と人情もからんでの国内レース活動と、夢を求めての、個人的な挑戦としての欧州参戦と──。星野にとって、この頃は苦しい二本立ての時期であった。
しかし星野は、この時のヨーロッパ参戦でも「自力で」ということにこだわり続けた。また、スポンサー獲得や資金をかき集める能力によってではなく、あくまでもドライバーとしての「速さ」で、ヨーロッパのレース・シーンを駆け昇りたいとも思っていた。
(つづく)
(「F1 Quality 」誌 1999年 Thanks to Mr. Masami Yamaguchi 文中敬称略 )
○タイトルフォトは1976年の「日本F1」、雨の「富士」のフォーメーション・ラップ。最終コーナーで、先頭はポールシッターのマリオ・アンドレッティ/ロータス。そして、マクラーレンのジェームス・ハント、フェラーリのニキ・ラウダが続いている。ジョディ・シェクター/ティレルは予選6番目だった。 photo by [STINGER]Yamaguchi
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Posted at
2016/03/16 20:55:05