
「T型」発売以後のフォード社は、もう快進撃である。そして併行して、さまざまな改革も進めていく。後世に「フォード主義」とかフォードの方法として知られることになる、たとえば「流れ作業」にしても、それらはみな「T型」から始まった。クルマ(モデルT)が大量に売れた、さあ、どうやって作ればいい? ……この時のフォードはおそらくこういう状態で、言い換えれば「T型」によって、フォードというメーカーも変わったのだ。
「T型」は、発売の初年度には1万0660台が生産され、価格は825ドルだった。そのクルマが、1924年には「259ドル」になった。ヨーロッパへも輸出され、イギリスでは50万台のT型が売れた。そして単に乗用だけでなく、牛や馬の移動、消火活動のため、さらに芝刈りなどにも利用された。
フォードは1909年に、製品をT型に一本化した。新たに建設した工場に「流れ作業」を導入するのが1913年。組立ラインで、作業員は動かずに、車体の方が工場内を動いていく。今日でも行なわれている自動車生産の基本のスタイルは、この時に編み出された。この変革によって、それまで組立てに「12時間半」を要していたのが「5時間50分」になった。
1914年には、一車種しか作らないその車体色を「黒」だけにした。理由は、黒色のエナメル塗料が最も早く乾燥したから──。道具に“色気”は要らないとヘンリーが言ったかどうかは定かではないが、ヘンリー・フォードが「自動車」をどう捉えていたかが伝わってくる挿話ではある。これによる実効もあって、一台の製造時間はさらに縮まり「93分」になったという。
歴史家のエリック・エッカーマンは、フォードの「モデルT」について、以下のように述べている。(『自動車の世界史』より)
──フォードは1908年にT型を発表し、ベルトコンベアによる生産方式を導入した。1914年初頭には組み付けラインを高くし、直立作業姿勢の原理を導入。さらに、標準化と規格化による部品の簡単化を実現した。また、ほとんどすべての部品の自社生産も行ない、型式と技術的変更を少なくして、異なった年式であっても交換部品の取り付けを可能にした。クルマは簡潔な機構で、村の鍛冶屋でも修理ができた。
さらにエッカーマンは、「フォードによる自動車の民主化」を指摘している。フォードは自社の工員に、他社よりも高い賃金を支払い、1日あたり5ドル、月に130ドルの最低賃金を示した(1914年)。T型の価格は290ドル(1924年)になった。ベルトコンベア労働者を大量消費社会の一員にした、と書く。
T型絡みでは、この「 THE FORD CENTURY 」には、興味深いヘンリーの発言が載っている。それは「T型の登場で、馬は不要になった。次は、牛が不要となる番だ」というもの。「牛」の件は後述するとして、まず、ここで「馬」といっているのは、馬車や農作業などにおける馬の役割のことであろう。
このコメントは「T型」の成功後に語られたようだが、ちょっと時をさかのぼれば、機械好きの少年だったヘンリーが蒸気機関やガソリンエンジンに触れた時の直感と展望が、この言葉になっていると思う。世に「原動機」というものがあるなら、乗馬趣味における馬は除外するとして、もう使役として馬を使う必要はなくなる。
そして、蒸気とガソリン、どちらの原動機も自作してみたヘンリーは、蒸気機関は路上での使用には適さず、“馬なし馬車”にはガソリンエンジンの方が優位だと確信する。さらに、「馬」と新種の“自動車”を比較して、ガソリンエンジン(内燃機関)であれば、維持費などの経済的な面でも、馬や馬車を超えられるとイメージした。だからヘンリーは、N型にしてもT型にしても、その価格には大いにこだわった。
農家に生まれ育ったヘンリーは、自身は成人して技術者となる道を選んだが、農業人であることを捨てたわけではなかった。「人間が馬を操り、何時間あるいは何日もかけて畑を耕すのは、なんと無駄なことだろう。トラクターがあれば、同じ時間で6倍の仕事ができるかもしれないのだ」(ヘンリー・フォード)
1882年というから彼が19歳の時だが、その年にヘンリーは、刈り取り機を改造して、農耕用の“蒸気トラクター”を作っている。この時の彼の目的は、「日の出から日没まで畑にいなければならない、平均的な農家の父親を助ける機械を作ること」だった。
ヘンリーは1906年に、実験車として「自走式耕作機」を作り、翌年にはそのトラクターに、N型に搭載していたエンジンを載せた。「軽くて丈夫な、操作が簡単で誰もが運転できるようなトラクター」を「誰でもが手の届くような価格で」作りたいとも語った。
農家に生まれ、少年期にガソリンエンジン(内燃機関)に触れて、それを仕事に選んだ青年は、その出自である農家と農民、そして農業、さらには社会全体のために、何をしたかったのか。こういう視点を設定すると、「ヘンリー・フォード」という存在とその行動は一挙にわかりやすくなるようだ。
ちなみに、ヘンリーの「次は、牛が不要となる番だ」という言葉の意味は「豆乳」のことであった。ヘンリーは、科学者ワシントン・カーパーと共同で、大豆の工業的用途の開発に取り組み、豆乳は牛乳に匹敵する高栄養食品であると奨励し、豆乳製造のための工場を建設した。
「技術」で農業や社会を助けたいというのがクルマやトラクターの製造だったとすれば、ヘンリーはさらに進んで、「技術」によって“農作物”を生み出したいと意図したのだろう。農業人にして技術屋──そんなヘンリー・フォードの主張と立ち位置が、この「T型の登場で、馬は不要になった。次は、牛が不要となる番だ」という発言に集約されていると思う。
「T型が発表された1908年、アメリカには600万軒もの農場があり、国民の半数以上がそうした農場で生計を立てており、それぞれの村の人口が2500人に満たない農村で暮らしていました。アメリカには20万台の自動車がありましたが、自動車を所有している農家は全体の2%にも満たないのが実状でした」
「T型は、こうした農家のニーズを満たす絶好の時期に登場しました。庶民は馬車に慣れており、移動手段の馬が原動機に変わるという変化を無理なく受け入れたのです」(「 THE FORD CENTURY 」)
(つづく)
○タイトルフォトは、彼の農場で種まきをするヘンリー・フォード。「 THE FORD CENTURY 」より。
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Car エッセイ | 日記
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2016/03/20 18:33:03