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2016年11月06日

【60年代こぼれ話】トヨタS800は開発者の不満解消のために?

【60年代こぼれ話】トヨタS800は開発者の不満解消のために? 「トヨタをつくった技術者たち」から、もうひとつ、歴史トリビア風のエピソードを紹介する。後にカローラ初代の主査となる長谷川龍雄氏が、パブリカの開発を担当していた頃の回顧で、派生機種である「スポーツ800」(トヨタS800=“ヨタハチ”)は如何にして生まれたのかという秘話だ。

長谷川龍雄氏は、初代クラウンを開発した中村健也氏とともに、トヨタが1950~60年代に「乗用車」を開発し始めた頃の“伝説の主査”のひとりである。(「主査」って何?……というのは短い説明は困難なので、いずれ改めて書きたい)その長谷川氏は、中村主査と一緒にやっていた初代クラウンの開発が一段落した後、既に開発がある程度進んでいた「パブリカ」を市販に向けてまとめるという新たな仕事に就いた。

その際に、当時の日本の道路事情、また技術的・時間的な制限と限界などを考えた結果、パブリカを「まとめる」には、当初の案だったFFでは不可能という判断をする。そして、同車をFR方式に変更し、トヨタ最小の“シンプル・カー”として、パブリカを1961年に発売した。

しかし、開発を始めた頃と、実際にクルマを売り始めた時とでは、マーケットやカスタマーの事情が変わっていたようだ。この点について長谷川氏は、「世の中に贅沢さが生まれていて」、パブリカは「『チャチなクルマ』と言われて売れない」と解析している。そして、そういう状況が見えていたから、長谷川氏はパブリカに代わるべき新しいコンパクト車を自身で企画していた。そして、そのクルマ(後のカローラ)の開発・市販を社内で訴えていたのだが、しかし、会社の上層部は、その提言になかなか反応しなかった。

そんな社内に苛立ちつつ、長谷川氏はパブリカの拡販対策も、もちろん行なっていた。まず、デラックスとバン、ピックアップを用意して、バリエーションを増やすこと。二つ目は、海外市場を狙い、東南アジアでテスト走行をする。これは当時の日本には、高速で走れる道もテストコースもなかったことが理由である。そして三つ目が、エンジンをツインキャブで強化したスポーティ車を追加することだった。

そしてトヨタは、1962年の第9回自動車ショーで、「スポーツ800」のショーモデルを展示した。それは好評を博し、来場したファンからも市販してほしいという要望が寄せられた。さらに、ツインキャブにチューンした2Uエンジン搭載車のレーシング・パブリカが、鈴鹿の日本グランプリでワンツースリー・フィニッシュしたことも、市販化への後押しとなる。

「このツインキャブのエンジンを使えば、売れるかもしれない。売れ行き不振のパブリカ店にインパクトを与えることができるかもしれないと思い、ドア付きにして、排気量800ccのスポーツ800を作った」と、長谷川氏は語る。「ドアを付けた」とは、自動車ショーに展示したショー・カーは、車室とルーフが一体で後方に移動するという方式だったため、それを変更したということ。そして、「トヨタとしては、初めてドアガラスも丸みのあるものにした」(長谷川氏)。

市販化に際してのデザインは、「トヨタでは工数の余裕がなかったので、関東自動車工業に依頼した」。デザインを決める際には、長谷川氏はずいぶん「ちょっかいを出した」と言うが、それはこのクルマを「飛行機イメージにしようと思っていた」からだった。シルエットの「力点もベルトラインにあるのがよい形だ。レーシングカーとは違う」というのが氏の考え方だ。ちなみに長谷川氏は、東京帝国大学の航空学科を1939年に卒業した“飛行機屋”である。

さて、こうして好評のうちに受け入れられた「スポーツ800」だったが、その開発に長谷川エンジニアが注力したその理由がなかなか豪快だ。まあ、これはジョークもまじえてということで、「……(笑)」というように表記すべき談話だったかもしれないのだが、ともかくこの書で、長谷川氏は次のように言う。

「本音は、当時カローラの開発提案を認めてもらえず、溜まっていた欲求不満を解消するという気持ちで、スポーツ800を開発した」「パブリカ店にインパクトをという気持ちが10パーセントで、欲求不満が90パーセント。多少は、スポーツ800をモーターショーだけで終わらせではおもしろくないという気持ちもあったけどね」

……おお! では歴史の「イフ」ではあるが、もし「初代カローラ」の企画・開発に素早くゴーサインが出ていたら、「パブリカ・スポーツ」はショーカーのままで、世に出ることなく終わっていたということになるのか。

さらに長谷川氏は、海外でのこのクルマの評価にも触れる。アメリカにファンクラブがあるが、スポーツ800は輸出したのかとインタビュアーに問われると、「輸出せよとトヨタ自販が言った」が「私は絶対反対」で、役員に何といわれようとも「私は頑として許可できないと突っぱねた」と証言する。

長谷川氏が輸出に断固反対だったのは、初代のクラウンをアメリカに出してみたことがあり、その時、クラウンでアメリカのハイウェーを実走するテストを行なったのが長谷川氏自身だったからだ。その走行テストの結果、当時のトヨタ車には、まだアメリカへの輸出ができるだけの技術も体力もないことを、長谷川氏は自身の体験として持っていた。

ただし、トヨタ自販は「こっそりとサンプルカーを三十台くらい米国へ輸出した」(長谷川氏)。ファンクラブは、その三十台と、進駐軍が沖縄あたりで買って本国に持ち帰ったものでできたのであろうということ。そして、「スポーツ800」がアメリカで何も問題になっていないのは、「クラシックカーのような扱いで割り切っているから」で、もし普通に輸出して、乗るのが「一般大衆だったら、とてもじゃないけど、問題が起きていた」と長谷川氏は言う。

このインタビューの最後で、「乱世、変化の時代には侍が欲しい」に続けて、会社の「トップは、常日頃から侍が出てくることが可能になる土壌を作って」おく責任があると、長谷川氏は語っている。ただ、この「パブリカ・スポーツ」や「カローラ初代」の誕生などを見ていると、何より長谷川氏自身が“強烈な侍精神”の持ち主であったと思わざるを得ない。ともかく、「中村健也」と「長谷川龍雄」は、主査として1950~60年代のトヨタ乗用車を作った(開発した)だけでなく、「トヨタ車の作り方」も同時に創った、そんな伝説の二人なのであった。
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Posted at 2016/11/06 19:00:28

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