
このクルマの造形は、今日の感覚でもやっぱり「美しい」だろうか。それとも、微妙な“うねり”を多用しすぎていて、いまの眼で見れば、ややオーバー・デコレーション気味に映るのか。しかし、1960年代では、これは無条件に美しかった。そんな装飾的にすぎる“アート臭さ”さえも、1960年代という時代を飾った「華」のうちのひとつであった。
この“至上の美女”は、まず、1966年のジュネーブ・ショーに出現。すかさず、その夏、イタリアでの自動車エレガンス・コンクールで賞をゲットした。そして、秋の東京ショーに飛来し、来場したすべての観客を魅了した。
このクルマによって、人々は「カロッツェリア」というイタリア語を知り、また「ギア」というのがそのひとつであることを憶えた。そして、もうひとつ。決して憶えやすくはなかったが、ひとりのイタリア人の名前も記憶した。ジョルジエット・ジゥジアーロ。この「117クーペ」のデザイナーである。
ただ、モーターショーでの会場で魅せられたものの、このクルマを「買える」と思っていた観客は、当時、ひとりもいなかった。コードネーム「117」のクーペは車名も付いてなかったし、今日の言葉でいうコンセプト・モデルであると誰もが思っていた。そして当時は、まったく市販を前提としないカスタムカーが、華々しくショー(だけ)に展示されることは少なくなかった。
しかし、ショーでの好評に後押しされたか、「いすゞ」は1968年に、注文生産のようなかたちで、この“夢のクルマ”の発売に踏み切る。そしてこの時、人々はふたたび、このクルマは「買えない」という現実を知ることになった。月産を50台に限定するというこのクルマのプライスは、何と「172万円」であったからだ。
この価格がどのくらい“夢”的で、かつ、べらぼうなものであったかというと、たとえばトリプル・ウェーバーのキャブレターで武装した当時の最速マシン、セミ・レーシングカーともいうべきスカイライン2000GT-B(S54B)でも、その価格は、たったの(?)89.5万円(1965年)だったのである。
ただし、高価ではあったが、このクルマは単なるスタイリッシュ・カーではなかった。内容的にもけっこうなアスリートであり、装備も充実していた。当時はレアだった1600ccのDOHCエンジンは120psを発揮し、最高速は190km/hに達した。また4座のすべてにヘッドレストを備えていて、後席もリクライニングした。日本車初の電子式燃料噴射方式(ECGI)採用という歴史を作ったのも、このクルマである。
こうして世に出た「117クーペ」(結局名前は付けられず、コードネームがそのまま車名になった)だったが、その後、この“高嶺の花”は少しずつ、自分から「階段」を下り始める。
まずは、1973年に新たに「量産車」としてのスタートを切り、カスタムメイドという作り方から脱した。同時に通貨価値も変わり、諸物価は上がっていたが、継続生産車であるこのクルマは値上げをすることもできず、かつての“夢のクルマ”は、相対的に値下がりして行くことになる。
量産車となって以後の「117」は、本来の「117」ではないという意見はある。しかし、そうやって地上に降りてきても、やっぱり美女は美女だった。そして、その量産化によって、より多くの人に、このクルマが日常的に愛される(使われる)ことになったのも、また事実なのである。
(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
(つづく)
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2016/11/22 12:46:35