
キーワードは三つ……などとワケ知り風に書いてしまったが、朝鮮戦争についてはいくつかの断片的な知識はあったが、この戦争での日本人死者、あるいは「LST」といったことについては、この映画を見るまで実は何も知らなかった。『コクリコ坂から』はどうも、これを見ると歴史を学びたくなるタイプの映画であるらしい。
その「LST」だが、これは米軍の用語で「戦車揚陸艦」の頭文字を並べたものだという。そして、本来はその用途の船だけをこう呼んでいたはずだが、1950年の6月に勃発した朝鮮戦争──北緯38度線の「北」から侵入した北朝鮮軍(+中国軍)と、それに応戦した「南」の韓国軍+アメリカ軍(=国連軍)との戦いでは、米軍側が物資の輸送に用いていた船の全般を総称して、この「LST」という語が用いられたようだ。
1945年に第二次大戦が終わった後、世界は「東西」(米ソ)が対立する「冷戦」の時代に入った。朝鮮半島を南北二つの国家にに分断する「北緯38度線」も、もとはと言えば、そんな冷戦構造の産物だ。ただ激しく対立はしても、実際に戦争はしない。だから“冷たい戦争”だったのだが、そんな中で例外的な“熱戦”が朝鮮戦争だった。
その時に、国連軍=米軍の補給基地となったのがわが国で、内地から戦地の朝鮮半島まで、この戦争を遂行するための物資が船で運ばれた。その際、一帯の地理に詳しいということで、日本の商船関係者や旧・海軍軍人が、その役目に就くことになった。
(米軍が“日本国”に要請したのはこれだけではなく、沿岸に「北」が設置した機雷の除去、つまり「掃海」を、当時の日本の海上保安庁=旧・日本海軍に依頼したといわれる。ただ、この映画での松崎海の父・沢村雄一郎は軍人ではなく、商船大学出身の船乗りと思われるので、ここでは彼は「掃海」より「輸送」に従事していた船長という解釈を採る)
この戦争が勃発した当時、つまり「1950年」の日本は、敗戦後に連合軍によって占領され、その統治下にあった。そして、新たに制定した憲法(1947年)によって、国としてはもう「交戦」はしない、つまり「非戦」を掲げていた。そんな状況の時に、わが国の超・近隣地域で“熱い戦争”が勃発したのだ。
そして米軍占領下の“日本国”(オキュパイド・ジャパン)は、その戦争遂行のための兵站担当、具体的には「輸送」を担うことになる。戦時下での「輸送」はもちろん軍事行動だが、この時、戦後日本の“平和憲法”は、自由主義陣営防衛のための闘いであるという朝鮮戦争の圧倒的な「現実」の前には、まったく無力だった。
……というより、戦争が始まった「1950年」は日本にとって、サンフランシスコ条約(連合国側からの対日平和条約)を締結するための交渉がようやく始まろうかという時期。つまり当時の日本は「独立以前」の状態で、国として何かの判断を独自に行なうことは、そもそもできなかったであろう。(サンフランシスコ条約は1951年に締結され、1952年の4月に発効した。この平和条約によって、日本と世界との敵対関係がようやく終わり、日本国は独立国となる)
そして、仮に「輸送」だけであったとしても、それは実質的な参戦で、そのようにして人が戦地で行動している以上、そこでの犠牲も不可避となる。ある資料によれば、朝鮮戦争開始後の最初の半年間で、日本人の戦死者は50人を超えたという。映画での松崎海の父、つまり沢村雄一郎は航海中に「北」が設置していた機雷に触れ、乗っていた船が爆発・炎上して帰らぬ人となる。
この映画での徳丸理事長は「マスコミ人」でもあるので、朝鮮戦争と日本人の関わりについては、当時の一般の人々よりも多くの事実を知り、その情報を得ていたはず。松崎海から「父の死」について聞いた時に、理事長は「そうか。お母さんはさぞご苦労をして、あなたを育てたんでしょう」と言ったが、この言葉には、朝鮮戦争の内実についての知識と、そして否応なくそんな状況に巻き込まれた人々への同情と感慨がこもっていたと思う。
そんなことを考えながらこの映画を見ると、高校生のいきなりの陳情話に多忙な理事長がすぐに「動かされた」としても、それはそんなにフシギではないと思える。理事長の目の前には、ひとりの“歴史を背負った少女”がいた。そして彼女は港南学園の通称“カルチェラタン”が「大好き」で、それをみんなでお掃除したので、一度見に来てほしいと言ったのだ。それを聞いて理事長は瞬時に判断し、「わーった、行こう!」と応じたのだ。
映画はこの後、京浜東北線で横浜へ帰る二人、そして山下公園での語らい、松崎海の“告白”と続くが、そのへんは次回に回すことにして、ここでは徳丸理事長の行動と“カルチェラタン”のその後について書く。
高校生たちと約束を交わした翌日。徳丸理事長は、横浜の港南学園の校門前にクルマを乗りつけた。これはたぶん、新橋の本社から“港の見える丘”まで、クルマで駆けつけたという設定だ。
乗ってきたクルマのフロントマスクが映り、さらに、リヤのトランクリッドへカメラが移行すると、そこには「トヨペット」の文字。そして後席のドアが「観音開き」の形式で開いて、校門前に理事長が降り立った。彼が乗ってきたのは、初代のトヨペット・クラウンである。
ただ、この場面で登場したクラウンは、フロントグリルが1955年デビュー時のオリジナルなのに、サイドビューやリヤビューは、その初代の後期型というか、よりデラックスな方向へマイナーチェンジしたモデルの細部であるような気がする。でも、そんなカー・マニア的な視点は、ここでは持ち出さない。重要なのは、この映画の作者がここでクラウンを登場させた。そして、そのクラウンを初代にしたことだと思うからだ。
まず、この映画の「時制」が「1963年」なのは明らかだが、トヨペット・クラウンは1962年にフルチェンジをしていて、1963年であれば、既に二代目が登場していた。しかし徳丸財団の理事長は、二代目のクラウンに買い換えることなく、初代をそのまま使っていることになる。
さらに言うなら、1960年代前半当時にクルマを買える立場であったオカネモチや会社社長であれば、キャデラックやビュイックといったアメリカ車に乗る選択肢があり、それが常道でもあった。しかし、この映画の徳丸財団・理事長は敢然と国産車を選んでいた。
また、1950年代の前半、日本の多くの自動車製造会社は外国メーカーとの提携(ノックダウン)を選び、それをベースにして、1950年代後半から60年代はじめに“自社モデル”を作った。しかし、この映画の作者は、同じ国産車でも、そっちのラインにあるクルマはここで登場させなかった。ご承知のようにトヨタは、その時期に「純国産」にこだわって乗用車を開発した数少ないメーカーのひとつ。そして、その成果で、実際にもヒット作になったのが初代のクラウンだった。
この初代は、後席VIPの「乗降性」を考慮して、後ろ側ドアをいわゆる“観音開き”にしたといわれている。そして映画は、そのドアが開くシーン、つまり理事長がクルマから降りる場面をわざわざ設けていた。二代目クラウンでは、このドアの開き方は廃されたので、このシーンを描くためには、クラウンは初代でなければならないことになる。
まあ、以上のようなことが重なって、そして理事長のキャラクターを際立たせるためにも、ここでは「国産車&クラウン」が必要だったのであろう。そんな映画制作側の意図を反映するのに、ここでの「初代クラウン」の登場はとても有効であったと思う。
そして映画に戻れば、理事長は“新生カルチェラタン”を隅々まで見た後に、新しいクラブハウスは別の場所に建てる、この古い建物は存続すると宣言して、生徒たちの拍手と喝采を浴びるのである。
(つづく)
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クルマから映画を見る | 日記
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2017/01/07 08:43:58