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家村浩明のブログ一覧

2016年05月28日 イイね!

【80's コラム】この国の自動車史に、1987年はかくのごとく記憶されるべし

【80's コラム】この国の自動車史に、1987年はかくのごとく記憶されるべし1987年を、ぼくはニッサン・ブルーバードならびにトヨタ・カローラが世に出た年として記憶する。あるいは、「世」がこれらのクルマを欲求したのかもしれない。“その年のクルマ”の意義はついによくわからないのだが、ある年の「世」を象徴するクルマという意味に解するなら、この2車と、さらに付け加えればセドリック/グロリアの3モデルで「1987年」は捉えられる。

まず、《味》の実現である。べつに速いクルマでもないのに、コロがしてそのこと自体が愉しい。そのようなクルマが時にある。欧州車の、それも一部に──。それは、平易な言葉を使うと「揺れ方」の問題であって、その基本的な動き(揺れ)に、アクセルワークやハンドリングへの反応がプラスされ、トータルな足回りによる作動となる。このような挙動のひとつひとつと、その全体が人間の五感にとって「快」であるかどうか。あるいは、第六感、第七感というべきなのかもしれないのだが、そのようなクルマ的感性にとって気持ちいいのかどうか。

その感覚の実現は、「馬車の時代」を持つ地域とその人々のみが成し得るのでは……という懸念に対する、そんなことはない!という回答、それがブルーバードである。そう、いい線を行っている、われわれの“青い鳥”は──。サスペンションだけでなく、シートにも意欲的なケアがある。尻から下にあるものは、すべて足回りだという意志がある。

欧州車の(あくまで一部の)洗練や《味》に、入念なハード的チューニングと人間のセンサーによるまとめで対抗している。超えたか、まだ及ばぬか。それには各自の判断があろうが、少なくとも、その“欧州・神聖領域”に踏み込んだ日本車であることは確かであり、日本車の展望を新たに拓くクルマでもある。

もうひとつ、これは想像だが、ブルーバードの秘かなる真のライバル、仮想敵は、アウディではなくてプジョーではないだろうか。無闇なる西独志向からのシフトにも注目するとともに、商品性として《味》をも必要とすることになった潮流をブルーバードは象徴する。

一方、カローラ/スプリンターが示すものは何だろうか。これは、恐ろしいほどのレベルに底上げされたニッポンの中流的日常と、ハイテク的日々のシンボルであろう。誰もボロを着ていず、小綺麗に身の回りをまとめ、ストリートにゴミは舞っていず、高度なナカミを抱えたブラックボックスがデスクに載る。そのような国で売られるべき「大衆車」とは、果たしてどのようなクルマか。

このテーマを詰めた時、『 '87 カローラ』以外のまとめ方というのはあり得るのだろうか……と、むしろ思う。誰でも(どれ買っても)4バルブ、中・高級車と見まごう仕上げとフィニッシュ。もはや「大衆車」であるのはサイズだけである。

量としてよく売れるクルマが大衆車なのだから、ニッポンのそれは、いまはマークⅡ軍団だというジョークがある。リアルなジョークである。そのような現実と市場の中での新・大衆車──いや、コンパクト・サイズのクルマが『 '87 カローラ』になることを誰にも止められない。

そして、このクルマに至って、日本自動車界は、もうヨーロッパ的なクルマのモノサシでは測れない地平に飛び出してしまった。カー・エレクトロニクスといい、ハイ・メカニズムといい、最早われわれに“教師”はいない。導いてくれるものとしての歴史を持たない未来が、われわれを待つだけだ。

そして、セドリック/グロリア(7代目Y31)。ビッグサイズの大排気量車を求めようとする際の、「クラウン」でも「外車」でもない、第三の受け皿。1987年の40歳とは、1966年のカローラ/サニー登場の時には大学生であり、モータリゼーションの下方への(ビンボー人への)開放とともに社会生活を送ってきた世代である。

クルマを置物としてではなく、走るためのツールとして使ってきた世代で、オジサンになってからクルマに触れ始めたジェネレーションではない。ニッサンが呈示した、この第三の受け皿、選択肢は、そんな“ニュー中年”を刺戟するに十分なものがある。セドリック/グロリアもまた、クルマへの新しいアプローチが始まった流れを浮き上がらせる。

ブルーバード、カローラ/スプリンター、セドリック/グロリア。これから先の何年か、出て来るニューモデルは、すべて、この三つのクルマが作った流れのうちのどれかに属すると予測する。この国のモータリゼーションと市場で、1987年は、そのような意味で重要だ。

(初出 週刊漫画アクション 1987年12月29日号 / 「論よりコラム」双葉社 1989年・刊 所収)
Posted at 2016/05/28 02:45:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2015年03月12日 イイね!

あとがきに代えて ~『自動車コラム大全』より 《2》

あとがきに代えて ~『自動車コラム大全』より 《2》§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

──クルマというものは、どう評価したらいいんでしょう?

うーん、良し悪しということですよね? クルマの場合、誰にとっていいのかというのは、とてもむずかしいと思います。『アクション・ジャーナル』にしても、始めの頃は、モーター・ジャーナリズムとは違う、もうひとつのロード・インプレッション(評価)ということでやろうとしました。でもこれ、かなりムリなんですね、とくに無署名では。それで少しずつ、良し悪しというより、このクルマってのはいったい《何》なのか。そういう方向になっていきました。その《何》を考えよう、と。

──そうすると、この本は、クルマ選びの参考には?

やっぱり、ならないでしょうね(笑)。それについては、各自で好きなクルマを買う。それでいいんじゃないかと思います。ハード的にとりわけ劣ったクルマっていうの、いまは無いですから。こと日本車である限りは。

──外国車はどうでしょう?

だからそれも、各自でお好きな……ってことで(笑)。外車好きって、ほとんど信仰の域に達している方々が多いので、諸先輩方に何かを申し上げる気は、ぼくにはありません。「幻想商品」であるというのは、クルマの本質のひとつでしょうし。ただ、このような宗教者の方々にひとつ言いたいのは、もう“教団内部”だけで喋りあっていてほしいですね。何かの欧州車への愛と信仰を語って、そして、返す刀で日本車を斬る……そんな刀、こっちへ返していただかなくてけっこうですので(笑)。

そう、この本の、もうひとつの特色といえば、クルマのナショナリティを問わずに等距離で観察した(それに務めた)ということでしょうか。とくに日本車、いや、あえて国産車といいますが、国産車は十分にドラマチックである! これが本書のテーマです。最後になってしまいましたけどね。そしてこれは、1990年代の重要なテーマであるとも、同時に思ってます。

──この本が、ですか?

……じゃなくて、日本のクルマが、です(笑)。この本は、ともかく楽しんでいただければ、それでいい。そういう雑文集ですから。

(了)

○2015年の追記
古今東西を問わず「好きな」クルマを24台挙げよ。そうしたら、それをイラストにして表紙を作るから──。本書の表紙カバーは、こうして生まれました。時は80年代の末。選ばれた24台の車型はバラエティが少ないですが、“トール軽”やSUV、ミニバン、さらにクロスオーバーは、この頃は、まだジャンルとして出現していませんでした。

この24台の中には、少年の頃の憧れであったクルマ、メディアの中でしか見たことがない、乗ったことも触ったこともないというクルマが少なからずあります。そういうことで言うと、この中で自分のクルマとして乗ったことがあるのは、ギャランGSと117クーペだけですね。また、いま見ると、何でこのクルマを選出したんだろう?というモデルもありますが(笑)ともかく、これはそんな24台。では、以下にその車名を記します。

MG-A / ランチア・ストラトス / VWカルマン・ギア / ルノー・アルピーヌA110 / アルファロメオ1300ジュニアGTA / ジャガー・マークⅡ / BMW2002tii / BMW M3レーシング仕様 / メルセデス・ベンツ190SL / BLMCミニ1000 / プジョー205GTI / ルノー4CV=日野ルノー / ダットサン・サニー1000セダン / ホンダ・シビック1972年 / コルト・ギャランAⅡGS / いすゞ117クーペ / スバルFF-1 / ホンダN360 / マツダ(FF)ファミリア1500XG / 三菱ミニカ&同オープントップ / ダイハツ・リーザ / トヨタ・カリーナ1600Gリミテッド / ユーノス・ロードスター / ニッサン・スカイライン(R32)GTS-tタイプM 

○以上で、『自動車コラム大全 1984~1989』(1989年 双葉社・刊)からの連載記事を終わりと致します。お読みいただきまして、どうもありがとうございます。
Posted at 2015/03/12 06:43:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2015年03月11日 イイね!

あとがきに代えて ~『自動車コラム大全』より 《1》

あとがきに代えて ~『自動車コラム大全』より 《1》§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

──これは、週刊の漫画雑誌に書かれたものの単行本化ということですが?

フシギですか?(笑)「週刊漫画アクション」誌に『アクション・ジャーナル』というコラムのページがありまして、そこに発表したものの中からセレクトしました。ま、妙なパワーを持った欄で、このような原稿が割りと平然と載る。

──あの南伸坊さんのイラストが載ってる?

そうです。そっちの方が楽しみだという人もいらっしゃるようですけど(笑)。それで、無署名コラムという独特のシステムなんですね。

──「覆面」ということですか? 

そうではなく、何というか、文責はすべて編集部にある。いわば、編集部の“署名原稿”なんです。

──文責は書き手にはないと? 

ええ。そういう意味では“自由”です。ただ一方で、コラムを書く側としては、若干のフラストレーションと、一種の責任回避の感じもある。だから、ぼくは「覆面」ではないと解釈してたんで、執筆していることを隠したことはないです。

──無署名だということは、暗闇から石を投げることもできますね? 

原理的には、そうですね。ただ、それ故に書き手の責任は倍加する。そういうことも言えると思います。でもこれ、書く側としては、けっこう“技術的”な興味はあります。主語なしでコラムを成り立たせるわけですから、大変勉強になる(笑)。

──主語のないクルマ批評? 

それはもう、ちょっと不可能です。あるいは、無署名の限界も感じます。だからこの本は、ぼくにとっては何年分かの原稿にまとめて署名した。そういう感慨はありますね。

──この本で特徴的なのは、ポルシェとかフェラーリとか、あるいはメルセデス・ベンツとか……。

最小の190Eは出て来ますけどね、ええ、高いクルマが出て来ないです(笑)。そういうスーパーなクルマの賛美本か、こうすれば……のハウツー本、あるいはソントク勘定。また、間違えないようにという教則本。それと、一般向けではないですけど、技術書ですね。この技術関係は措いといて、これまでのクルマの本というのは、どれも、以上のスーパー、ハウツー、ソントクのうちのどれかでした。この本は、おそらくそのどれでもない。まったく役に立たない(笑)非常に稀なクルマ単行本でしょう。

それから、筆者がオカネモチでない。これも特徴(笑)。……いや、笑ってますけどね。この(クルマの)業界、ものすごくオカネモチの発想で原稿が書かれることが多いんですよ。(車両価格が)800万円だとリーズナブルだ、とかね。「おぼっちゃまジャーナリズム」って、ぼく、呼んでますけど。この本は、普通の生活感覚と金銭感覚で書かれてますので、どうぞ安心してお読みください(笑)。

──すると、役に立たなくて、そして夢もない(笑)そういう本ですか?

うーん……(笑)。代わりに「批評」があると言えればいいんですけどねえ……。まあ、この5年間のね、クルマをめぐるいろんなこと。それをリアルタイムで記録してある。これはひとつ、この本の意味かもしれないですね。

──それで掲載号の日付を付けて、ほぼ発表順に並べた? 

そうです。それで、書いている時は、こんなこと(単行本化)になるなんて思ってない。その週ごとにクルマに乗って、観察して、いま何を書いたら一番インタレスティングかということで、コラムを作ってた。それを時間順に読んで、少しでもおもしろいと感じていただけるならとても嬉しいです。

(つづく)
Posted at 2015/03/11 19:56:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2015年03月10日 イイね!

フットワークで説得を試みる、インフィニティの新・ビッグカー戦略

フットワークで説得を試みる、インフィニティの新・ビッグカー戦略§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

「高級車」という妖怪が日本の自動車界を徘徊している。1990年代初頭、ついにわが自動車工業界は、そのような領域に踏み込んでしまった。歴史の扉をこじ開けた。

「大衆車」も作っているメーカーによる、「高級車」の製造。自動車史は、このような幅の広いメイクスの出現を予測しておらず、作り手は“棲み分け”の中に生き続けることを、それとない決定事項としてきた。

したがって「歴史家」であればあるほど、ついに到来したこの現実に対応できず、反動の嵐も、少なくない勢いで湧き起こっている。(高級車は作れないよ、日本のメーカーには!)とりわけ、レクサス=セルシオの後にお目見えした、ニッサンのインフィニティQ45には、その種の風当たりが集中している感があるのは、むしろ異様なほどだ。

高級車は、こんなものに非ず! 何もわかっていない、このクルマは! モーター・ジャーナリズムの取りあえずの反応は、どうもこのへんの乱暴な評言に集約されるようである。……そうなのだろうか? 「高級車」という時に、あまりにも“西独~日本ライン”のモノサシを当てすぎてはいないだろうか? 

たとえば、「高級車」ではなく「大型車」ならどうなのか。あるいは、「高級」ということにしても、たとえばアメリカ的な高級。そして、ラテン的な、南欧的な(さらには、日本的な!)高級。こういうものも、アリなのではないか。

高級/大型車におけるメルセデスの“引力”というものは、たしかにあるだろう。ともかく重厚に。硬いボディ。ドアを閉めた途端に始まる別世界。隙のない内装。つまりは、冷徹なパッケージ……。そして、この“圏内”においての静かなる優等生。レクサス=セルシオは、おそらくそのような存在で、その分評価がしやすいものがあったと思う。一方インフィニティは、この“メルセデス圏内”にいない。

外観、佇まいも軽快であり、その通りに挙動も俊敏。インテリアの印象も明るく、よく走り、よく動く。そういう「大型車」であって、要するに「違う」のだ。そういう「高級車」で、これはこれでいいのではないだろうか。

高いクルマに見えないという評も、俺はメルセデスならカネを出すけど、カルいクルマにはカネ払わないということだろうし、あるいは、ウソみたいに静かなクルマならカネ取ってもいいけど、足がいいだけじゃ大金を取ってはイカン……。

インフィニティへの評は、このようにホンヤクできる気がする。そしてそれは、ジャーナリズムが決めることじゃないし、あるいは、サイレント・カプセル(セルシオ)に驚いたというモノサシを当ててみるだけじゃ、このクルマの批評にはならないとも思う。

インフィニティQ45。これは大らかさと伸びやかさがあるニューモデルである。大柄ではあるが、走り出すと印象はコンパクトになり、足まわりのポテンシャルはしたたかに高く、なお乗り心地はしなやかさを保つ。

噂の油圧アクティブ・サスペンションは、クルージング感覚を非常にフラットにしてくれるフシギな効果を持ち、コーナリングにおいても、軽いロールを示した後に、巨体をしっかりと支えきる。ドライバー側からの多少のムリもクルマが聞いてくれるという意味で、このサスはコーナリング・スピードを上げる足だ。ただ、メカ・サス仕様も、乗り心地がいいままに、クセのない自然な走りの味を示し、かつ、乗り手の気持ちを高めるような動きをする。走りは良い。このビッグなサイズを考えると、さらに良い。

たとえば静かさ、たとえば細部、たとえば仕上げ。このような点で、投資に見合わないという説は、ニッポン市場では大勢になるかもしれない。このへんは、まさにマーケット自身が決定することだが、大型/高級車に、あえてこの表現を使うが「軽さ」を持ち込んだこと。この一点だけでも、インフィニティQ45というクルマは評価すべきものがあると思う。

“メルセデス圏”から遠く離れて……。Q45はフリーである。

(1989/11/21)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈

インフィニティQ45(89年10月~  )
◆車体の上の方、つまりドライバーの頭部のあたりが、何となくうるさい。風切り音なのか、ウインドーの密閉度の問題なのか、ルーフの薄さか? ニッポン的な視点かもしれないが、ニッサン車への注文を出すとすれば、この点であり、これはインフィニティにおいても例外ではない。トヨタに限らず他社が一様に、この種の静粛性に関して充実してきており、ニッサンも後れを取ってはならないと思う。足まわりと挙動については名車を輩出している同社に、90年代の課題として、この点を提出しておきたい。
Posted at 2015/03/10 08:53:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2015年03月09日 イイね!

静粛空間のビッグ・カプセル。セルシオに集中された「トヨタ主義」の粋

静粛空間のビッグ・カプセル。セルシオに集中された「トヨタ主義」の粋§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

まずは、これは凄いものを作ったもんだ……というのが、トヨタ・セルシオの第一印象である。ドアを開けてみる、閉めてみる。座ってみる、触ってみる。グローブボックスを開けてみる。ぬかり無し! 

そして、キーを捻り、ゆっくりと動き出す。日本の街で乗っても、意外に小さい。そして、思う。音無し……! 

もうひとつ、走らせながら感ずることがある。このクルマは、何ひとつとしてケバケバしくなく、また、何に使うのかと戸惑うようなスイッチ、ボタンの類も、日本の高級車としてはごく少ない。(サイドミラーの表面水滴取り装置くらいだろう、何だ?と思うのは)つまり、たとえばマークⅡやクラウンの「上」に来るクルマとして、その流れの頂点に位置していない。セルシオは、まるっきり翔んでいる。

同じような意味では、乗り心地もそうだ。したたかさを内蔵するにしても、ともかく表面的にはソフトに、柔らかに──。これが日本の高級セダンだが、セルシオは違う。けっこう硬めで、舗装の継ぎ目にも敏感であり、またシートも、しっかりと身体を“押し返す”硬さがある。とくにコイル・サスペンションのピエゾTEMS仕様はそうだ。(これは、セルシオのうちでのスポーティ・パッケージでもあるのだが)ニッポン・マーケットで、果たしてこれでいいのだろうかと、余計な心配をしてしまうほどのレベルである。

ぬかり無しのセルシオ……。この例をひとつ挙げるなら、グローブボックスの造成であろうか。そのフタの“受け”部分には、両サイドにフェルト風のソフトなパッドがさりげなく貼られている。もとより作りのいいグローブボックスなのだが、その上に、いかなるキシミ音も出すまいぞ!……という決意がここにある。

そして、“音無しセルシオ”である。試乗日は雨だった。雨中の高速道路クルーズを余儀なくされたが、セルシオのドライバーはここで、おそらく初めての体験として(ぼくはそうだった)フロントガラスに雨の粒が当たる音というのを聞くことになる。つまり、そのような雨滴の音が、消し去れなかった音として、セルシオの室内にかすかに響く。そういう高速クルージングである。

さらには、ワイパーブレードのゴムが、ガラスの上で“仕事”をしている音というのも聞き取れる。そうか、ワイパーってのはガラスの上をゴムが滑るんだな……ということの実感である。言っておきたいが、これはキキュッとかゴリッとか、あるいは、モーターの作動音などのことではない。「スーッ……」というような、そういう摩擦音である。要するに、それが聞こえるくらいに静かなのだ。これは、やっぱり驚く。

ぬかり無く、音が無く、そして「ニッポン」も無い。実にシンプルな印象の大型車で、むしろ、控えめにすら見える。ディテールでのデザイン的なイタズラも皆無。このクラスの国際マーケットに出て行った場合、こんなにおとなしくていいのだろうか? こんな懸念も、逆に生じてしまう。(ベンツを見よ)

最高速、車両重量、CD値、燃料消費量。これらのファクターで、ほとんど困難だと思える目標値を、まず設定する。(みな、相反する要素である)それを諦めることなく、しかも「まだまだだ……!」の精神でもって、ひたすらツメてゆく。そのようにして作られたことが、刻々と、乗っていてわかるクルマ。それがセルシオだった。

すべてにぬかり無く、そして、大きな不満も無い。ドライバーズ・カーとして走り回ってみても、足のポテンシャルはけっこう高く、決して山岳路でトロい高級セダンではない。高速コーナー(高速道路の山あい部分)での、ステアリングの保蛇力が重くなる傾向は、これはメーカーが言うように安心感のプレゼントではなく、ぼくは要改良点だと思うが。

ともかく、些細なことのみ、あげつらいたくなるようなレベルであり、このクルマはぬかり無く、十全に作り込まれている。繰り返し、このフレーズが出てしまうほどに、セルシオは大いなる達成である。

ただ、これはレトリックになってしまうかもしれないが、セルシオの問題点をもし指摘するなら、要するにこのクルマは「ナントカ無し」のカタマリでしかないということであろうか。

クルマは、こうであってはならない……。ぼくらは、このような注文はいっぱい持っている。ただ、クルマとは ** である、クルマは ** であって欲しい。このようなオーダーというか、希求と積極性の文化が、ことクルマにおいては、前述の否定の文化よりも弱い。このわが国の現状が、セルシオには濃密に反映されている。

トヨタ・セルシオ。これは“ネガティブな名車”である。

(1989/11/14)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
セルシオ(89年10月~  )
◆換骨奪胎……こんな言葉を思わず想起したほどの、クラウンによるV8奪取劇。だが、良いものができたのなら、それの適用範囲はどんどん拡大すべし。これが「トヨタ」であるのだそうだ。そう言われれば、そのような「民主化」を、これまで「上 → 下」という方向と流れで、ずっとやってきたメーカーがトヨタだった。「作り込み」の極みを発揮したセルシオでのノウハウは、必ずや、次代のトヨタ車に活きるのであろう。無音ガラスの研究も、実は既に着手済みなのだそうだ。恐れ入りましたとは、皮肉ではない。

○2015年のための注釈的メモ
このモデルが登場し、ついに日本車もワールド・プレスティージ車を生み出した!……と祝福されたかというと、この国の場合、どうもそうではなかった。セルシオは、日本の“欧州派”論客から批判を浴びた。それは主にハンドリングで、彼らはセルシオの高度の静粛性は気づかなかったことにして、こと「走り」において、欧州高級車はこうではないのだという論陣を張った。トヨタも謙虚で、日本&アジアの高級車はこれでいいのだ……などと居直ることもなく、次世代以降に“改良”を加えていく。

一方、欧州のプレスティージ・カーはセルシオに驚愕し、衝撃を受けていた。このモデルの登場によって、彼ら欧州メーカーはクルマにおける「静粛性」に目覚めたと思う。そして、懸命にセルシオ=レクサスLSを追った。

90年代、超高級車を買えるというマーケットは「欧米日」しかなかった。ここから先は、歴史の《if》になるが、セルシオのデビューがもし十数年遅かったら? つまり中国大陸にリッチマンが続々と登場する21世紀に、このクルマが出現していたら? 超高級車は“ハンドリングおたく”である必要はないんだと、新興のチャイナ・マーケットから声はあがっただろうか?
Posted at 2015/03/09 10:39:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
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何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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