
§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection
まずは、これは凄いものを作ったもんだ……というのが、トヨタ・セルシオの第一印象である。ドアを開けてみる、閉めてみる。座ってみる、触ってみる。グローブボックスを開けてみる。ぬかり無し!
そして、キーを捻り、ゆっくりと動き出す。日本の街で乗っても、意外に小さい。そして、思う。音無し……!
もうひとつ、走らせながら感ずることがある。このクルマは、何ひとつとしてケバケバしくなく、また、何に使うのかと戸惑うようなスイッチ、ボタンの類も、日本の高級車としてはごく少ない。(サイドミラーの表面水滴取り装置くらいだろう、何だ?と思うのは)つまり、たとえばマークⅡやクラウンの「上」に来るクルマとして、その流れの頂点に位置していない。セルシオは、まるっきり翔んでいる。
同じような意味では、乗り心地もそうだ。したたかさを内蔵するにしても、ともかく表面的にはソフトに、柔らかに──。これが日本の高級セダンだが、セルシオは違う。けっこう硬めで、舗装の継ぎ目にも敏感であり、またシートも、しっかりと身体を“押し返す”硬さがある。とくにコイル・サスペンションのピエゾTEMS仕様はそうだ。(これは、セルシオのうちでのスポーティ・パッケージでもあるのだが)ニッポン・マーケットで、果たしてこれでいいのだろうかと、余計な心配をしてしまうほどのレベルである。
ぬかり無しのセルシオ……。この例をひとつ挙げるなら、グローブボックスの造成であろうか。そのフタの“受け”部分には、両サイドにフェルト風のソフトなパッドがさりげなく貼られている。もとより作りのいいグローブボックスなのだが、その上に、いかなるキシミ音も出すまいぞ!……という決意がここにある。
そして、“音無しセルシオ”である。試乗日は雨だった。雨中の高速道路クルーズを余儀なくされたが、セルシオのドライバーはここで、おそらく初めての体験として(ぼくはそうだった)フロントガラスに雨の粒が当たる音というのを聞くことになる。つまり、そのような雨滴の音が、消し去れなかった音として、セルシオの室内にかすかに響く。そういう高速クルージングである。
さらには、ワイパーブレードのゴムが、ガラスの上で“仕事”をしている音というのも聞き取れる。そうか、ワイパーってのはガラスの上をゴムが滑るんだな……ということの実感である。言っておきたいが、これはキキュッとかゴリッとか、あるいは、モーターの作動音などのことではない。「スーッ……」というような、そういう摩擦音である。要するに、それが聞こえるくらいに静かなのだ。これは、やっぱり驚く。
ぬかり無く、音が無く、そして「ニッポン」も無い。実にシンプルな印象の大型車で、むしろ、控えめにすら見える。ディテールでのデザイン的なイタズラも皆無。このクラスの国際マーケットに出て行った場合、こんなにおとなしくていいのだろうか? こんな懸念も、逆に生じてしまう。(ベンツを見よ)
最高速、車両重量、CD値、燃料消費量。これらのファクターで、ほとんど困難だと思える目標値を、まず設定する。(みな、相反する要素である)それを諦めることなく、しかも「まだまだだ……!」の精神でもって、ひたすらツメてゆく。そのようにして作られたことが、刻々と、乗っていてわかるクルマ。それがセルシオだった。
すべてにぬかり無く、そして、大きな不満も無い。ドライバーズ・カーとして走り回ってみても、足のポテンシャルはけっこう高く、決して山岳路でトロい高級セダンではない。高速コーナー(高速道路の山あい部分)での、ステアリングの保蛇力が重くなる傾向は、これはメーカーが言うように安心感のプレゼントではなく、ぼくは要改良点だと思うが。
ともかく、些細なことのみ、あげつらいたくなるようなレベルであり、このクルマはぬかり無く、十全に作り込まれている。繰り返し、このフレーズが出てしまうほどに、セルシオは大いなる達成である。
ただ、これはレトリックになってしまうかもしれないが、セルシオの問題点をもし指摘するなら、要するにこのクルマは「ナントカ無し」のカタマリでしかないということであろうか。
クルマは、こうであってはならない……。ぼくらは、このような注文はいっぱい持っている。ただ、クルマとは ** である、クルマは ** であって欲しい。このようなオーダーというか、希求と積極性の文化が、ことクルマにおいては、前述の否定の文化よりも弱い。このわが国の現状が、セルシオには濃密に反映されている。
トヨタ・セルシオ。これは“ネガティブな名車”である。
(1989/11/14)
○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
セルシオ(89年10月~ )
◆換骨奪胎……こんな言葉を思わず想起したほどの、クラウンによるV8奪取劇。だが、良いものができたのなら、それの適用範囲はどんどん拡大すべし。これが「トヨタ」であるのだそうだ。そう言われれば、そのような「民主化」を、これまで「上 → 下」という方向と流れで、ずっとやってきたメーカーがトヨタだった。「作り込み」の極みを発揮したセルシオでのノウハウは、必ずや、次代のトヨタ車に活きるのであろう。無音ガラスの研究も、実は既に着手済みなのだそうだ。恐れ入りましたとは、皮肉ではない。
○2015年のための注釈的メモ
このモデルが登場し、ついに日本車もワールド・プレスティージ車を生み出した!……と祝福されたかというと、この国の場合、どうもそうではなかった。セルシオは、日本の“欧州派”論客から批判を浴びた。それは主にハンドリングで、彼らはセルシオの高度の静粛性は気づかなかったことにして、こと「走り」において、欧州高級車はこうではないのだという論陣を張った。トヨタも謙虚で、日本&アジアの高級車はこれでいいのだ……などと居直ることもなく、次世代以降に“改良”を加えていく。
一方、欧州のプレスティージ・カーはセルシオに驚愕し、衝撃を受けていた。このモデルの登場によって、彼ら欧州メーカーはクルマにおける「静粛性」に目覚めたと思う。そして、懸命にセルシオ=レクサスLSを追った。
90年代、超高級車を買えるというマーケットは「欧米日」しかなかった。ここから先は、歴史の《if》になるが、セルシオのデビューがもし十数年遅かったら? つまり中国大陸にリッチマンが続々と登場する21世紀に、このクルマが出現していたら? 超高級車は“ハンドリングおたく”である必要はないんだと、新興のチャイナ・マーケットから声はあがっただろうか?
Posted at 2015/03/09 10:39:25 | |
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