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家村浩明のブログ一覧

2014年08月27日 イイね!

初代シビックを語る あとがき

初代シビックを語る あとがき「初代シビックを語る」全15回をお読みいただき、ありがとうございます。

1998年にホンダ創立50周年を記念してのムック本が刊行され、その企画の一環として、初代シビックの開発を担当された木澤博司さんにお話しを伺う機会がありました。この記事は、その録音をもとに構成したものです。

こうしたインタビュー取材は、普通は記事原稿を書く材料を得るためで、その記事ができあがった後は、音声データは引き出しの中にでも仕舞われて、以後、陽の目を見ることはありません。また、雑誌やムックの一本の記事分量にはおのずと限りがあり、長いものは掲載できません。

ただ、この時の木澤さんのお話は、そのディテールというか、コメントや事実の細かい部分こそがおもしろく、埋もれさせてしまうには惜しいものでした。何かの機会に、この録音データの全体を世に出すことはできないかと、ずっと思ってきましたが、いつの間にかコンピューティングとネットの時代。ふと気づけば、web であれば、長いものでも掲載できるという状況になっていました。

* 

インタビューの場では、木澤さんは終始にこやかに、ご自身の個人史、60年代後半から70年代の始め頃の日本の自動車界と欧州の状況、そんな中から「634シビック」がどのように生まれていったかを語ってくださいました。

お話しで印象的だったことのひとつは、その時代にクルマ開発のエンジニアを海外に派遣して、そこで生活させた。そして帰国後に、その若手技術者に“場”を与え、なおかつ、権限を大幅に委譲して、彼らが「よし!」とすることを存分にやらせたメーカーがあったということです。

しかも、若手に任せたその機種は、それが失敗したら、もう「次はない」……。つまり、二輪でスタートした会社が四輪メーカーになれるかどうかの命運が懸かっていたものであったことを、さりげなく木澤さんは明かされています。でも、おそらく、だからこそ!……だったのでしょうね。旧世代は見守るだけにして、30代の若造たちに思うがままの開発をさせる。こんな英断を、この時メーカーは行なっていました。

そして、もうひとつの感銘──。それは、「オヤジさん」だったり「お父さん」だったり、表現はいろいろでしたが、木澤さんが「本田宗一郎」の人と行動を言葉にされる際の嬉しそうな表情です。人が人(他人)を語る時に、ここまで楽しそうに語れるものなのか! そんな羨ましさと軽い“嫉妬心”さえ覚えるほどの、それは素晴らしい笑顔でありました。

「お父さん」と意見が違ったり、激しく言い合ったりというのも、それはあくまで、深い尊敬と信頼があってのこと。そして、(木澤のこのクルマには、俺は口は出さないぞ……)という、この時の宗一郎さんの姿勢も見事であったと思います。

木澤さんは、残念ながら2007年に故人となられました。私が最後にお目にかかったのは、その数年前、鈴鹿サーキットの観覧席でした。メディアとメーカー関係者合同のF1観戦会が当時行なわれていましたが、木澤さんは、私の数列後ろの席に座っておられました。私が観客席全体の様子を見ようと、何気なく振り向いた際に目が合い、(あ……!)という感じで目礼を差し上げたのが、私にとっての最後の機会となりました。インタビュー時と同じ穏やかな笑顔でいらしたことを、よく憶えています。彼岸のどこかで、ふたたびお会いすることがありましたら、今度はシビックだけでなく、初代アコードのお話しも聞かせてください。合掌。
2014年08月25日 イイね!

初代シビックを語る 《15》(最終回)

初代シビックを語る 《15》(最終回) ~ シビック開発担当 木澤博司氏 ロング・インタビュー

第15回 海外体験と初代シビック

----歴史の「if」はあまり意味がないことですが、もし木澤さんの、あの1年間のロンドン体験がなかったら、「初代シビック」は、ああなっていなかったでしょうか?

木澤 ヨーロッパ体験があったから、非常に細かいところでの味付けや仕様の決定を、自信をもってできた。そのことは言えます。でも、コンセプトそのものは、オール・ホンダ含めて、研究所の中に、みんなが乗れるクルマを作りたいというものが、あの頃すでに、できあがっていた。それを、なぜか(私が)LPLをやらされて……。

ただ、だめなものはだめ、いいものはいいというように、非常に正確に判断ができて、決めていくことができたのは、ヨーロッパの体験が生きたとは思ってます。

正直言って久米さんなんかも、クルマをそんなにわかっている人じゃないし、二輪やレースをやってきた人ですからね。普通の「街用」のクルマというのはこんなものだよというのを、自信を持って、ぼくは旗を振れた。そういうことはあったと思います。

----「シビック」のコンセプト、その出処は研究所の中から?

木澤 そうです。ただ、その後もずっとホンダの四輪、「アコード」をやり「プレリュード」をやり、そのあとも、それこそ「オデッセイ」の前ぐらいまでやってきて、“生活の中でのクルマ”のあり方みたいなものは、自分の中でひとつ、(ヨーロッパ体験が)大きなエポックになっていたんだろうなと思います。

後年に、ヨーロッパの研究所の社長になって、4年半ばかりドイツにいたことも含めて、いまのぼくのクルマの知識というのは、そういうところから学んだものですね。

あと、アメリカを知ったのも……。(シビックのための)テストとか、「シビックCVCC」(の開発)で半年ぐらいフォードの中にいて。アメリカもそういう意味では知ることになった。

クルマというのは、いまは日本だ、アメリカだ、ヨーロッパだ……というのはなくなってきましたけれども。でも、まだホンダが四輪をやり始めてしばらく、中間期ぐらいまでの間というのは、アメリカ、ヨーロッパみたいな(外の)世界を見てきたことは、かなり勉強になっていたという気はします。

たとえばフォードで学んだのは、当時排気ガス規制が厳しくなってきていましたが、CVCCというのは、初期のものは非常に「ドライバビリティ」が悪かった。

「ドライバビリティ」というのは、クルマにとってどんなものか。それについての非常に細かなテスト・プロシージャーを持っていて、それに基づいて(開発を)やっていたのがアメリカだったし。それから、EPA(アメリカ環境保護局)の耐久(試験)だとか、排気ガスの劣化だとかいうようなことも、アメリカは日本よりもかなり進んでいました。

結果として排ガス規制の場合は、アメリカより日本のほうが最終的には(規制値が)上回って、燃費にしても(日本が)クリアしていったけれども、そのプロシージャー(所定の手順)だったり、考え方みたいなものは、アメリカの方がはるかに進んでいた。これは事実です。

こっちがCVCCをやっている頃には、アメリカではすでに「ドライバビリティ」の評価のプロシージャーがちゃんとありましたからね。これも、ぼくのクルマ人生の中で勉強になったことのひとつです。

----たしかに、「ドライバビリティ」っていまだに日本語になっていない?

木澤 なってないですね。(でも当時のフォードには)「ドライバビリティ何点」だとか、どういうクルーズをしながら、アクセルをどのぐらい開くか、そのときにサージングをどのぐらい起こせば何点であるとか。そういう細かい評価基準はすでにできていました。

----もし日本語に訳すと何でしょう、運転性みたいなものですか?

木澤 運転性というと広くなりすぎる。

----エンジンだけのことじゃないですしね。

木澤 ええ、エンジンだけじゃないです。マウント系も入っています。(要するに)「過渡現象」でしょうか。(単なる)アクセル・レスポンスとも違うんですよね。アクセルに対応する過渡現象みたいな、そういうようにしか言えないのではないですか。アクセルワークに対する過渡現象、クルマの挙動というか、そういう風なことですね。

----ドライバビリティはともかく、シビックについては、今日はいろいろ謎が解けました。どうもありがとうございました。

(了)
2014年08月25日 イイね!

初代シビックを語る 《14》

 ~ シビック開発担当 木澤博司氏 ロング・インタビュー

第14回 30代の技術者が30代のカスタマーのために

----発表は、72年の秋でしたか。

木澤 発表は7月だったと思います。これもひとつ、エピソードがあるのだけれども、それこそ営業は(実車の)末端まで見るのは、発表会の寸前だったんです。

発表会は箱根でやりました。結果を、ぼくは箱根から直行して、うまくいったなと思いながら、研究所に戻って、心配していた(はずの)鈴木さんに報告しないで、次の朝、報告すればいいやと、そのまま家へ帰ってしまった。そしたら(研究所に)木澤が帰ってこないけれども、どうしたんだと。心配して、鈴木さんが研究所で待ってたと、あとで聞きました。

----マーケットの反応ですけど、おそらく、嬉しい誤算だったように思うのですが?

木澤 そうですね。売れるとは思ってたけれども、あんなにスンナリと受け入れてくれるとは思わなかったです。とくに、ジャーナリズムの方が大変褒めてくださって。そうなるだろうと、そういう気持ちはありましたけどね。自信はあったけれど、ジャーナリズムの方がみんな応援してくれて……。

あの時代(1973年)に“エナジー・クライシス”(第一次石油危機)も来たりして、それとなくシビックに乗っているやつは利口なんだという雰囲気を皆さんにつくっていただいたものですから。

----ジャーナリズムというよりは、やはりマーケットそのものの反応だと思いますけれど。そんなに影響力ないですよ。でも、当時は少しはあったかな(笑)。

木澤 ありましたよ(笑)。

----70年代は、カスタマー自身の自動車体験がまだ少なかった頃だと思います。各人の体感や実感でというより、アタマで(知識として)情報を得るという時代。そういう意味では……。

木澤 一番よかったのは、当時は、そこそこ年配で収入の高い方は、それこそ「白いクラウン」とやっておられた頃ですからね。ところが、そうであるのに、かなり年配の方もあれ(シビック)に抵抗を感じずに乗ってくれる。そういう雰囲気が(マーケットに)でき上がってきた。それが一番嬉しかったですね。「おまえ、クルマがわかってるな」という風に思われたいから、あのクルマに乗るみたいな……。

実際には、いろいろ辛抱しながら乗っておられる部分もあったと思うんですよ。あのクルマは、オジサンには辛かったはずなんです(笑)。

ぼくらにとっては、ちょうど“その世代”で、あれ(シビック)は一番乗るのに適したクルマだった。家族構成も子ども2人で、まだ働き盛りみたいな感じだったから、ちょうどよかったですけど。

あのクルマでは、それこそ六本木でも銀座でも、平気で、みすぼらしくなく乗って行けるという雰囲気があって、それを、年配の人もそういう風に受け取ってくださった。そんな雰囲気が(市場に)できあがっていったのが、あのクルマの成功の因だったと思いますね。

----初代「シビック」は、30代による、30代のためのクルマ?

木澤 ええ、まったくそうなんです。そのために作ったクルマです。

----開発のスタッフも、まさに?

木澤 そうです。ぼくらより2つぐらい上までがいて、いま、ここ(研究所)の専務をやっている下島さんがPLでは一番若かった。それで「カー・オブ・ザ・イヤー」、これは当時の『モーターファン』がやっていましたが、そのときに表彰のアレ(トロフィーなど)を取りに行くのに、「一番若いんだから、おまえ行け」と言ったのを憶えています。

----できあがったクルマでは、宗一郎さんがトランク付きの仕様にお乗りになっていたということですよね?

木澤 ええ。「シビック」には、かなり乗っておられました。あの人(宗一郎)のクルマは、ガタガタ音がしたりするのはあまり気にしないのですが、“こもり音”を気にされるんです。シビックは(時速)100キロ、120キロぐらいになると、こもり音がゴーッと鳴ります。「シビック」に限らず、当時のクルマというのは、かなり……。いまに比べれば、レベル低いから。

それで、年を取ってくるとおっしゃることは決まってまして、ひとつは“こもり音”。低周波(の音)です。年取ってくると、低周波がだんだん障害になって、低周波音が聞こえるようになってくる。カタカタいう音とか高周波の音は、あまり気にならない。これは、年齢的な人間の耳の特性なんですね。音圧の高いゴーッとくる音だけは、極端にいうと音がなくても感じる。

それから、乗り心地にはものすごくうるさかったです。(宗一郎専用の)シビックで苦労したのは乗り心地でして……。一方、操縦性は言わないものですから、フカフカのクルマにしてあげた。“おやじさん”(宗一郎)のクルマは、いつも特殊仕様なんです。いつも(基準車とは)変えていた。バネもダンパーもフカフカにする。こんなフワフワのクルマに乗ったら船酔いするよ、というようなクルマがお気に入りで(笑)。

乗り心地に関しては「S600」「S800」の頃からうるさく(きびしく)なったですね。ちょっと乗り心地に関しては、年齢より早くからうるさかった。ぼくは当時(おやじさんが)うるさく言ってた年齢にすでに達しているけど、ぼくはいまでも、乗り心地よりハンドリングの方が気になります。……“お父さん”、乗り心地(の評価は)うるさかった(きびしかった)なあ! 「おまえら、サルみたいなケツしてるんだろう」なんて、よく怒られました(笑)

(つづく) (収録:1998年春)
2014年08月22日 イイね!

初代シビックを語る 《13》

初代シビックを語る 《13》 ~ シビック開発担当 木澤博司氏 ロング・インタビュー

第13回 初代シビックで、足らなかったところ……

----静粛性というのは、当時、あまり問題にならなかったのですか?

木澤 静粛性は問題になったのですけれども、これは、クルージング・スピードが100キロの高速で静かならいいじゃないか、と……。制限(時速)100キロの高速道路で、120キロ出しているのはたくさんいるけれども、それは、これ以上いい、と。それで(開発の)要件を(時速)「100キロ快適クルーズ」にしたんです。決して、いまのレベルでいえば快適じゃないですけれどもね。でも(そもそも)100キロという要件だった。

もちろん(快適巡航速度を)120(キロ)にするために、もっと遮音をやったり、いろいろなことをやればよくなるのだろうけれども、技術的な力もそこまでしか……。エンジンの回転数とボディとのマッチングでも、その解析がまだ、技術的レベルがいまみたい(なレベル)に行ってないものですから。

「100キロ快適クルーズ」は、これも比較でいえば、「アコード」(の開発段階)になって、「これではやっぱり低いね、『120(キロ)快適クルーズ』にしよう」と。

それと反省として、いろいろ……。いま、結果として思えば、国内はそんなに問題はなかったのですけど。たとえばアメリカ輸出を考えたときに、まだ技術的に「シビック」の時代で劣っていたなというのは、紫外線によるシートの色の変化とか、そういうものです。

アメリカのアリゾナとかネバダとか、ああいう紫外線の強い地域で(国内と)同じ材料だと、色が褪せて、シートの色が変わってしまうんですね。もっとシートに、いい材料を使えばいいけれども、そんなにおカネかけられなくて……。

----初代「シビック」では、乗り心地だけでなく、ボディの全体の“きしみ”とか、そこから発するような“音”といった問題もありました。今日でいうボディ剛性は当時は?

木澤 ハッキリ言ってボディ剛性は、いまのクルマに比べれば高くはないです。それよりもっと(現象として)あるのは、ボディはギシギシしたとしても、インパネだとか内装がガシャガシャいっちゃイカンのですね(笑)。

いまでこそ、音がするようなところはキチッとテープで止めるとか、クリップで止めるとか、やっているのですけれども。でも当時はそういう艤装の、たとえばワイヤーハーネスの通し方とか、メーターそのものから音が出たりとか。そうした艤装として付いているものから音が出るというのは、正直言って、あまり構わなかった。

----“音・振動”の要求レベルが、当時はそのくらい?

木澤 ボディ剛性の問題で、車体がギシギシして音が出る。そういうこと以前に、早い話が、ワイヤーハーネスにしても、キチッと止めるのでなくて、平気で。もう、通っていればいいみたいな(笑)そのレベルだった、ややオーバーに言えば。

必要なところに、たとえばワイヤーハーネスをウレタンで包んでやるとか。そこまでの商品のレベルは、求めてはいたのですけれども、手が回らなかった。

----基準が今日とは違っていて?

木澤 そうですね。そんなの、少々悪路走って(艤装が)ガタガタいうのはしようがないよ、と。言ってみれば、そのレベルだったので。

----でもその点では、他社製品も大同小異だったのでは?

木澤 いや、ホンダのクルマは、最初ひどかった(笑)。

----他社の話が出ましたが、FF特有のタックイン(注1)は、「シビック」のほうがむしろ少なかった感も?

木澤 タック(イン)は、「チェリー」のほうが悪かった(強かった)かもしれないですね。でも、「チェリー」から学ぶところはけっこうありました。「チェリー」は何台か買いましたよ。それでバラしたり……。

それと、昼間に(走行)テストやるのに、「チェリー」に「シビック」のエンジンを積んで、もちろん若干改造してですけど。そして、たとえば、エンジンの温度を見たりしてました。これは、何回もやりましたね。要するに、カムフラージュです。荒川は、昼間、みんな見えてしまうところですから。「チェリー」は何やかんやで、10台ぐらい買ったのではないかな。

(つづく) (収録:1998年春l

注1:タックイン
これも「トルクステア」と同じく、言葉(用語)だけが残っていて、しかし「現象」はもう消えていることのひとつだと思う。60~70年代のFF車は、ステアリングを切り込んでいて、そこでアクセルをオフにすると、ステアリングを切っている(ドライバーがイメージしている)角度以上に、ノーズが内側(イン)を向いた。しかもそれが「キュッ!」という感じで、しばしば急激でもあり、トルクステアと並んで、好ましくないFF車の癖とされていた。

その「キュッ!」という挙動の変化は、あくまでノーズがインを向く(感じがする)のであり、アクセル・オフによって荷重の変化が起き、クルマのテールが流れる(スライドする)のとは異なるものだった。

仮に「オーバー/アンダー」という言葉を使えば、初期のFF車は、アクセル・オンではトルクステアで、コーナーの外にはらんで行くアンダーステア傾向。一方、曲がりながらアクセルをオフにすると、ノーズが過剰反応してオーバーステア風になる。そういう“ジャジャ馬”的な部分があった。これはハイパワーのFF車ほど顕著で、ここで話題に出ているチェリーでも、そのスポーティ仕様である「X1-R」の方がタックインは強烈だった。

ただし、各メーカーがFF車を作り慣れていくうちに、そして、リヤ・サスペンションのスタビリティを重要視する設定&セッティングが織り込まれるようになって以後、この「タックイン」現象も消失へと向かうことになる。今日のFF車では、コーナリング中にどうアクセルを操作しても、もはやノーズが余計な動きをすることはない。
2014年08月19日 イイね!

初代シビックを語る《12》

 ~ シビック開発担当 木澤博司氏 ロング・インタビュー

第12回 当時は「直線が一本」のテストコースだけだった!

----クルマがある程度できると、味つけとか、細かいテストの段階になると思いますが、でも当時は、大したテストコースもなかったはずで?

木澤 (テストコースは)荒川なんです。だから、基本のテストは荒川のテストコースでやったわけですが、いまだから言えば、高速走行は仮ナンバーを付けて、関越(自動車道)を走りました。当時は、まだ許されていましたので。いまは、仮ナンバーでそんなことはできませんが。

仮ナンバーでの高速のテストといっても、ゲージ貼って強度を測ったりするのでなくて、クルマの「味」としての高速のフィーリングというのを関越道で見ていた。

荒川は2~3キロ(の長さなので)、クルーズできない。“行って来い”(の直線だけのコース)なんですよ。コーナーもないので。(テストは)荒川と、あとは一部、鈴鹿サーキットですね。

それから、そのあとの適応性は、それぞれ現地(海外)へ持って行きました。たとえば「熱」のテストは、最初にネバダのデスバレーに持っていって走ってきた。ヨーロッパ・テストは、ヨーロッパの山坂を走ってきたり。

----ヨーロッパのテストでは、何か見えましたか?

木澤 ヨーロッパでは、やはりサスペンションがいつも問題になりました。ヨーロッパ仕様は、だから、サスペンションを固めたんです。当時のダンパー技術も非常に低かったものですから。

----おお、あれで足を固めちゃったら、相当に乗り心地が?(笑)

木澤 そうなんですよ(笑)。でも(ヨーロッパは)それでいいというんです。固めた方がいいと。だから、いま乗ればガチガチで、ダメ(不可)なんですけれども、その方が無難な方向だというので。バネもダンパーも、硬い仕様がヨーロッパ仕様でした。

----そのほか何か、開発の中では? キックバックは、あれでよかったんでしょうか?

木澤 (ステアリングへの)キックバックは(ネガだとは)わかっていたんだけれども、あれ以上は……。

いま、あのクルマに乗って感じるのは (ネガとして)キックバック(の強さ)がひとつですね。それから乗り心地です。ハンドリングはそこそこ良いにしても、乗り心地が悪い。それと、当時だから許されたことでいえば、エアコン性能は、たぶん、いま(の基準)では十分ではありません。

ヨーロッパに出したのはサスペンションを固めたのはしようがないけれども、(課題は)ブレーキですね。常に、いつまでも、なかなか世界的水準にというか、ヨーロッパ車のいいクルマの水準に追いつけなかったのは、ブレーキのスタビリティと、パッドの磨耗でした。それから、ブレーキの“鳴き”とか。ブレーキは、なかなかヨーロッパに追いつけなかったと思います。

アメリカでは、こんなにアメリカというのは「温度要件」が厳しいのかと思ったのは、ホットウエザー(熱暑)のテストでした。さっき、デスバレーと言いましたけれども、外気温が50度で、山を登っていく。しかも、ラスベガスの方へダラダラ坂を登って行くというのは(クルマにとって)非常に苦しい。

----あの国って極端みたいですね、寒いとなったらやたら寒いし。ヨーロッパの方がまだ、気候が寒いとしても、それで揃っているような?

木澤 ええ。(シビックは)エアコンが弱かった。(外気温)50度のデスバレーを(窓を閉じてエアコン・オンで)走っていると、外の空気、つまり窓を開けている方が涼しかったりで(笑)。

(つづく) (収録:1998年春)
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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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