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家村浩明のブログ一覧

2016年11月26日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《5》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《5》全学集会での白熱した討論の最中に、突然、生徒会長が歌を歌いだし、しかし何故か、それにみんなが素直に唱和した──。そんな生徒集会があった夜に、コクリコ荘の茶の間で、「空」がその様子を報告した時のことを思い出したい。下宿人のひとりで、港南学園の卒業生である北斗女史は少しも騒がず、「相変わらずねえ」と笑い飛ばした。

そういえばあの時、「海」や「空」はフシギそうな顔もせず、「白い花の咲く頃」を歌っていた。つまり、何らかの状況になれば、みんなで歌を歌う。これは集会参加者の共通の認識だったのだ。そこで歌われたのは、音楽の授業で教材になるような歌ではなく、NHKの「ラジオ歌謡」の曲だった。NHKの同番組でその曲「白い花が咲く頃」」がリリースされたのは、1950年のことであったという。

そんな古い曲を、いま風に言うなら13年も前の“Jポップ”を、リーダーがイントロ部分を歌っただけで、どうして、そこにいた生徒みんなが唱和できたか? これはつまり、“そういうこと”をするのが初めてではなかったからであろう。

この生徒集会、思えば彼らは手慣れていた。討論会場となったの講堂だと思われるが、その外にしっかり見張り番を立てていた。もともと生徒間で意見が対立しているのだから、討論が白熱するのは想定内。怒号が飛び交うだろうし、乱闘寸前という状況もあるかもしれない。

しかし、だからと言って、学校側がそれを理由に、生徒の“集会の自由”に立ち入ってくるなら、それは断固、阻止する。おそらくこの学校には、そうした「生徒の自治」をめぐる“抗争”の歴史があって、それを繰り返しているうちに、生徒側に、ひとつのアイデアが生まれたのだ。生徒集会・会場での“騒音”を聞きつけて、学校側が見回りの教師を派遣してきたら、その時は「合唱」をしていたことにする。──あ、音が聞こえました? 歌の練習ですよ、ほら、お聞きの通り……。

そうした「合唱」によって学校側の介入をやり過ごすという作戦は、昨日今日に思いついたものではなかったはずだ。「対学校」の交渉ごとや闘争の中で、この学校の生徒会がさまざまな戦術や作戦を行なってきたうちの一つがこれだったのだろう。そして、この「合唱」作戦は、既に1950年代に確立されていたもの。ゆえに、みんなで合唱する際の歌が「白い花の咲く頃」だったのだ。

“その時”に歌うことにした曲が、音楽授業での曲やスコットランド民謡などではなく、いかにも通俗的な「ラジオ歌謡」からの歌だったというのは、これまた、1950年代当時の生徒たちの反骨精神だったであろう。その夜のコクリコ荘で、卒業生の北斗女史が「相変わらずねえ」と笑ったのは、「まだ、同じ曲なのね!」という驚きも混じっていたと推察する。

こうした港南学園の校風は、北斗女史の送迎パーティにやって来た学園OBたちの会話からもうかがい知ることができる。彼らは語り合っていた、「校長はタヌキだからなあ」「孤立を怖れず。だけど、戦術には知恵が要るなあ……」「戦術? タカが知れてるぞ」……。

そんな北斗女史のための送迎パーティが始まる、その少し前。コクリコ荘へ続く坂道を、リヤビュー見せて、紺色のクルマが登っていくシーンがある。ルーフに表示灯らしきものがあるので、これはタクシーか。ファストバックのリヤ、そのエンジンフードには「スリット」が切られていて、クルマがリヤ・エンジン仕様であることを窺わせる。

このクルマは、フランスの「ルノー4CV」を日野自動車がノックダウン(KD)生産していた「日野ルノー」。当時のクルマとしては俊敏な走りをすることで定評があり、ドライバーにも人気があったと聞く。ただ当時は、一般ピープルが自分のクルマを所有するというのは、夢のまた夢だったので、この場合の運転者とは、主にタクシーのプロ・ドライバーを指す。

「日野ルノー」は、軽い車重と、それなりにパワーのあるエンジンがリヤに積まれていた。おそらく、けっこうテールヘビーなバランスであったはずで、その結果、このクルマはテールを「振り回して」曲がるという走りができたようだ。そんなことから、ルノーは運転者に、これは fun であるとして好まれた。その頃に非難も含めて、速くて動きが俊敏(乱暴?)な自動車のことを“神風タクシー”と呼んでいたが、こうした粗暴な動きをするクルマのほとんどは、車種でいうと、どうもこのルノーであったらしい。

当時、この「日野ルノー」は日本の街を元気に走り回っていたが、それを反映して、映画ではこの時の坂道シーンだけでなく、街を切り取ったほかの場面でも、ルノーがその姿を見せる。付け加えると、この映画は「日野ブランド」のクルマをけっこう重用していて、同社がルノーのKD以後に、自社オリジナルとして開発・生産した「コンテッサ」も、何度か画面に登場してくる。

初代のコンテッサ「900」は、この映画の時制である「1963年」より2年前の1961年のデビュー。そして、1960年の三菱500とマツダR360、1961年のトヨタ・パブリカなどが画面の中を走り、さらに、重要なキャストとしてトヨペット・クラウンの初代が登場するが、このクラウンについては稿を改めて採り上げたい。

なお、この映画は「歴史」をきちんと描きたいという意図からか、「耳をすませば」や「おもひでぽろぽろ」のように車種を露わにしない描写のスタイルではなく、登場するモデルは基本的に、バッジ類も含めてリアルに「絵」にされている。

(つづく)
Posted at 2016/11/26 07:09:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年11月24日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《4》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《4》さて、この映画の“ナゾ”ということなら、ヒロイン「松崎海」のニックネームやガリ切り/謄写版もさることながら、それら以上に、もっと根本的なところで大きな“ナゾ”がある。こうした意見はあるかもしれない。

たとえば、主人公の「海」は、16歳の高校二年生なのに、なぜ、下宿屋の女将さんみたいなことをしているのか。また、港南学園の生徒は、どうして古ぼけた建物である“カルチェラタン”にこだわって、その存続運動までするのか。さらには、そもそも「カルチェラタン」って何? どういう意味で、何でこんな名前なのか、など。

……もちろん作者ではないので、こうした疑問にすべて答えることはできないのだが、まず、「松崎海」が16歳で果敢にも下宿屋をやっているのは、ひとつは、彼女が長女だからだと思う。家系や家族の中での役割行動というか、妹や弟がいる立場だからというか。ともかく、長女として求められる当然のことをしている。これが「海」のスタンスなのではないか。

そして、もうひとつの理由は、もう中学は出たから。つまり、半分以上はオトナだからという「海」の自覚だ。ある統計によれば、わが国の「1960年」時点での高校進学率は、男女を合わせた全体で57・7パーセントだった。つまり、6割に達していない。少し時間が経っての「1965年」では、これが70・7パーセントになるのだが、1960年代前半の中学生、10人のうちの3人は、学校を出たらすぐ職に就いて社会人になった。

(高校進学率は1970年になると急伸して、82パーセント超となる。また、この年には男女が逆転して女の進学率の方が高くなり、この傾向はその後も変わらない。そして1975年以降、高校への進学率は男女ともに9割を超えて今日に至っている)

……というわけで、周りがそうした状況なのであり、カシコくて気配りのできる「海」であれば、母の不在時に女将さん役をこなそうとするのは、むしろ当然であったかもしれない。この点では、実は妹の「空」も同様であり、劇中、今日の夕食は「空」に任せたので、私は早く帰宅しなくてもいいと「海」が言うシーンがある。アメリカ留学中の母も、「もう高校生なんだから、みなさんの面倒を見ることはできるわよね」……くらいのことを言って、サッソウと米国へ旅立ったのではないか。

そんな勉強といえば、「耳をすませば」の中学生・月島雫のお母さんもまた、家事そっちのけで(?)大学で講義を受けていたことを思い出す。スタジオ・ジブリ~宮崎駿というラインは、「学問する母」という姿と設定がとても好きなようだ。

そして、何より“働く少女”ということであれば、「紅の豚」のフィオ・ピッコロは、弱冠17歳で、ポルコの飛行艇を設計していた。このことを思い出せば、日本の女子高生「海」が下宿屋を取り仕切るのは何のフシギもない。

さて、もうひとつの「カルチェラタン」だが、これは「ラテン人の地区」とか「ラテン語の人々がいるエリア」というのが、とりあえずの直訳になるはず。ラテン語の人々(ラテン語を識っている人)とは、日本で例えるなら、漢文や外国語に堪能な人たちという感じだろうか。教養語であるラテン語を駆使して、学問に勤しむ。そんな“ラテンな”学生たちが集まっている一帯。それをパリ人が「カルチェラタン」と呼んだ。

こうした“学生の街”宣言というのは、学生自身が誇りとともに自称したのか。それとも、あの地域にいる連中はスゴいよね~と、周りの方から、それとなく言い始めたのか。そのあたりは定かではない。そして、ここから先は私見が交じるが、この「カルチェラタン」という言葉には、学問中の身でございますという謙虚さと同時に、それと同じくらいの度合いで、自分たちは“並み”とは違うという強烈な選良意識が含まれていると見る。

横浜の“丘の上”にある、男女共学の港南学園。その文化部系の部室が集まっている建物で、“本名”は清涼荘。それがどうして“カルチェラタン”と呼ばれるようになったのかは、映画の中では描かれない。ただ、この学校は多くの生徒がフランス語を学んでいて、パリの街についての情報も広く共有されていると察する。

ヒロイン「松崎海」のアダ名が「メル」であることも、ここで思い出すべき。そして、そもそもアダ名というのは、最初に誰かがその名を言った時に、(そうだ、そうだ)(それはピッタリ!)といった賛同者が一定数以上いることで、初めて成立するものだ。

つまり港南学園とは、そうした“おフランスで、カルチェラタンな”(笑)学校で、そしてこの映画は、そういう場に集うエリートたちの物語。このあたりにイヤミを感じる方々には、この映画は向いてないので、他の映画をご覧になることを強く薦める。

そして、ヨーロッパの大学は、その創建時から、王権や領主からの「自治」を掲げるのが常であり、そうしたスピリットもまた、この「丘の上」の誇り高い学園には“輸入”され、伝統として受け継がれていた。この映画のもうひとつの“ナゾ”とされる(?)全学討論集会での「合唱」事件は、港南学園がそんな“カルチェラタンな学校”であることと深く絡んでいる。 ( → この件については次回に)

(つづく)  (タイトルフォトはスタジオ・ジブリ公式サイトより)
Posted at 2016/11/24 21:50:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年11月21日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《3》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《3》文芸部の部室で、「週刊カルチェラタン」原稿の「ガリ切り」をしている松崎海。その部屋には風間俊がいて……と、二人の物語がこうして動き始めた。

ただ、この映画を見ていて、ちょっと気になることがある。それは、この「ガリ切り」もそうなのだが、こうした1950~1960年代的な「細部」が、たとえば2010年代にこの映画を見ようとする観客に、どのくらい「わかる」のだろうかということ。

まあ「ガリ切り」とか「ガリ版」とか、さらには「謄写版」とか。そして「カルチェラタン」でも、こうした単語であれば、いわゆる検索によって、とりあえず、その言葉の意味を探ることはできるのかもしれない。

しかし、たとえばこの映画の冒頭。朝に海が起きて布団をたたんだ際に、敷き布団の下から「紺色の布」が出現したという場面──。これって何?と思った時には、どうすればいいのか。

(……と思ったので、試しに「寝押し」で検索してみると、何と何と! 言葉の意味の説明にとどまらず、「コクリコ坂から」でそのシーンがありましたというネタまで盛り込んだwebページがあった。ウーム、ネット恐るべし! ただしこれは、「寝押し」という語を知っていたからできることではあるが)

ちなみに「寝押し」とは、畳にスカートやズボンを置いて、その上に布団を敷き、そこで一晩寝ること。つまり体重によって、アイロンなしで衣類にプレスができるというエコな(笑)方法であった。ただ、これは固い畳と、毎日の布団の上げ下げという条件が組み合わさって、初めてできることのはず。ベッド時代の昨今、こんな無電プランは果たして使えるのか。(ベッドでも「寝押し」は可能だという説はあるが)

また、前述したことではあるが、ガスコンロに自動点火装置が付いていないので、松崎海はガスにマッチで火を点けていた。これはつまり、台所でガスを使うたびにマッチを消費していくということ。そのため、当時の多くの家庭は、ガスコンロの横に「徳用マッチ」を置いておくのが常だった。この場合の「徳用」は大型のマッチ箱を意味し、並みサイズの(携帯しやすい)マッチ箱を多量に買うより、本数的にも、この大箱入りの方がお得。そこから「徳用」を名乗り始めたということらしい。(タイトルフォト)

見方を変えると、映画の「1963年」当時、マッチは「買うもの」だった。まあ数年後には、喫煙者のために超・安価なライターが供給されるようになり、そしてPR用として、街や店内でマッチが無料で配られ始める。マッチを「買う」という機会はこうして激減し、さらに人々が「炎」を必要とする機会も少なくなって、いまの街頭では、マッチではなくティッシュが配られているのだと思う。

また、「ガリ版/ガリ切り」にもここで言及すると、これは印刷の一種なのだが、「入力」というか描いた(ロウ紙を引っ掻いた)文字は何ら変換されることなく、そのままのカタチで「出力」(印刷)される。ゆえに、姉妹で訪問した文芸部で「ガリ」の話題になった時、松崎空は「私は字がちょっと……」と尻込みした。そして、風間俊が松崎海の「ガリ切り」のジョブに、「いい字だ、ありがとう」と言ったのは、何事にも几帳面な海が描いた文字がキレイで読みやすかったからだと推察できる。

さて、この映画でのこうした“ナゾ”は、まだある。チラッと出て来た洗濯機も、いまの目線では、何をしているのかがわからないのではないか。コクリコ荘を切り盛りしている松崎海は、下宿人と家族に朝食をサーブした後、登校するまでの間に洗濯をする。

その洗濯機の「脱水」が、ウーン、何と説明すればいいのか……(笑)。ともかく、今日行なわれているように、遠心力を利用して水気を取り去るのではなく、回転する二本の「円柱」の間に洗濯物を通して、布を挟みつつ絞っていくというコンセプト。こうして言葉にすると、さらにややこしくなるのだが(笑)、言ってみれば、手絞りをちょっとだけ機械化しましたという感じだろうか。業界用語では、「遠心脱水」に対して、これを「ローラー絞り」と分類しているようだ。この映画でも短時間だが、ローラーに挟まれて布類が絞られていく様子が映し出される。

また、炊飯器も登場しない……というか、少なくともコクリコ荘では使われていない。お米は大きな容器に入っていて、その米を四角い「マス」ですくい取り、盛り上がった部分を「切る」というやり方で、松崎海は計量する。その後、米を釜に移したり、それを研いだりするというシーンはなかったが、朝に起きてきた海は、すぐに釜を載せたガスコンロに点火していた。前の晩のうちに、炊飯のための準備をすべて整えておく。これが炊飯における海の流儀なのであろう。

ただ、家庭用の「電気釜」自体は、既に1950年代からあったらしい。しかし海は、業務として米を炊いている。電気を用いた釜は、そのための役には立たなかったということか。……あ、それより、十分に水を含ませた米を大きな釜で炊いて、炊きあがったらお櫃に移す。海がやっていたこうしたメソッドの方が、ご飯はずっと美味しく炊きあがるのかもしれない。

それにしても、この映画の時制(1963年)から半世紀ほどしか経っていないのに、この国の「生活」の「ディテール」は、ずいぶん変化したものだ。もしもバリバリの21世紀人が「1963年」にタイムスリップしたら、ご飯も炊けす、シャツも洗えないという事態になるのではないか。

そして炊飯や洗濯だけでなく、クルマ絡みでも、この種のことはいえそうだ。今日であれば、すばらしい電子制御燃料噴射システムによって、いついかなる場合でも、ボタンを押すだけでエンジンは回り始める。しかし、「1963年」のようなキャブレターの時代は、そうではなかった。とくに冷間時は、いくつかの儀式を執り行なわなければ、エンジンを始動させることは困難だった。

とにかく、映画やドラマが「時代劇」であれば、私たちは「違い」を前提に、物語に入っていく。しかし「現代劇」の場合、そんな準備はほとんどしない。この映画に、もし、ある種の「わかりにくさ」があるとするなら、原因のひとつは、「1963年」があまりにも忠実に再現されていることにあるのではないか。言い換えれば、私たちの「この50年」は、それと気づかないままに、けっこう激変の半世紀だったのだ。この映画を見ながら、ふと、そんなことを思った。

(つづく)
Posted at 2016/11/21 11:09:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年11月19日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《2》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《2》松崎海の妹・空は、風間俊が屋根から飛んだ時の写真を「30円」で買ったと姉に言った。「30円」というのは、この映画で桜木町駅にあった切符販売機と同じプライス。国電(当時)の最短切符と写真代が同じだったのであれば、“風間俊ファンクラブ”のブロマイドは、今日の感覚では一枚200円くらいということになるだろうか。

そして空は、買ったその写真に風間のサインをほしいと姉に言う。ただ、風間がいるであろう「週刊カルチェラタン」の編集部は、あの古くてコワい(?)建物の奥深くにある。とてもひとりでは行けないから一緒に来てと、姉にせがむ空。こうして、「海と俊」が初めて会う機会(ファースト・コンタクト)は、図らずも妹の空がお膳立てする格好になった。

文化部系の部室が並ぶ“魔窟”に分け入った、二人の少女。彼らが何とか三階の文芸部までたどり着くと、「ようこそ」と迎えたのは生徒会長の水沼だった。デスクから振り向いた風間俊に、サインを!……と空が写真を差し出す。「してやれよ、ヒーロー!」と、笑ってけしかける水沼。

この時、サインペンを持つ風間俊の右手が、包帯で包まれていることがわかる。空の付き添い役として、そこに松崎海がいることに気づいた風間が言った。「これ、あの時のじゃないぜ。猫にちょっと引っかかれただけだ」

──あの時、つまり風間俊が屋根からダイブした時に、松崎海はほとんど反射的に立ち上がった。目の前で起きたことに驚き、何より、自分のすぐ傍で起きていることに静観はできない。海は、そんな性分なのだろう。

さらにあの時に、海は、水から顔を出した俊を引き上げようと右手まで差し出した。すかさず、二人の“握手”シーンにカメラが向けられる。(え……?)気づいた海が手を振りほどいて、俊はふたたび水の中へ……。友人たちと一緒の席に戻った海は、吐き捨てるように「バカみたい!」と言った。

そんな海だったが、しかし、「俊の記憶」だけはしっかり残ったようだ。その夕方、掲揚柱から旗を降ろそうとした海は、降りてきた信号旗と、あの時に空から落ちてきた俊の姿が一瞬重なるように見えたことに驚く。

水沼はもちろん、そんなことは知るよしもない。ただ、これは想像ではあるが、水沼は風間から聞いていたのではないか。俺は「松崎海」に重大な関心がある。風間は水沼に、こう言っていたと思う。たとえば、風間が「週刊カルチェラタン」に載せた、「少女よ、何故、旗を……」という詩的な一文である。風間がタグボートから、毎朝掲揚される「航海の安全を祈る」という旗を見て興味を持ち、それに答礼していたとしても、旗を揚げているのが誰であるかは、ボートからはわからない。

海から見える丘の上 → 揚がる旗 → コクリコ荘 → 松崎海。……この“連想ライン”を風間俊に教えたのは、港南学園のことなら何でも知っている事情通の男、つまり水沼なのではないか。親友である二人は、これまでに何度も、「松崎海」について二人で話していたのだ。そういえば、屋根からのダイブの時でも、風間は、一度海と目を合わせてから飛んでいた。

そんな「松崎海」が、妹と一緒であるにせよ、いま自分たちの部室にいる。水沼は(いまこそ好機だ!)と見た。風間の包帯が話題になったところで、水沼はまず、「そうだ、俊の代わりに、ちょっとガリを切ってくれないか?」と探りを入れる。すると、これに妹・空が同調してくれた。「おねえちゃん、手伝ってあげたら? 私、字がヘタだし」

さらに水沼と風間は、海を“こっちの世界”へ取り込もうと、物理のテストの「ヤマ張り」を持ち出した。次回の「週刊カルチェラタン」は、それがメインのネタだったこともあるが、風間は、水沼が「ヤマ張り」の名手であり、その情報は「83%」の確率があると持ち上げる。すぐに水沼は、「残り17パーセントは、自分の運だけどね」とクールに笑ったが。

こうして、松崎海の“内堀と外堀”は埋められた。コトは成ったと見た水沼は、さらに気を効かせる。こんな“魔窟”の中を女生徒ひとりで歩かせられない、自分が出口までエスコートすると申し出て、部室から空を連れ出し、さり気なく「海と俊」を二人だけにするのだ。

……いや、妄想が過ぎるかもしれないが、しかし、この映画は「海=ラ・メール → メル」の説明もない、基本的に不親切なシナリオ(笑)で作られていることを思い出すべき。ゆえに、見る側で「補う」必要があり、また、そうして「補った」方が話としてもおもしろくなる。その意味では、この映画はお子様向きではない。ひとりのオトナの観客として、「描かれなかったシーン」に思いを巡らせながら物語を追うのがいいと思う。

(つづく)    (タイトルフォトは、スタジオ・ジブリ公式サイトより)
Posted at 2016/11/19 23:40:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年11月18日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《1》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《1》朝、目覚めた少女は、庭にある柱に二枚の旗を掲揚した。すると海上では、それに呼応してか、制服を着た少年が、自身が乗って来たタグボート(引き船)に答礼と思われる信号旗を揚げた。映画『コクリコ坂から』は、旗によるこんなメッセージの交換で始まる。

旗を揚げると、少女は庭から台所に戻り、食事の支度に取りかかった。年少ではあるが、彼女はひとりで下宿屋を切り盛りしているのか。大きな釜の中には、既に研いだ米が準備されているようで、少女はマッチを使ってガスに点火した。炊飯の開始だ。マッチは“徳用マッチ”と呼ばれた大きな箱に入っている。付け加えれば、このガス・コンロは、何らかの方法で外から炎や火花を与えないと火がつかない。

一方タグボートの少年は、船が接岸すると自転車を降ろし、それに跨って走り出した。抜けようとした路地の脇には、軽三輪が駐まっている。(あ、マツダのK360か)と思う間もなく、大通りに出た少年の前を、初代コロナ(タイトルフォト)、車種不明のライトバン、外国車のセダン、そして小さな三菱500などが走っていく。さらに初代クラウンをやり過ごすと、少年は大通りを渡った。

下宿屋では、朝食をサーブするジョブと洗濯を終えた少女がセーラー服に着替えて、外に出た。そこに、オート三輪の助手席に乗った家政婦が出勤して来る。運転者は「乗ってくかい?」と声をかけるが、少女はそれは断わり、歩いて学校へ向かった。オート三輪に乗っていたのは米屋で、この時には車種はわからなかったが、後に「くろがね」のバッジが映し出される。「くろがね」はダイハツ、マツダと並んで、戦前からのオート三輪“御三家”メーカーのひとつだ。

そして、大通りは別として、少女が歩いて学校へ行く道は、まだ舗装されていない。また、ここまでに登場したクルマは、トヨタ車でいうなら、初代のクラウンと初代のコロナ。この二車種はそれぞれデビューが1955年と1957年で、また、車道を行くクルマ群の中にいたスバル360の登場は1958年、そして三菱500は発表が1960年だった。

まあ三菱500は、この映画のように「街」で姿を見かけるほどの販売台数には至らなかったはずだが、それはともかく、これらのクルマからも、この映画の「時制」がだいたい見えて来る。映画の中盤では、「1964 東京オリンピックを成功させよう」という掲示がある東京の街・新橋へ、主人公たちが出向いて行く挿話がある。

さらには、画面に映るバスが「いすゞ」のボンネット型で、スクーターはラビットやシルバーピジョンが走り、リヤビューを見せて日野ルノーが坂道を登って行くシーンなど。そのルノーの後継モデルだったコンテッサも、サイドビューを見せて走り去る。

TVのブラウン管の中では、巨人軍の長嶋茂雄が三振し、坂本九が「上を向いて歩こう」を歌っていて、「もうすぐ、舟木一夫が出るのよ!」というセリフがある。「上を向いて…」は1961年にリリースされた曲、そして舟木一夫が「高校三年生」でデビューするのは1963年だった。

……ということで、この物語の舞台となるのは、東京オリンピック開催の前年で、第二次大戦の終戦から20年近く経った「1963年」であった。そして、前述のように東京に“遠征”もしたが、主人公たちが暮らしているのは、1963年の横浜。少女が切り盛りする下宿屋・コクリコ荘、また彼女が通う私立高校の港南学園は、ともに横浜の“港が見える丘”に建っている。

そして、主人公の少年がタグボート(引き船)に乗っていたことは記したが、「横浜港」もまた、物語の重要な舞台である。山下公園には氷川丸が泊まっているし、そこに建つ「TOYOTA」の看板を付けたマリンタワーも画面に映る。神奈川はイメージ的にはニッサンの勢力圏なのに、そのマリンタワーにトヨタの文字が出現したとして、これはいっとき話題になったはずだ。そして映画のエンディングも、「横浜港と船」がそのステージになる。

映画は、二つの挿話を交錯させながら、物語を進めて行く。そのひとつは、主人公たち、つまり高二の少女「松崎海」と高三の少年「風間俊」のラブ・ストーリー。そしてもうひとつが、彼らが通う港南学園の一角にある文化部系の部室が集まる古い洋館、通称“カルチェラタン”の存続がどうなるか、である。学校側は、この古すぎる建物の改築……というより取り壊しを企図しており、そして港南学園の一部の生徒はそれに強く反対している。

さて、ヒロインである「松崎海」の名は「うみ」。三人姉弟の長女で、妹の「空」と弟の「陸」がいる。ただ、親しい人や級友たちは、彼女を「メル」と呼んでいる。何故「メル」なのかという説明のセリフは一切用意されていないが、ただ、文化部の面々がタムロする建物を“カルチェラタン”と呼んでいる学校であり、ここではフランス語が半ば“公用語”化しているとするなら、「ラ・メール」(=海)から無理やり付けたアダ名かもしれないという想像は一応できる。

そして、タグボートに乗っていた少年の名は「風間俊」。港南学園・文芸部の一員で、「週刊カルチェラタン」というビラ一枚の雑誌を発行している。松崎海が毎朝「旗」を揚げていることは、風間は知っていて、主宰する「週刊カルチェラタン」に「少女よ、なぜ、君は旗を揚げるのか」……で始まる小文も掲載していた。

「ねえねえ、これ、メルのことだよね?」と、松崎海が級友からそのビラを見せられた後の昼休み。友だちと一緒にお弁当を広げていた海の目の前で、事件は起きる。生徒会長・水沼の合図で、「カルチェラタンの取り壊しに反対!」という垂れ幕が掲げられると、抗議のためのパフォーマンスとして、建物の屋根から防火水槽に風間俊がジャンプしたのだ。

(つづく)
Posted at 2016/11/18 10:15:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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