• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

家村浩明のブログ一覧

2016年10月25日 イイね!

映画『耳をすませば』~少女「雫」の世界と“コンクリート・ロード” 《3》

映画は、こうして「自分試し」に突入した雫が、書きたいとした物語を何とか書き上げ、その作品の最初の読者になる約束をしていた老人から、粗っぽいが「原石」の魅力があるという評価を受ける。老人のそんな温かさに涙するも、その処女作がまるで未熟であることを一番わかっていたのは、雫本人だった。

そして、ディーゼルエンジンの音がする老人のデリバリー・バンで送られ、夜遅く自宅に帰ってきた雫は、服のままベッドに倒れ込んで眠る。そんな娘に、「戦士の休息だな」と呟いて、お父さんが布団をかけてやるシーンがいい。

こうして、少女・雫の自分を「試す」時間は終わり、それと時を同じくして、バイオリン製作の修業を「試して」いた少年・聖司もイタリアから帰国する。……というか、そもそも雫が中間テストも無視して、自身の「試し」に没頭したのは、二ヵ月を期限としてイタリアに行った聖司が帰ってくるまでに、自分も「試し」を終えておきたかったからだった。

そして、“戦士の休息”から目覚めた雫は、まだ世界も暗い夜明け前に、聖司と再会。喜んだ聖司は、この街(コンクリート・ロード!)の中で自分の一番好きな場所へ、雫を連れて行こうとする。このあたりの物語の展開と流れは、とても巧み、かつダイナミックで、そのまま、あのラスト・シーンへと突き進む。

この時彼らは、自転車の二人乗りで、聖司の秘密の場所へ向かうが、その途中で、いかにもこの二人らしいシーンがある。坂道の登りで、「俺はこうすると決めたから」と、後席に雫を乗せたまま坂を登ろうとする聖司。

それに対し、「お荷物だけなんて、私はいや!」と、雫は座席から降りる。そして二人で自転車を押し、急な坂道を登り切る。相手が自分のことをどう思っているかではなく、自分が相手にとって「何」でありたいか。そのことの方がはるかに重要という雫の、本領発揮のシーンであった。

さて、「クルマ側」からこの映画を見ると、エンドロールで、ひとつ気づくことがある。“コンクリート・ロード”に生きる主人公たちを囲む景色として、「道」と「クルマ」が繰り返し描かれることは先に書いたが、エンドロールも、画面の上部が橋(道)になっていて、そこをサイドビューを見せていろいろなクルマが走っていく。

映画の中で、雫の部屋には1994年のカレンダーがあったから、これはその年の物語だということ。では、その1994年の「道」を、どんなクルマが通り過ぎるか? 

まず、小型のトラックが行く。続いて、大型のデリバリーバン・タイプのトラック。ラージな3ボックスの上級セダン、2ボックスのスモール・ハッチバック、軽トラ、そして、自転車の二人乗り。

また、軽自動車の2ボックス・セダン、赤の2ドア・クーペ、長尺の荷物を積んだ小型トラック、スバル・サンバー風の軽ワゴン、軽自動車のセダン。そして、2トンくらいの小型トラック、スモールな3ボックス・セダン、4枚ドアのミドル・セダン、ヤマト宅急便のトラック。そして、猫も散歩中(笑)。

さらには、ふたたび、クラウン/セドリック級のラージな4ドア・セダン。小さなセダンはピンク色で、これはリッターカー級か。また、ミドルクラスのセダン、色は白。2ボックスに近い形状の白いスモール・セダン。軽のワゴン、これはサンバーであろうか。

そして、黒/白二色のパトカーが行き、その後に、背中にスペアタイヤを背負ったクロカン・タイプ。さらに、タクシー、スモールの2ボックス車で色は白……といったクルマが画面を通過する。

……こうしてエンドロールで走るクルマ(車型)を並べて、いったい何が言いたのかというと、まず、「ミニバン」が一台もいないこと。そして、古いレンジ・ローバーと思われるクロカン・タイプは最後の方で一台登場するものの、「SUV」やそのクロスオーバー・タイプも走っていない。

もちろん、この映画が1994年の東京・郊外を舞台にしているなら、これは当然のことである。たとえば、軽自動車のトール・ワゴン型を「乗用」に使いましょうというススキのワゴンRがデビューするのは1993年の秋だ。

このモデルはメーカーも予期せぬほどの大ヒットの後、コンセプトがすべての軽メーカーによって“コピー”され、各社から同じシルエットの「トールなワゴン型軽乗用車」が出現して、日本の街の景色を変える。ただ、1994年段階ではそこまで普及していないから、街を軽自動車が走っていても、このエンドロールのように、セダン型と商用車がそのすべてとなる。

さらに、その“トール”なワゴンRは、いわば軽サイズのミニバンだったが、もっとラージなミニバン、たとえばオデッセイが出現するのは1994年である。このモデルもまた、5ナンバー・サイズのエスティマ(エミーナ/ルシーダ)とともに、新しい日本のファミリーカー像の形成に大きな影響を与えるが、この映画の制作時点を考えれば、この画面には登場不可能。

つまり、ワゴンR的な軽自動車は存在せず、ミニバンやSUVの流行もまだ“来て”いない。そんな「1994年以前」の日本のクルマ状況を、このエンドロールは見せてくれるのであった。“ワゴンR以前”“オデッセイ以前”の日本の道路や街はこうであった、というように──。

なお、スタジオ・ジブリの近作『コクリコ坂から』は、1963年の横浜をその舞台とする。そしてこの映画は「歴史を描く」という意図もあったのか、登場するクルマはみな、バッジも含めて当時の自動車として描写される。この映画にどんなクルマが登場するかは、いずれ本欄で書くことがあるかもしれない。

(了)
Posted at 2016/10/25 04:24:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年10月24日 イイね!

映画『耳をすませば』~少女「雫」の世界と“コンクリート・ロード” 《2》

少女・雫が「カントリー・ロード」に自作の新しい詞を与えたことでもわかるように、この映画は単なる初恋物語やラブ・ストーリーを超えて、月島雫がどのように自分を発見し、さらに自己変革していくかという力強い物語になっている。

そういえば、雫が男子(聖司)と、夕子の言う「両想い」になった際の、少女二人のやり取りがおもしろい。雫は、せっかく自分でも関心があるハンサムな男子と“そんな関係”になっているのに、少しも喜ばないのだ。恋の成就より、自分がいまどういう状況にあるかを気にする。彼女はまだ進路を決めることができず、それはつまり、自分が「何ものでもない」ということ。それが雫にとっての大問題で、そのことだけで頭がいっぱいになってしまう。

それに気づいた友人の夕子が、さすがに呆れて雫に言った。
夕子「なんで? 好きならいいじゃない? 告白されたんでしょ」
雫「それも自信なくなった……」
夕子「私、わかんない。私だったら毎日手紙書いて、励ましたり、励まされたりするけどな」

これは雫に告白した少年・聖司が、イタリアにバイオリン製作の修業に行くことが決まったことを受けている。しかし、夕子にこう言われても、雫は「自分よりずっと頑張ってるヤツに、頑張れなんて言えないもん」と呟く。

夕子「そうかなあ……。雫の聞いてるとさ、相手とどうなりたいのか、わからないよ。進路が決まってないと 恋もできないわけ?」
その通りで、月島雫は、彼女にとっての「何か」が整わないと、恋はできない少女だった。

友人は、さらに言う。
夕子「雫だって才能あるじゃない? “カントリー・ロード”の訳詞なんか、後輩たち大喜びしてるもの。私と違って、自分のことはっきり言えるしさ」
こう言われても、雫は嬉しくない。そして、聖司の言葉を、そのまま夕子に返した。
雫「“俺くらいのヤツ、たくさんいるよ”」
夕子「えっ?」
雫「ううん、あいつが言ったの。あいつは、自分の才能を確かめにいくの」

ただ、こうして言葉にしてみて、雫はようやく気づいたようだ。
雫「だったら、私も試してみる。決めた! 私、物語を書く」「書きたいものがあるの。あいつがやるなら、私もやってみる」
夕子「でも、じき中間テストだよ」
雫「いいの。夕子ありがとう。何だか力が湧いてきた」

こうして雫は、「誰かに恋することができる自分」になるために、自らに課題を設定する。そして中間テストも無視し、その「自分試し」に取り組む。この映画が単なるラブ・ストーリーではない所以である。

また雫は、恋人の聖司が中学生なのに既に「進路」を決めていることに衝撃を受けるが、これは彼が選んだ職種とも関連しているだろう。少年・聖司の望みは、バイオリン作りの職人になることだが、こうした専門の職人は、ヨーロッパでは13~15歳でその職種の徒弟となり、親方に師事して修業を始める習慣がある。言い換えれば「中学生」という年齢で、ヨーロッパの人々は生涯の仕事を決めて、それに就く。

ただ、これは「欧・日」の違いというよりも、職種の問題であるかもしれない。日本でも芸事や音楽の修業は幼い頃から始めるし、また「職人」と呼ばれるような仕事なら、年少の頃から始めた方が結局は有利なのではないか。また、極端な例だが、歌舞伎役者の息子であれば、生まれた時にその職業はもう決まっている。

しかし一方で、日本の「普通」の中学生なら、まずは高校に行くことがその“仕事”であろう。この映画でも、雫には大学生になっている姉がいるが、雫から「お姉ちゃん、進路って、いつ決めた?」と訊かれた大学生の姉は、「いま、探してるとこ」と応えていた。

つまり日本の場合、コドモの時点では、職業は決めない。「学校だけは行きなさいよ」とは親のセリフだけではなく、一種の社会的な要請でもある。大学で学ぶとは、言い換えれば、そのまま学者になる場合は別として、22歳までは職業は決めなくていいということである。人生の中でのそんな“ペンディング”が、この国では社会的に許容されている。

(つづく)
Posted at 2016/10/24 08:01:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年10月23日 イイね!

映画『耳をすませば』~少女「雫」の世界と“コンクリート・ロード” 《1》

「スバルR-2」が重要な脇役だった『おもひでぽろぽろ』に対して、同じスタジオ・ジブリ制作になる『耳をすませば』では、クルマは慎重に「ぼかされて」いる。『おもひで……』におけるスバルのように特定できる車種は登場せず、主人公が中学生ということもあってか、物語の中でクルマが活躍することもない。(正確には、『おもひでぽろぽろ』に“出演”していたのはR-2をモチーフにしたコンパクト車で、R-2のフルコピーがアニメーションで描かれていたわけではなかったが)

では『耳をすませば』は、「クルマ」とは何の関係もない物語かというと、そうではない。「道」と「クルマ」は、この作品世界を“下”から支える重要な構造部材になっている。

映画はジョン・デンバー作の「カントリー・ロード」が、オリビア・ニュートン・ジョンによって歌われるシーンで始まる。そして物語の中で、ヒロインの中学生「月島雫」は親友の夕子に頼まれて、この曲を歌いたいという後輩のために、「訳詞」を試みている。そんな作業の中から、彼女オリジナルの替え歌というかパロディ・ソングが生まれていた。それが「コンクリート・ロード」だ。

 ♪ コンクリート・ロード どこまでも 
 ♪ 森を切り 谷を埋め
 ♪ ウエスト東京 マウント多摩
 ♪ ふるさとは コンクリート・ロード

「こんなのも作った」と、雫からこの詞を見せられた夕子は、キャハハハ!……と大笑いする。たぶん雫は、「カントリー・ロード」の原曲が持つ“ふるさと愛”の感覚がイマイチわからなかったのだろう。ジョン・デンバーは歌の中で「西バージニア、マム山、シェナンドー河……」と地名を並べていくが、東京生まれの雫にとっては、こうした地名では何の感興も沸かない。

もっとも日本の詩人も「ふるさとの山に向かいて、言うことなし」と、ふるさとに対しては「ありがたきかな」と、ただただ沈黙していた。ジョン・デンバーや石川啄木に共通する、こうした「ふるさと」への文学的(?)な感覚を、少女・雫は共有できなかった。そんな苛立ちもあって、私の「ふるさと」ならこれしかない……とシニカルに、また批評的に歌ってみたのが、雫の「コンクリート・ロード」だったのであろう。

そのような替え歌を作った少女・雫にとって、「ふるさと」は“土の匂い”がないものだった。そして、その“硬い世界”に主役として「棲息」しているのがクルマという生き物。人とクルマは辛うじて敵対してはいないが、しかし、人がその“鋼鉄の生物”を完全にコントロールしているわけでもない。

映画の中で、クルマはしばしば人々の身体をかすめて走り去り、また、クルマをやり過ごしてから、ようやく人が行動する。そんな人とクルマの「共棲関係」の様子を、この映画は何気なく、しかし何度も描写する。

ただしこの映画では、コンクリート・ロード上の個々のクルマが具体的に描かれることはない。この点は徹底していて、画面に登場するクルマはみな「無バッジ」であり、また、サイドビューやリヤビューだけという描写も多い。もちろん、サイドビューだけで、そのクルマの車種を特定できる場合もあるが。(たとえば猫を追って、雫が細い道を登っていく際に駐車していたのはBLMC時代のミニだったし、終盤に、雫と聖司が自転車で秘密の場所に向かうハイライト・シーンで、軽くホーンを鳴らして彼らを追い越していくのは初代のゴルフだった)

そして、多少のネタバレを含んで話を先に進めれば、「カントリー・ロード」という曲が結局どうなるかというと、少女・雫はこの曲に付ける詞を、彼女の感性で作り替える。それはもう「訳詞」ではなく、彼女が自分と「ふるさと」との関係を自分自身の言葉で歌うものだった。

 ♪ 一人で生きると
 ♪ 何も持たず 町を飛び出した
 ♪ さみしさ押し込めて
 ♪ 強い自分を守っていた

この雫の「作詞」を見た友人・夕子は、すぐに「ここ、いいな!」と賛意を表する。雫の詞はさらに、カントリー・ロードを用いて故郷へ帰ることはしないというところまで踏み込んで行く。月島雫は、ジョン・デンバーが「帰郷」を歌ったのに対し、「カントリー・ロード」を自分にとっての“旅立ちの歌”に変えるのである。

(つづく)
Posted at 2016/10/23 06:54:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年09月26日 イイね!

映画『おもひでぽろぽろ』とスバルR-2 ~ あとがき的なメモ 《2》

「ラブ・ストーリー」という前提でこの映画を見ると、実は、この映画には「恋している」人物が一人も登場しないので、逆にわかりにくくなってしまうように思う。まあ、本家のばあちゃんが見破っていたように、トシオはタエ子に「惚れちゃってる」かもしれないが、しかし彼は、自分ではそのことを認めていない。またタエ子にしても、トシオとの触れ合いで、自分がいろいろ変化したことは知っても、それが「恋」だとは思っていない。

ただ、人が(自分以外の)誰かと接触して、その結果、もし、その人のトラウマが消えたのだとしたら、これは大変なことである。物語の後日談として、タエ子がいったん東京に戻り、とくに「アベ君」の件で、自分がずっと抱えてきて、しかし処理できなかった「過去」の記憶(トラウマ)が、もう辛いものではなくなっている。そして、それがトシオによってもたらされたことに気づく。

その時、タエ子にとってのトシオが、“好きになった人”以上のかけがえのない存在であることがわかって、タエ子は以後の生活を、トシオとともに山形で過ごすと決めるのではないか。ある人が他者に対して、「恋愛以上」の関係になっていく。これはラブ・ストーリーを超えた、そんな人生のパートナーとの出会いを描く映画でもあった。

さり気ないが、「もう、5年生の私は連れて来ないから」とは、あなたのおかげで、私のトラウマは消えたのです……というものすごい「告白」だ。人としての歓び、そういう他者に出会えた嬉しさの言葉でもある。そして、こんな人には滅多に出会えないとわかったタエ子は、多少の紆余曲折はあっても、いずれトシオと結婚するだろう。

        *  

それにしても、繰り返しではあるが、この映画の「スバルR-2」は絶妙だ。このスバルと同時期、1960年代後半から1970年代に登場したモデルを並べてみても、キャスティングとして、「スバルR-2」以上にこの映画に似合うクルマは見当たらない。

たとえば、ホンダN360、ホンダZ、スズキのフロンテ、ダイハツ・フェローなど。これらはみな、他車に対する「敵愾心」を剥き出しにした格好をしていて、スバルのようなホノボノ感に乏しい。有機農業に秘かに意欲を燃やす青年の持ち物とは違う感じだ。

その意味ではホンダ・ライフ(1971年)はまあまあだが、ただ、このクルマに1983年まで、ずっとこだわって乗ってるかとなると、ちょっと「?」も付く。……かと言ってステップ・バンでは、今度は乗り手が素直な人に見えず(笑)、自称・百姓のトシオのクルマには相応しくない。

初代(1966年)のサニー1000、そのセダンなら? ……うん、これはいいかもしれないね。ただ、サニーだとちょっとスポーティすぎて、トシオが「気に入ってるんです」ということの意味が、走り屋とかカー・マニア的な方向に振れてしまう感はあるが。

じゃあ思いきって、スバル・サンバーでは……というと、これは「農事車」としてリアルに過ぎるのではないか。このクルマなら、どこの農家でも壊れるまで乗るだろうから、トシオが「気に入っている」理由がわかりにくいし、1983年まで使い続けている彼の「こだわり」も観客には伝わらない。

……というわけで、トシオの愛車は、やっぱり「スバルR-2」以外にないということになるのだが、しかし! よくぞまあ、このクルマをキャスティングしたもの。スタジオ・ジブリの「クルマを見る目」に、改めて脱帽だ。

そしてもうひとつ、この映画は「実写」ではないことを活かし、ゆえにクルマを巧みに小道具として使っている。つまり、アニメーション(絵)なので、クルマを自由に「抽象化」できる。これまでアニメ映画を見てこなかった「実写派」として、これは大発見だった。

アニメは、普通の映画と違って、実車を画面で映すわけではない。そこから、この映画がやったように、フロント・ノーズ部分のバッジを取り去って、R-2を「さらにR-2らしくする」こともできるのだ。実車のフルコピーを画面に出したくなかったという、単にそれだけのことだったかもしれないが、でも、これは映画的にも充分効果があった。

映画の中で、「クルマ」をとても巧く使った。そういう作品として、『刑事ジョン・ブック/目撃者』(注1)のフォルクスワーゲン・ワゴン(タイプ3)と、この『おもひでぽろぽろ』のスバルR-2は、私にとっての双璧である。

(了)

○注1:映画『刑事ジョン・ブック/目撃者』については、本ブログで「最も醜い自動車」として採り上げています。URLは下記です。
 https://minkara.carview.co.jp/userid/2106389/blog/c919227/p8/
Posted at 2016/09/26 05:21:32 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年09月25日 イイね!

映画『おもひでぽろぽろ』とスバルR-2 ~ あとがき的なメモ 《1》

映画『おもひでぽろぽろ』とスバルR-2 ~ あとがき的なメモ 《1》物語が終わってみると、山形での十日間を終えて、東京へ戻ろうとするタエ子が電車に乗る寸前に言った「ごめんなさい。今度は大丈夫。もう『5年生の私』なんか連れてこないから」という台詞は、この映画終盤のキーフレーズだったことに気づく。

そもそもこの物語は、「あなたって、大変な過去を背負って生きてんのねえ(笑)」と長姉のナナ子に言われてしまう「27歳のタエ子」が、自身の「過去」(トラウマ含む)を道連れに、山形に旅することで始まる。

「私は今度の旅行に、小学校5年生の私を連れてくるつもりはなかった」
「でも、一度よみがえった10歳の私は、そう簡単に離れていってはくれないのだった」

……と、山形行きの寝台特急車内で語っていたタエ子。そんな彼女が山形入りして十日間が経った後に、「もう『5年生の私』なんか連れてこないから」と呟いて、物語が閉じられる。

この台詞は、見事にラスト・シーンと繋がっている。トシオとタエ子の二人を乗せたスバルについて行こうとする「幻の子どもたち」。しかし、彼らはスバルに追いつくことができない。これは、車内でタエ子が隣のトシオに頼んだからではないか。
「トシオさん、加速して! もっと速く走って!」
この時、タエ子は自分自身に呟いていただろう。(さようなら、小学5年生の私……)

トラウマという語を使えば、タエ子が抱えていたいくつかの「心的外傷」は、田舎という“空気”とトシオ青年の出現によって“溶けて”消えた。トシオはタエ子のトラウマを、「傷」から単なる過去の記憶にしてくれたのだ。

        *

またこれは、「サナギ」の物語でもある。「27歳のタエ子」にしつこく付きまとったのが、何故「小学5年生の私」だったか。これはタエ子自身が気がついていたように、それが人にとっての「サナギ」の時期だからであろう。

おそらく人にも、昆虫と同じように「サナギ」の時期があって、それが小学5~6年生、10~12歳の頃ではないか。幼年期と少年・少女期との境目、第一次性徴などフィジカルな変化もあり、また、自意識や社会性といった精神的な部分が急速に拡大する。

「青虫はサナギにならなければ、蝶々にはなれない」
「あの頃をしきりに思い出すのは、私にサナギの季節がふたたび巡ってきたからなのだろうか」

ただ、第一次の「サナギ」期は、おそらく誰もが遭遇するオトナへの通過儀礼だが、その第二期については、それがあるかどうかも含めて、個人差があるのではないか。この映画では、山形へ向かう夜行の寝台車の中で、27歳のタエ子が第二期の“サナギ症候群”に陥ったという設定だ。そして、そんな状態のまま、彼女は山形・高瀬地区で農作業を行ないつつ、小学5年生の時の「おもひで」と向き合う。

この映画でひとつ気持ちがいいのは、そんな過去や自身のトラウマについて語っていくタエ子に、「自己憐憫」の風情がまったくないことである。ねえねえ、聞いてくれる? 私って……といった慰労を求める姿勢では、彼女は自身の「過去」を語らなかった。

たとえば、エナメルバッグ~父に頬を張られた件でも、「かわいそう……」と言ったのは、それを聞かされたナオコの方で、タエ子はきっぱり、子どもの頃は「私はとてもワガママだった」とナオコに告げている。また、学芸会での好演~家族のせいでスターになれなかったという件でも、子役や芸能人には私は向いてなかったと、はっきり二人(トシオとナオコ)に言った。

        *

封印してきた(であろう)自身のトラウマに向き合いながら、しかしタエ子は何故、そんなに逞しくなれたか? それはやはり「田舎」の“空気”と、そこで生き物とともに暮らす(農業に従事する)人々との触れ合いが、タエ子の心身を都会にいるときとは違ったものにしてくれたからだと思う。農作業を実際にすることによる「手」の歓びというか、身体的な快感や達成感もタエ子の背中を押したはずで、タエ子はそんな「田舎」の空気の中で、自身の過去をトシオやナオコに告白していく。

印象的だったのは、タエ子がナオコと一緒に歩きながらカタツムリを見つけ、それを自分の手の甲に載せたシーンだ。東京で、たとえば会社からの帰り道。雨が降って、カタツムリが葉っぱの下に出て来ていたとしても、タエ子は気づかず、また見つけたても、それに触れることはなかったのではないか。

○フォトはweb「やまがたへの旅」より

(つづく)

Posted at 2016/09/25 21:48:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/9 >>

 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    

愛車一覧

スバル R1 スバル R1
スバル R1に乗っています。デビュー時から、これは21世紀の“テントウムシ”だと思ってい ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation