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家村浩明のブログ一覧

2016年08月29日 イイね!

映画『おもひでぽろぽろ』の「スバルR-2」が絶妙だ! 《4》

映画『おもひでぽろぽろ』の「スバルR-2」が絶妙だ! 《4》トシオとタエ子がクルマに乗る際に、トシオは何故、まずトランクやリヤゲートを開けて、タエ子の荷物を収めることをしなかったか。それは言うまでもなく、このクルマ(R-2)がリヤエンジン車だからである。車体の後部は“ボンネット”というかエンジンルームで、トランクやカーゴ・スペースではない。

また、迎えた人(VIP)をクルマに乗せるのに、何故、助手席側のドアを開けて、タエ子を先に乗せなかったか。キーレス・エントリーとかドアロックの一括オン・オフとか、そんなワザはカゲもカタチもなかった時代。ドライバーがまず運転席に乗り込んで、室内側から助手席のドアロックを外す。これはクルマを使う際の割りと一般的な習慣だった。

……ああ、それにしても「R-2」とは! この場面にこのモデルが登場したことで、観客は、この映画とその登場人物について、かなりの情報を手に入れられる。そのくらいに、このクルマは「雄弁」だ。

まず、この物語の「現在」が1983年であることは、既に確認できている。そうであるなら、トシオはかなり“物持ち”のいい青年ということになる。スバルの「R-2」は1969年のデビューだが、1972~73年にはモデルとしての生涯を終えていた。つまり、トシオが乗ってきたのは、10年以上前に作られた軽自動車だった。(小さなサイズで白色の軽乗用車用ナンバーが付いている)

オヤジのクルマは借りられなかったので……と言ったトシオだったが、もし、タエ子を“普通のクルマ”で迎えに来たかったのなら、父親以外の誰かからクルマを借りることもできただろう。トシオは、気に入っている「スバルR-2」で、タエ子を迎えに行きたかった。

タエ子はクルマには詳しくないだろうが、それでも、トシオが乗ってきたクルマが新車状態でないことはわかったはずだ。そして、自分の送迎のために、何かリッパなクルマを手配していたとか、そういうことでもなかった。きっとこの人は、いつもの等身大の「トシオ」のまま、いま、ここにいる。そんなことも、タエ子は直感したのではないか。

たとえばの話だが、この時トシオが、同じスバルの軽自動車でも「名車」の誉れ高い、あの「スバル360」(テントウムシ)で迎えに来たらどうだっただろうか? そして(これは少し後のシーンでわかることだが)その「名車」で走りながら、自分は有機農業をやるんです!と熱く語ったりしたら? 

しかし、そうした展開を見せた途端に、物語はかなり“重く”なると思う。何より「名車360」は造形的なアピール度が強烈なので、画面に登場するだけで観客の視線を奪う。たしかに単独でも「絵」になるカッコいいクルマではあるのだが、それはコンセプトでも造形でも主張性がきわめて高いということ。そうした“過剰なまでの個性”は、物語世界の成立にはむしろ邪魔になるのではないか。

トシオが「さり気ないクルマ」(R-2)で迎えに来て、そして、何も言わずにタエ子がそれに乗り込んだ。この一連のシーンは、この映画全体のモード、そしてトシオとタエ子の関係性を一気に明らかにする。映画でのクルマはこのくらいに「雄弁」で、そのことを制作者側はよく知っていた。この作品における「1983年時点でのスバルR-2」は、小道具としてもシナリオとしても、これ以上はない絶妙の車種選択であった。

ちなみに、1958年に登場したスバル初の軽自動車「360」(愛称テントウムシ)だが、これは航空技術者が精魂込めて作った意欲的かつ歴史的な「名作」で、自動車博物館にはよく似合う。ただ、決して「実用性」が高いクルマではなかったはずで、たとえばトランク・スペースはこのクルマには存在しなかった。

スバルの名車「360」は、一般大衆が日常的に使うクルマとしては、やっぱりちょっと前衛的でありすぎたのだ。そしてスバルもまた、そのような評価と判断を行ない、ゆえに直系後継車としての「R-2」(リヤエンジン車のセカンド・ジェネレーションという意味のはず)は、敢えて「平凡」に仕立てる作戦を採ったと見る。

地上の航空機のような「360」から一転して、「R-2」の車体ではスクエアな造形を採用、室内空間も稼いだ。また、フロントにはトランクも設定した。ただし、メカとしての「360」には自信があったから、「R-2」でもそのまま適用した。これがスバルR-2のコンセプトだったのではないか。

ただ、「平凡」ではあったが、「R-2」のデザインはとても良くまとまっていたと思う。リヤエンジン車なのでフロントにラジエター・グリルを設ける必要がなく、結果として余計なものがない「顔」は、とても穏和な印象になる。その無表情さが牧歌的な雰囲気を醸し出し、日本の農村の景色にも静かに溶け込む。

(映画の中の「R-2」は、車種を特定したくなかったのか、実車のフルコピーではなく、フロントのノーズ部分にあるバッジがおそらく意図的に外されている。ただ、それによって、フロントマスクのホノボノ感はいっそう増したと思う。……ということなので、この作品でのトシオのクルマは、スバルR-2の雰囲気をたっぷり湛えた小さなクルマ、カテゴリーはおそらく軽自動車。これが映画としての正しい見方であるかもしれない)

さて、映画に戻ろう。二人はR-2の車内に収まり、そして、トシオがエンジンを掛ける。すると車内に民族音楽風の音が流れ出し、トシオは慌てて、カセットデッキのボリュームを絞った。「あっ、つけでおいていいですか」と許可を求めるトシオ。たぶん彼は、スバルで走っている時は、いつもこの音楽を聴いているのだろう。

そして、さあ出発!という段になって、トシオは発進でエンストさせてしまう(AT車ではない)。いつもと違って他人を乗せていて、そして乱暴な発進だけは避けようと、アクセルを踏むのを遠慮しすぎたのか。

未明の街を、ヘッドライトを点けたスバルR-2が走る。その車内で、タエ子が質問する。
「珍しい音楽ですね」
「ハンガリーの、ムジカーシュっていう5人組」
「詳しいんですか?」
「ちょっとね。百姓の音楽、好きなんです。俺、百姓だから」

そしてトシオは、訊かれてないことまで喋り始めた。
「去年、稲刈りのあと、本家で酒盛りやったでしょう」
「あっ、ああ……」
「あんとき、若い連中がドヤドヤって顔出したでしょう。……覚えてないかな。実は若い娘が東京から来たっていうから、覗きに行ったんですよ。俺、その中の一人、へへへ(笑)」

そんなトシオは、脇道からトラックが出て来たのに気づかず、驚いたタエ子が悲鳴をあげた。慌てて、ステアリング操作でトラックを避ける青年。スタート時のエンストといい、そしてこのトラックの件といい、トシオは助手席にタエ子を乗せたことで、自分では気づかぬまま、明らかに少しハイになっている。

(つづく)

◆今回の名セリフ

* 「百姓の音楽、好きなんです。俺、百姓だから」(トシオ)

* 「……覚えてないかな。実は若い娘が東京から来たっていうから、覗きに行ったんですよ。俺、その中の一人、へへへ(笑)」(トシオ)
Posted at 2016/08/29 05:13:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年08月26日 イイね!

映画『おもひでぽろぽろ』の「スバルR-2」が絶妙だ! 《3》

映画『おもひでぽろぽろ』の「スバルR-2」が絶妙だ! 《3》寝台特急の車内に、少女のタエ子をはじめとする(幻の)「小学5年生」たちがいる。彼らを見ている27歳のタエ子。そして彼女に、あの頃の出来事がよみがえる。

岡島タエ子を「好きだ」という他クラスの少年がいたこと。それが知れ渡って「♪好きなんだけど 離れてるのさ」という『星のフラメンコ』(西郷輝彦)で、男子生徒たちがタエ子を冷やかしたこと。さらに、そのタエ子を好きな広田君は、野球ではピッチャーで、クラス対抗の試合でその本領を発揮したこと。

学校からの帰り道。図らずも街角で出会ってしまった広田少年とタエ子。いきなりタエ子と二人だけという状態で、何も喋れなくなった少年がようやく絞り出したのは、こんな質問だった。
「あ、雨の日と……」
「え?」
「くもりの日と晴れと、どれが一番好き?」

タエ子が「……く、くもり」と答え、ストライク!とボールがキャッチャー・ミットに収まるシーンになるのが愉しい。「あっ、おんなじだ」と応じた広田少年は、持っていたボールを高く投げ上げて、それをキャッチした。そして少女タエ子は、『ET』のように空を飛んだ。

寝台車のベッドで、タエ子が横になっている。
「私は今度の旅行に、『小学校5年生の私』を連れてくるつもりはなかった」
「でも、一度よみがえった『10歳の私』は、そう簡単に離れていってはくれないのだった」
電車の中を「5年生の子どもたち」が駆け回り、タエ子は自問する。
「でも、どうして、小学校5年生なんだろう?」

タエ子は、女子だけが体育館に集められて、保健の女の先生から「大切な授業」を受けた時のことを思い起こす。
「えー、みなさんはこれから小学校を卒業して、中学、高校へと進み、大きくなって赤ちゃんを産むんですけれども……」
これ以後のタエ子は、“それ”であると思われるのを恐れて、ひどい風邪をひいているのに、体育の授業を見学しないと言い張ったりした。

夜の鉄道、駅を通過していく寝台特急。タエ子のナレーションが続く。
「アオムシは、サナギにならなければ、蝶々にはなれない」
「サナギになんか、ちっともなりたいと思ってないのに……」
「あの頃をしきりに思い出すのは、私にサナギの季節がふたたび巡って来たからなのだろうか」
「『5年生の私』がつきまとうのは、自分を振り返って、もう一度はばたき直してごらん。そう私に教えるためなのだろうか」
「ともかく私は、残り少なくなった山形までの時間を眠ることにした」

駅に寝台特急が着いた。まだ、夜は明けていない。旅行ケースを手にしたタエ子が列車から降りる。駅では、ひとりの青年がタエ子を待っていた。
「あっ! 岡島タエ子さん……ですね」
「あっ、そうですが」
「あー、えがった」

「クルマ、こっちです」
「あ……。でも、すみませんが、どなたですか?」
「あっ、覚えてませんか。……覚えてるわけないですよね(笑)。俺、トシオです。あの、カズオさんの又従兄弟」

改札を出ると路面が濡れていたのか、タエ子が訊いた。
「雨だったんですか?」「うん。だけど、今日は晴れますよ」

青年トシオは、駅前の駐車スペースにタエ子を導く。そこには、二台のクルマが並んで駐まっていた。左側の一台は、おそらくランサーEX(1979年のデビュー)。そして、その右側に佇んでいるのは、何とスバルの「R-2」である。(このシーンに初めて触れた時には、思わず、おおー!と声が出てしまった)

この時、トシオはクルマについて、余計なことは言わない。「オヤジのクルマ、借りて来ればよかったんだけど」と言った後に、「俺、このクルマ、気に入ってるんです」と付け加えただけだ。スバルに乗り込んだトシオは、手にしていたタエ子の荷物を後席に置くと、車内から助手席側のドアを開け、タエ子に言った。「ちょっと狭いけど、どうぞ」

こうして(今日とはサイズが異なる)小さな軽自動車の中に、トシオとタエ子の二人が収まった。そしてここから、山形の「田舎」を舞台に「二人」と「過去」と「スバルR-2」が織りなす、繊細にしてハート・ウォーミングな物語が動きはじめる。

(つづく)

◆今回の名セリフ

* 「雨の日と……くもりの日と晴れと、どれが一番好き?」(広田)

* 「でも、どうして、小学校5年生なんだろう?」(タエ子)

* 「アオムシは、サナギにならなければ、蝶々にはなれない」(タエ子)

* 「俺、このクルマ、気に入ってるんです」「ちょっと狭いけど、どうぞ」(トシオ)
Posted at 2016/08/26 14:35:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年08月25日 イイね!

映画『おもひでぽろぽろ』の「スバルR-2」が絶妙だ! 《2》

タエ子のナレーション。
「あの時、むろん姉さんたちは、熱海になんか行かなかった」。
おばあちゃんとタエ子だけが熱海に行ったが、しかし、祖母は一度風呂に入ると、マッサージを受けながら部屋で寝っ転がっているだけ。
「すっかり退屈してしまった私は、グリム風呂を手はじめに、人魚風呂、レモン風呂、三色スミレ風呂と、お風呂のハシゴをしたあげく、大きなローマ風呂にたどりついた時には、すっかりノボセていて……」

ここで、たった独りでラジオ体操をしているタエ子のシーンが挟まる。自分以外に誰もいないので、規定のラジオ体操のフリでなく、勝手なアドリブで身体を動かしているのが可笑しい。

場面は、熱海でのタエ子へ。風呂に入りっぱなしの少女は、大きな風呂の中で倒れてしまった。
「……あえなく、卒倒」「期待の一泊旅行は、あっけなく終わり、あとには、長い長い夏休みが待っていたのだった」
「この間、姉妹で集まった時、姉さんたちについ、この話をしてしまった。『そうそう、そんなことがあったっけ』と大笑いになり、あの頃の思い出話に花が咲いた」

そんな思い出話のひとつが、初めて食べたパイナップルのことだった。缶詰ではない果物のパイナップルで、末娘のタエ子が父にねだり、それに応じた父が銀座の千疋屋でわざわざ買ってきた。しかし、目の前にパイナップルがあっても、その食べ方がわからない。「これ、どうやって食べるのかな」「輪っかに切るのよ」「どうやって?」「知らない」……と姉たち。

その翌日か。情報を得てきたらしい長姉が勢いよく帰って来た。
「ただいまーっ、パイナップルの食べ方わかったわよ!」
中華包丁が取り出され、パイナップルが切り分けられていく。
「気をつけて切れよ」「出刃包丁の方がいいんじゃない?」

だが、せっかくのパイナップルだが、その一片を口にした家族の顔は揃って歪んだ。「硬い」「たいしたもんじゃないな」「あんまり甘くないのね」「缶詰と、ぜんぜん味が違うよ」
期待よりおいしくなかったので、賢明な(?)姉たちはすかさず、パイナップルをタエ子に押しつける。「タエ子にあげる」「あたしも」

タエ子だけは意地を張って、硬い果物を食べ続けるが、姉たちはさっさと食卓から去って行った。「なーんだ、つまんないの」「バナナの方が、ずっとおいしいわね」「やっぱり果物の王様はバナナかしらね。バナナ食べよっと」
この時、茶の間のテレビからは、「♪どうせ私をだますなら 死ぬまで だましてほしかった」という「東京ブルース」(西田佐知子)が流れていた。

さて、場面は東京駅へ。改札に向かうタエ子は泉屋の袋を持っている。これは姉に頼まれた、本家の娘ナオコへの土産。泉屋のクッキーは定番の洋菓子だ。

タエ子のナレーション。
「ローマ風呂で卒倒し、初めてパイナップルを食べた、あの年。ビートルズの来日をきっかけに、グループサウンズが流行しはじめ、あっという間にエレキブームが到来した」
画面はワイルド・ワンズの『思い出の渚』、そして、ナナ子が電話で言っている。「そう、“ミッシェル”。ビートルズは歌詞がいいのよね」

物語の設定が、またひとつ明らかになった。タエ子が「あの年」と言っているのは「1966年」。そして、この年に小学生(10歳か)だったタエ子が27歳になっているので、この物語の「現在」は1983年頃ということになる。
ちなみに、“ミッシェル”や“ガール”を含むビートルズのLPレコード『ラバーソウル』が発売されたのは1965年の12月。1966年に“ミッシェル”の感想を語るナナ子は、ビートルズの最新版をいち早く聴いていた。

タエ子のナレーションが続く。
「美大の一年生だったナナ子姉さんは、いつも流行の最先端。ミニスカートも真っ先に穿いて、みんなとおんなじように、階段は紙袋でおシリを隠して上った」
「高二の秀才だったヤエ子姉さんは、それでも、宝塚の何とかさんに、すっかりお熱」
このシーンでヤエ子が持っていたブロマイド。そこに写っていた宝塚の男役は、当時のビッグスター“マル”こと「那智わたる」であろう(たぶん)。

さらに、タエ子は語る。
「姉さんたちの思い出話は、自分のアイドルやファッションのことが中心だった。昭和41年(=1966年)頃、姉さんたちには懐かしい青春の日々」
「でも、私は当時、小学校5年生。ファンになったジュリーのタイガースも、まだデビュー前で、学校と家を往復するだけの生活に、たいした思い出があるはずもなかった」

この物語は、主人公を含む家族の構成を押さえておいた方がいいかもしれない。岡島家は、父と母、祖母、そして女だけの三姉妹。全員が登場するシーンでわかるが、長姉と次姉は大学生と高二で、身体にしてもオトナ。ただ、小学生のタエ子だけが身体のサイズも頭の中もコドモで、ひとり未成熟なのだ。

オトナ(姉)たちはタエ子を子ども扱いし、子どものタエ子は、それを時には利用しつつも、オトナたちに反発する。そういう関係で、この家族ではタエ子だけがいつも疎外され意地悪されているという見方は、おそらくハズレである。

また、映画がタエ子にとってのいやな記憶だけを拾い集めている……のでもない。ただ、いやなことに較べれば、幸せだったことや時間は、コドモはあまり憶えていない。要するに、そういうことである。現にいまのタエ子は、長姉が嫁いだ先の家(山形)に、その姉に指示された通りの土産を持って、嬉々として農業体験に行こうとしている。仲の良くない姉妹はこういうことはしない。

東京駅のプラットフォーム。寝台特急にタエ子が乗り込んだ。被さるナレーション。
「あの晩、姉さんたちと別れて、ベッドに入ってからだった。5年生の時の、こんな思い出ともつかぬものが、突然、私の胸に次々とよみがえって来たのは──」
「飼っていたゴンという犬のこと、運動会のこと、楳図かずおのマンガに怯えたこと、電気鉛筆削りに憧れたこと」
「こうした、ほんの些細なことまでがありありと思い出され、それはまるで映画のように私の頭を占領し、現実の私を圧倒してしまった」

山形へ向かうタエ子の旅は、こうして、「小学5年生」の時の記憶と一緒に移動する、ちょっと厄介な時間になってしまった。

(つづく)

◆今回の名セリフ

* 「そう、“ミッシェル”。ビートルズは歌詞がいいのよね」(ナナ子)

* 「楳図かずおのマンガに怯えた」(タエ子)

* 「こうした、ほんの些細なことまでがありありと思い出され、それはまるで映画のように私の頭を占領し、現実の私を圧倒してしまった」(タエ子)
Posted at 2016/08/25 13:14:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年08月24日 イイね!

映画『おもひでぽろぽろ』の「スバルR-2」が絶妙だ! 《1》

クルマという「文化的存在」(と敢えて言う)がものすごく巧みに使われ、さらには作品としてのポイントも高めている映画を発見した(注1)。スタジオ・ジブリの制作、高畑勲監督による『おもひでぽろぽろ』である。

映画は、都内の、それも都心と思われるオフィスのシーンから始まる。高層ビルの中、社内のデスクにはキーボード、OA化が既に行なわれているフロアで、ひとりの女子社員(OL)が上司に休暇届を出している。
「十日も休暇を取るっていうから海外かと思ったら、山形へ行くんだって? 岡島君」
「はい」
「失恋でもしたの?」

いまであれば、ゲスの勘ぐり、このセクハラ・パワハラ、誰か止めてくれよ!……という状況かもしれないが、そういえば20世紀には、セクシャル・ハラスメントという言葉はまだ無かったのではないか。だから、この時の女子社員も、上司の言葉に何のリアクションもしない。いかにもありそうな男たちの反応として、想定内だったのか。ともかく、彼女は短く応える。
「田舎に憧れているんです」──

続いて、小学生たちが登場するシーンになる。一学期が終わったのか、成績のことを語り合い、夏休みには田舎へ行くんだという話題になって、女生徒のひとりが言った。
「うん、長野(へ行く)。タエ子ちゃんは?」
振られた少女は、ただ「わかんない」とだけ答える。
(ということで、この物語の主人公の名は「岡島タエ子」か)

さて、小学生のタエ子は、算数はどうも得意ではないらしい。一学期の通信簿、算数の成績は「3」のようである。それを母に指摘されると、少女は「でも、理科は4になったよ」と抗弁した。そして少女は、夏休みの旅行を母にねだる。
「ねえねえ、どっか連れてって」
しかし、母はクールだ。
「うちは田舎がないの。ないものねだり、しないでちょうだい」

ここでナレーションが入る。語るのはタエ子か。ただし、子どもの声ではない。
「私は、親の代から東京生まれの東京育ち。田舎を持ってる友だちが、うらやましかった」

この導入部で、映画は、岡島タエ子の現在と、そして、その小学生時代。さらに、主人公の「心の声」としてのナレーション。これらが交錯しながら進んでいくらしい……ことがわかる。

そして夏休みとなり、小学生のタエ子は朝のラジオ体操に出席していた。広場に響くラジオ体操の音源は、オープンリールのテープレコーダー。CDどころかカセットテープもないという時代か。体操に来ているのは、タエ子と年長らしい生徒の二人だけ。
「タエ子ちゃん、毎朝、ちゃんとラジオ体操に来てエラいわね。みんなは田舎へ行っちゃってるのよ。タエ子ちゃんはどこか行かないの?」
「行く! あたみ!」
「あたみ? 熱海に何しに行くの?」
「お風呂入りに行くの」

小学生のタエ子が家族にねだって、ようやくゲットした夏休みの旅行。それは熱海の温泉ホテル、そこにあるさまざまな種類の風呂に入りに行くことだった。

シーンが変わって、タエ子の現在。電話しているタエ子。受話器からは「もしもし、岡島ですが」という声が聞こえる。
「あ、ナナ子姉さん? 私、タエ子。今日、出発するけど、ミツオ義兄さんから、本家に言伝てないかと思って」
「うーん、とくにないみたい。……あっ、そうだ。ナオコちゃんにクッキーでも買ってってくれない?」

そして、話題が母のことになり、姉ナナ子は言った。
「お母さん、怒ってたわよ。あなた、お見合い断ったでしょう。27歳にもなって、あんな良いお話、もうないわよって」

これで、タエ子の年令が明らかになった。27歳、見合い話があるのだから、当然、独身か。対して、姉のナナ子には夫がいるようだ。電話の受け答えの際に彼女は「岡島姓」を名乗っていたから、カタチとしては岡島家が婿を取ったということか。そして義兄のミツオと姉ナナ子の夫婦は、おそらく都内にいる。

そして、タエ子の山形行きの目的も明らかになる。姉のナナ子が言う。
「それに、あなたも物好きねえ。去年は、野良仕事まで手伝ったんだって?」
「そうよ、稲刈り。今年はね、紅花、摘むの」
「ベニバナ?」
「そう。せっかくナナ子姉さんのおかげで、田舎が持てたんだもの。しっかり、田舎の気分ば、味わってくるっす! フフフ(笑)」
ナナ子「フフフ(笑)よしなさいよ。たまの休みなんだから。あんな古い家に泊まらずに……」

──オシャレなペンションにでも泊まればいいのに、と言う姉。しかし、それでは熱海旅行と同じになってしまうと、タエ子は応じている。この熱海行きについては、最近、姉妹で話をしたことがあったようだ。「あーあーあー! この前聞いた、あれね」と笑い飛ばす姉。
「あなた、まだ、あんなことにこだわってるの。あなたって、大変な過去を背負って生きてんのねえ、ハハハ(笑)」

何気ない姉ナナ子のセリフだが、これはけっこう重要かもしれない。この物語を見ていくうえでキーになる言葉が詰まっているようだ。「こだわり」「過去」、そして「背負って生きてる」など。

映画はこれ以後、これらのキーフレーズを底流に、ストーリーが進んで行くことになる。

○注1:いま頃ジブリ映画を「発見」したとはどういうことか!とファンに怒られそうだが、実は私、子どもの頃に見たディズニーものを除いて、これまで「アニメーション映画」をほとんど見なかった。
……あ、評判の映画ということで『千と千尋の神隠し』にチャレンジしたことはあったが、その時、まるで意味わからず(爆)、また『もののけ姫』も「?」だったので、以後“ジブリ”もアニメもまとめて、敬して遠ざけていた。しかし今年の夏、ふと『風の谷のナウシカ』に触れてようやく「!」となり、以後“ジブリもの”をいくつか見て行くうちに、この『おもひでぽろぽろ』に出会った次第。
いまは、自分なりにひとつ決めたことがあって、それは映画を実写とアニメで「区別」するのは止めようということ。(私にとって)おもしろいか、そうでないか。映画の種類はこの二つしかない、たぶん……。

(つづく)

◆今回の名セリフ

* 「田舎に憧れているんです」(タエ子)

* 「あなたって、大変な過去を背負って生きてんのねえ、ハハハ(笑)」(ナナ子)
Posted at 2016/08/24 17:04:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年02月10日 イイね!

映画「カサブランカ」の“偏向”と右ハンドル その3

映画「カサブランカ」の“偏向”と右ハンドル その3手持ちの「カサブランカ」のDVDでは、字幕を英語にすることができる。試みに、英語はよくわからないがそれをオンにしたところ、ひとつ発見があった。日本語の字幕は短く意味をまとめてしまうだけなのだが、原語ではもっと細かく、いろいろと喋っている。……とは映画である以上当然だが、遅まきながら、私の場合は英語字幕によって、この物語の「時期」の設定を知ることができた。

リックがイルザと図らずもカサブランカで出会ってしまい、その夜に泥酔して、ピアノ弾きのサムにグチるという場面がある。その時、いまは「1941年の12月」だと確認した後に、「ニューヨークは、いったい何時なんだ?」とリックがサムに問いかける。「真珠湾」はまさにその「12月」だから微妙ではあるが、この映画は、太平洋方面ではまだ何も起こっていないとして物語を追ってもいいようだ。

さて本稿は、「カサブランカ」は米人のための戦意昂揚映画だという視点から、この映画を見ている。戦時という特殊状況下でのラブストーリーはデリケートでいいし、この映画が“プロパガンダ映画”の範疇に収まらないことは承知だが、今回はあえてその観点で迫ってみている。

さて、1941年の時点で、ヨーロッパはナチス・ドイツとファシスト・イタリアによって蹂躙されていた。そのため、たとえばブルガリアの若い夫婦はこんな場で子どもを育てたくないと、ルーレットで無謀な賭けをしてでも、「狂った世界」から出て行きたいと願う。これが、このアメリカ映画の世界観である。ゆえにリックとイルザの「恋」も、そんな“クレージー・ワールド”の上で踊ることを余儀なくされている。

ただ、リックは恋をしているかもしれないが、一方で彼は、スペインの内乱で反ファシスト側で闘った。また、リックことリチャード・ブレインは、パリにドイツ軍が進駐してきた時点で、既に反ドイツ分子として指名手配されている。リックはもともと、「狂った世界」と闘ってきた戦士なのでは? このことはドイツ側からも、またレジスタンス側(ラズロ)からも指摘されることだ。(イルザも、「あなたは変わってしまったわ」と、カサブランカでリックに言っている)

これがリックの個人史であれば、映画後半のテーマは、リックがいつ、そんな“戦士”であった自分に還るのかということになる。前述のように、ラズロがカフェの楽団に「ラ・マルセイエーズ」をオーダーし、バンドのメンバーがお伺いを立ててきた時にリックが「行け!」と目で合図したのは、彼が「反ドイツ」を明らかにした瞬間でもあった。

ただ、こんなリックの決意を促した事柄が、その前に起こっていたと思う。ひとつは、イルザの口から、「パリ」の時点で、既にイルザがラズロの妻であることを知った。そしてもうひとつは、そのラズロから、リックがかつては反ファシズムの闘士だったと指摘されたこと。

さらに、イルザとラズロのそれぞれと個別に話す機会を持ったリックは、ラズロの反ドイツ活動は、アメリカを舞台にした方がより効果があることを聞く。同時に、イルザとラズロの二人ともが、互いに、相方の一人だけでもいいから、安全な場所に逃がしたいと強く願っていることを知った。

リックにとっての衝撃は、イルザから、自分はカサブランカに残ってもいいから、夫ラズロだけはこの街から出したいと言われた時ではなかったか。オールマイティの通行証は二枚、リック自身が持っている。その一枚をラズロのために使うとして、では、もう一枚は? その時、イルザをこの街に残せるのか? 

そして「闘い」であるなら、効果や戦術、そして戦略も考え合わせなければならない。仮にリックとラズロが二人でアメリカに行ったとして、何か効果はあるか? 一方で、通行証の二枚をリックとイルザで使ったなら、ドイツ支配のフランス領に残されたラズロの運命は見えている。リックは、人妻イルザと駆け落ち的にアメリカに逃げていいのか? リックがそうした時点で、有能な指導者であり、反ドイツ人民戦線の勇士である人物の活動と生命が失われるのだ。

また、同じようなことだが、ラズロにとってのイルザは、妻や秘書ということ以上に、立場としては、同じ闘いに従事する“部隊”での副官に近いのではないか。だからこそ副官(イルザ)は、何より指揮官を安全な場所に確保したい。そのためにも、ラズロのリスボンへの脱出を願っている。

「狂った世界」を正すための対ドイツ人民戦線において、最重要はラズロが指揮を執ること。そして、その彼の活動をさらに充実させるには、妻・イルザの存在が不可欠。戦士としてのリックは、こう判断せざるを得ない。

まあ、恋をしている(その対象はリックのはずだ)イルザが、そのことをどのくらい意識していたかは、やや不明ではある。しかし、リックではなく夫と一緒に飛行機に乗るのだと告げられたイルザが、空港で、案外簡単に納得するのは、彼女もまた“闘う女”だったからであろう。

この時にリックは、俺は俺で別の闘いを始めるので、そこには、きみ(イルザ)の居場所はない……とまで言う。言い換えれば、イルザにとって、そして自由世界のための闘いにとっての彼女のベスト・ポジションは、ラズロのパートナーであること。そういう説得である。

そして、そんなリックの覚醒と行動は、フランス軍の大尉である警察署長ルイ・ルノーの目覚めも促すことになった。この映画の中で、ずっと“食えない男”として行動してきたキャプテン・ルノーは、実はレジスタンス「自由フランス」とのコンタクトがあったのだ。

空港で、“ヴィシーの水”(ドイツに屈したフランスのヴィシー政権)の瓶をゴミ籠に捨て、さらにそれを蹴っ飛ばしたルノー署長。さらに彼は、二人の間の賭け金は、二人が「自由フランス」に合流するための旅費だとまで言う。「え、きみと、そんな腐れ縁が始まってしまうのか」と笑いながら、それに応ずるリック。

「カフェ・アメリカン」をフェラーリに売ってしまったリックは、もうカサブランカにいる理由はない。愛したイルザも、夫とともに新大陸へと旅立った。ルノー大尉はこのままリックと一緒に、空港の闇の中へ消えるのか。それとも、したたかに署長としての残務整理などをしてから、どこかでリックと合流するのか。「狂った世界」を正そうとする二人の戦士を新たに生み出して、映画「カサブランカ」はこうして終わる。
(ラブ・ストーリーとしての「カサブランカ」についてのメモは、いつかまた何かの機会に──)

(了)

追記:1930~40年代の欧米車における「右ハンドル」問題については、Coptic_Light様より、当時の事実に基づいた的確なコメントをいただきました。どうもありがとうございます。皆さまは、この連載一回目のコメント欄を、どうぞご参照ください。
Posted at 2016/02/10 18:48:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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