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家村浩明のブログ一覧

2014年12月15日 イイね!

第17章 工場試作 その1

第17章 工場試作 その1 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

R33GT-Rの「セカンド・プロト」作りは、1993年の秋から本格稼働した。“加藤スペシャル”の剛性解析を終えた厚木の車両設計部によって、新たな試作ボディが次々と作られた。その厚木製の新プロトタイプがようやく93年の秋、ニュルに持ち込まれて、加藤らのテストを受けている。ステアリング・インフォメーションの強化など、加藤の注文は多岐に渡ったが、ボディ設計のエンジニア・田沼謹一は、自分のフィールドでは何を求められているのかに絞って、そのテストを見ていた。

それまでの加藤のボディへのリクエストは、ほとんどリヤまわりに集中していた。「ともかく後ろを、もっとしっかりさせてくれ!」、手練のテスターは「尻がプルプルする」ことを何よりも嫌がったからだ。そしてこれは、実はR32に対して、新作のR33が抱え込んでしまった大きな欠点となっていた。

ただし、それには理由があった。そしてそれは、R32からR33に進化させようとする際に越えなければならない大きな壁でもあった。R32は、たしかにアンダーステアが強いクルマだった。挙動が限界に達しようとすると、フロントが逃げた。……というか、クルマがそうやって“対処”していた。

そしてそれが「たまたまうまくいった」(川上)だけなのかもしれないが、川上が言うように、「アンダーなりに挙動はまとまっていた」クルマとなっていた。ドライバー加藤の言を借りれば、「クルマを自分で曲げているという感じは持てたし、クルマとの情報のやり取りもできる」クルマであった。

それに続くR33では、アンダーステアを消したいというのを、まずメインテーマとした。そこから、タイヤとサスペンションで、ともかくフロントが外に出ないようにした。つまり、ひたすら「前をがんばらせた」(川上)のが初期プロトタイプだったのだ。

しかし、そのツケがリヤに来た。「後ろが一緒に上がってない」(加藤)クルマになってしまい、テールの動きに節度がないだけでなく、プルプルと動いてだらしなかった。さらにスピン傾向も強く、速く走れないし、アクセルも踏めない。そういうクルマとして始まっていた。

それがようやく何とかなったと、田沼は感じていた。今回の「ニュル」のテストでは、加藤は細部にこだわりはじめた。とくにアンダーフロアのサスペンション取り付け部の剛性をもっと上げることが必要になったが、こういう注文の方がエンジニアにとってははるかにわかりやすいオーダーであり、対策もしやすい。

一番辛いのは、ともかく全体がダメだという場合である。どこかに手を付けると、どこかにまた新たなシワ寄せが来る。そこを強化すると、また別のアラが出現したりする。全体のバランスを保ちつつ、やるべきところを探る。この苦しい模索の時期がようやく終わりつつあるのだなと、田沼は思った。

だが、それにしても「ニュル」というのは凄い場所だと、ボディ設計屋として、田沼はあらためて実感していた。コースがクルマにさまざまに「入力」してくる、その量と種類、そしてレベルがケタ違いなのだ。そして田沼は、その「入力」の処理法としてひとつのコツを発見していた。ドライバーの加藤が本能的に(?)対策している「棒でつなぐ」というのは、実に理にかなっている。

これは、モノコックのボディで、どうやって高剛性の“ドンガラ”を作るかの基本でもあるのだが、たとえば、ガツーン!と入ってきた「入力」があったとして、それをボディ全体でどう受けてやるか。そのためには、その「力」を伝達する経路を作ってやるのが手っ取り早い。要は「入力」をどう「流す」か。故に、仮に一ヵ所を固めすぎると、弱いところに力が集中してしまうことにもなる。バランスが重要というのは、このためだった。

「ストラット・タワーバーっていうのは、こういう意味で効くんですね」「あれはタスキがけのようにきちっと締め上げるから、剛性が生まれるんじゃない。バーがあることによって、片方から入力した力が逆サイドに流れてくれる。そのための装置なんです」(田沼)

(つづく) ──文中敬称略
2014年12月13日 イイね!

第16章 「こいつら本気だ!」 その2

 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

厚木に帰ってきた田沼と今井の報告を聞いた車両設計部長の藤原靖彦は、すぐに態勢の見直しを決定した。今度の「GT-R」は、文字通りにハンパじゃないものを作るプロジェクトだった。ボディ屋としても、そのハイ・テンションの進行に遅れをとってはならない。

北海道を走った“栃木製”のクルマが厚木に持ち帰られ、すぐに解析がはじまった。加藤がつないだこの「バー」は、いったい何に効いてるのか。モディファイされたこの部分は、何にどのくらいの効果があるのか。その解析が完全に終わるまでには、約二ヵ月の時間が必要だった。そして、この新たにGT-Rのボディを模索している時に、それまでにないテスト法として、モデルを宙に浮かせて「横G」をかけるという方法も考えだされた。

田沼は、この仕事に熱中した。どこにどのくらいの剛性が要るのかという解析の後は、その剛性を保ちつつ、それをスマートに見せるには、どういう代替案があるのかを探った。何故なら加藤が作ったクルマは、僚友の川上が苦笑いするくらいに、見栄えは構わずにバシッと棒と棒がつながっている、そういう「アクロバティックな(笑)」(田沼)代物だったからである。

もうひとつ、田沼にとっての大前提があった。ここが実験部による強化ボディ作りと決定的に違うところだが、田沼が設計するボディは、いずれは、村山工場の生産ラインに載る必要があるのだ。強靱なボディでなければならないが、しかし、ラインでの大量生産が可能で、かつ生産性も良いこと。それが必須の条件になっている。

工場のラインで作れて、合理的で、かつ軽く――。課せられたテーマは多かった。部材としてのアルミやカーボンの使用も検討された。レーシングカーを作っている系列会社のニスモにも、何度か問い合わせを入れた。

むろん村山工場とも「GT-Rを作るんだ」という点での合意があり、さらに栃木の意欲も、厚木を通じて、村山側に伝わっていた。田沼は栃木と村山を、厚木を拠点に精力的に動きまわった。栃木の求める「レベル」を、どう村山で作るか。そのためには、車体はどのような設計でなければならないか。

強固なボディを作るということは、部分だけでなく全体のバランスが、部分の出来具合以上に重要だ。そして、あくまでも『動性能』の中でそれを評価しようという加藤のシビアな目(というより「掌」か)も待っている。新R33GT-Rの車体の「セカンド・プロト」作りは、93年の半ばに、そのプロジェクトが新たにスタートした。

この年の秋、「ニュル」での初テストでは、栃木からの要請と必要条件とを入れて、かつ生産性というファクターも含んで、田沼ら厚木の設計陣が新作したボディが使われていた。ボディパネルの板厚を大幅に上げて再設計されたR33GT-R「セカンド・プロト」の原型である。

この新プロトに対して評価ドライバーの加藤は、サスの取り付け部など細部の剛性の強化を主に求めてきた。それまでは、主にリヤまわりに加藤のクレームは集中していた。加藤からの注文がこうして「細部」になったということは、ようやく車体の「全体」は何とか固まってきたんだなと、ボディ設計担当の田沼謹一はちょっとだけ息をついだ。

(第16章・了) ──文中敬称略
2014年12月13日 イイね!

第16章 「こいつら本気だ!」 その1

 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

(オレたちは、いったいどこまでやればいいのか……)先が見えない不安と、仕事のレベルを他の部署に“いじられる”不満とが交錯していたのは、スカイライン・プロジェクトの中のボディ設計担当チームだった。時は1993年の後半である。栃木の実験部に、R33GT-Rの最初のプロトタイプを渡して以後、厚木の車両設計部の仕事は突然“見えなく”なってしまった。

クルマ作りには、さまざまな部署があり、たくさんの人が関わる。そのため、ひとつのプロジェクトを進行させるには、各部署の間でそれぞれが達成すべき目標値を定め、それを互いに出し合って、いわば相互の「契約」とともに業務を進める。だが、このくらいだろうとした車体設計のレベルが、あるひとつの部署によってどんどん上げられていくのだ。

(やつら、戦車でも作ろうってのか……?)厚木のボディ屋のエンジニアたちからは、こんな声さえ洩れていた。「やつら」──つまり栃木の実験部は、厚木のボディ設計陣によるプロトタイプにダメを出したばかりでなく、あろうことか、独自に「車体作り」まではじめてしまったようなのである。

R33のGT-Rを「やる」ことについては、車両設計部でももちろん合意しているし、スタッフも用意した。だが、彼らの作品であるボディは、実験部によれば、ものの役に立たないということらしい。栃木では、いったい何をやっていて、何をやろうとしているのか。これを、厚木の車両設計部としても知っておきたい。また、そのことは、川上慎吾や加藤博義らの実験部にとっても、例の「問題を技術者と共有する」ために必要なことであった。

実験部による北海道・陸別でのR33GT-Rのテストに呼ばれて、つまり厚木のボディ屋を代表して、栃木・実験部の仕事を体験しに行くために現地に飛んだのは、車体設計のエンジニア・田沼謹一である。

陸別のテストコースでは“栃木製”のGT-Rが田沼を待っていた。グリルは、加藤の好みで大きな口を開けるように既にモディファイされていたが、それだけでなく、トランク内をはじめとして、至るところに強化のためのバーが張りめぐらされていた。

(これは、ほとんどレースカーじゃないか!)ボディのエンジニアとして、クルマを一見した田沼は思った。レーシングカーのようにロールケージの格好にこそなっていないが、それはもう市販車の常識を超えているものだった。(これは生産には載らないな……)、こう田沼は直感し、同時に、何でそこまでやる必要があるんだとも思った。

実験部の川上が、田沼にクルマに乗るように合図した。シートベルトを締めていると、そのドライバー席に加藤が乗り込んできた。「じゃ、軽く行くから――」。テストコースに、加藤が作った新プロトタイプが入って行く。

田沼の目の前にコースが開け、加藤がアクセルを踏んだ。その瞬間、ものすごい加速の「G」で、田沼の背中がシートに張りついた。そしてコーナーがやって来る。ブレーキングの「G」と「横G」とが一体となって襲ってくる直前、チラッと田沼が見たスピードメーターの針は、190km/hオーバーを指していた。

こうやって走り、こうやって曲がっているのか! これが彼らにとっての「GT-R」なのか!

「G」は、前後左右、そして上下、さらに斜め方向まで、さまざまな角度からボディを揺すり、捻じっては、軋ませていた。『動性能』の中でのボディ剛性という問題を、田沼は、こうして実体験した。

この連中は世界一をめざしている。これは本気だ! これに比べると、車両設計の方には、これだけのモチベーションとテンションの高さが、これまではやや欠けていたかもしれない……。

加藤は、田沼と、もうひとりのボディ設計エンジニア今井英二の二人を交互に横に乗せて、陸別の複雑な「G」が車体にかかるテストコースを何度も何度も回った。これが「GT-R」だ、この走りができるクルマが要るんだ! それが加藤の、そして川上からの、厚木・車両設計部へのメッセージだった。エンジニア・田沼の中に、フツフツとたぎるものが湧いてきた。

(つづく) ──文中敬称略
2014年12月12日 イイね!

第15章 “モデルチェンジ” その2

第15章 “モデルチェンジ” その2 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

デザイナー西泉は、まず、R33GT-Rの性能がぐっと進化していることはわかった。そこから、それを「目に見える」ようにしなければならないというコンセプトを立てた。また、世の中が何となく期待している「GT-R像」もイメージした。ショー出品車は、その期待値に対して何か欠けるものがあったのだと思った。

しかし、当然ながら時間はなかった。また、新たにデザインするとはいえ、変更できるところは限られていた。ショー出品車と後に発表されたGT-Rとは、一見して、かなり違ったクルマであるように見える。だが西泉は苦笑してその実情を明かした。モデルチェンジとはいえ、「変えられるところって、実はフロントのバンパーとグリル、それとリヤスポイラーだけだったんですよ……」。

クルマの骨格は、もうできあがっていた。それを変えることはできない。モデルチェンジというより、その同じ骨格を使って、どれだけ違う印象のモデルを作れるか。これが西泉に課せられたテーマだった。そのため、すべてのカーデザインの第一歩である「絵を描く」(イメージスケッチ)ことは、白紙の上にではなく、ショーで発表されたプロトタイプの写真の上で行なわれた。

フロント部の開口面積については、これだけは必要だというエンジニア側からの要請があったので、その通りに大きな口を開けた。デザイン的にもそうしたかったから、これは西泉にとって何の問題もなかった。またリヤには巨大なスポイラーを付けて、西泉が考えるGT-Rらしいものとした。クルマのデザインは、まずはたくさんの絵を描くことからはじまるが、R33のGT-Rについて西泉が描いたスケッチは、ついに一枚だけだった。

しかし、このようにデザインできる範囲(業界ではデザイン代=しろと呼ぶ)が極端に少ないのに、何故、かなり違った感じのクルマができたのだろうか。「バンパーでは、低い部分のボリュームを増やしています。重心が低く、幅広く見えるように」「それから、アゴを外に、つまり前の方に出した」「いや、全長は伸ばしてない。それはむしろ短くなってます」「バンパーというデザインスペースの中で、何をどのくらいの寸法にしてどう配分するか。そういう“寸法取り”の問題なんです」(西泉)

そしてリヤのスポイラーは、西泉の描いた絵では、後に市販されるGT-Rよりも、もっと高くて大きな“激しい印象”のものが描かれていたという。スケッチが一枚だけで済んだということは、主管の渡邉は、西泉のデザイン的な提案をすべて受け入れたことになるが、この派手なスポイラーだけは、渡邉はニンマリ笑いながら拒絶した。「今度のGT-Rは、もう少し、洗練されてるつもりなんですけど……」

このスポイラーについては、別のセクションからの新たな注文が、主担の吉川を通して西泉のもとへ入ってきた。それは新しいR33GT-Rで「N1」レースを担当する、通称「追浜」のスポーツ車両開発センター、そこでのGT-R担当である山洞博司からのリクエストだった。「ウチ(追浜)で図面描くから」と、山洞は吉川に言った。彼は自身の「グループA」での経験から、翼の形状や角度を、レースをする者の立場としてデザイン室に要望してきた。

レース屋としての山洞は、リヤのダウンフォースがほしかった。R32にくらべて新R33では、エンジンは同じでクルマが大きくなる。これによって生じる(かもしれない)レーシングカーとしてのマイナス分を、コーナーでの立ち上がりを良くすることと、高速コーナーでのアンダーステアを減らすことで対処しようと考えたのだ。また、R33では空力のバランスを変えたかったし、空力でアンダーステアを消せるようなセッティングの自由度もほしいと思っていた。

そこから、山洞が求めてきたのが「可変」である。市販車の「18度固定」に対して、今回のR33GT-Rでは、カタログ・モデルのひとつとなる「N1」レース用ベース車で、0度から20度の間で4段階程度の角度調整ができるようにしたい。

この提案は、主担の吉川正敏にとっては、なかなかオイシイ話だった。リヤスポイラーをただ高くするだけじゃつまらないと思っていたし、商品性評価のドライバーからは、ダウンフォースはもう要らないと言われていた。この「可変スポイラー」は、ちょっとした新製品の目玉にもなるし、ダウンフォースの面でも、商品性とレース部門との積極的な妥協策になる。これ(可変)をやろうと、吉川は決定した。もちろん西泉にも異存はなかった。

新R33GT-Rの再デザインは、単に迫力がどうというだけでなく、冷却性能、空力とそのバランス、実戦(レース)での適用までも配慮に入れて、以上のような経緯で決定されたものであった。

ただ、西泉と主に実験部との間で、最後までモメたことがひとつあった。それは、「GT-R」のバッジの位置である。栃木の実験部は、このバッジをオフセットさせたいと言ってきた。初代のGC10、そして二代目のGC110と、かつてのGT-Rは、そういえば『R』のエンブレムはグリルの左わきに付いていた。彼らは実際にそのような仕様を自分たちで作ってきて、西泉に見せ、これでどうだという提案までしてきた。

だが、この点について西泉は、バッジはグリル中央という原案を最後まで譲らなかった。世の中すべて、強い主張を持った自信のあるクルマは、こういうものは必ず堂々と真ん中に付いている。これがその理由だった。そして、このグリルの真ん中というのは、実は一番風が通らないところ。走りに必要なグリルやバンパーの開口面積など、あくまでも性能を出発点にしてデザインしたこのGT-Rの“らしさ”を出すためにも、西泉は、この一点だけは妥協したくなかったのだ。

(第15章・了) ──文中敬称略
2014年12月11日 イイね!

第15章 “モデルチェンジ” その1

第15章 “モデルチェンジ” その1 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

1993年11月の東京モーターショーに参考出品されたR33GT-Rのプロトタイプは、信じられないほどの酷評を浴びた。しかもデザインについて語るのならともかく、「走り」にまで踏み込んだ“評価”があったのは不思議極まることだった。

まだ、社外の誰も触れても走ってもいないR33GT-Rについて、どうして「ダメ」とか「走らない」とか言えるのか? そうしたあまりにも理不尽な評には、主管の渡邉衡三も怒りを抑えることができなかった。とはいえ、一部に不当な評はあれ、少なくともあまり好評ではなかったことはたしかであり、渡邉もその現実は厳粛に受け止めた。

(このクルマは、やはり簡単にできるクルマじゃないな)……こう改めて思ったのはGT-Rの専任主担・吉川正敏だった。ショーに出したR33ベースのプロトタイプの出来がどうだからというのではなく、やはり「GT-R」とは安易なプロジェクトじゃないのだと思い直した。さらに、これで、もし「走り」が悪かったら、このクルマは世に出せないなと認識し、こと「走り」に関しては、いま以上に磨く必要があるとも思った。

ただ吉川には、ちょっとせいせいした気分もあった。自分でやってきたことを自分で否定するというのは、実はなかなかむずかしい場合がある。外からの不評で徹底的に否定される方が、スタッフ側としての仕切り直しは、むしろしやすいのではないか。吉川は、モーターショーでの大不評のおかげで、気分的にも「R33GT-Rプロジェクト」の新たなスタートが切れたと思った。

ただし、そこから予定外の仕事も出現する。主管の渡邉は、モーターショーが終わるとすぐに、厚木のデザイン室、松井孝晏プロデューサーに要請した。渡邉はひと言、松井に、「変えろよな!」と言った。R33GT-Rの最終デザインに向けて、デザイン室でふたたび新しいプロジェクトが組まれ、担当デザイナーに西泉秀俊が指名された。

この西泉は、R30スカイラインのマイナーチェンジでエクステリアを担当し、あの“鉄仮面”を生んだ男である。また、続くR31でも、彼の原案をベースに2ドアクーペが作られていた。しかしR33には関わっていず、ローレルやサニー/パルサーなどの担当を経て、93年の夏にスカイライン・グループに戻っていたところだった。

ここで挙げた彼の作品を見ると、西泉は、こと凄味や迫力をモチーフにクルマをデザインさせると、その感性と力量を発揮するタイプのように見える。R33GT-Rのリ・デザインという仕事に彼が任命されたのは、その意味では当然であったかもしれない。ただ、少なくともその夏までは、GT-Rのスタイリングを変更するという社内の動きはなかったと、西泉は言う。やはりモーターショー以後、事態は急転したのだ。

R33の基準車、さらにはモーターショーでのプロトタイプGT-R。これらを見ての西泉の感想は「ちょっと、おとなしいな」というもので、それを渡邉に、何かの機会に言ったこともあった。

ただ、その「おとなしさ」には理由があった。スカイラインR33は、若向きというべきR32やS13シルビアなどが発表された後にデザインされたものだ。そうしたホットなモデルを発表した直後であり、当時のニッサンのデザイン・セクションには、一種の反動としての“オトナ志向”が生まれていたという。速さ、あるいは性能を、表面的にギンギンに主張するよりも、それを内に秘めたようなアダルトな感じにできないか。そういう試作を各チームが競って行なっていた時期であった。

さらにR33の造型には、もうひとつ、担当デザイナーのひそかな願望と熱意が盛られていた。それは「欧州」である。もちろん、スカイラインが輸出車でないことはわかっている。でも、仮にヨーロッパという地に置いてみても評価されるようなデザインでありたい。そして、そうすることが、新スカイラインの評価を日本でも高めることになる。そういう企図であった。

しかし、基準車はともかくとしても、少なくとも「GT-R」については、そのようなオトナ路線や国際路線は似つかわしくなかったのかもしれない。渡邉もそれを認め、R33のGT-Rはプロトタイプ公表後に、異例の“モデルチェンジ”を受けることになったのだ。

(つづく) ──文中敬称略
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プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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