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家村浩明のブログ一覧

2016年10月19日 イイね!

ガレージに“猛獣”を……

この秋にドイツ車のアウディは、ラインナップ中で最もコンパクトな「1」のホット・スポーツ版の「S」で、さらに「クワトロ」(全輪駆動)であるという最新『S1』に、「最小の猛獣」という広告コピーを与えた。

……巧いコピーだなと思う。短くて、そして「内容」もある。近年、クルマそのものについては何も語らずに言葉(コピー)だけで“完結”させ、そのキャッチーなフレーズと新型車をくっつけてクルマの広告とする方法が流行っているようだが、アウディのこれはそうではない。

『S1』というモデルについて、作り手として伝えたいこと。また、このモデルで何をしたかったか。このコピーでは、それらが簡潔かつ的確に語られる。このクルマって何?……というポイントから逃げずに、たとえ「広告内」の表現であっても、きちんと「クルマ」を語ろうという意志がある。

ヤボを承知で、このコピーを解説すれば、まず始めの「最小の」で、「6」でもなく「3」でもなく、このアウディは「1」系なのだと知れる。さらに、速い「S」系であって、同時にさまざまな走行条件に対応可能な4WD(クワトロ)であること。このモデルはそうしたポテンシャルと「強さ」があることを、「猛獣」というひと言で語っている。

そして、このコピーは「文化」にも触れているかもしれない。ヨーロッパの──というより、ドイツのクルマとは何なのか。どんな特質があって、何が求められるか。そうしたことを短い言葉で伝えようとした意味で、このキャッチコピーはとてもジャーナリスティックでもある。

では、何故、このようなコピーが出て来たのだろうか。それはドイツのクルマには、何よりも「強さ」が必要だからではないか。ドイツ車は克服しなければならないテーマが多い。クルマが勝ち抜かなければならないバトルの相手は、たとえば「道」、地形、そして気候などである。

「道」といえば、まずアウトバーンだ。ドライバーがそれぞれ、走りたい速度を選べる超・高速の道路が各都市間を結ぶ。ゆえにドイツでは、何か用事を済ませようとすれば、すべてのクルマがこの「道」を使うことになる。

そして、ドイツは地形も険しい。フランスが「平原国」だとすれば「山岳国」という印象で、しかし、そうでありながら、アウトバーンにしても郊外の一般路にしても、曲がりくねったところを高速で移動するのがドイツ流である。さらに、気候も優しくない。冬場は雪と氷に覆われ、それ以外の季節でも、朝は霧や靄でかすんで見通しが悪く、路面は水を含んでいる。市街地を出てしまえば、前述のように「道」はすべてアウトバーン。クルマとドライバーは、その高速路でしっかり棲息できることが求められる。

そんなドイツの環境で、このクルマ(S1)は、速さや有用性では誰にも負けない「強者」であるのだろう。それを主張するのに、戦場とか兵器といったミリタリー方面での言葉は用いず、クルマが持っている「強さ」を「猛獣」という言葉で表わした。これはなかなか見事である。

         *  

さて、こうしてアウディS1についてのスグレ・コピーが出現したことはわかったのだが、ふと、気づくことがある。それは、この「最小の猛獣」というコピーが「届く範囲」は、果たしてどのくらいなのかということ。

少なくとも私には、このコピーは届いた。「欧州車」というものをよく捉えているなと感心もした。アウトバーンがあるドイツは突出していると思うが、全体に西ヨーロッパという地域は、基本的にクルマを「速く走らせよう」とするエリアだ。

これはたぶん16~17世紀頃に、西ヨーロッパに「馬車の時代」が二百年くらいあったこととつながっていて、産業革命期に各種の原動機が出現した際に、それを馬車の車体に取り付け“馬なし馬車”として動かした。そのトライが、今日のモータリゼーションの原点だった。

その時点で西ヨーロッパには、馬車という交通機関が既にあったから、何か新作が出現しても、それより遅いシステムであれば、既存の馬車に取って代わることはできない。20世紀初頭に出現した“馬なし馬車”=自動車が、登場以後ずっと休むことなく、果てしない性能(速度)競争に明け暮れたのは、この「遅いのなら意味はない」ということが自動車開発の基本精神だったからであろう。

そして、そんな「馬なし……」から百年以上が経過しての、この2010年代。生まれた時には家にクルマがあったという世代にとって、クルマは珍しいものではなくなった。かつて20世紀には、クルマは「より速く!」とか「より良いものを」といった競争原理の中で、どっちがより「強い」か(猛獣か)という闘いを繰り広げていたが、そんな「闘い」とは無縁のものとして「クルマ」を捉えている立場や世代があっても、それはフシギなことではない。

「最小の猛獣」という広告表現に触れて、「クルマって、猛獣なんですかぁ?(笑)」と明るく問い返された時に、私は(そうだよ、クルマの本質は、どんな時代になったとしても、やっぱり“競争と競走”なんだ)と語る勇気はない。それより、もし日本市場が、そんな闘いの原理以外の目でクルマを見ている最初のマーケットになっているとすれば、そうした(21世紀的な)トレンドの方に注目し、さらにウォッチを重ねていきたいと思っている。

……さて、最後に一つ自問する。私にとって、クルマは「獣」か? そして、ガレージに「獣」を一匹飼う気はあるか? 
Posted at 2016/10/19 12:54:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
2016年06月06日 イイね!

“その後”について ~ 1987年以降の日本のクルマ 《3》

“その後”について ~ 1987年以降の日本のクルマ 《3》「これから先の何年か、出て来るニューモデルは、すべて、この三つのクルマが作った流れのうちのどれかに属すると予測する」という1987年のコラム。そこでピックアップされた三台目のモデルは、セドリック/グロリア(7代目Y31型)でした。

なぜ、ここで“高級車”が突然に登場したのか。まあ二台だけだと収まりがよくないので、もう一台はイキオイで書いてしまった(笑)。そんな感はなきにしもあらずですが、でも、このモデルに触れた時には大いに驚き、そしていくつかの発見もしていました。

このセドリックは、VIPカーという言葉をここでは使いますが、そういうポジションながらも、果敢に《走り》を主張しました。ブルーバードとこのクルマが同じメーカー製であったことはおそらく偶然ではなく、このビッグ・セダンもまた、ブルーバードが呈示した「シャシーの時代」という流れに乗っていたと思います。

今日の感覚ではちょっと意外かもしれませんが、1987年以前のニッポンの高級車は、「フットワーク」よりも、豪華さと快適性を重視して作られていました。街なかと真っ直ぐな道で、イメージ的に、また実際のパフォーマンスとしても、そこで他車を圧倒できればそれでいい。そういうコンセプトです。

まあ、ワインディング路でコーナリングをキメて「横G」出まくり……(笑)。そんな走り方をしたら、後席に鎮座するVIPが怒り出すでしょう。つまり「 '87 セドリック」以前の日本の高級車は、後席こそが主役であり、そこに乗るVIPをゆったりと運ぶ、そういう用途のためのクルマであったのです。“カネモチ、ケンカせず”ってこういう時に使うのかなとか、私などは余計なことを考えていましたが(笑)。

そして、そうしたVIPカーは「1987年」の時点でも、当然、必要とされていました。しかし、このセドリックは、そんな和風のビッグカー・コンセプトを捨て、“よく曲がるセダン”という高級車の新たな姿を示したのです。

どうして、ニッサンとセドリックは、そんなクルマを作ったか、また、作れたのか? この時彼らは、プレスティージ・クラスのクルマでも例外なく俊足である「欧州」を見ていた? あるいは、1980年代後半、日本・高級車マーケットの変化を感じ取っていた? はてまた、どうせ「数」(販売台数)でクラウンに勝てないのであれば、違うキャラの、作っていても“おもしろい”クルマにしてしまえ!……だったのか。このあたりの「なぜ」について私は確答することはできませんが、ともかく1987年の新・セドリックは新鮮であり、そして、とても勇敢に見えました。

プレスティージ・クラスでも、いや、そういうポジショニングだからこそ「足」が良くなくてはならない。「1987セドリック」が拓いたそんな潮流は、その数年後、ワールド・プレスティージ市場をめざして世界デビューするインフィニティとセルシオにつながっていきます。1987年にセドリックに触れた時点では、日本メーカーがそんな準備をしていることなど、まったく知りませんでしたが。

これは単なる偶然でしかありませんが、「これから先の何年か、出て来るニューモデル」は、これら3モデルが作った流れの中にある……という三台目。日本のラージ・クラスが変貌するということでは、あのコラムの予言は、そんなに外れてはいなかったかもしれません。

一方で、多数の「クラウンのお客様」を抱え、日本市場を大切にしてきたトヨタのクラウンは、1990年代に入って、国際性と“国内性”との折り合いをどう付けるのかで悩み始めます。(1995年の10代目クラウンについては、その開発について、スタッフに詳しい話を聞いたことがありますので、機会がありましたら、このブログでもご紹介します)

……ただ、こうして「1987年での予言」を思い出してみると、その後の1990年代、そしてそれ以降の(日本の)クルマ状況については、何の展望もできていなかったことがよくわかります。1990年代に入ってからのクロカン志向──いまの言葉で言えばSUVですね。そして、ミニバン志向。さらには、これらの影響を受けて、セダン系まで変化していく。そんな劇的なドラマが展開されるとは、1987年の時点では(少なくとも私は)予想すらしていませんでした。

その後の展開で意外だったことで、とくに強烈に記憶に残るのは、やっぱり「ワゴンR」です。1993年にこのクルマに初めて乗った時、これが「乗用車」として使われるようになるとは、まったく思いませんでした。スタイリングでの「縦長」で「短い」というところには新しさを見ましたが、でも、ワインディング路に持ち出せばフラフラしていて、コーナリングは愉しめなかったし……。(この点は代を重ねるごとに改良されていきますが)

ただ、クルマって、コーナリング性能の良し悪しだけじゃないんですよね。1993年の時点では、私はそのことに気づいていませんでした。日本のような混雑した状況で、そして、そうした“低速モータリゼーション”の中では、どんな格好で、どういうキャラクターのクルマが好適なのか。この点については、一般の(という言葉を使いますが)カスタマーの方々の方がずっと敏感で、ジャーナリズムよりも先を見越していたと考えます。

ワゴンRは、そんなジャーナリズムの予想を超えたヒットとなり、デビュー後20年以上が経っても、その人気は変わることがありません。何よりすごいのは、軽自動車を生産するすべてのメーカーが、ワゴンRのレイアウトとパッケージングを後追いして「同型車」を作ったことです。二輪のスーパーカブは「世界の街の景色を変えた」と評されることがありますが、日本の街の景色を変える契機となったのは、1993年登場のワゴンRなのでした。

(了)
Posted at 2016/06/06 10:34:12 | コメント(2) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
2016年06月03日 イイね!

“その後”について ~ 1987年以降の日本のクルマ 《2》

1987年のコラムで、当時の「新潮流」を象徴するクルマの二番目に挙げられていたのは、トヨタのカローラ・シリーズでした。そのコラムは「恐ろしいほどのレベルに底上げされたニッポンの中流的日常」という背景が、まずあること。そして、「そのような国で売られるべき『大衆車』」はこうなるしかないのではと、改めてカローラに注目しています。「誰でも(どれ買っても)4バルブ、中・高級車と見まごう仕上げとフィニッシュ。もはや『大衆車』であるのはサイズだけである」と──。

このような強力な「クォリティ」への意志。そして、メカニズムをケチらないというか、コンパクト・クラスであっても、必要なら最新のエクィップメントをためらわずに投入する。これはカローラに限らないことですが、欧州車の習慣とは異なる、日本のクルマの一大特色であろうと思います。

言い換えると、日本のクルマでは、上級車と下級車の区別があまりないんですね。……というか、「下級車」とは、さっき作ったばかりの造語ですが(笑)クルマにおいて、そうした「下級」という概念がそもそも無いのではないか。われらが軽自動車にしても、国内最小サイズでありながら、たとえばパワーウインドーは普通に付いていますよね。また欧州車なら、そのセグメントではATの設定はありませんので……とか、そういうケースがありますが、日本の「軽」ではそうしたクルマの作り方/売り方はしません。

“一億総中流社会”といった言葉が生まれたのは、たぶん1980年代だったと思います、そうした「階級レス社会」に暮らす人々がクルマを使い、またクルマを作って(開発して)いる。そうなれば、当然、クルマにおける「階級差」なんてものは希薄になりますね。だから日本のクルマ(とくに高級車)はダメなんだ!とお怒りの識者は時におられますが、でも私は、そこに日本と日本車の特色を見たい。クラウンとカローラが、こと「クォリティ」では大して変わらない? もし、そんなことがあるのなら、そのことの方が“おもしろい”ことなのではないか。(「格差社会」という言葉が生まれたのは、21世紀になってからですね)

ただ、カローラというモデルは、この1987年に、いきなり「クラスレス・クォリティ」なコンパクト・カーになったわけではありません。思い出してみれば、このクルマはその誕生当時から、小さいクルマであることは認めるが、しかし、何かを諦めたりガマンしたりするようなことは絶対にしない! そんな主張をずっとしてきたのではないか。

では、なぜメーカーは、カローラをそういうキャラにしたのでしょう? これは、空冷2気筒のエンジンなど、ハード的にもいわば「大衆的」に作ったパブリカ(1961年)が空振りに終わったこととも関係がありそうです。ただ、1961年と1966年(カローラのデビュー年)では、同じような車両価格「40万円」であっても、それを受け止める庶民の感覚とフトコロ具合は異なっていた。パブリカが売れなくてカローラが売れたのは、単にそういう理由だったのかもしれませんが。

ちなみに国家公務員・大卒の初任給は、1960年が1万0800円、1966年は2万3300円でした。「40万円」が月給のおよそ4年分にあたるか、それとも2年分に満たない約1・7年分なのか。まあ、こうして計算してみると、1960~62年頃に、庶民各位に「40万円」の買い物をしろというのが、そもそもムリだったのかもしれませんね。こうした物価方面で、もうひとつ余計なことを記せば、この同時期、フェンダー・ギターのストラトキャスター(電気ギター)、そのアメリカ製の新品は銀座のY楽器で25万円でありました。

さて、それはともかく、簡素だったパブリカはウケなかったと判断したメーカーは、1966年に「新コンパクト」をデビューさせる際に、見た目の立派さにもこだわり、装備はケチらないという“まとめ方”にします。そして、ライバル車となったサニーは、いわば簡素なクルマというイメージで、実際にも内装はそのようなものでした。さらにエンジンの容量が「プラス100cc」であったカローラは、宣伝などでその点も強調します。

日本クルマ史で、1966年を「大衆車元年」とする。このことについては、おそらくどこからも異議は出ないと思いますが、この年は実は、コンパクト・サイズながらも「大衆的」に非ず……という世界的にも稀なモデルのデビュー・イヤーでもあったのですね。

しかし、幸か不幸か「大衆車」という言葉と一緒に世に出てしまったため、カローラはその「クォリティ」性になかなか気づいてもらえませんでした。この「1987年カローラ」、つまりE9♯型に至って、鈍感なコラム・ライターでも(笑)ようやくその「質」を感じ取れた。そういうことであったわけです。

ただ、繰り返しにはなりますが、カローラは一つの突出した例であり、基本的にクォリティ志向、サイズには囚われない、たとえセグメントが「下」であっても諦めずに上質をめざす。これらは、日本のクルマが抱えている特質であり、それはまた、好ましい個性であるとも思います。

「階級」や「クラス」があることによって、クルマというものがおもしろくなるのだ──。そういう社会やそうした状況は、確かにあるのかもしれませんが、一方、「クラスレス」な社会とそこで生きる人々が作る(ヨーロッパ的ではない)クルマの存在理由というのも、やっぱりあると考えます。

こうして、ある面ではカローラを“旗手”として「1987年」まで突き進んできた日本のクルマは、その後も(ヨーロッパ的な)前例に囚われることなく、とくに1990年代になってからは、ニッポン独自の「状況」を切り拓いていくことになります。

(つづく)
Posted at 2016/06/03 20:07:33 | コメント(0) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
2016年06月01日 イイね!

“その後”について ~ 1987年以降の日本のクルマ 《1》

1987年の末に、「ブルーバード、カローラ/スプリンター、セドリック/グロリア。これから先の何年か、出て来るニューモデルは、すべて、この三つのクルマが作った流れのうちのどれかに属すると予測する」と書いた、駆け出しのコラム・ライターがいました。……って、私のことですが(笑)。まあ、カッコつけたがるというか、何とか粋に書こうと懸命というか、そのへんが“♪若さゆえ~”……であるわけですが、それはともかく、では「その後」の日本のクルマ、そしてマーケットやカスタマーはどうなったか。この“予言”は、少しでも当たったのか? 

1987年のそのコラムは、三つのモデルに注目し、それぞれのクルマがそれぞれに「流れ」を作ったと言っています。ただし、その「流れ」がどんなものかは、とくに説明していません。この点については、三モデルについて書かれたコラムの前半部分から推測するしかない。

まず、「ブルーバード」(U12)ですが、この出現は「シャシーの発見」ということだったでしょう。クルマをこうセットアップすると、それはこう動く。それまでの「曲がり方」とは、どうも違う。さらには、そういうクルマの「曲がり方」は、それに人が接すると、とても《快》でもある。つまり、“いいシャシー”は愉しい! ブルーバードというクルマは、そういう事実を示したといえます。

それまで、クルマとは、何よりもまず“エンジン”でありました。エンジンこそが“自動車”であったし、クルマを速くするにも、エンジンが働かなければどうにもならない。そして、作り手が他社や他車との違いを主張する際にも、エンジンは便利でした。データや数値で示せますからね。アレはxx馬力だけど、ウチのはzz馬力です、とか。そして、エンジンに馬力があれば、レースにだって勝てます。(1960年代にさかのぼれば、その頃はレースに勝つことが“いいメーカー”といわれるための勲章のひとつでした)

そんな「エンジンの時代」から、いまとこれからは「シャシーの時代」になる──。1987年とは、そんな提案が成された年だったのだと考えます。言い換えると、クルマを計る際の新しいモノサシとして、「挙動」(シャシー性能)ということが提案された。ここでニッサンを例に挙げれば、彼らはこのブルーバードに続けて、1990年代にシャシー性能を世界一にするという「901活動」を開始しています。その活動の結実のひとつが、あの傑作FFの初代プリメーラ(P10型)でした。

もちろん、1980年代後半から1990年代、日本のクルマが「シャシーの時代」に入ったことは、他のメーカーも気づいていました。同時に、日本メーカーは『ニュル』も発見していました。ニュルブルクリンク・サーキットのオールド・コースですね。いまは「北コース」ということが多いようですが、当時はだいたい「オールド・コース」と言っていました。

ヨーロッパ、とくにドイツのメーカーが、どういう風にしてクルマを作って(開発して)いるか。その方法の一端を、1980年代末頃、日本のメーカーはついに知ることになったわけです。(そうか、ここを走ってたのか!)……ということですね。ついでに言うと、この頃にアメリカのGMも『ニュル』に気づいて、そのコースでの“走り込み”を始めました。そして1990年代に、高級ブランドであるキャデラックの“足”が激変することになります。

そしていくつかの日本メーカーは、土地が広い北海道に、「ニュル的」な高速ワインディング路のテストコースを設けることを開始しました。これも、シャシーのセットアップと熟成のためです。そのうちのホンダと、彼らが作ったそのコースについては、本ブログでは、記事「ル・マンへ ~ レーシングNSXの挑戦」の冒頭部分に言及があります。お時間がございましたら、どうぞご参照ください。

……ちなみに『ニュル』(北コース)とは何なのかを私なりに解釈しますと、あそこは「超・高速の峠」です。峠ならクネクネしてるはずだから、そんな「道」が超・高速であるはずがない。……と誰もが思いますが、そういうあり得ないことが現実になっているのがあのコースであるわけです。「峠」なので、左右に曲がりくねっているだけでなく、上下というか、上りと下りがあります。それも、激しく! 

そのため、クルマは常に、左右のどちらかに曲がるか、そして上っているか下っているか。つまり、北コースを走っていて、クルマがの「平らな」状態にあるという時間はほとんどありません。下りながら、同時に曲がる……というのも『ニュル』ではアタリマエで、そうそう! クルマが速くなると、そしてコースを速く走ることができるようになると、みなさんご承知のように、今度はクルマが宙に飛び始めますね(笑)。

したがって、このコースは、ただ「走る」というだけでも、車体(シャシー)にさまざまなストレスが掛かる──それも大きな力で。というのは、速度が速いので。そして、地形が複雑なので、そのかかる力も単純ではなく、車体にとっては“複合入力”となって、クルマを激しく苛めます。

「シャシーの時代」になったということは、そうした複雑なジョブに、作り手(メーカー)として向き合うようになるということでした。また、エンジンのように、性能をデータ化/数値化することも困難なので、シャシーを評価するためには(たとえば『ニュル』のような)「場」が必要です。

そして、それだけでなく、その場を活かしての官能評価ができるスタッフの存在。これもまた、きわめて重要です。「場」と「人」と、そしてクルマと──。そうした組み合わせがあって、初めて「シャシー」や「挙動」の評価、セットアップは可能になる。そんな時代になってしまった。それが「ブルーバード以後」の日本のクルマ状況であったのではないでしょうか。

(つづく)
Posted at 2016/06/01 22:56:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
2016年05月21日 イイね!

「 SUBARU 」でいいのか? Ⅱ

「 SUBARU 」でいいのか? Ⅱ……と、エラソーに「 SUBARU 」について書いてしまった前回だったが、ただ、あの一文は、日本語を欧文字で表記することについての小咄はあったかもしれないが、ブランド論としては、おそらく成り立たない。

何より「 SUBARU 」には、既に長い歴史がある。富士重工が「スバル」という製品名を初めて掲げたのは、1954年にさかのぼるからだ。この年に同社は1500ccのエンジンを積んだ四輪車を試作し、そのモデルに「すばる1500」という名を与えた。その名を刻んだプレートをエンジンルーム内に貼ったが、この時は「すばる」と平仮名で表記されていた。

そして、外国人が「スバル」という名に初めて触れたのは、おそらく1961年であろう。富士重工は、当時はアメリカの統治下にあった沖縄に、軽乗用車「スバル360」を“輸出”した。さらに1967年には、台湾に向けて「スバル・サンバー」をノックダウン(KD)のかたちで送る。そして、アメリカ本土に、スバル車のディストリビューターとして「スバル・オブ・アメリカ」を設立したのが1968年のこと。この時、社屋に「 SUBARU 」の英文字が掲げられている。(タイトルフォト 「富士重工業50年史 六連星はかがやく」より)

その時から今日まで、海外でのスバルはずっと「 SUBARU 」だった。それだけの歴史を持つブランドとロゴを、「外国人が“すばる”と読めるのか?」という一点だけで“いじる”ことは、最早できない。

また、「スバル=すばる=昴」は、そもそも日本語である。黎明期がそうであったように、「すばる」で通していいのかもしれないのだが、ただ、それではあまりに国際的には不親切? そこから、その日本語「すばる」を欧文字で書いた(ローマ字で表記した)。こう割り切ってしまうのも、ひとつの姿勢であろう。

たとえばフランスのメーカーは、「PEUGEOT」や「RENAULT」と記すだけで、それが「世界」でどう読まれようとも、まったく気にしない(おそらく)。それに倣えば、私たちも、桜は「SAKURA」、昴は「SUBARU」、何か質問は?……とハナシを通してしまってもいいのではないか。

それと、仮に英語圏で、どうしても「すばる」と発音させるとして、たとえば「 SUBAL 」と表記したとする。だが、これは今度は私たち日本人にとって、その表記が「昴」を表わしているようには見えない。“音声”にこだわったために、ブランドと日本人との間でコミュニケーション障害が生じたら、それこそ問題だ。

……そう、これはたぶん、ローマ字表記(ヘボン式)是か非かということではなく、表記やロゴを決めた後のコミュニケーションの問題なのだろう。日本語の漢字や仮名は世界的には誰も読めないに等しいから、欧文字で書く。そして、そうやってできあがった、たとえば「 SUBARU 」が、日本以外のところでどういう風に受け止められるのかということ。

スバルを例に挙げれば、その国や地域ではどうも「すばる」とは読んでもらえてないとわかった時、では、どうするかである。それがPRであり、マーケット&カスタマーとのコミュニケーションであろう。ちゃんと発音してもらえないとグチるのではなく、その地域の言語で「すばる」という音になるように文字を並べ、ブランドである「 SUBARU 」は、こういう“音”ですよと語ればいい。

日本語を「国際語」にすることは困難で……というのは、結論ではなく、むしろ出発点だと思う。そのブランド名が現地語で発音しにくいのであれば、それは逆に、PRのネタにしてしまう。そのくらいの図々しさがないと、“肉食系”のヨーロッパ・メーカーに伍して“世界戦線”で闘っていくことはできない。

今回の「スバル&富士重工」の社名変更は、案外、ひとつのチャンスであるかもしれない。ロゴというかローマ字表記は、もちろん、これまでと同じ「 SUBARU 」。これを「すばる」と読んで(発音して)もらうためのキャンペーンを地球規模で展開するのだ。コトのついでに、その「 SUBARU 」が実は日本語であることや、夜空には六連星があることなどを知らせるのもいいかもしれない。クルマ選びにおいて、人はブツだけでなく、ドラマもほしい。このキモチは、世界共通のはずだ。

(了)
Posted at 2016/05/21 14:08:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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