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家村浩明のブログ一覧

2016年01月16日 イイね!

プリウスに乗った 《1》

プリウスに乗った 《1》「事前試乗」ではなく、正式に(?)発表されて以後の新型プリウスに乗る機会があった。もっとも、先にプロトタイプとして公開された仕様と、発表後のプリウスとの違いは、開発陣によれば、それは「皆無」だそうだ。言葉として「プロトタイプ」(原型)と称していたが、もう何も変更することはないという段階になったから、報道陣にも公開した。

ゆえに、プロトとしてクローズドな場で乗ったプリウスと、今回、市街地(公道)で乗ったプリウスで、印象として、何か大きな違いがあるかというと、それはない。プリウスのコンセプトやその歴史については、本ブログの「ちょっと寂しいプリウス『4代』の“旅”」を参照いただくとして、ここでは、市街地(公道)で乗った場合のプリウスの印象、そしてそこで聞いた開発陣からのコメントなどを中心に、少しだけメモしておく。

まず、ニッケル水素電池とリチウムイオン電池、この二種のバッテリーを、2015年登場の新型車に載せている問題だが、これは開発陣にとっては、そんなにフシギなことではないようだ。なぜなら、3代目のプリウスもニッケル水素電池を搭載していたから。つまり、このクルマはずっとその仕様で来ていて、そしてこの4代目で、リチウムイオン電池の仕様もラインナップに加えましたよ、ということ。

……なるほど、エンジンの歴史をちょっと思い出せばいいわけですね。SOHCエンジンでずっと来たけど、今回の最新型では、それにDOHC仕様も加えた。二つの仕様は、それぞれに特徴と価値あり。ずっと作って来たSOHCエンジンは、まだまだ十分に“戦力”だし、また能力的に将来性もある。従って、これからも使っていく。これと同じような共存関係が、ハイブリッド車のパワーソースの一環である電池においても存在するということなのだろう。

もちろん、同じ重量、同じ大きさで性能比較するという“レギュレーション”であれば、その場合はリチウムイオン電池が勝つ。たとえば携帯電話の電池であれば、それはニッケル水素タイプでは無理。しかし、クルマに搭載する電池は、サイズの問題にしても、もう少し余裕がある。二種の電池で同じ性能を出そうとすると、ニッケル水素の方が大きく、また重くなるが、言い換えれば、ただ、それだけのことなのだ。

ちなみに、プリウス・シリーズ搭載の二種の電池では、その重量差は15・8キロであるという。この軽くできた分を装備品を積むために当てると、その結果として、ベーシックな仕様はニッケル水素電池が積まれていることになる。また、乗り較べてみて、この二つの電池の差が体感できるかというと、ニブい私(笑)のセンサーでは、それは到底ムリ。……というか、もしそうであったなら、開発段階で、どちらか一つのタイプに収束していたことだろう。

そして、従来型よりも低められた、問題の着座位置(ヒップポイント=HP)だが、クルマに乗り込む際には、私はやっぱり(低いなあ……)とは感じる。ただ、シートに収まってしまえば、HPが低いことによるストレスやデメリットは、ほとんど感じない。たとえば前方視界にしても、アイポイントが低いことは気にならない。

新プラットフォームの採用による低重心化とクルマの低姿勢化は、このモデルの大きなテーマのひとつだが、しかし、そのテーマ達成のために何かを犠牲にしてはいない。ちょっとおもしろいハナシとしては、クルマのフロント部分に掲げられるトヨタの“地球マーク”だが、その位置の「低さ」においては、このプリウス、日常使用を重視のセダン系でありながら、あの「86」と一緒なのだそうだ。

そして、二つのパワーソースがあること、その片方──といってもエンジンだが、それが状況に応じてオン/オフもしていること。これを感じ取ることも、ほんとにむずかしい。エンジンが掛かった(回り始めた)こともわからないし、その種の“継ぎ目”を感じ取ることも不可能に近い。

このことは同時に、(あ、いまはモーターで走ってるな?)という“EV感覚”というか、「電動車」を動かしている感覚がないことを意味する。そういえば、燃料電池車とはいえ、駆動は電動であるはずの「ミライ」に乗った時に、モーターで走っているという感覚、つまり“EV感覚”がないことに驚いたが、このプリウスも同様である。

おそらくだが、トヨタは、こういう「挙動」だと“EVチック”になる……という要素をいったんピックアップして、そして、それを消すにはどうするか。そして、どういう「挙動」と感覚であれば、普通の自動車っぽくなるか。こうしたことを徹底して探究したのではないか。

(つづく)
Posted at 2016/01/16 12:06:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
2016年01月01日 イイね!

ちょっと寂しいプリウス「4代」の“旅” その5

ちょっと寂しいプリウス「4代」の“旅” その5「寂しい」だけではなく、新プリウスでは「これはいいよな!」と思えることがいくつかある。そのひとつは搭載バッテリーで、ニッケル水素タイプのバッテリーを2010年代の新型車に積んでいることだ。

1990年代後半、初代プリウスの時点では、クルマに積める二次電池といえば、このタイプしかなかった。リチウムイオン電池自体は既に登場し、携帯電話などに用いられていたが、その用途が自動車用にまで拡大されるのは、00年代も後期になってからのこと。その頃、トヨタ以外のハイブリッド車が待ってましたとばかりにこの新型電池を積んだ。

多くの場合、ほぼ同じ用途のパーツでその新タイプが登場すると、あたかも生物が脱皮するかのように旧タイプは消えていく(消される)のが常だが、しかし、リチウムイオンが登場後も、トヨタはニッケル水素電池を捨てなかった。それぞれの電池で、それぞれに“いいところ”がある。これが開発陣のコメントであり、たとえば寒冷地仕様のクルマを作ろうとすると、ニッケル水素電池の方がずっと適しているという。

最新のプリウス・シリーズでは、搭載される電池に二つのタイプがある。この「堅実さ」を私は支持する。ここには、ハイブリッド・システムを他社に先駆けて開発してきたメーカーの歴史と自負も窺える。つまり、キャリアに裏付けされた自信。私たちだけはこの部品の良さを知っている、そんな地に足のついた姿勢だ。

開発陣に、シリーズ中での二つの電池の作り分け/使い分けを訊くと、リチウムイオン・タイプは軽量なので、他の装備品をいろいろ付けても車両重量が増えない利点がある。対して、ニッケル水素仕様を積む仕様は、装備的にはシンプルにしてある。……なるほどね! 堅実かつベーシック仕様としてのニッケル水素電池。こういうグレードには大いに興味ありだ。……というわけで、二仕様の電池は4代目プリウスの注目ポイントのひとつ。

そして、新プリウスの「これはいいよな!」ポイント、その二。それはスタイリングである。個人的には高いHPのクルマとしてまとめなかったことは残念だが、トヨタはある時点で、「セダン系」は“高姿勢”にはしないことを決めたと思う。その決定を経て、2010年代中葉のセダンやハッチバックはどうするか。その答えのひとつが、この最新プリウスの造形なのであろう。

このスタイリングは、もう「 * ボックス」というようには分類できない。また、ボンネットやフェンダーといったボディ用語も、もはや出番を失ったようだ。彼らのいう「ワンモーション」造形だが、この新プリウスはその中でも“突き抜けた”レベルにあると思う。

また「世界」を見ても、量販をめざすクラスとタイプのクルマで、ここまでデザイン的な主張が強いモデルというのも稀ではないだろうか。このプリウスに較べるなら、VWゴルフもポロも、こと造形面では、ある保守性という“垣根”の中から一歩も出ていないカタチに思える。そんなバリアーをぶち壊した、トヨタとプリウスの大胆さがいい。

そしてこのクルマの場合、たとえば乗降性といった性能が、スタイルのアピールの中に“溺れて”しまっていることもない。シート座面(HP=ヒップポイント)こそ、個人的には低いとは思うが、しかし、一見寝過ぎのようなAピラーでも、乗り降りでそれが一種のストレスになることもない。また、運転席からの景色(視界)にしても、Aピラーは何の邪魔にもならない。

まあ、普通の人々が日常的に使うのに、こんなにスタイリッシュなクルマを用意する必要があるのか?……という見方はあるかもしれないが、だからこそ、いい意味で前衛的でありたいとした新プリウスには拍手を贈りたい。

そしてスタイリングでもそうだが、この新型プリウスは「ヨーロッパ」が求めるものを一度確認した上で、シャシー性能、また静粛性や快適性で、彼らにそれらを“おつり”を付けて戻した。そんな気がしてならない。

「文化戦争」としての宣戦布告こそしなかったし、また、プロパガンダ的なこともほとんどしていないプリウスとトヨタだが、その技術陣による最新のアウトプットである「4代目」は、その「戦争」においても、まったく負けていないことを示した。残念とか寂しいとか、そんな一ライターの“嘆き節”を超えての、それがハードウェア的な現実なのである。

(了)
Posted at 2016/01/01 23:20:58 | コメント(1) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
2015年12月30日 イイね!

ちょっと寂しいプリウス「4代」の“旅” その4

ちょっと寂しいプリウス「4代」の“旅” その4……ふと、「文化戦争」という言葉が思い浮かんだ。もし、その種のバトルを仕掛けるとすれば、その場合の“大本営”は、メーカー内部ではどこ(どのセクション)になるのか。開発現場の主管やチーフエンジニアはクルマ作りで多忙を極めるだろうから、その「戦争」の司令官や参謀総本部長を兼任するのは、おそらく不可能。そうなると、技術陣(エンジニア)以外で総合戦略や「フィロソフィー」を司ることになると思われるが、でも日本のメーカーで、こういう「戦い」が得意なところって、たとえばどこだろう?

対して欧米メーカーであれば、その種の「戦争」は恐ろしく巧みに展開しそうである。たとえば「電動車」として走りだし、この時は化石燃料は使ってないので超・省エネである。そして、必要に応じてエンジン(内燃機関)をオン/オフし、クルマが止まったら「EV」状態にする。その時にはエンジンは止まっているので、すなわちアイドリング・ストップ。そして走れる状況になったら、ふたたび「電動車」として行動を開始する。

……とは、もちろんプリウスのことなのだが、こういうシステムの「新ビークル」を、もし欧米メーカーが最初に世に出していたらどうだったろうか。ロータリー・エンジンどころではない、自動車史上における大発明と喧伝して、さらには、従来車とは異なるから革新的なのであり、走行フィールにしても“旧車”とはいかに異なっているかという点が強調される。

さらには、その新システムの発見者を技術史の中でのヒーローに仕立てたり、その「彼」は南アジアを旅行中に、某都市の渋滞の中でクルマの「新しい動かし方」を思いついたのだとアピールしたり……。そして文化・哲学方面では、高速で走り回ってコーナリング・スピードを競うだけではない、「欧州発」とは異なる新しいクルマ文化が、当社によってもたらされたとか。各種メディアともリンクさせつつ、さまざまな挿話や物語が「新ビークル」を取り巻くようにするのではないか。

(クルマ史における最初のテストドライバーは、愛する夫カール・ベンツが作った世界初の三輪自動車を、グランマのいる街まで、息子とともに敢然と運転したベルタ夫人であるとされている。彼女の愛と勇気のドライブは、メモリアル・ルートとして今日に残され、125年後の2013年、メルセデス全自動運転車の最初の公道テストコースとして、ふたたび用いられた)

そして、そうした文化的なサポートとパラレルなら、「新ビークル」の開発陣は安心して、それをEVベースの異なるフィールのクルマとして究めていける。また、「新ビークル」とその「走り」は、従来の内燃機関によるクルマとは違っていればいるほど、そのインパクトも強くなる。

嗚呼、しかし! 寂しいことではあるが、プリウスは、そうした“文化的”な(?)サポートは望むべくもなかった。クルマ世界の評者や識者たちも、初代プリウスが提案した「新しさ」や「異文化」に寛容ではなかった。孤高の戦いを強いられたプリウスは、その2代目以降は「新文化」を語ることは少なくなり、クルマ作りとその「まとめ」の基準と“文法”を「ヨーロッパ車」に求めて、ひたすら“ゴルフ超え”に邁進することになる。

……とまで言ってしまうと、あまりに私感が入りすぎているだろうか? でも、初代プリウスに対して「電車みたいに走る」という“評”がネガティブな意味で与えられたのは事実だったし、着座位置を上げた「21世紀の高姿勢セダン」というパッケージング&レイアウトも(少なくともジャーナリズム上では)あまり注目されなかったはずだ。

ただ、「ヨーロッパ」という市場で求められるものを、2代目以降のプリウスに順次投入していったとして、それでクルマが“悪くなった”わけじゃないんだから、それでいいじゃないか。そうした「充実」を、何で「寂しがる」のか? そういう声は聞こえる。

あるいは、00年代以降、多くの人々が「セダン以外」に乗るようになったから、逆にセダンは「ピュア志向」になった。たとえば60センチ以上のHP(ヒップポイント)のクルマに乗りたい人は、クロスオーバーでもSUVでも、その種の選択肢の中から、さっさと自分のクルマを選んでいるのだという解析もある。

そういう「分化」が進んでいる時代に、そうであっても「セダン系」に乗りたい人々は、あえて高いHPを望まない。この点について、マークXの開発陣は、たしかにHPは一度上げたが、その後、カスタマーからの要望で、新型では下げたと証言していた。プリウスの弟分で、2010年代に登場した新コンパクト・ハイブリッドのアクアも、軽量化を求めたせいもあって、HPは530ミリ付近でまとめられている。

また、最新の4代目では、たしかに全高は低くなっているが、人間工学でクルマを作ることを放棄したわけではない。ペダルと足/足首の関係、操作的にもこうなった方がベターであるということについては、人間工学的にも新たな発見があった。そういう要素は新プリウスに盛り込んであると、開発陣は語っていた。

(つづく)
Posted at 2015/12/30 14:45:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
2015年12月27日 イイね!

ちょっと寂しいプリウス「4代」の“旅” その3

ちょっと寂しいプリウス「4代」の“旅” その3メーカーは、報道陣にプロトタイプを試乗前提で公開するに際して、「これまでのプリウスの『強み』と『弱み』として、以下のようなことを挙げた。まず「強み」は「圧倒的な燃費性能」と「先進装備」。そして「弱み」として「走りの楽しさ/乗り心地」、そして(価格に対しての)「内装の品質感」である。

また、新しいプラットフォームというか、クルマの新しい作り方として「TNGA」(トヨタ・ニュー・グローバル・アーキテクチャー)という考え方とコンセプトを用いた最初の市販車であり、「いつまでも運転していたくなるクルマにしたい」「小中高、そして4代目で社会人になる」ように、新プリウスを熟成させてきた……とも語った。

そのように設定したテーマに対しての「達成度」を考えると、新プリウスのそれはかなり高いと思う。その「達成率」を勝手に、また体感的に数値にしてみると、それは90%超であるかもしれない。動かして(走らせて)いる時にドライバーが感じるクルマとの一体感、何かを運転者が「入力」した際にクルマが返してくる「過不足」のない挙動、これらは見事というべきであり、新プリウスは開発陣が意図した通りの「ずっと運転していたくなる」クルマのひとつになっている。

ハードウェア論として、ここまで新プリウスを認めた上で、しかし、なぜ私は、このクルマを見て、そして乗って、一抹の「寂しさ」を感じてしまうのか。このナゾが自分でもなかなか解けず、それで、新プリウス関連の原稿も書けなかったのだが……。ただ、それについては、いくつか言葉を思い浮かべているうちに少しずつ見えてきた気がする。

たとえば、新プリウスは、「狭義のセダン」として成熟させるという道を選んでしまった。この場合の「セダン」とは、多くの人が日常的に使おうとするクルマというような意味だが、そうした「日常車」はいま、著しく「多様化」していると思う。(とくに日本マーケットの場合は──。たとえばスズキのハスラーは、クロスオーバーがウンヌンといった説明なんか抜きで、あっさりと買われている?)

そういう「視界」の中に新プリウスを置いてみると、このクルマが考えている「セダン」の範囲がすごく「狭い」ことに気づく。めざしたのは「ヨーロッパ車」、もう少し突っ込むなら、そのターゲットとなったのはVWのポロ/ゴルフ・ブラザースか。実際、開発陣からも、クルマを作りながら見ていたのはゴルフだったという意見は聞ける。

世界一を競っている量販車メーカー同士、期せずしてほぼ同時期にモジュール的なクルマの新開発方式を提案したなど、トヨタとVWのライバル関係を考えると、仮想敵をゴルフとして「4代目」プリウスを作ることにエンジニアが躍起となった。この感じは想像できるし、そうしたスピリットがクルマ世界を進展させていることにも異議はないが、でも、どうなのか。

プリウスがトヨタの基幹車種であるからこそ、VWのゴルフと正面から対峙して、そしてそれを超えたかった。このようにテーマ設定をしたのなら、それはそれで一理はある。しかし、基幹車種であるからこそ、トヨタとプリウスはもっと広い視野で、この「地球」を見ていきたい。VWと対抗するに、そうした発想と展開もあり得たはずだ。

たとえば、ゴルフもポロもよくできたクルマだが、それはあくまで、「ヨーロッパの、ヨーロッパによる、ヨーロッパのためのクルマ」ではないかという視点である。「ヨーロッパ」という言葉が曖昧すぎるなら、もう少し正確に「ドイツ」と言い換えてもいい。アウトバーンが発達し、高速移動がクルマの前提であり、ちょっと郊外へ行けば、乗用車が百数十キロの速度で“コーナリングする”(!)ように「道」が設定されている。そうした土壌から生まれたミディアム車が、たとえばゴルフであり、そのコンパクト版がポロであろう。

その同じフィールド内で、ゴルフやポロにガチで対抗しようとすれば、それらと同じように「低重心」にしたいと、エンジニアなら思うだろう。サーキットのグリッドに、一台だけ「高重心」のレーシングカーを並べたくはない。俺たちにも同じようなクルマを作らせてくれ!

しかし、このコンペティティブなコンセプトが有効なのは、その「サーキット内」だけではないか。世の中には、サーキット以外の道もある。いや、そもそも基本的にサーキット以外の道で生きているのが「日常車」(市販車)というものである。

また、クルマが競う場(マーケット)は「ヨーロッパ」や「ドイツ」だけではない。北米や日本は「ヨーロッパ」とは微妙に異なる環境だし、さらにいうなら、中国大陸や東南アジア、そして南米、アフリカなどもクルマにとっての舞台だ。こうして見ると、「ヨーロッパ」というステージで「ゴルフ」に勝ちたいというのは、基幹車種プリウスの目標として、いささか小っちゃくないか?

【 タイトルフォトはVWゴルフR 】

(つづく)
Posted at 2015/12/27 09:41:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
2015年12月25日 イイね!

ちょっと寂しいプリウス「4代」の“旅” その2

ちょっと寂しいプリウス「4代」の“旅” その2「4代目」をめぐって、センチメンタルな言葉が飛び交う文になってしまったが、では、どうであったら「寂しく」なかったかをちょっとイメージしてみる。歴史に 《 if 》 を問いかけるのはあまり意味がないが、仮に2代目以降のプリウスがその「走り」をもっと「よく」したいと念じたとして、しかしそれは、こんな「低姿勢」のクルマにしなくても達成できたはずと、私は思う。

トヨタにはそういう技術力──というか技術陣のファイティング・スピリットがあるし、00年代以降、高いHP(ヒップポイント)のクルマで「いい走り」をするモデルを送り出してきた実績もある。そもそも、そうした技術的に困難と思えるテーマを掲げて、しかしそれをブレークスルーしつつ、誰もが扱いやすいように巧みにまとめるというのは、同社の技術陣の好むところで、また得意ワザでもある。

たとえば、プリウスは絶対に「HPは600ミリにする!」と決めていたら、そのテーマのもと、彼らはそれをやり遂げただろう。でも、そうはしなかったことが、この4代目でわかる。それが残念であり、そしてちょっと寂しい。

ただ思い出してみると、初代の「高姿勢セダン」コンセプトをプリウスが放棄するかもしれないという気配は、実は2代目の頃からあった。その理由のひとつは、2代目以降のプリウスが「ヨーロッパ」をその視界に入れたことである。「欧州」というマーケットとジャーナリズムで評価されたい、そこで通用するクルマにしたいというのがプリウスの課題になった。

そして、この新しいターゲット設定と併行して、初代の「走り」についての何とはない批判にも、作り手として対応する必要があった。その批判は、むしろ日本国内において顕著だったと推測するが、それは概ね、このクルマ(プリウス)はわれわれが知っている「自動車」とは感覚的に異なるという指摘だったであろう。

原動機の作動音や“呼吸音”もなく、変速もせず、ただただスーッと走る。それが電動ベースの「ハイブリッド・プリウス」だった。初代登場の時点で、電気自動車(EV)の走行フィールを知っていた評者がどのくらいのパーセンテージでいたのかはわからないが、「どうもEVみたいで……」というフレーズをネガティブな意味で用いる「批評」は、いくつかこの耳でも聞いた。

ただプリウスにとっては、「EVみたいだ」という評は正しすぎるほどに正しい。何よりプリウスは、そもそも「EV」として動きたいクルマだからである。発進から走行まで、ずっと「EV」でありたい。しかし、バッテリーの電気を消費するだけの“電池車”では、走行距離ひとつ取っても限界が生じる。そこでガソリンエンジンを搭載し、そのパワーを走行と発電・充電に使う。ゆえの異種混合、つまり「ハイブリッド」。これが初代もいまも変わらぬ、プリウスの主張と立ち位置であるはずだ。

(基本的にエンジンで走行し、そのアシストとして、必要に応じて「電動」システムを稼働させ、クルマをより速くタフにするというタイプの「ハイブリッド」ではない)

ただ、そうであるのだがプリウスは、これまでとは違う方式で動くクルマなので、走行フィールも違ってアタリマエですよ……という主張はしなかった。また、私たちは、これまでとは異なる種類の自動車を作っていますので……とも言わなかった。そしてジャーナリズムもまた、「これは、これまでになかった、アナザーなクルマなんだぜぃ!」というヨロコビ、もしくは別カテゴリーとして評価し直すということをしなかった。あるいは、そういう「批評」の方法があることに気づかなかった。

ただトヨタが「これはアナザーなクルマで」という路線で、外部からの「評価」に対応しなかったのは、多分に企業風土もあると思う。このメーカーは、ネガな評価を受けることがけっこう好きなのだ(笑)。……いや、プロダクトを貶されて嬉しいということはないだろうが、ネガティブな評価こそ、それを真っ正面からいったん受け止め、そこから反攻する。企業として、また技術屋として、こうした正面突破的なジョブを好んでいるように思う。

初代に向けられたいろいろな評価を経て、以後、トヨタとプリウスがめざしたのは、普通のガソリン自動車から乗り換えても、何らの違和感がないハイブリッド車にすることだったと思う。つまり、「ハイブリッド」から生じる違和感は、すべてなくす。ベースが「EV」であることも、それをオモテには出さない。要するに、何かの条件が付いたクルマとしてまとめることはしない。

そして突然、ハナシを今日に飛ばせば、この「4代目」の“普通感”は見事なものである。走らせて、クルマにモーターとエンジンの二つのパワーソースが積んであることを体感できる瞬間は、筆者が鈍感であることもあってか(笑)ほぼ皆無。また、電動状態なのかエンジン駆動か、あるいはその双方で走っているのか。この区別を、モニターなしで知ることも極めて困難。もし、今回のプリウスって、要するに“ただのクルマ”になったね……という類の評言が発せられたとしたら、それこそがトヨタのめざしたものだったであろう。

(つづく)
Posted at 2015/12/25 18:28:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
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