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家村浩明のブログ一覧

2016年05月22日 イイね!

スープラ A70 (1986)

スープラ A70 (1986)2代目のソアラから一月ほど発表時期をずらして登場したのが、このスープラだった。既にFR方式になり、ベースとなったセリカとは異なった道を歩みはじめていたセリカXX。その発展型としての新機種である。基本レイアウトやディメンション、また使用エンジンなど、ハード面ではほぼ同時期デビューのソアラと共通しているが、しかし、しっかりとソフト面を中心に、ソアラとは違う別モデルとして作り変えてあった。

何といってもこのスープラは、アメリカ市場でシボレー・コルベットやニッサンの300ZXと闘わねばならないアメリカン・スポーツだ。したがって、当然のようにマニュアルシフト・モデルが用意され、また、エアロトップというネーミングでのルーフのオープン化が可能なようになっていた。

デザインワークとしては、ソアラが“アジア美人”としての繊細さと優美さを大事にしていたとすれば、スープラには、米人女性アスリートの筋肉感と“マッチョさ”が盛り込まれていた。その意味では、これら二つの機種のメーカーによる作り分けは、なかなか見事だったと思う。スープラは、これに続くセカンド・ジェネレーションで、スポーツカーとしての方向へ本格的にシフトしていく。

(ホリデーオートBG誌「80's 絶版車アルバム」2000年4月より 加筆修整)
Posted at 2016/05/22 14:55:23 | コメント(1) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年05月19日 イイね!

プレリュード BA (1987)

プレリュード BA (1987)完全な2シーターではなく「2+2」なので、二人乗りというわけではなかったのだが、しかし“デート・カー”という言葉を巧みに独占使用する感じでヒットしたのが、このホンダ製のスペシャリティカーであるプレリュード。実は“デートカー”と呼ばれた元祖は、このモデルの前作(二代目)だったが、そこで確立したポジショニングをさらに強固にすべく、ハードとソフトの両面で、ホンダが総力をこのモデルに注入した。三代目はそんなモデルだった。

ソフト面では、何といってもデザインとイメージである。“元祖”の先代は顔つきなどに若干コワモテの感じもあったが、この三代目では、雰囲気としての「優しさ」を徹底して追求。それまでもかなり低かったボンネット高はさらに低くなり、どこにエンジンが収まっているんだ?……というほどになった。

デザイナーが、エンジン(ハード面)のことをまったく考えずに勝手な「線」を引いて、しかし、エンジン設計がそれを否定せず、(よ~し、じゃあ、これにエンジンを“入れて”やろうじゃないか!)と発奮し、エンジンを改変してボンネット内に収めてこのボディラインを成り立たせた。こんなウワサが、当時のギョーカイをまことしやかに駆けめぐった。(これは事実だっただろう。80年代、ホンダの“エンジン屋”は熱かった!)

そしてメカニズム的には、4輪を操舵しようという「4WS」が装備され、クルマの「曲がり方」に新しい提案が行なわれた。後退走行で駐車する際は、後輪が操舵されていることによって、それまでとは異なる動きと走行ラインで、クルマを駐車スペースに収めることができた。そんな新鮮な驚きもあったが、ただその後、いっそうの高速走行やそこでのスタビリティが重視され、とくにFF車においてはリヤがバタつかないようにしっかり固めるという考え方が主流になって、「四輪を操舵する」というコンセプトは消滅の方向へと向かう。

あと、余談にはなるが、“デート・カー”が実際に運用されるに際しては、このクルマが2シーターではなく「2+2」だったことがよかったのだという説がある。恋人や夫婦になってしまえば、二人しか乗れない2座席のクルマでもいい。しかし、デート(恋愛)には、その前の段階というものがある。「MR2は意地悪なのよ(笑)。誘われても、女友達を一緒に乗せられないでしょ」。……これはおそらく卓見であり、ゆえに1990年代以降は“デート・カー”という言葉と行動様式が消え、みんなでいろんな風に使えるミニバン型のクルマが、デートしたい男の子にとっての持ち物になっていったのではないか。

(ホリデーオートBG誌「80's 絶版車アルバム」2000年4月より 加筆修整)
Posted at 2016/05/19 10:18:36 | コメント(1) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年05月18日 イイね!

セリカ ST160 (1985)

セリカ ST160 (1985)手始めにコロナからFFに。そして、カムリ/ビスタという歴史を背負っていない新FF車種の投入。こうしてミドルレンジのモデルの「FF化」を徐々にスタートさせていたトヨタだったが、この年(1985)ついに、ミッドサイズの主力となる機種をFFとして、一気に新型車攻勢をかけた。

そんな中で、流麗なクーペ・スタイルを提示し、スマッシュヒットとなったのが、このFFセリカである。このモデルの、大胆さと繊細さが同居した巧みな“カタマリ感”としての「まとめ」は、歴代のセリカの中でもトップクラスと言っていいデザインだったのではないか。また、このときのトヨタFFシャシーは、他社に対して後発ということもあり、ネガを出さないようによく練り込まれたもの。素直でクセのないハンドリングのFF車としても、ひそかな注目を集めた。

そして、アッパー・セリカというポジションの「XX」はFRのままにして、これが後のスープラへと至る。また、トヨタのラリーマシンのベース車はやっぱりセリカであったから、FFから発展させての4WDモデルを導入するというように、この1985年の「FF化」を契機に、セリカ・ファミリーは多彩な展開を見せることになる。

(ホリデーオートBG誌「80's 絶版車アルバム」2000年4月より 加筆修整)
Posted at 2016/05/18 00:38:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年05月16日 イイね!

スカイライン R31 (1985)

スカイライン R31 (1985)このクルマの後にあの「R32」が出ることを知っている現在、その目でこの「R31」を見ると、なかなか興味深いものがあるのではないか。つまり、なぜ「32」はあれほどまでに《走り》に“突っ込んだ”か。そして、なぜ「32」はあんなに“小さかった”のか。そのあたりのヒミツが見えてくるような気がする。

この「31」は、たしかに大きくて長く、そしてリッパに見えて、その佇まいにはエレガンスすら湛えていた。その結果、ひょっとしたら、マークⅡの一部の客も取れた? これはそんなクルマであったかもしれない。

しかし、この妙に“長い”印象のスカイラインは、たとえばターボ・バージョンにしても、まっすぐは速かったが、決して曲がって楽しいというようなクルマではなかった。ただ、歴代の中では、最もラグジュアリー&エレガンスに振られたスカイラインのひとつであり、その意味ではレアもので、そして記憶するに足るモデルだった。

この「31スカイライン」の、グループAレース(当時)でのライバルがフォードのシエラ。レーシング・シエラの400馬力に対して、スカイラインは600馬力のエンジンを積むことで勝とうとした。さらには、そのパワーを四輪で受け止めようという企図から、あのスカイライン特有の四輪駆動(R32GT-Rの駆動メカ)も生まれる。1980年代、スカイラインと「レース」は不可分の関係にあり、この「31」もまた、その例外ではなかった。

(ホリデーオートBG誌「80's 絶版車アルバム」2000年4月より 加筆修整)
Posted at 2016/05/16 22:20:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年05月15日 イイね!

MR2 AW11 (1984)

MR2 AW11 (1984)日本及び日本マーケットにとって、「ミッドシップ」というのは長いこと“高嶺の花”だった。スポーツカーにとって理想的であるらしい、そういうレイアウトがあることを知ってはいても、それはたとえばフォーミュラ・マシンやプロトタイプ・レーサー、あるいは欧州のスーパースポーツなど、ごく少量生産のモデルだけのもの。そのレイアウトによるスポーツ感覚を味わうのは、一般大衆には不可能なことでは? 

そんなイメージがあったのだが、しかし1984年、その“禁”はあっさり破られた。それを可能にしたメーカーは、アグレッシブなニッサンでもスポーツのホンダでもなく、保守本流の(?)トヨタだった。思えばこのMR2で、つまり世界初の「量産ミッドシップ車」を実現させた時点で、われわれはトヨタというメーカーの(後にハイブリッド・プリウスを生むに至る)チャレンジングな部分に気づくべきだったのかもしれない。

1600ccという“非力な”エンジンを選択し、クルマ全体のバランスを重視して、タイトでデリケートなドライビング感覚を多くの人々に体験させようとした初代MR2は、ひとつの記念碑として、いまトヨタ博物館の一隅に飾られている。

(ホリデーオートBG誌「80's 絶版車アルバム」2000年4月より 加筆修整)

○2016年のための注釈的メモ
初代MR2は、プロトタイプの状態ではこの格好ではなかった……のだそうだ。デザイナーが描いた「絵」では、MR2のボディの後半部分は、いわゆるファーストバックのなだらかなラインだったという。ただ、それで実車を作ってみると、ミッドシップに置いたエンジンの冷却問題を(1984年の段階では)クリアすることができなかった。そこから結局、われわれが知るようなカタチに造形を修整して、市販車としてまとめ直した。
このヒミツを語ってくれたのは当時のボディ設計担当者で、エンジニア(ボディ屋)として、デザイナーのやりたいことを現実化してやれなかったことが口惜しいと言った。ただ、結果を見るなら、ありがちなファーストバック造形よりも、リヤ窓にアクセントがある市販型のルーフラインの方が変化があってよかったのではないかと、個人的には思う。
Posted at 2016/05/15 20:23:58 | コメント(1) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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