
2002年の秋、「Zカー」としては5代目にあたる「Z33型」が登場して、話題沸騰のフェアレディZ。だが、このニュー「Z」のデビューでは、ニッサンの開発陣とあのカルロス・ゴーンとの間で、ちょっとしたやり取りがあったという。
ブラジル生まれのフランス人であるゴーンは、むろん英語を解する国際ビジネスマン。その彼にとって、日本における「Zカー」のネーミングである「フェアレディ」というのはとてもフシギだったようだ。ゴーンは開発陣に、こう問いかけたという。「このモデルの(日本での)ネーミングは、これでいいのか?」
フェアレディという英語は、訳してみれば「美しい貴婦人」といった意味になるはず。そしてそこには、スポーツカーらしい逞しさや、また速さを暗示するような意味は含まれていない。一方でこのモデルは、輸出仕様「ダットサン240Z」時代からずっと、親しみを込めて、世界中で「Zカー」(ズィーカー)と呼ばれてきた。そしてゴーン自身も、米国滞在時代には、そのZカーに乗っていた。
この最新の「Z33」登場を機に、たとえば「350Z」というのを世界共通の名前にしてしまってもいいのではないか? こんなゴーンの問いかけに対し、Z33フェアレディZのチーフ・プロダクト・スペシャリストである湯川伸次郎は、ニッサンの開発陣を代表するかたちで、次のように答えたという。
「日本人は《フェアレディ》を英語としての意味ではなく、スポーツカーの代名詞として解釈しているのです」
このキメ台詞の結果、ブランドを大事にするゴーンも了承し、Zカーは日本ではやっぱり「フェアレディZ」として販売されることになった……というのだが、さて、ひとりの日本人としての感覚では、たしかに、フェアレディという語で思い浮かぶのは何台かのスポーツカー。そして、その英語としての意味はあまり考えたことはなかったというのが実感でもある。ついでにいえば、ニッサンのスポーツカーがこの名になったのは、1960年代のアメリカでのヒット・ミュージカルで、オードリー・ヘップバーンの主演で映画化された「マイ・フェアレディ」がその元ネタであるとされている。
さて、では日本人の脳裡に、フェアレディとはスポーツカーの代名詞であることを刻み込んだモデルというのを探せば、やはりこれになるのか。最後のオープン・ボディとしてのフェアレディ、つまり、1969年の「ダットサン・フェアレディ2000」(SR311)だ。
ただし、この「フェアレディ」という名の原点はもっと古く、1959年に「ダットサン・スポーツカー」として少量生産され、翌年に輸出専用車として左ハンドル・モデルが作られた際に、当時の川又克二社長が「フェアレデー」と命名し、後に「フェアレディ」に改められたと歴史書にある。(モーターファン別冊 国産車100年の軌跡 1978年・刊)
そして、そのモデルが1962年の10月にフルチェンジ。これは国内でも発売され、多くの人が「フェアレディ1500」と呼んで、本格スポーツカーの誕生を拍手で迎えた(タイトルフォト)。これがダットサン・フェアレディ(SP310)で、このモデルは1963年の第一回日本グランプリ(鈴鹿サーキット)に出場し、SUツイン・キャブによるチューンの威力を見せつけて優勝。「フェアレディ」という名を日本の人々のココロに深く刻むことになる。
さらに1967年には、エンジンを強化した「フェアレディ2000」がラインナップに加わる。アメリカへの輸出が本格化し、またモンテカルロ・ラリーにも参戦して、ダットサン・スポーツが国際舞台で活躍する基礎を作ったのは、この「2000」だった。
そして、1969年の10月。ついに“Zの名が付いたフェアレディ”が誕生。車体はオープン・モデルからクローズド・ボディとなり、1973年には、その「240Z」がサファリ・ラリーで総合優勝する。世界の「Zカー」としての歴史は、こうして拓かれて行ったわけだが、ただ、そんな歴史を知っても、私たちにとっては、このクルマはやっぱり「フェアレディ」なのではないか。ゴーンを説き伏せたニッサン開発陣の歴史観に、ここで改めて賛意を表したい。
(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整) (文中継承略)
Posted at 2016/12/21 20:59:59 | |
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