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家村浩明のブログ一覧

2016年12月21日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.09 ダットサン・フェアレディ1500

【 20世紀 J-Car select 】vol.09 ダットサン・フェアレディ15002002年の秋、「Zカー」としては5代目にあたる「Z33型」が登場して、話題沸騰のフェアレディZ。だが、このニュー「Z」のデビューでは、ニッサンの開発陣とあのカルロス・ゴーンとの間で、ちょっとしたやり取りがあったという。

ブラジル生まれのフランス人であるゴーンは、むろん英語を解する国際ビジネスマン。その彼にとって、日本における「Zカー」のネーミングである「フェアレディ」というのはとてもフシギだったようだ。ゴーンは開発陣に、こう問いかけたという。「このモデルの(日本での)ネーミングは、これでいいのか?」

フェアレディという英語は、訳してみれば「美しい貴婦人」といった意味になるはず。そしてそこには、スポーツカーらしい逞しさや、また速さを暗示するような意味は含まれていない。一方でこのモデルは、輸出仕様「ダットサン240Z」時代からずっと、親しみを込めて、世界中で「Zカー」(ズィーカー)と呼ばれてきた。そしてゴーン自身も、米国滞在時代には、そのZカーに乗っていた。

この最新の「Z33」登場を機に、たとえば「350Z」というのを世界共通の名前にしてしまってもいいのではないか? こんなゴーンの問いかけに対し、Z33フェアレディZのチーフ・プロダクト・スペシャリストである湯川伸次郎は、ニッサンの開発陣を代表するかたちで、次のように答えたという。
「日本人は《フェアレディ》を英語としての意味ではなく、スポーツカーの代名詞として解釈しているのです」

このキメ台詞の結果、ブランドを大事にするゴーンも了承し、Zカーは日本ではやっぱり「フェアレディZ」として販売されることになった……というのだが、さて、ひとりの日本人としての感覚では、たしかに、フェアレディという語で思い浮かぶのは何台かのスポーツカー。そして、その英語としての意味はあまり考えたことはなかったというのが実感でもある。ついでにいえば、ニッサンのスポーツカーがこの名になったのは、1960年代のアメリカでのヒット・ミュージカルで、オードリー・ヘップバーンの主演で映画化された「マイ・フェアレディ」がその元ネタであるとされている。

さて、では日本人の脳裡に、フェアレディとはスポーツカーの代名詞であることを刻み込んだモデルというのを探せば、やはりこれになるのか。最後のオープン・ボディとしてのフェアレディ、つまり、1969年の「ダットサン・フェアレディ2000」(SR311)だ。

ただし、この「フェアレディ」という名の原点はもっと古く、1959年に「ダットサン・スポーツカー」として少量生産され、翌年に輸出専用車として左ハンドル・モデルが作られた際に、当時の川又克二社長が「フェアレデー」と命名し、後に「フェアレディ」に改められたと歴史書にある。(モーターファン別冊 国産車100年の軌跡 1978年・刊)

そして、そのモデルが1962年の10月にフルチェンジ。これは国内でも発売され、多くの人が「フェアレディ1500」と呼んで、本格スポーツカーの誕生を拍手で迎えた(タイトルフォト)。これがダットサン・フェアレディ(SP310)で、このモデルは1963年の第一回日本グランプリ(鈴鹿サーキット)に出場し、SUツイン・キャブによるチューンの威力を見せつけて優勝。「フェアレディ」という名を日本の人々のココロに深く刻むことになる。

さらに1967年には、エンジンを強化した「フェアレディ2000」がラインナップに加わる。アメリカへの輸出が本格化し、またモンテカルロ・ラリーにも参戦して、ダットサン・スポーツが国際舞台で活躍する基礎を作ったのは、この「2000」だった。

そして、1969年の10月。ついに“Zの名が付いたフェアレディ”が誕生。車体はオープン・モデルからクローズド・ボディとなり、1973年には、その「240Z」がサファリ・ラリーで総合優勝する。世界の「Zカー」としての歴史は、こうして拓かれて行ったわけだが、ただ、そんな歴史を知っても、私たちにとっては、このクルマはやっぱり「フェアレディ」なのではないか。ゴーンを説き伏せたニッサン開発陣の歴史観に、ここで改めて賛意を表したい。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整) (文中継承略)
Posted at 2016/12/21 20:59:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年12月15日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.08 セリカ1600GT

【 20世紀 J-Car select 】vol.08 セリカ1600GTいまはあまり使われないクルマ用語のひとつになってしまったようだが、日本初の「スペシャリティ・カー」という栄誉を担うクルマが、このセリカである。「スペシャリティ・カー」とは、1960年代アメリカでのヒット作、フォード・マスタングが初めて名乗ったとされており、メーカー側の言い分としては、「これまでになかったような、特別なタイプのクルマをお仕立てしました!」ということになるだろうか。そして、その「特別性」には高性能であることも含まれていた。

しかし、そうでありながら、たとえばスポーツカーの新型であるといった表現にならなかったのは、当時のスポーツカーがみな、どことなく「ストイック」で、また性能一辺倒で作られているというイメージがあったからであろう。1950~60年代のスポーツカーは(いまでもそうかもしれないが)、一般カスタマーに向けて“開かれた”存在ではなかった。

……というわけで、スポーツカー並みの性能を持つクルマでありながら、同時に、セダン(日常使用車)と同等以上の快適性や使い勝手も保証し、かつ、デザイン的にもみんなで楽しめるようなクルマ。まあ、こんな定義をするより、マスタングみたいな……といってしまった方がハナシは早いのかもしれないが、そんな「スペシャリティ・カー」が1970年代になって、ついに日本にも出現。それが、このセリカだったというわけだ。

そのデザインは見ての通りで、このクリーンでキリッとした2ドアクーペの造形は、今日の眼から見ても、なかなか新鮮に映る。そして、そのボンネットの中には、最新鋭の1600ツインカム(DOHC)「2T-G」115psユニットが収まって、性能的にも当時の第一線級のものだった。

……というのは、もちろん事実なのだが、それは実はGTグレードだけ。このクルマの場合、一方では、1400エンジン+ATで、新しいこのスペシャルなクルマを楽しんでくださいという“配慮”もちゃんとあった。そのへんが、スポーツカーではなくスペシャリティ・カーであるという守備範囲の広さであっただろう。

さて、こうして性能的にも注目されたセリカGTだったが、しかし、当時の「走り好き」な人々が本当に憧れたのは、このGTから1年遅れの1972年に登場した、スポーツ・サスペンションで武装して車高が下がった「GTV」だった。

そしてこの時、同じようにGTVに注目した若きスウェーデン人ラリーストがいた。彼はすぐに、トヨタとコンタクトを取る。こうして、セリカによるトヨタのワールド・ラリーへの参戦が始まり、それはセリカがモデルチェンジしても続いて、やがて、ワールド・チャンピオンの獲得にまで至る。そのスウェーデン人が、そう、オベ・アンダーソンだった。

その「オベとトヨタ」の関係は今日でも継続していて、この2002年からは、そのオベ・アンダーソンを代表とするトヨタ・チームがF1マシンを走らせている。この初代セリカは、モータースポーツ界でのそんな“縁結び”の契機となったモデルでもあった。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整) (タイトルフォトはセリカGT、トヨタ博物館にて)
Posted at 2016/12/15 07:06:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年12月13日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.07 チェリー/クーペX1-R

【 20世紀 J-Car select 】vol.07  チェリー/クーペX1-R今日では、「FF」は実用系、日常使用重視、そして「FR」はスポーツ/高性能系といった分類が定着してしまった気配だが(例外は「FFスポーツ」にチャレンジしつづけるホンダの「タイプR」軍団か)、しかし1960~70年代は、状況はそんなに単純ではなかった。

当時は、既存のシステムとしての「FR」や「RR」がまずあって、それに対抗する新興勢力としての「FF」というイメージが形成されつつあった。そこから、メーカーにしてもカスタマーにしても、この新しい駆動方式に注目することが「コンサバティブでないこと」の証明だという雰囲気まであったはずだ。

したがって、この時代においては、「技術」をオモテに出したいメーカーほど「FF」を早期に採用したという見方も可能。その意味では、1960年代にいち早く「FF乗用車」を商品化したのがスバルとホンダだったというのは、当時の“空気”を伝えるには、けっこう好適なエピソードであるのかもしれない。(日本初ということでは、1950年代に軽自動車のスズライトが既にFFを採用していた)

そして当時の「ビッグ2」でいえば、トヨタよりもニッサンの方がFF車開発に関しては積極的だった。ただし、トヨタが「FF」に無関心であったということではなく、最初の大衆車であるパブリカは、その初期にはFF車として企画されていた。(実際の商品化の段階になって、1960年代初頭の国道に多かった未舗装路の登坂能力の問題などで前輪駆動は時期尚早とされ、市販パブリカでは「FR」が選択されたという)

チェリーは、そんな時期のニッサンから、メーカー初のFF車として登場したクルマで、そのセダンのデビューは1970年の9月だった。サニーのコンポーネンツを利用し、エンジンを横置きにしてFF化したものだが、その外観は上級車の縮小版であったサニーとは異なり、別ジャンルの「小型車」なのだという主張性を掲げた、異色ともいうべき造形でまとめられていた。

そんな注目デザインのチェリーだったが、当時のFF車の走りというのは、実はどれも“くせ者”ばかり。ステアリングを保持するのにチカラは必要だし(トルクステアが強い)、またハンドルを切りながらアクセル・オフすると、ノーズが急速にインを向く(タック・イン)という傾向もあった。そして、この二つの傾向は、エンジンのパワーが上がれば上がるほど強まるのも常だった。

セダンの登場から1年後に、チェリーにクーペ・バージョンが加わり、そして、そのクーペにオーバー・フェンダーを装着の「X-1R」が登場したのが1973年である。セダンよりも全高を下げ、デザイン的にも精悍さを増した「クーペR」のエンジンは、セダンでも使われていた1200ccバージョン。

スペック的にはさしてモンスターとは思えなかったが、走らせてみると、当時のFF車としては、やはりパワフルに過ぎた。FF特有のクセとして一部には嫌われていたトルクステアとタック・インの傾向はさらに強まり、ジャジャ馬という言葉が似合うクルマになっていたのだ。

このチェリー・クーペX1-Rは、“ファイター系FF”として日本自動車史に残る「悍馬」であり、そして、モータースポーツ・シーンでも大活躍した「駿馬」だった。雨のレースで鬼のように速いといわれた星野一義選手は、このFFチェリーでの活躍を機に、メジャーなシーンへと駆け上っていく。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2016/12/13 11:54:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年12月07日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.06 フロンテ・クーペ

【 20世紀 J-Car select 】vol.06 フロンテ・クーペクルマの後部にあるフタやドアを開くと、そこはトランクだったり荷室だったりする――。これが今日の常識であるかもしれないが、しかし、1970年代以前はそうではなかった。というのは、リヤの“ボンネット”の下にエンジンが収まっているクルマは、決してレアではなかったからである。

さらに当時、その種のクルマは、数としてもマイナーではなかった。たとえば延々と生産された世界のベストセラー、カブト虫のVWはこのレイアウトだったし(このオリジナルVWのレイアウトを引き継いで今日に至っているのが、ポルシェの356~911系)、わが国でも日野自動車でノックダウン生産されたルノー4CV、そしてテントウ虫として親しまれたスバル360なども、みなリヤにエンジンを置いていた。「FR」というのは、フロントにエンジンを置いてリヤ(後輪)を駆動する方式だが、このレイアウトへの“対抗馬”は、かつては「RR」、つまり「リヤエンジン/リヤ(後輪)駆動」だったのだ。

この「RR」方式は、1959年に英国BMCから、FFの「ミニ」が出現して以後も、コンパクトカーのあるべきレイアウトのひとつとして生きつづけた。たとえばスバル=富士重工のジョブを見ても、テントウ虫はRRだったがスバル1000はFFだったというように、RRとFFの双方に、それぞれ存在理由があったことがわかる。

この点においては、スズキも同様であり、同社の最初の軽自動車であるスズライトは(本邦初の)FFレイアウトを採用していたが、それに続く軽自動車のフロンテではRRを選択した。軽自動車のような小さなクルマでは、FFがいいのか、それともRRなのか? そんなメカ・バトルの時代もあったのである。

さて、このフロンテ・クーペが登場したのは、1971年・秋のこと。RR方式となったフロンテが、1970年に2代目としてデビューしてから、約一年後という時だった。この“衝撃のクーペ”の全高は、わずかに1200ミリ。ただ、こんな数値で、そして、いまよりも「軽規格」そのものがずっと小さかったが、2シーターに割り切ったこのクルマの室内は、ドライバーにとっては余裕十分だった。

そして、そのドライバーの背中後方に、2ストロークの3気筒エンジンがあった。3気筒の好バランスと、4ストロークとは比べものにならない2ストローク・エンジンの太いトルクで(昨今のバイク用、高回転型でレーシーな2ストをイメージしないでほしい)、このクーペは扱いやすくて、同時に、速いモデルだった。カタログに記されている最高速の120km/hは、テスト路さえあれば、誰もが容易にマークすることができたはずだ。

また、そうした性能もさることながら、このクルマでは造形も話題になった。流麗かつ鮮烈な2シーターのクーペ・デザインはインパクトがいっぱいで、あのジゥジアーロによるデザインをもとに、生産車としてスズキがまとめたものだというのが定説になっているが、それは真実であろうと思う。(注1)

1990年代、ビートやカプチーノといった軽自動車規格のスポーツ車がいくつか登場したが、しかし1970年代という時点で、こんなにもスタイリッシュで、そして内容的にも強烈な軽自動車があったというのは、記憶しておいていいことだ。とくにインテリアの充実とそのデザインには、今日でも十分に通用する機能美と華麗さがあった。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)

○注1:「SUZUKI STORY」(小関和夫著 三樹書房・刊 1992年)によれば、スズキの依頼を受けて、1960年代のスズキ・キャリイ40系のデザインを行なったのがジゥジアーロ。そして後に、彼が、原寸大の木製モックアップをスズキに送ってきた。それが2ドア+リヤハッチの、一種“バン&ワゴン”的な、フィアット・ウーノやパンダとも通じるような造形だった。そのモックアップのラジエター・グリル、フロント・ウインドーの傾斜角29度、そしてサイドのプレス・ラインなどを活かしつつ、スズキ社内でクーペ型に向けてデザインを進め、最終的に「フロンテ・クーペ」としてまとめたのがこれであったと記されている。
Posted at 2016/12/07 11:28:57 | コメント(1) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年12月06日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.05 シビック 1972年

【 20世紀 J-Car select 】vol.05 シビック 1972年このクルマは、他の初期ホンダ車のように“過剰なほどのオリジナリティ”を抱えたものではなかった……かもしれないし、また、世界初やわが国初といったものが満載というホンダ車でもないだろう。しかし、国内で二番目というポジションに成長した「今日のホンダ」の原点を探るなら、モデルとしては、1972年登場のこのクルマに行き着くのではないか。このシビックの成功が、汎用エンジンも含む、総合自動車メーカーとしてのホンダの基盤となったのだ。

歴史に「if」はあまり意味はないが、しかし、もし1970年代の本田技研に、この「シビック」がなかったら? ……ホンダはレーシング会社として「フェラーリ」的な製造者になったかもしれないが、ただフェラーリは、フィアットというスポンサーなしには成立し得なかった“メーカー”とも言える。やはり、この1972年のシビック。そして、その2年後のアコードの成功が、独立独歩を好み、「レースもやるが、市販車も作る」というホンダ独自のスタンスと歴史を支えたのである。

この初代シビック、その基本アイデアのベースとなっているのは、1959年の「ミニ」に始まる欧州のコンパクトFF車であろう。そしてホンダとしては、既に1960年代に、軽自動車規格でN360を製作し、その後も、ほとんど「社是」としてFF車を作っていた。その意味では、シビックがホンダで生まれたのは、一種の必然であったのかもしれない。

ただ、シビックではひとつ、それまでのホンダとは違う画期的なクルマ作りが行なわれた。それはたとえば、搭載エンジンの選択にも現われ、シビックの場合、案件に上って、実際にも(短いコースではあったが)テスト走行するという中から、最も排気量が大きいエンジン(1200cc)が選択された。「回転」で走るのではない、クルマは「トルク」で“動く”のだという主張と姿勢である。

これによってドライバーは、「回して乗る!」という(それまでの)ホンダ車的な使い方をしなくてもよくなった。また、2ペダルのオートマチック車で走らせても、十分に俊敏なクルマになる。そんなニュー・エイジのホンダ車としてまとめられたのが、シビックであり、このコンパクト車が“トルクで走る”ホンダ車の元祖ともなった。

そして、もうひとつのニュースが「3ドア」の採用である。欧州ではアタリマエだったユーティリティかもしれないが、当時の日本では、クルマはまだまだ後生大事に乗るものであり、華やかさや日常使用での至便性以外の要素が求められていた。そんな1970年代前半、ここまでカジュアル(日常性)に、そしてユーティリティ(実用性)に振ったクルマ作りは、どのメーカーも行なっていなかった。

しかし、ホンダだけが「ライトバン」と言われることを怖れず(?)このシビックで、テールゲートが大きく開くコンパクト車を作った。後に日本マーケットで花開く“ハッチバック文化”は、このシビックが祖先と見るべきであろう。

ただ、「実用性」が強調され、また、スペック的には見るべきものがないという印象があるかもしれないシビックだが、しかし、軽量車体とトルクのあるエンジンの組み合わせ、そして、ラジアルタイヤとディスクブレーキの標準装着。さらに、ややハードに過ぎて、快適性では問題があったものの、そのサスペンションは「走り」を重視した設定になっており、見た目こそジミだったが、実際は俊敏で、速さも楽しめる「fun」なクルマとして仕上がっていた。

そんなシビックの「走り」の性能は、後年の「RS」というバージョンによって、さらに磨かれることになる。これはもちろん「レーシング・スポーツ」のことなのだが、1970年代、折りからのオイルショックや社会状況によってそれを名乗れず、これは「ロード・セイリング」でして……と言い訳したのは、いまや歴史の笑い話のひとつになっている。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2016/12/06 08:50:31 | コメント(1) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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