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家村浩明のブログ一覧

2016年10月07日 イイね!

【 70's J-car selection 】vol.19 スカイラインGT-R(1973)

【 70's J-car selection 】vol.19 スカイラインGT-R(1973)スカイラインGT-R KPGC110(1973)

1973年から74年にかけて、わが国は「オイル・ショック」に見舞われた(第一次)。中東から輸入される石油が不足し、それによってトイレットペーパーが手に入りにくくなる? そんな怪情報も流れて人々が買い占めに奔走し、スーパーマーケットの棚から品物が消えるといった現象も起きた。

そしてその「ショック」は、ハードウェアとしてのクルマ、とりわけ高性能車に深刻な影響をもたらした。……《走り》を楽しむ? この非常時に、クルマでそんなことをしていていいのか? そうした何とはない社会的な要請が、速くてスポーティなクルマを直撃したのだ。1960年代の後半からツーリングカーのレースで常勝を誇った「C10」スカイライン、その高性能仕様である「GT-R」も例外ではなかった。

その新型、「C110」型のスカイラインは、1972年にデビューした。この時に、クルマの中身について何も説明していない、その意味で画期的かつ歴史的な広告コピーだった「ケンとメリーのスカイライン」と、リヤのフェンダー部分に“サーフィン・ライン”をあしらった新型のデザイン・ワークは、ともに好評であり、新スカイラインは一躍人気モデルとなる。

そして、およそ一年後。予定通りに、スカイラインのフラッグシップ・モデルで、かつ最強のレーシング・ギア(の原型)になるであろう「GT-R」がラインナップに加わった時に、石油危機は起こった。いまは、高性能車にうつつを抜かしている時期ではないという自粛ムードの中で、たとえばシビックの「RS」は「ロード・セイリング」と“改名”し、エンジンもキャブレター・チューンだけに留めて、おとなしく棲息していくことを選ぶ。

しかし、ニッサンの考え方は少し違っていたようだ。国を挙げての“自粛ムード”と時を同じくして、実は排ガス規制も始まっていたのだが、デチューンされていたとはいえ、初代に続いて純レーシング・エンジンを搭載する「GT-R」が、そんな世の中で、本来の「Rらしさ」を発揮することはむずかしい……。

いくつかの理由が重なっていたのだろうが、ともかくニッサンはこの時、「GT-R」を“廃盤”にするという選択をした。「C110のGT-R」は本格的に生産されることなく、200台に満たない台数を作っただけで、市場から消えた。その幕引きはあまりにも早く、新GT-Rはサーキットに登場する時間もなかった。そして、極端に少なかったその生産台数によって、新GT-Rは「幻」のままに、プレミアム感だけが付いてゆく。

……ただ、どうなのだろう? ここから先は「歴史のif」になってしまうが、仮にオイル・ショックがなく、この「C110のGT-R」が順調に生産されたとして、前代の「C10のGT-R」ほどの人気を獲得することができたかどうか? 

後年のR32とR33との「GT-R比較」にも似て、「C110のGT-R」はグラマラスで“豊かな”クルマであった。「レーシー」に作るのか、グランツーリスモの要素を強めてまとめるのか。GT-Rとは何か、GT-Rをどう作るかという問題は、こうして既に1970年代にもあったのだ。

(ホリデーオートBG 2000年3月より加筆修整)
Posted at 2016/10/07 12:37:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年10月05日 イイね!

【 70's J-car selection 】vol.18 シャレード

【 70's J-car selection 】vol.18 シャレードシャレード G10(1977)

1960年代の「ベーシック車」は、エンジンの排気量が800~1000ccであることが多かった。日本の場合、本当のベーシックとして軽自動車という別ジャンルがあり、このエンジンが当時は「360cc」。軽ではない普通車の「ベーシック」としては、これとの区別をまず明らかにしたいということがあっただろう。

しかし、エンジンが大きすぎると、今度はベーシック車にならない。そこから、税制の区切りとも絡んで、エンジンは「1000cc」を上限にするという考え方がひとつ生まれたようだ。そういえば、1960年代にデビューしたファミリア、コルト、スバルなどはすべて、自社で既に軽自動車を作っていたメーカーによるものだった。おそらく、「360ccと1000cc」という対比あるいは位置づけが、社内的にも販売面でもひとつの落としどころだったのではないか。(三菱は軽自動車でなく、普通車の「500」だったが)

そして、そんなベーシック&コンパクト戦線に、当時の二大メーカーのトヨタとニッサンが参加するのが“大衆車元年”と呼ばれた1966年のこと。この時に、ニッサンはサニーを1000ccでまとめたが、トヨタとカローラは「100ccプラス」にするという戦略を採った(注1)。

その「増量」が販売的な大成功を生んだため、カローラ以後はベーシック&コンパクトが「1000cc」であるという暗黙の枠組みが崩壊した。各車は揃って排気量の拡大を行ない、新たな“アッパー・ベーシック”(?)としてのエンジンが1300~1500ccになってしまったのが1970年代の半ばだった。

こうなると、さすがに軽自動車(360cc)との差が付きすぎる。それを補うための“新ベーシック”もいくつか生まれていたが(パブリカ→スターレット)、そんな状況の中、もう一度1000cc車、つまり「リッター・カー」にこだわってみるとして、この新型車は登場した。

そしてこのクルマは、エンジンの排気量だけではなく、その基本レイアウトにも「新しさ」がいっぱいだった。エンジンはさらなるコンパクトさを求めて3気筒、それを横置きに搭載し、同時に前輪駆動(FF)としていた。ふと気づけば、トヨタ&ダイハツ・グループとしては初の市販FFであり、ダイハツ・ブランドだからこそ“やれた”チャレンジと提案だったのかもしれない。(トヨタの自社ブランドが「FF化」されるのは、1978年のターセル/コルサが最初)

「ダイハツ・オリジナル!」という意欲とスピリットに充ちたこのモデルは「シャレード」と名付けられ、FF化によるスペース・ユーティリティ(室内の広さ)もさることながら、その清新なデザインでも注目された。このシャレードは以後、“軽ではないダイハツ車”としての独自のポジションを築き、同社の基幹車種のひとつとなっていく。(ただし、シャレードが「リッター・カー」にこだわったのは二代目までで、三代目からは「1・3リッター級」にその戦線を移していくが)

○注1:1966年にカローラが1100ccで登場したのは、同社には既にパブリカというベーシック車があり、そのエンジンが700ccだったということがあるかもしれない。パブリカとは(車格が)違うという主張をするには、1000ccでは“近すぎた”のだ。一方、サニーの場合は、兄貴分である1300ccのブルーバードとの違いを示すには、やはり1000cc以下である必要があったのではないか。

(ホリデーオートBG 2000年3月より加筆修整)
Posted at 2016/10/05 01:59:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年09月30日 イイね!

【 70's J-car selection 】vol.17 カローラ・レビン

【 70's J-car selection 】vol.17 カローラ・レビンカローラ・レビン TE27(1972)

トヨタのコンパクト・スポーツ「レビン/トレノ」の“先祖”で、登場は1972年。もちろん当時のことであり、駆動方式はFR。そういえば、1970年代前半のトヨタ車は、最小のスターレットでもFR方式で、1978年のターセル/コルサのエンジン縦置き+FFの登場まで、コンパクト車であっても前輪駆動方式はなかった。

このレビンだが、カローラ・シリーズにはそれまで、愉しめるスポーティ機種として「SR」というグレードがあり、《走り》重視のユーザーには人気の仕様になっていた。そんな素地があったところに、このレビンが一気にSRの数段上を行くモデルとして出現して、マーケット&カスタマーを驚かせた。兄貴分に当たるセリカ用、そのツインカム・ユニットである「2T-G」を小さくて軽量なカローラに搭載する。これはそういうコンセプトのメーカー製“チューンド・カー”だった。

もちろん、総合的なパフォーマンスとしてはスカイラインGT-Rの比ではなかったかもしれないが、しかし、当時はツインカム(DOHCエンジン)がそもそも稀少。そうした“特別性”と合わせて、小さなクルマながら圧倒的な加速感を持つこのレビンのインパクトは、オーバー・フェンダーで武装した外観とともに、GT-Rに匹敵するものがあったのではないか。このオリジナル・レビンの好評が、あの「AE86」の人気にもつながっていく。トヨタのコンパクト車史上に燦然と輝く“ベビー・ギャング”、それがこの初代カローラ・レビンなのである。

○フォトはトヨタ博物館にて。

(ホリデーオートBG 2000年3月より加筆修整)
Posted at 2016/09/30 21:06:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年09月28日 イイね!

【 70's J-car selection 】vol.16 コスモAP

【 70's J-car selection 】vol.16 コスモAPコスモAP CD23(1975)

「コスモ」とは、世界で唯一マツダだけが量産化に成功したロータリーエンジン搭載のスポーツカーに与えられた名だった。1967年に登場したその2シーター車は、路上の宇宙ロケットといった風情の超・低姿勢な造形で、同時に、エンジンが(コンパクトな)ロータリーだとこんな流麗な格好も可能なのか!……という、そんな驚愕と衝撃に充ちた未来的なクルマであった。

その後、近年ではユーノス・コスモが記憶に新しいが、「コスモ」はスポーツカーからスペシャリティ・カーのための名前になった。(スポーツカーには、メーカーは「RX」系を用意した)1975年のこのクルマが、そんな“スペシャリティ・コスモ”としての原点になる。

ただ、1960年代の“初めてのコスモ”の鮮烈な印象とともに、このクルマを見ると、スポーツカーとスペシャリティ・カーは違うものなのだと、いくらアタマで納得しようとしても、この“スペシャリティ・コスモ”は、どうしても鈍重に見えた……かもしれない。もちろん、その意味や「こだわり」にちょっと窮屈なところもある「スポーツカー」ら脱して、広い世界で伸び伸びと“スペシャリティしたこのモデルの、豊かさや多用途性を歓迎した人々も一方でいたはずだが。

さて、このクルマでは、コスモの後に付けられた「AP」というが、ちょっと気になるところである。これは「アンチ・ポルーション」、すなわち低公害車の意で、実は1970年代の前半は、クルマのエンジンを「低公害化する」ために各メーカーがシノギを削った“技術の時代”でもあった。

そんな難問に、ロータリー・エンジンならそれをクリアできる!……として、メーカーが送り出したモデル。それがこの「コスモAP」だった。作り手として、その時代の「最先端モデル」には、いつも「コスモ」という名を与える。この意味では、メーカーの姿勢は1960年代も1970年代も、まったくブレていなかったということになる。

この車名には、もともと窒素酸化物(NOx)が少ないロータリー・エンジンの特質を活かして、他社に先駆けて排ガス規制をクリアした誇りが込められていた。ネーミングの話が多くなってしまったが、「コスモ」であれ「AP」であれ、どちらでもキモになっていたのは、やはり「ロータリー・エンジン」……。これは、やはりマツダのIDで、そして、日本工業界の「適用」技術の高さを自動車史に刻んだモニュメントである。

(ホリデーオートBG 2000年3月より加筆修整)
Posted at 2016/09/28 06:18:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年09月24日 イイね!

【 70's J-car selection 】vol.15 アコード

【 70's J-car selection 】vol.15 アコードアコード・ハッチバック SJ/SM (1976)

1972年にデビューしたシビックは、800~1200ccという三種のエンジンではどれを載せるかで実走テストを行ない、低中速のトルクに着目して1200ccエンジンを選択した。これは同社のそれまで、つまりS600~800や空冷1300などで用いられた高回転・高出力タイプのエンジンとは一線を画すもので、このエンジン選択は、シビックがニューエイジのホンダ・コンパクトであることの象徴でもあった。

そして、その4年後。今度は、当時の「中・上級車」の常識や感覚に囚われないミッドサイズの新型車が、またしてもホンダから登場。搭載エンジンは1600cc、そしてボディ形状は、2ドア+ハッチバック(=3ドア)のみというアコードである。

ノッチバックの3ボックス・セダンが「上級車」の条件と常識であった時代に、これは画期的な提案と挑戦だったが、メーカーとしてそんな勇敢なことができたのは、やはりシビックでの実績があったからか。“リッター・カー”のシビック・コンセプトを、そのまま「中級車」に拡大したようなアコードのクルマ作りは、それもそのはず、シビックとアコードの開発担当責任者は同じエンジニアであった。

(ハッチバックのみでデビューしたアコードは、一年後の1977年に、4ドア・セダンの「サルーン」をラインナップに追加し、その“守備範囲”を拡大する)

モータースポーツやレース活動、またスポーツカーや高性能車をもって「ホンダらしさ」とする見解は多いが、しかし、今日のビッグな「市販車メーカー」としてのホンダの基礎を築いたモデルを、もし探すなら、それは紛れもなく、1970年代にそれまでのホンダ・カラーを破って出現したシビックとアコードの二機種である。この2モデルとその成功がなければ、ホンダは今日とは異なるタイプのカンパニーになっていたのではないか。

(ホリデーオートBG 2000年3月より加筆修整)
Posted at 2016/09/24 16:40:43 | コメント(1) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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