
第4章 欧州職人 part2
29歳のエンジニアである石坂素章は、中間の休みを挟んで、3月初旬から、結局はル・マンの実戦終了までをTCPと過ごした。トンプソン親爺とデザイナー、エンジニアが各一人ずつ、そしてラインのスタッフが10名ほど。経理をやっているのがミセス・トンプソンで、彼女を入れても14人しかいないファクトリーがTCPだった。
スプリント用のNSXやシビックEG6の車体を作ったことはあっても、耐久用の車体作りを間近で見るのは、石坂にとっても初めての経験だった。このTCPへの“留学”で驚いた、あるいは感心したことが二つあると石坂は言う。
まず、スプリント用のシャシーならば、剛性はあればあるほどいいはずと考えていたが、こと耐久用となると、どうもそうではない(らしい)ということ。実はヤワでもいい部分というのがあり、それが“ねじれ”を生んでクッションとなり、結果的にシャシーを保たせる。この方法をTCPは知っているようなのだ。
もうひとつは、TCPの周辺にいるパーツ屋たちとの関係である。何と、注文するのに図面が要らないことがあるのだ。「3リッターのV6エンジンで長距離耐久レースをする。クルマはNSX」。こう電話で言っただけで、たとえばラジエターは、何日か後にTCPに届くのであった!
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ドイツとイギリスへの旅から帰った橋本健は、車体作りをTCPに託し、ふたたびエンジニア、あるいはプロデューサーに戻って活動を開始した。
丸谷武志は、石坂がTCPに到着して一週間後に、シャシー搭載用のダミーのエンジンをTCPに送った。これは車体製作の便宜を図るためであり、エンジンと言いつつ、中身は入っていない。
実はエンジンはこの頃、火は入るけれど、なかなか所定のパワーが出ないという状態に陥っていた。量産のブロックそのものを使うことと、軽量化したアルミ・ピストンの信頼性がネックになっていた。
高温になるアルミ・ピストンはどのくらいの寸法があればいいのか。使用するアルミの硬度は? そして形状は? また、ピストンリングの表面処理はどうするのがベストなのか?
これらのことが課題として、エンジンのスタッフにのしかかっていたと第1研究ブロックのエンジニアの一人は洩らす。
パワーを出すための6連スロットルは、その同調を慎重に合わせないと、Vバンクの片側だけが燃料が薄くなった。そうなるとたちまちノッキングを起こし、ピストンがやられる。
橋本の課題は、サスペンション・ジオメトリーの最終決定。そして、ミッション、ドライブシャフトをどうするかだった。
まずミッションだが、ル・マンを走るのなら、どうしても6速がほしい。しかし、量産NSXの5速を6速化するのはスペース的に無理で、かつ重量が増えすぎるという欠点がある。もっと軽く小さなミッションをということで、シーケンシャルの6速を導入することにして、ヒューランドを選択した。これが最も小さくて、コンパクトだったからだ。
もうひとつのドライブシャフト、これは難物だった。どうすればいいか、橋本自身も経験がない。まずはイギリスのF1パーツを作っているところに頼もうとしたが、一本作るのに2ヵ月かかるという。いま3月だから、それではテストデイに間に合わない。
結局、ミッションを発注したヒューランドに窓口になってもらい、何とか“ホンダ・スケジュール”に間に合わせてくれるメーカーを見つけてもらうことにしたが、このドライブシャフトの件は、このような理由で、橋本からかなり離れたところで、それも橋本の目の届かないかたちで急造されることになった。
エンジニアとしての橋本のル・マン・プロジェクトのうち、この問題が小さな空白となったが、しかし、プロデューサーとしては、物事を先に進めるしかなかった。
車体は4月にはできるという。TCPでプロトタイプの一台を作りあげるのに、約1ヵ月。それが完成すれば、二台目以降の“量産車”は3週間ほどで作れるという報告が石坂から入っている。
そして、ロングラン・テストは最低一回やって、ル・マンのサルテ・サーキットに入りたい。それは、いつにするか。いや、それがいつ、できるのか。エンジンは、どうなっているのだろう? テストには、とにかく間に合わせてほしい。もちろん、この点に関しては、丸谷らスタッフは、その時点でのベストのものを出してくれるはずだ。
そして、クルマとエンジンができても、それを走らせるチームとドライバーがなくては、レーシング・カーは動かない。本番のル・マンには3台のNSXを走らせたい。これについて橋本は、外国人チーム、日本人チーム、そして外国人と日本人の混成チーム、この三種でル・マンに出場したいと企図していた。
ここでもまた、橋本の“国際主義”がほの見える。ホンダがあり、ヨーロッパの技術があり、そしてレースというものを支え続ける欧州の文化がある。それらを互いに融合させたい。もしくは吸収し、また吸収し合いたい。日本人および日本のメーカーが、日の丸のハチマキを締めて外国のレースに「勝ちに」行く。それは、俺のレースじゃない。これはほとんど信念に近い橋本の意志だった。
1994年4月14日。ル・マン24時間レースのちょうど2ヵ月前。レーシングNSXのシャシーと、3リッターV6エンジン(NA)とが合体し、丸谷武志らが作ったレース用エンジンに、クルマに載ったかたちで初めて火が入った。時刻は朝の4時。スネッタートン・サーキットでのNSXシェイクダウン・テストの、その直前だった。
コースがオープンになり、彼らの、ル・マンのためのNSXが初めてレーシング・コースを走ろうと、ピットを後にした。ドライバーはアーミン・ハーネだ。だが数秒後、橋本は思わず声をあげた。「何だ?」
ピットロードの終わりで、NSXは止まっていた。原因は、ドライブシャフトの折損だった。
(つづく) ──文中敬称略
○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』
この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。