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家村浩明のブログ一覧

2014年03月22日 イイね!

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦

第5章 50パーセント…… part2

5月8日のテストデイまでに決めておかなくてはならないことがあった。チーム編成である。3台のNSXを走らせるドライバーとして、橋本は、外国人のみ、外国人と日本人の混成、そして日本人だけのチーム。この三パターンで行きたいと考えていた。

外国人ドライバーの核としては、レーシングNSXの開発ドライバーであるアーミン・ハーネと、93年のスパ・フランコルシャン24時間で一緒に仕事をしたベルトラン・ガショーの二人を置いた。外国人チームは三人の国籍をバラバラにし、混成チームには清水和夫と岡田秀樹に、日本人ドライバーとして加わってもらうことにした。

残る日本人チームについては、モーターレクリエーション推進センターの吉村柾之に動いてもらい、「チーム国光」に決定した。高橋国光、土屋圭市、飯田章、この三人がドライバーで、スポンサーの支援体制も整っていた。日本人としてル・マンを走ったとき、どういう感想を持つのか。どうル・マンと接するのか。この点には、橋本も興味があった。

また、旧知といっていいハーネとガショーについても、ル・マンという場で彼らがどう走り、どう闘うのかを見たかったと橋本は言う。たとえば外国人ドライバーは、公道のような荒れた路面をレーシング・スピードで走ることに長けている。またハーネはオーソドックスな走りだが、ガショーはかなり滑らせる。二人のドライビング・スタイルの違いとNSXとの関わりについても、橋本は興味があった。

そして、レーシング・マネージメントは、すべてクレマーに任せた。したがって、メカニックはすべて外国人。ホンダ栃木のメンバーはレース運営には直接タッチはしない。もちろんエンジニアとして、丸谷武志も石坂素章も、サルテの現場には当然行く。そして橋本の立場は、仕掛け人から、何かがあったときに最終的な判断を下す「総監督」というポジションに、自然と移行していた。

こうして、94年5月8日。ル・マン・テストデイがやってきた。

* 

テストデイには3台のレーシングNSXが顔を揃えた。ル・マン仕様1台、94ADAC仕様車をベースにル・マン用のモディファイを施したもの、そして93ADAC仕様車の3台である。3台目の93ADAC車は、ル・マンを初めて走るドライバーのための練習車で、土屋圭市や飯田章がこのクルマでコースに出て行った。

ベストタイムをマークしたのは、もちろんル・マン仕様車だった。93年のル・マンで、GT-2と同じレベルのクルマが予選を4分21秒で走っている。レーシングNSXも、シミュレーションではこのタイムをマークしている。そして、実走してのル・マン仕様NSXのタイムは4分28秒だった。

このテストデイでのシフトポイントは7500回転としていた。実際には、NSXのVTEC・V6は8300回転まで回せる。つまり、そうしたシェイクダウン状態での4分28秒なのである。「これはイケるな」と橋本健は思った。レブリミットを押さえ、また、コースとの慣れを探っている段階のNSXは何のトラブルも起こさなかった。

次のスケジュールは5月17~18日の24時間テストだ。想定した走行距離は4000㎞。用意されたクルマは、テストデイをこなした47号車と、その日がシェイクダウンとなるル・マン用の2号機、48号車。さらに94ADAC仕様の3台である。このテストに栃木から参加したのは丸谷武志で、場所はポール・リカールだった。

このテストにおける3台のNSXには、それぞれのテーマがあった。まず1台は、レブリミットである8300回転まで回す。エンジンは、よしんば壊れてもいい。いや、エンジン屋・丸谷の願いは、一度エンジンを壊してほしい(!)だった。

そして1台は、サスペンションのセッティングをツメる。さらに夜のピットインでのピットワークを実地に行ない、問題点を洗い出す。もう1台は、ダンロップとヨコハマの二種のタイヤについて、それぞれ、足の基準仕様を決めることである。

3台がそれぞれのテーマを持ち、24時間を走ってみるためのロングラン・テストは、しかし、14時間、およそ2000㎞を走行したところで中止となった。原因は雨、それも嵐といっていいほどの大雨で、ADACのためのウイングやABSのテストも十分にはできず、24時間の実走もついに果たせなかった。

丸谷のエンジンは、ル・マン走行モードによるベンチテストでは、50時間保つことが確認されている。また燃費についても、当初の目標である2.5㎞/リッターをクリアしただけでなく、そこから大幅に上昇させてあった。

一周が13.6㎞と長いサルテでは、ほんの少し燃費を伸ばしただけでは周回できるラップ数に影響が生じない。もう一周走れるようにするとすれば、数値をゴソッと上げねばならない。丸谷らのエンジン・スタッフは、こと燃費においては、所定の走行回数に対して3周分のマージンを持つまでにエンジンをツメて来ていた。だが、それらを24時間の実走で確認する機会は、このポール・リカールでは、予定半ばで打ち切りとなってしまった。

6月8日のシルバーストンは、その一週間前にシェイクダウンを済ませたばかりの3号機・46号車を中心にしたテストを組んだが、このとき初めてミッションにトラブルが出た。ミッションの内部ではなく、リンケージとコントロール系という周辺のトラブルだった。このシルバーストンでも、あまり走り込めぬままにテストは終わった。

レース前にやるべきことが「100」あるとして、今回はどのくらいやれただろうか。橋本健は考えてみた。やはり、ひいき目に見ても70%くらいだなと橋本は思った。ただ、100%やったつもりでも、100%じゃなかったことがわかるのがレースというものだ。そういう意味では、130%くらい“やり切って”、初めて何とかレースになる。そういう現実を、橋本は何度も身に沁みて知っていた。(ということは、今回は、50%くらいってことになるのか……)

1994年のル・マン24時間レースは、もう目前だった。

(つづく) ──文中敬称略


○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』

この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。
2014年03月22日 イイね!

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦第5章 50パーセント…… part1

ホンダ栃木研究所とクレマー=TCPの合作によるレーシングNSXは、94年の4月に初号機(1台目)が完成し、テストに入った。

このプロジェクトのプロデューサーという立場の橋本健は、テストは何回やったのかという問いに対しては、「えーと、二回と二分の一ってとこかなあ」と答えている。ただ、これは彼自身が参加したものを中心にカウントした場合で、クレマーは、4月15日のスネッタートン・サーキットでの初号機のテストを皮切りに、クルマができあがるたびにシェイクダウンのスケジュールを組み、精力的にテストを消化していた。

そして、より正確にいうと、4月15日にスネッタートンに現われたレーシングNSXは、94年のADAC/GT仕様で、このクルマは同月の19日にはドイツに運ばれ、ニュルブルクリンクでの現地テストをこなしている。

ル・マン用の初号機がサーキットに持ち出されたのは、94年4月28日のスネッタートンが初めてで、以後、5月8日のル・マン・テストデイではこの初号機・47号車が走った。5月17~18日のロングラン・テスト(ポール・リカール)で、2号機・48号車がシェイクダウン。そして6月1日、スネッタートンで3号機・46号車がシェイクダウンされた。また、ル・マンのテストデイには、94ADAC車も姿を見せ、サルテを走った。

こう書くと何やらメチャクチャなようだが、実はそうでもない。なぜなら、車体製作者であるTCPにとっては、ADAC車もル・マン車も同じクルマであり、燃料タンクの容量とリヤウイングが違うだけだからだ。

レーシングNSXというのは、TCPにとっては1タイプしかない。それを、ル・マン用に3台、ADAC用にTカーを含めて2台。計5台を“生産”した。それがTCPの仕事で、その点ではパーフェクトだった。その仕事を現地で見続けていたホンダ栃木の若いエンジニア石坂素章は、「非常に期間を限定されて、なおかつ、結果的にル・マン24時間レースで“走れる”クルマを作ったわけですからね。さすがTCPだと思います」と証言する。

ただし、ル・マンのための3号機、それのシェイクダウンが6月1日というのは、やはり、タイト極まるスケジュールというべきであろう。何しろ、その月の18日には、24時間レースがスタートしてしまうのだから。

ただ、それを言うなら、前年の9月に参戦を決定したことが、既にしてタイトだった。ハードなことは誰もが知っている。だからこそ全速で、このプロジェクトは駆けているのだ。

* 

4月15日、スネッタートンでの初テストは、初号機のドライブシャフト折損から始まった。それは実に見事に折れていた。とりわけ、取り付け部の肉厚が薄く、橋本の目から見ても、ちょっと無理だと思えるような頼りなさだった。

ただ、すぐにTCPに部品を取りに戻り、付け換えて、スネッタートンを20ラップ以上回ることができた。テストドライバーはアーミン・ハーネ。93年のADAC以来、彼はNSXを走らせており、レーシングNSXについて最も身体で知っているドライバーだ。そして、テストに関してはハーネひとりで行なうことも決めていた。このスネッタートン・テストは、初っ端こそ「あれっ!?」というアクシデントはあったが、シェイクダウンとしては順調だった。

そして、後のル・マン・テストデイでも、ドライブシャフトには何の問題もなかった。(やっぱり、ちゃんと対策やってんだなあ)、橋本はドライブシャフトの件は忘れることにした。その程度の初期トラブルに見えた。

さて、ル・マン・プロジェクトの橋本健は、テストのすべてに参加したわけではない。たとえば、レーシングNSXにとっての初めてのロングラン・テストとなる5月のポール・リカールにも行っていない。これは、なぜだろうか。

「だって、任せるってことが必要でしょ。あくまで現場にいる彼らに、その場で判断させて答を出させる。24時間レース、何が起こるかわかんないし──。“どうしましょうか”だけじゃダメですよ。あ、その、出て来た答えが正しかったかどうかっていうのは、また別ですよ。答の正否ウンヌンってことじゃなくって、判断をするっていうこと。これをやってほしいんです」

TCPへの石坂素章単身派遣も、そういう意図だろうか? 「石坂は、それまでエンジンがメイン(の仕事)だったんですけど、今回はトータルなクルマ作りを見てきてほしいということ。ンで、三日四日いただけじゃわからないから、ずっといろ、と。彼は93のADAC(NSX)もやってたし。ともかく、どんな作業をしてるのか、実地で見ろということですね」

「英語力なんていいんですよ。技術的な英語なんて限られてますからね。現場で実物を見てれば、わかってきます。例の、技術屋を二階に上げてハシゴを……っていう(笑)アレですよ。だから、敢えて一人で出した」

「あれで、クルマの開発の“動き方”っていうのかな、それがかなりわかったと思いますよ。(英語を)喋れないのに、トンプソン親爺に晩飯に誘われるのが辛かったって? でも、TCPのエンジン屋でアレックスっていうのと、けっこう仲よくやってたようですからね。きちんとした報告書も書いてるし」「でも、ル・マン(サルテ)に来るのに、あいつ、パリでタクシー拾って、それで来たんだよなあ……(笑)」

(つづく) ──文中敬称略


○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』

この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。
2014年03月19日 イイね!

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦第4章 欧州職人 part2

29歳のエンジニアである石坂素章は、中間の休みを挟んで、3月初旬から、結局はル・マンの実戦終了までをTCPと過ごした。トンプソン親爺とデザイナー、エンジニアが各一人ずつ、そしてラインのスタッフが10名ほど。経理をやっているのがミセス・トンプソンで、彼女を入れても14人しかいないファクトリーがTCPだった。

スプリント用のNSXやシビックEG6の車体を作ったことはあっても、耐久用の車体作りを間近で見るのは、石坂にとっても初めての経験だった。このTCPへの“留学”で驚いた、あるいは感心したことが二つあると石坂は言う。

まず、スプリント用のシャシーならば、剛性はあればあるほどいいはずと考えていたが、こと耐久用となると、どうもそうではない(らしい)ということ。実はヤワでもいい部分というのがあり、それが“ねじれ”を生んでクッションとなり、結果的にシャシーを保たせる。この方法をTCPは知っているようなのだ。

もうひとつは、TCPの周辺にいるパーツ屋たちとの関係である。何と、注文するのに図面が要らないことがあるのだ。「3リッターのV6エンジンで長距離耐久レースをする。クルマはNSX」。こう電話で言っただけで、たとえばラジエターは、何日か後にTCPに届くのであった! 

* 

ドイツとイギリスへの旅から帰った橋本健は、車体作りをTCPに託し、ふたたびエンジニア、あるいはプロデューサーに戻って活動を開始した。

丸谷武志は、石坂がTCPに到着して一週間後に、シャシー搭載用のダミーのエンジンをTCPに送った。これは車体製作の便宜を図るためであり、エンジンと言いつつ、中身は入っていない。

実はエンジンはこの頃、火は入るけれど、なかなか所定のパワーが出ないという状態に陥っていた。量産のブロックそのものを使うことと、軽量化したアルミ・ピストンの信頼性がネックになっていた。

高温になるアルミ・ピストンはどのくらいの寸法があればいいのか。使用するアルミの硬度は? そして形状は? また、ピストンリングの表面処理はどうするのがベストなのか? 

これらのことが課題として、エンジンのスタッフにのしかかっていたと第1研究ブロックのエンジニアの一人は洩らす。

パワーを出すための6連スロットルは、その同調を慎重に合わせないと、Vバンクの片側だけが燃料が薄くなった。そうなるとたちまちノッキングを起こし、ピストンがやられる。

橋本の課題は、サスペンション・ジオメトリーの最終決定。そして、ミッション、ドライブシャフトをどうするかだった。

まずミッションだが、ル・マンを走るのなら、どうしても6速がほしい。しかし、量産NSXの5速を6速化するのはスペース的に無理で、かつ重量が増えすぎるという欠点がある。もっと軽く小さなミッションをということで、シーケンシャルの6速を導入することにして、ヒューランドを選択した。これが最も小さくて、コンパクトだったからだ。

もうひとつのドライブシャフト、これは難物だった。どうすればいいか、橋本自身も経験がない。まずはイギリスのF1パーツを作っているところに頼もうとしたが、一本作るのに2ヵ月かかるという。いま3月だから、それではテストデイに間に合わない。

結局、ミッションを発注したヒューランドに窓口になってもらい、何とか“ホンダ・スケジュール”に間に合わせてくれるメーカーを見つけてもらうことにしたが、このドライブシャフトの件は、このような理由で、橋本からかなり離れたところで、それも橋本の目の届かないかたちで急造されることになった。

エンジニアとしての橋本のル・マン・プロジェクトのうち、この問題が小さな空白となったが、しかし、プロデューサーとしては、物事を先に進めるしかなかった。

車体は4月にはできるという。TCPでプロトタイプの一台を作りあげるのに、約1ヵ月。それが完成すれば、二台目以降の“量産車”は3週間ほどで作れるという報告が石坂から入っている。

そして、ロングラン・テストは最低一回やって、ル・マンのサルテ・サーキットに入りたい。それは、いつにするか。いや、それがいつ、できるのか。エンジンは、どうなっているのだろう? テストには、とにかく間に合わせてほしい。もちろん、この点に関しては、丸谷らスタッフは、その時点でのベストのものを出してくれるはずだ。

そして、クルマとエンジンができても、それを走らせるチームとドライバーがなくては、レーシング・カーは動かない。本番のル・マンには3台のNSXを走らせたい。これについて橋本は、外国人チーム、日本人チーム、そして外国人と日本人の混成チーム、この三種でル・マンに出場したいと企図していた。

ここでもまた、橋本の“国際主義”がほの見える。ホンダがあり、ヨーロッパの技術があり、そしてレースというものを支え続ける欧州の文化がある。それらを互いに融合させたい。もしくは吸収し、また吸収し合いたい。日本人および日本のメーカーが、日の丸のハチマキを締めて外国のレースに「勝ちに」行く。それは、俺のレースじゃない。これはほとんど信念に近い橋本の意志だった。

1994年4月14日。ル・マン24時間レースのちょうど2ヵ月前。レーシングNSXのシャシーと、3リッターV6エンジン(NA)とが合体し、丸谷武志らが作ったレース用エンジンに、クルマに載ったかたちで初めて火が入った。時刻は朝の4時。スネッタートン・サーキットでのNSXシェイクダウン・テストの、その直前だった。

コースがオープンになり、彼らの、ル・マンのためのNSXが初めてレーシング・コースを走ろうと、ピットを後にした。ドライバーはアーミン・ハーネだ。だが数秒後、橋本は思わず声をあげた。「何だ?」

ピットロードの終わりで、NSXは止まっていた。原因は、ドライブシャフトの折損だった。

(つづく) ──文中敬称略


○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』

この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。
2014年03月19日 イイね!

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦

第4章 欧州職人 part1

ケルンにあるクレマーを訪ねたホンダ栃木の二人が持った印象は、期せずして同じようなものだった。自信を持ってる、嘘をついてないという感じ、ホンダと一緒に何かやっていこう、そういう建設的な姿勢がある。妙に威張ったりしてないのは、やっぱり実績と自信のせいだろうね──。橋本健と丸谷武志は、こう語り合いながらドイツを後にして、イギリスへと向かった。時は、1994年の2月だった。

イギリスのノーザンプトンには、TCプロトタイプ(TCP)というファクトリーがある。これがクレマーのパートナーで、そこにNSXのモディファイされたボディがあるはずだった。クレマーは、主にマネージメントを行なう組織であり、実際にレーシング・カーを製作するのはTCPである。つまり、クレマーと仕事をするとは、TCPにモノ作りを頼むということでもある。

ホンダ栃木研究所に、GTカー研究のプロジェクトが発足したのが93年の9月。集まったスタッフに橋本が「これは実は、ル・マンに出るプロジェクトなんだ」と明かす。リサーチ・シャシー=RCと称して、実はオリジナルF1作りをやろうとしたときと同じ作戦だ。

すぐに丸谷による、ル・マンを想定してのエンジン試作が始まり、車体作りはヨーロッパのレーシング・ガレージとジョイントすることが決まる。その相手がクレマーとなり、TCPにNSXのホワイトボディが送られたのが93年暮れだった。それから、およそ1ヵ月後──。TCPでNSXがどうなっているか。プロジェクト・リーダーとエンジン担当者が、こうしてイギリスへやって来たのだ。

めざすTCPは、ノーザンプトンのウィリングローという町、工業団地の中にあった。それはまったくの町工場というか、実に小さな二階建てのファクトリーだった。コンクリート敷きの一階の床には、あちこちに油のシミがあり、工作機械や溶接機が乱雑に置いてある。ただ、カーボンを焼く窯があるのが、かすかにレースの匂いを湛えていると言えた。

出迎えたオヤジが社長のジョン・トンプソンで、その爪の間は真っ黒に汚れ、手にはたくさんの傷があった。ロータスでも仕事をしていた、筋金入りのレース職人である。挨拶もそこそこに、トンプソン親爺は言った。「会議はもういいだろ。オレは仕事をする」。言い終わる間もなく、社長はそれまで自分がしていた仕事に戻り、遠来の客に背を向けた。橋本は、わけもなく嬉しかった。丸谷も笑っていた。手を動かしているのが至福の時だというのは、エンジニアである二人にとっても同じだったからだ。

ホワイトボディの軽量化、その補強の仕方、カーボン・グラスファイバーの使い方。それらはほぼ、橋本のイメージ通りであり、このとき彼は、F1をやっていてよかったなと思ったという。丸谷も、彼らによるNSXのモディファイを見て、これならいいと判断していた。「オレは(任せて)いいと思う」、橋本は言った。丸谷も頷いた。

* 

レーシングNSXの車体作りを行なった英国TCPに、2ヵ月半ほど出張・滞在していたホンダ栃木の若いエンジニアがいる。エンジン試作に所属する石坂素章である。彼の仕事は、名刺に記されたものとは違って、現実的にはレース・グループであり、その担当はエンジンだけでなく車体も含んだ全体に渡っていた。92年に栃木がADAC仕様のレーシングNSXを作ったときのメンバーの一人でもある。

その石坂のTCPでの役割については当人は「ま、人質ですね」と笑うが、しばしば栃木とTCPとの間の情報窓口となり、本業(エンジニア)のほかにマネージメント的な仕事もこなすことになった。たとえば、TCPが、ベース車であるNSXのサスペンション・ジオメトリーを知っておきたいとか、ホワイトボディの剛性のデータがほしいとか、そういうオーダーを唯一の日本人である石坂にしてくるからだ。

一方、フロアをカーボンで作ってボディ剛性を上げたとすると、栃木側は、いかにも研究所らしいオファーだが、「その数値がほしい」と石坂に頼んでくる。これをTCP側にぶつけると、「フム、概ね、xxパーセント相当であろう」といったアバウトな返事しか返って来ず、間に入る石坂を困らせたりした。

TCPには、これまでの活動で得たレース車作りに関するノウハウがあり、ブツ(現物)を見た瞬間に、(あ、これは、こうして……)とさっさと作業が進む。とりわけトンプソン親爺の仕事はやたら早く、やるべきことをすぐに見つけ、それを即、現物でやってしまう。

たとえば、リヤ・サスペンションのアッパーアームの支持部を変更して剛性を上げるというときでは、ひと目見てそのテーマを発見し、その晩のうちに新パーツを作ってしまった。こうして現物ができてしまってから、TCP唯一のデザイナーであるジェフが図面(設計図)を描く。そして、その図面をもとに“量産”へと移る。そういう新パーツの強度の問題にしても、いままでわれわれはこれでやって来たのだからと、仕事は進む。

レーシング・カーの車体作りとは、要は軽量化と剛性の向上に尽きるが、この点について石坂は、橋本からのいくつかのアイデアとともにTCPに行っていた。そして、そのプランは、TCPがNSXのホワイトボディを見て現物で把握したものと、ほぼ同じだった。ただ、フロアはカーボン一枚でいいというのはTCPのアイデアで、これはグループCカーの手法であるという。ポルシェ962Cシャシーを作ってきたクレマー=TCPにとっては、手慣れたモディファイ策の一つであったようだ。

(つづく) ──文中敬称略


○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』

この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。

2014年03月12日 イイね!

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 

第3章 ジョイント part2

ホンダ栃木のル・マン・プロジェクト、そのパートナーはクレマーに決まった。アッケないほど簡単だった。「うまく行くときは、うまく行くもんなんですよ」と、橋本は笑って語る。絶妙のタイミングで、あのクレマーが空いていた。94年のル・マンに関して、まったくの空白だった。クレマー・ポルシェとして、ル・マンに数々の栄光を刻んだチームが、である。

実は1992年に、クレマーはホンダに対して、ひとつのオファーを出していた。折から始まったADACレースをNSXでやりたいのだが、というのだ。このときホンダ側は、その件はもうザイケル・チームとやることに決まっているので……とクレマーを袖にしていた。

話はトントン拍子に進んだ。クレマーとポルシェは、もう何年も前に切れていた。障害は何もなかった。93年の暮れ、NSXのホワイトボディが栃木からクレマーに送られた。

* 

クレマーにホワイトボディが渡る頃、日本でひとつ事態が進行した。ADACレース仕様のNSXでグラビア記事を作った某男性誌の取材に、栃木研究所の技術広報として橋本が対応した。インタビューに応じるうちに、「グループAは300㎞ほどのレースだったが、これからはもっと長距離のレースもやってみたいと思っている。取りあえず、94年の十勝24時間と鈴鹿1000㎞には、NSXで出たい」と発言した。

これに雑誌側が食いつき、「ル・マン」という語はひと言も語られてないにも拘わらず、本誌の推測だがと断わりつつ、長距離・24時間レースというなら、ル・マンを考えていないはずがないとして、それが活字になった。

ホンダ、ついに、ル・マンへ!?

ホンダ内部に、ちょっとした波紋が生じた。橋本にしても、クレマーとのジョイントでハナシが進んでいるのは事実だとしても、まだ契約を取り付けているわけではない。また、クレマーに頼みっぱなしにするつもりもない。そして、このル・マン挑戦騒ぎは、ついに社長・川本信彦の耳に届いてしまった。

ただ、不確定要素があるとはいえ、93年9月からル・マン・プロジェクトが動いていることは事実であり、試作中のエンジンもある。いつ、どのようなタイミングで、ル・マン挑戦を発表するのか。そのことが未定のうちに憶測記事が出てしまったわけだが、事情を知り、栃木でエンジンを見た川本信彦は、あっさりと橋本に言った。「言っちゃえ、言っちゃえ!」

例年1月、ホンダは、その年のモータースポーツ活動の年間計画を内外に発表するが、その時に、ル・マンのことも「言っちゃえ」というのだ。この記者会見の席上で、モーターレクリエーション推進センターの吉村征之が、94年ル・マン24時間レースを中心とする長距離レースにも、「エンジンをはじめとする技術供与の用意がある」と発言し、ホンダがル・マンに関わっていることが、初めて公式に明らかにされた。

川本には、こうした橋本らの行動は、むしろ嬉しいことだった。若い技術者が自身のモチベーションで何かコトを起こす。これは大歓迎だった。「オレもF1やってた頃は、アンダーグラウンドで、随分いろいろ勝手なことをやってたものな……」。記者会見で、栃木でエンジンを見せられたときのことを思い出しながら、川本は頬を緩めた。

* 

最終的には、見てから決めたい。こう考えていた二人の技術者、橋本健と丸谷武志は、94年の2月始めにヨーロッパに飛んだ。まずドイツのクレマーへ。そして、車体の製作を実際に行なうファクトリー、TCプロトタイプ(TCP)のあるイギリスへという旅である。

「見る」とは、まずは依頼する側として、彼らの仕事ぶりを確認したいということがあるが、同時に、NSXをレーシング・カーに仕立てるのに、どういう“料理”をしているのか。これを自分自身の目で見たいという強い興味があった。橋本自身も、NSXのモディファイについては、軽量化の問題やサスペンションのジオメトリーなどについて、栃木で「いじっては壊して」いた中から獲得した、いくつかのプランを持っていた。

軽い緊張と、エンジニアとしての期待とともに、橋本と丸谷はケルン郊外のクレマーの建物前に立った。イメージしていたよりもずっと、こぢんまりとしており、ガレージも狭そうだった。「橋本さん、あれ……」。丸谷が腕をつついて、上方を指差した。その指の先にある看板は、かつて“クレマー・ポルシェ”と描かれていたであろう“ポルシェ”の部分が、すでに「HONDA」になっていた。

(つづく) ──文中敬称略


○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』

この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。
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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
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