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家村浩明のブログ一覧

2014年03月12日 イイね!

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 第3章 ジョイント part1

1993年9月、NSXによるル・マン24時間レースへの参戦がホンダ栃木研究所内で決定された。橋本健は「まず、エンジンだな」と、エンジン担当の“盟友”丸谷武志にル・マン用エンジンの製作を依頼した。「1ヵ月経ったら、報告します」と丸谷は言い残し、第1研究ブロック、通称「1研」の仕事場に戻った。

NSXでル・マンに出る。この決定は、いずれは出る、もしくは数年後の参戦も考えるというのではなかった。すぐに出る。つまり、94年のレースに出場する。そういう決定である。なぜ、十分な時間的余裕を取ろうとしなかったのだろうか。橋本は言う。「冷めちゃうのが怖かった。来年はもう諦めて、じゃ95年にしよう。それだと、中だるみが来ちゃうんじゃないか。スタッフのテンション(の高さ)を切りたくなかった」

レーシング・ドライバー高橋国光が栃木の研究所内で見たエンジンとは、この決定からおよそ1ヵ月後の試作エンジンということになる。来年、もっと正確にいえば7ヵ月後のレースのためのものであるというホンダ側の言葉を、国光は、半信半疑というよりほとんど信じていなかった。

このときの試作エンジンには、ターボ装着仕様も含まれていたはずである。ターボを付けてのGT-1クラスか、それともNAのままGT-2クラスでの参戦とするのか。デイトナ24時間レースのエンジンを作った丸谷のテストには、この点で結論を出すことも含まれていた。ターボ仕様なら650馬力、NAでも450馬力は出る。これが橋本の読みだ。

エンジンに関しての丸谷の報告は遅れた。橋本が焦れはじめた頃、ようやく丸谷は結論を出した。もう、93年の11月だった。「ターボはダメです」

「耐久レースで壊れるところって、たいてい過給器と足回りなんですよ」と丸谷は言う。だからこそ、テストのための時間がほしいが、今回は、そのための時間はありそうにない。とりわけ電機系の制御がむずかしくなり、未知のファクターが増えすぎる。それと、熱の問題がある。3月のデイトナは涼しいが、6月のル・マンは、年によってはけっこう暑いことがある。ターボはむずかしい。これが丸谷の判断だった。

* 

こうしてル・マン参戦プロジェクトのうちのエンジンが決定し、それと同時に参加クラスも決まった。ただし、デイトナと違ってル・マンは、量産しているエンジンブロックそのものを使わなければならない。また、シリンダーヘッドについても、まったく同じ制約がある。

市販NSXに載っているエンジンは280馬力。これをチューンして、少なくとも450馬力は発揮させねばならない。パーツとして変更していいのはピストンだけだ。丸谷の課題が定まった。

まず、吸気系を6連スロットルにする。圧縮比を12対1に上げる。カムシャフトはVTECの高速用のみを使う。そして、排気系をチューニングする。46㎜径のリストリクターを付けなければならないので、以上のリファインをベースに、再度調整する。トルク特性としては、6000~8000回転付近をふくらませ、吸気制限によってパワーがある限界を迎えてしまうことへの対処とする。

エンジン屋の地道なテスト漬けの日々が始まった。量産のシリンダーブロックを使って、レーシング・エンジンを作る。カギはピストンだった。また、ピットストップの回数を少しでも減らすためには好燃費が望ましい。アルミ・ピストンはさらに軽量化され、そこから混合気を薄くするトライが行なわれた。アルミニウムは200度を超えると急速にモロくなる。軽量ピストンはしばしばクラックが入り、丸谷を悩ませた。

そして、燃費は2.5㎞/リッターをクリアしたい。こうしておけば、一周が長いサルテ・サーキットでもラクに21ラップはできる。燃費でのピットインではなく、ドライバー交代を優先してのレースをしたい。ドライバーが周回数を決めてほしい。これがエンジン屋・丸谷の願いだった。

耐久レースでは、何よりエンジンだけは絶対に壊れてはいけない。丸谷武志はこう考えている。曲がった足なら、交換できる。しかしエンジンの、とりわけその内部についてのトラブルは、即リタイヤにつながるからである。

* 

丸谷が作るそういうエンジンを積む車体の方は、どうしたらいいだろうか。24時間レースに耐えるシャシー&ボディも、実は影もかたちもない。93年秋時点での、これが現状だった。

ル・マン参戦プロジェクトで、エンジンは丸谷、そして車体は瀧敬之介に動いてもらう。これが“プロデューサー”橋本の目論見だったが、その瀧から、ちょっと無理だという返事が橋本に返ってきた。時間的な問題もさることながら、瀧は、例のオリジナルF1を作るRCプロジェクトで手一杯だったのだ。

よし、わかった。橋本は、すばやく決断した。向こう(ヨーロッパ)の技術に触れてみよう。そもそもル・マンを走りきれるような車体というのは、ホンダ栃木にとって未知のものだ。
(わからないなら、わからないなりに、素直になるべきだ)
つまり、シャシー&ボディ作りはヨーロッパの経験のある連中にやってもらう。その車体と、丸谷のエンジンを組み合わせる。

橋本は“ホンダ以外”の人々と一緒にレースをすることに、まったく抵抗がない。いや、むしろ積極的にジョイントを望んでいるところがある。デイトナ=IMSAにしても、アメリカのレース屋と栃木のエンジン技術の組み合わせだ。よし、今度はヨーロッパのレース屋さんのどこかとやってみよう!

オレの動ける範囲で動くからと、橋本はさっそくヨーロッパ・ホンダに電話を入れた。ドイツ研究所には、レジェンドを担当した旧知の三好建臣がいる。
「ル・マン(参戦を)考えてんだけど、どっかガレージないかなあ」

いつのル・マンだ、何、来年? 冗談はよせ!……とならないのは、これはもう社風というものであろう。橋本はこのとき、できれば英語の通じるところがいいなあ、ドイツは人件費高いし、そうするとイギリスかなあ……と、三好に対して、それとない条件まで出している。「じゃ、ちょっとヨーロッパ人に聞いてみるよ」。三好は、こう言って電話を切った。

(つづく) ──文中敬称略


○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』

この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。
2014年02月11日 イイね!

Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 

第2章 未知 part2

「あのねえ、どっかのサーキットの立ち話で決まったんですよ。ええ、グループA。だから、日本のサーキットです。おい、やるぞって……。橋本さんとはよく話をしてましたからね。私もレギュレーション見て、いけるね、やるべしと思ってましたから。ハハハ(笑)、ウチはよく大きなことが立ち話で決まるんですよ」(丸谷武志)

「ああ、丸谷にだけは、ちょくちょく話はしてましたね。どこのサーキットか? 覚えてないなあ、西仙台かなあ……」(橋本健)

1993年の7月末に、94年ル・マン24時間レースのレギュレーションが発表された。これを読んだホンダ栃木の二人のエンジニアは「GT」というカテゴリーに注目した。あくまでも市販車ベースのレーシングカーで24時間を走る。そういうレースがあるのだ。

「市販車で耐久っていうのが、やはりわれわれにとっては、理想のかたちだと思います。品質と耐久性が試されるわけですから」と、丸谷はメーカーのエンジニアとしての意見を述べる。橋本も、われわれの作ったものはどこまで来てるのかを知りたいという言い方を、よくする。

ル・マンを“聖化”して、だからル・マンへというのではない。たまたま好適なレースとして、ル・マンがあったということなのだ。何にとって適しているかというと、彼らのNSXにとってである。NSXが活かせる場、そのために、94年のル・マンが選ばれていた。

しかし、その参戦決定がなされたのは93年の9月である。ホンダ社内でも、驚かなかったのは丸谷だけだった。ル・マンが「6月」だというのは、誰にも変えられない。参戦決定から実戦まで、実質何ヵ月あるのだろうか。丸谷にしても、ル・マン参戦はいいとして、すぐ翌年にというのはちょっと意外だった。「でも、できるできないじゃなくって、やらなくちゃいけないんですよ」(丸谷武志)

* 

「驚いたどころじゃなくて、何か、信じられなかったよね……」
特有の笑顔で、ていねいに語る人がいる。レーシング・ドライバーの高橋国光である。彼は93年の10月に、栃木でエンジンを見ていた。3リッターV6のレーシング・エンジンがいくつか、ベンチに掛かってテストを受けている。

メーカーのファクトリーで、開発中のエンジンを“乗り手”として見せてもらう。この経験は国光にとって、二輪ライダーの時以来だった。
「あの頃は白子で、規模はまったく違ったけど、これが《RC161》のエンジンだよとかいって、見せてもらったなあ!」

ちょうど、この10月。高橋国光は、土屋圭市、飯田章の三人で、日光サーキットで走行会に出席して、飯田章という若いドライバーに好感を持っていたところだった。土屋圭市とは周知の通りに、92年のグループAレースからのパートナーである。
「圭ちゃん一人じゃなくて、章君が加わって三人でしょう。そうすると、ヨーロッパあたりで何かできるかなあ、なんて思ってたのね」

三人で何かやれたらいいなと高橋国光はイメージし、そこにベンチテストで回っているル・マン用(?)のエンジンがある。それはすでに、400馬力以上出ているという。丸谷は国光に、「松・竹・梅の三種類あるんですけど、どれにします?」と笑いかけた。チューニングの違いでいくつかのエンジンを作って回しつつ、丸谷は答を探っていた。

NSXという素材があり、チームメイトもできて、こうしてエンジンが目の前で回っている。そして、高橋国光は、ル・マン24時間というレースがとても好きである。欧州で何かできるかもしれないというとき、このすばらしい耐久レースを国光が想起していたのは言うまでもない。

でも、もし可能性があるにせよ、どんなに早くても95年以降だなと、国光は思っていた。あくまで、やれるかもしれないなという話であり、エンジンがテストされているというだけで、クルマなんかどこにもないのだ。

「それが、狙いは来年のル・マンだっていうんでしょ。驚くも何も……(笑)。いや、ぼく、他のメーカーも知らないわけじゃないけど、これは、ホンダ以外のメーカーじゃ、もう、絶対に考えられない」(高橋国光)

(つづく) ──文中敬称略


○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』

この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。
2014年02月11日 イイね!

Le Mans へ……1994レーシングNSXの挑戦

Le Mans へ……1994レーシングNSXの挑戦第2章 未知 part1

なぜ「ル・マン」なのか? たとえばデイトナとかニュルブルクリンクではなく、どうしてル・マンなのか? この問いかけに対するホンダ・橋本健の答は、割りとあっさりしたものである。「ル・マン? まったく知らないレースだから」というのだ。

デイトナの24時間レースは、アメリカ勤務時代に観戦したことがあり、ニュルはNSXを仕上げるのに散々走り回った。レースと市販車のテストは違うとはいえ、取りあえず、どんなコースかくらいはわかっている。

しかしル・マンだけは、本当に何も知らない。コースのレイアウトすらわからないのだ。だから、やってみる! 

こういう決断に、ホンダ・スピリットとか、「マン島」にほとんど“無”のまま挑戦しに行ったホンダ創業者、故・本田宗一郎の精神を見るといった想像をめぐらせるのは、ちょっと楽しいことだ。

ただ、ル・マンに関しては、たしかに無だったかもしれないが、しかし、レースに対しては90年代のホンダ・マンは、最早、50年代マン島時代のようなグリーンボーイではない。「一番知らないレースだから、やってみたかった」という橋本の発言は、ある一面を語っているにすぎないのだ。

* 

「別に突然じゃないですよ。だって、デイトナだってやってましたからね」
こう言って、“無からの挑戦”をはっきりと否定するのは、ホンダ栃木でエンジン作りをやってきた丸谷武志である。

「レースは“補給戦”ですからね。いつも考えて、いつもやってないと──。急に思いついてできるものじゃありません」

レースは、技術の補給競争である。これは、闘ったことのあるエンジニアでないと言えない科白だ。

闘いといえば、丸谷には、こんな技術的挑戦の経験があった。それは、NA(自然吸気)でリッターあたりの出力100馬力を出せという社命との闘いだった。1.6リッターなら160ps。そのとき丸谷とそのスタッフはVTEC=可変バルブタイミング機構というワザを開発して、社命に応えた。そのエンジンの搭載車は初代インテグラ。このときクルマの総合評価をしたのが走行実験を担当する通称「7研」で、そのチーフが橋本だった。

また市販NSXは、企画の当初にはVTECエンジンを搭載する予定はなかったが、インテグラなどでの実績をもとに、ホンダの最高のスポーツカーであるNSXにも搭載すべしという声があがり、丸谷が呼ばれた。

NSXの開発と研究には、コンセプトの段階から橋本健が足や空力やボディ剛性などの面で深く関わり、エンジンの最後のまとめのところで、丸谷武志が大きな仕事をした。また橋本にしても、いきなりミッドシップ車に関わったわけではなく、シティをミッドシップ化してみたり、CR-Xのアンダーフロアを変更して後輪駆動にしてみたりというような研究を地道に積み重ねていた。そんな研究期間は7年間に及ぶ。

「ル・マン参戦については、たしかに時間はなかった。でも、唐突に思いついたことじゃない」。丸谷武志は、もう一度言った。

* 

NSXは1990年9月に市販が開始された。新型車開発という仕事は、普通はこれで終わる。次期型が企画され始めるし、スタッフも散る。メーカーの開発スタッフにとってのニューモデルとは、出現した瞬間に、いわば旧型になるのだ。

しかし、NSXはそうではなかった。これをどうするか。これで何ができるのか。ひとつの方向はバージョンの拡大であり、これは後に「NSX-R」として世に出ることになる。

もうひとつは、NSXカスタマーやユーザーとの“交信”だった。このクルマを持つ喜びを分かち合いたい。お客さんに、持っててよかったと思ってほしい。あるいは作り手としては、NSXに盛った技術をカスタマーにわかってほしい。

そして、橋本らスタッフが作りたくてたまらなかった純スポーツカーは、一応、あのニュルを克服した。次はレースだな……! NSXに関わったすべてのメンバーがこうイメージし、市販後のNSXは静かに、しかし急速に、レーシング・フィールドへの接近を始める。

橋本は栃木研究所内で、例の「エンジニアは身近にテスト材料を常に置いておきたい」という論理を実践し始めていた。市販NSXの、ドア一枚分のライニングの重さはどのくらいか。シートをレース用に換えると、何キロ軽くなるのか。エンジンは、これくらい“やる”と何馬力くらいになるのか。橋本はこの頃、NSXを「いじっては壊してた」と述懐する。

ただ、「スポーツカーNSX」への反応は、海外の方がずっと早かった。スポーツカーがあるのなら、サーキットへ持ち出してみる。これは理屈抜きの当然のリアクッションだった。

まず、ヨーロッパ・ホンダがドイツのADACレースというカテゴリーを見つけ、栃木に「やりたい」と言ってきた。パワー・ウェイト・レシオでクラス分けするという「公平な」レギュレーションで、かつ燃料タンク容量に制限があり、燃費もよくなければフィニッシュできない。そして、あくまでも市販車・改。このレースに、地元ドイツのザイケルがNSXで参戦したいとジョイントを求めてきたのだ。

一方アメリカでは、IMSAでさっそくNSX(のエンジン)が走りはじめた。キャメル・ライトというカテゴリーで、これにホンダ栃木はエンジン・サプライヤーとして協力し、24時間のレース(デイトナ)も経験した。そして94年まで、3年連続してキャメル・ライトのチャンプとなった。「ぼくはスプリント・レースより耐久レースの方がずっと好き」という丸谷が、エンジン屋としてデイトナを闘った。橋本は、そのことを知っていた。

(IMSA仕様で、あのエンジンは450馬力は出てるよな。24時間レースもやれたよな)
(ところで、94年ル・マンのレギュレーションって、どんなの?)

1993年の2月頃、橋本健は初めて、ル・マン24時間レースのことを考えた。同時に、組織の中のマネージャーとして、人のこと、おカネのことも考えた。何かをしようとして、たとえば何人くらいをそのプロジェクトに使っても、会社として支障がないか。いま、どういう人の動きになっているかなどを読んだ。ただ、何かのレースのために“プロトタイプ”を作ろうという意志は、橋本にはまったくなかった。それはオレのやりたいこととは違う、橋本は思った。

(つづく) ──文中敬称略 


○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』

この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。

2014年02月08日 イイね!

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦第1章 ニュルブルクリンク part2

このニュル体験を踏まえて、橋本健は二つの大きな仕事をしている。まず、「道がクルマを作る」という定理を橋本はニュルで発見した。そうすると、クルマを作るためには道が必要だということになる。そこから橋本が何をしたかというと、何と、テストコース(道)を作ってしまったのである。

この発想の柔軟さと壮大さはちょっと並みじゃない。1993年、北海道の鷹栖に、そのテストコース(のニュルを手本にした部分)は完成した。このコースは、いまだ外部には公開されていない。理由は、うっかり走ると危険だからである。百数十キロの時速でクルマはジャンプし、そして、着地しながら曲がることが求められるともいわれる。一説では、その過酷さはニュル以上!

なぜ、テストコースまでも、と問われた橋本の答がおもしろい。
「エンジニアというのは、テストするブツというのは、絶えず自分の身近に置いておきたいと思うんですよ」

コースの設計は、橋本自身が行なった。そして、経年変化でコースがどんなに荒れてきても、絶対に放っておくつもりでいる。なぜなら、ニュルがそうなっているからだ。1993年、NSXにバージョン追加された「タイプR」は、このコースでのテストを経て生まれたモデルである。

もう一つの橋本の大きな仕事というのは、シャシー研究をもっと深めること。そのためのプロジェクトの企画と運営だった。リサーチ・シャシー、つまり「RC」プロジェクト。ただし、これを思いついたときから、橋本の中では“R”は「レーシング」だった。

シャシーを研究するには、シャシーそのものを動かしたい。ボディも足もシンプルなシャシーそのものの「動体」がほしい。それにはレーシング・カーが適切で、それもフォーミュラしかないと、橋本は始めから決めていた。それがホンダ製のF1があると後に噂になり、94年になって公開されたオリジナルのF1マシン「RC」である。

シャシー研究という名目で集まってきたホンダ栃木研究所の25人の有志は、橋本が、このプロジェクトは「実はF1を作るんだ」と宣言したとき、十分間くらい全員が沈黙したといわれる。

誰もやったことがない仕事。しかも橋本は、すべてのスタッフに、それまで彼らがやってなかった分野の仕事を割り当てた。全員がゼロ・スタートで、F1のシャシーを作る。この破天荒な実験は、一年余りの後に、実際にオリジナルF1を生み出すに至る。テストドライバーは橋本自身だった。

このF1作りは、車体の剛性とサスペンション・ジオメトリーについて、それまでになかったレベルのデータをホンダにもたらすことになる。

技術屋をハシゴを懸けて二階へ追いやる。そしてハシゴを取り去り、さらに下から火をつける! こうすれば、技術屋(エンジニア)は何かを生み出す。ホンダ内部での、こんなジョークがある。橋本は時々、自分で二階へ駆け上がって、ハシゴを蹴落とすようだ。でも、そんな熱っぽさを生んだのも、すべてはニュルでの、あの“真っ白体験”の故かもしれない。

* 

ニュルのホンダの納屋には、事務所らしく大きな白板が一つ置いてあった。NSXのモディファイに少しずつ光明が見えてきた頃、たまたま独りでその白板の前にいた橋本は、何となく落書きを始めていた。
「ニュル24H、スパ24H、ル・マン24H……。セブリング12H、デイトナ24H……」
書きながら、橋本は、耐久レースって結構あるんだなあと思った。と同時に、何かおもしろいことないかなとイメージしている自分にも気づいた。

1987年頃から、橋本はメーカーのエンジニアとして、レースのサポートを始めていたのだ。レースというフィールドでは、エンジニアとして、やってみたことの答がすぐに出て来る。レスポンスが早い。そのおもしろさに、橋本はすでに魅せられていた。ウイングをこうしたら、きっとこうなる。走らせる。その通りになる。そういうエンジニアとしての喜びである。

さらに橋本は、そのレベルから一歩踏み出していた。エンジニアとしてやったことが、タイム差やらドライバーの言葉やらによって返ってくる。それで十分におもしろいのだが、自分で乗ると、もっとよくわかるのではないかと思ったのだ。走ってみた橋本は、また一つ世界を拡げた。
(そうか、ドライバーの言っていたことって、こういうことだったのか!)

つまり橋本健は、レース・ファンであり、それも参加者側で、しかも技術とイマジネーションを持ったエンジニアであるという稀な立場になっていた。そしてパワーだけでは速くは走れないことを身をもって知り、いっそうシャシーへの関心を高めていたそんな時期だった。

白板を置いてある事務所の中に、スタッフたちが戻ってきた。
「橋本さん、何書いてんですかぁ」
「ニュル、スパ、ル・マン……、あれ、みんなレースだ」
「どうしたんですか、これ」

NSXは、ホンダが初めて世に問うスーパースポーツになるはずのモデルだが、それを買ってくれた人々に何かをお返しして、同時に、何かを共有できるような、そんなことってできないだろうか。こんな考えが生まれていた頃だった。

デイトナ24時間は、アメリカに出張・滞在中に一ファンとして見に行ったことがあった。レースを楽しむという風土の中でも、アメリカは特別だった。陽気で明るい連中は、レースを真からエンジョイする術を知っており、それは羨ましいほどだった。

しかし橋本は、この中で自分が最も知らないレースってどれだろうかと、ふと思ってみた。名前の割りには、橋本にとってまったく未知のレース、それがル・マンだった。

(つづく) ──文中敬称略


○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』

この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。
2014年01月31日 イイね!

Le Mans へ……1994レーシングNSXの挑戦

Le Mans へ……1994レーシングNSXの挑戦
第1章 ニュルブルクリンク part1 


パリから南西へ、およそ200キロ。ル・マン市のサルテ・サーキットは、毎年6月に壮大な祭りの季節を迎える。ル・マン24時間耐久レースである。

1994年6月18日、土曜日、午後4時。そのサルテ・サーキットに3台のNSXが並んだとき、ホンダ栃木研究所の橋本健は不思議に冷静だった。
(あ、並んだな。これで、レースが始まるんだな)
ホンダNSXを駆る3チームの総監督として、これから先、恐ろしく長い24時間が始まることにまだ気づいていないし、そもそも24時間レースなんて、やったこともないのだ。

しかし、ともかく“彼のNSX”は、いまル・マンにいる。これから、レースを闘おうとしている。この現実に至るまでの長い時間を考えれば、24時間はあまりにも短い。橋本がこうイメージしていたとしても、それは誰にも責められないだろう。まだル・マンは、あるいは24時間レースという怪物は、どのエントラントに対しても牙を剥いていないのだ。

いや、ようやくスタートにこぎつけたことに感慨を持てるほどヒマじゃない。こう見る方が正解なのかもしれない。この半年余り、エンジニアとしてヒートアップしたまま、冷めるときもなく、94年の6月はやって来た。
(一年延ばしたくない、やっぱり、94年のル・マンには出る!)
こうして駆けつづけたのが、この半年だった。

そしていま、NSXはこうしてサルテにいる。これはやっぱり、あの時から決まっていたのだ。もし橋本健が、これから始まる24時間のことでなく、ちょっと過去を振り返る気になったら、同じヨーロッパの空の下での、もう一つのサーキットでの苦闘を思い出したことだろう。そのサーキットの名はニュルブルクリンク。

NSXとニュル。この遭遇が、ここ何年かの橋本の仕事を決定したと言って決して過言ではない。そもそも、NSXというクルマがニュルなしには生まれなかった。そして、NSXがなければ、ル・マンも何もなかった。すべては、ニュルから始まったのだ──。



「何でだよ!?」
思わず橋本健は、口を尖らせて叫んだ。何でダメなんだ、何で走れないんだ? スタッフも同じだった。ダメなことだけはわかった。でも、どこがダメなのかは見えなかった。

時は1989年の春。ニュルブルクリンク・オールドコースのピット。走れないとされたクルマは「NSX」だった。

……「ニュル」は不思議なサーキットである。NSXを走らせる前に、橋本をはじめとするテスト・スタッフは二日間の練習日を設けた。そして、初めてのサーキットを市販のプレリュードで走った。それは、何でもなかった。
(何だ、言われるほどの道じゃあないな。大したことないや!)
橋本自身も、そう思った。しかし、プレリュードではなくNSXで走りはじめたとき、ニュルは一転して、別のサーキットであるかのような様相を呈したのである。

2リッター級4気筒のスポーツクーペと、3リッターV6の純スポーツカー。この両車では、メーター読みでたった40km/hしか走行速度は違わない。しかし、その40キロ差がもたらすものが凄いのだ。車速が上がった途端、いきなり、ボディがよじれ始める。クルマが空を飛び始める。「G」が横方向だけでなく、縦にも斜めにもかかる。車体は浮き、ハネるが、それが予測不可能なため、ドライビングしてるという感じにならない。どう浮くかわからないのだから、どう落ちるかはさらに読めない。
「何なんだよ、これは!」
橋本健は、ふたたび呻いた。

そもそもこのNSXは、栃木研究所で、一応十分に仕上げてきたつもりだった。フェラーリにも乗った、ポルシェも攻めてみた。その上で、NSXもテストした。ホンダ初の本格スポーツカーNSXは、そういうテストで、先輩たちと較べてもまったく遜色なかったし、優れている部分さえあった。これはイケる! そうした自信のもとに、ニュルへやって来たのだ。ニュル体験はスポーツカーNSXにとって、その仕上げの、ほんの終章のつもりだった。ニュルも走っておこうよ! その程度のノリだった。

だがニュルブルクリンク(オールドコース)は、終章どころか、きみたちのNSXは序章にすら達していないと、橋本らに対して白紙宣言をしたのである

世の中には、恐ろしい道があるのだ。橋本は心の底からそう思った。井の中の蛙だったと認識した。このクルマではニュルは走れない。

そういえば、鈴鹿サーキットでも何度もテストしたし、あのアイルトン・セナに乗ってもらったこともあった。セナは言った、「剛性がないね」。そうだろうか? セナだからじゃないのか? そう思っていたこともあった。でも、そうではなかった。セナでなくても、誰が走っても、ここニュルではダメなんだ。そのことを、セナは言っていたのだ。

世の中、こんな道もあるんだよ──。ニュルは静かに、橋本に課題を突きつけていた。そして橋本は、ニュルですらこうなんだと、その課題を置き換えていた。じゃあ広い世の中、もっとクルマにとって過酷な道だってあるかもしれない、と。

ともかく最低限、ニュルを征服しなきゃあダメだ。ホンダのスタッフは、コース脇の納屋を借り切り、そこを臨時のファクトリーとした。そしてそれは、何でもやってみる工場となった。ここを補強したら、ボディの剛性はどうなるのか。サスペンションのジオメトリーをこういじると、クルマはどう変わるのか。板金もやったし、溶接もやった。そしてコースに出て、また補強した。ニュルを走れるNSXを作りあげるまでは、ここから帰れなかった

(つづく) ──文中敬称略


○解説:『 Le Mans へ……1994レーシングNSXの挑戦 』
この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』の再録です。本文の無断転載を禁じます。
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家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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