
第2章 未知 part1
なぜ「ル・マン」なのか? たとえばデイトナとかニュルブルクリンクではなく、どうしてル・マンなのか? この問いかけに対するホンダ・橋本健の答は、割りとあっさりしたものである。「ル・マン? まったく知らないレースだから」というのだ。
デイトナの24時間レースは、アメリカ勤務時代に観戦したことがあり、ニュルはNSXを仕上げるのに散々走り回った。レースと市販車のテストは違うとはいえ、取りあえず、どんなコースかくらいはわかっている。
しかしル・マンだけは、本当に何も知らない。コースのレイアウトすらわからないのだ。だから、やってみる!
こういう決断に、ホンダ・スピリットとか、「マン島」にほとんど“無”のまま挑戦しに行ったホンダ創業者、故・本田宗一郎の精神を見るといった想像をめぐらせるのは、ちょっと楽しいことだ。
ただ、ル・マンに関しては、たしかに無だったかもしれないが、しかし、レースに対しては90年代のホンダ・マンは、最早、50年代マン島時代のようなグリーンボーイではない。「一番知らないレースだから、やってみたかった」という橋本の発言は、ある一面を語っているにすぎないのだ。
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「別に突然じゃないですよ。だって、デイトナだってやってましたからね」
こう言って、“無からの挑戦”をはっきりと否定するのは、ホンダ栃木でエンジン作りをやってきた丸谷武志である。
「レースは“補給戦”ですからね。いつも考えて、いつもやってないと──。急に思いついてできるものじゃありません」
レースは、技術の補給競争である。これは、闘ったことのあるエンジニアでないと言えない科白だ。
闘いといえば、丸谷には、こんな技術的挑戦の経験があった。それは、NA(自然吸気)でリッターあたりの出力100馬力を出せという社命との闘いだった。1.6リッターなら160ps。そのとき丸谷とそのスタッフはVTEC=可変バルブタイミング機構というワザを開発して、社命に応えた。そのエンジンの搭載車は初代インテグラ。このときクルマの総合評価をしたのが走行実験を担当する通称「7研」で、そのチーフが橋本だった。
また市販NSXは、企画の当初にはVTECエンジンを搭載する予定はなかったが、インテグラなどでの実績をもとに、ホンダの最高のスポーツカーであるNSXにも搭載すべしという声があがり、丸谷が呼ばれた。
NSXの開発と研究には、コンセプトの段階から橋本健が足や空力やボディ剛性などの面で深く関わり、エンジンの最後のまとめのところで、丸谷武志が大きな仕事をした。また橋本にしても、いきなりミッドシップ車に関わったわけではなく、シティをミッドシップ化してみたり、CR-Xのアンダーフロアを変更して後輪駆動にしてみたりというような研究を地道に積み重ねていた。そんな研究期間は7年間に及ぶ。
「ル・マン参戦については、たしかに時間はなかった。でも、唐突に思いついたことじゃない」。丸谷武志は、もう一度言った。
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NSXは1990年9月に市販が開始された。新型車開発という仕事は、普通はこれで終わる。次期型が企画され始めるし、スタッフも散る。メーカーの開発スタッフにとってのニューモデルとは、出現した瞬間に、いわば旧型になるのだ。
しかし、NSXはそうではなかった。これをどうするか。これで何ができるのか。ひとつの方向はバージョンの拡大であり、これは後に「NSX-R」として世に出ることになる。
もうひとつは、NSXカスタマーやユーザーとの“交信”だった。このクルマを持つ喜びを分かち合いたい。お客さんに、持っててよかったと思ってほしい。あるいは作り手としては、NSXに盛った技術をカスタマーにわかってほしい。
そして、橋本らスタッフが作りたくてたまらなかった純スポーツカーは、一応、あのニュルを克服した。次はレースだな……! NSXに関わったすべてのメンバーがこうイメージし、市販後のNSXは静かに、しかし急速に、レーシング・フィールドへの接近を始める。
橋本は栃木研究所内で、例の「エンジニアは身近にテスト材料を常に置いておきたい」という論理を実践し始めていた。市販NSXの、ドア一枚分のライニングの重さはどのくらいか。シートをレース用に換えると、何キロ軽くなるのか。エンジンは、これくらい“やる”と何馬力くらいになるのか。橋本はこの頃、NSXを「いじっては壊してた」と述懐する。
ただ、「スポーツカーNSX」への反応は、海外の方がずっと早かった。スポーツカーがあるのなら、サーキットへ持ち出してみる。これは理屈抜きの当然のリアクッションだった。
まず、ヨーロッパ・ホンダがドイツのADACレースというカテゴリーを見つけ、栃木に「やりたい」と言ってきた。パワー・ウェイト・レシオでクラス分けするという「公平な」レギュレーションで、かつ燃料タンク容量に制限があり、燃費もよくなければフィニッシュできない。そして、あくまでも市販車・改。このレースに、地元ドイツのザイケルがNSXで参戦したいとジョイントを求めてきたのだ。
一方アメリカでは、IMSAでさっそくNSX(のエンジン)が走りはじめた。キャメル・ライトというカテゴリーで、これにホンダ栃木はエンジン・サプライヤーとして協力し、24時間のレース(デイトナ)も経験した。そして94年まで、3年連続してキャメル・ライトのチャンプとなった。「ぼくはスプリント・レースより耐久レースの方がずっと好き」という丸谷が、エンジン屋としてデイトナを闘った。橋本は、そのことを知っていた。
(IMSA仕様で、あのエンジンは450馬力は出てるよな。24時間レースもやれたよな)
(ところで、94年ル・マンのレギュレーションって、どんなの?)
1993年の2月頃、橋本健は初めて、ル・マン24時間レースのことを考えた。同時に、組織の中のマネージャーとして、人のこと、おカネのことも考えた。何かをしようとして、たとえば何人くらいをそのプロジェクトに使っても、会社として支障がないか。いま、どういう人の動きになっているかなどを読んだ。ただ、何かのレースのために“プロトタイプ”を作ろうという意志は、橋本にはまったくなかった。それはオレのやりたいこととは違う、橋本は思った。
(つづく) ──文中敬称略
○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』
この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。