2014年02月11日
Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦
Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦
第2章 未知 part2
「あのねえ、どっかのサーキットの立ち話で決まったんですよ。ええ、グループA。だから、日本のサーキットです。おい、やるぞって……。橋本さんとはよく話をしてましたからね。私もレギュレーション見て、いけるね、やるべしと思ってましたから。ハハハ(笑)、ウチはよく大きなことが立ち話で決まるんですよ」(丸谷武志)
「ああ、丸谷にだけは、ちょくちょく話はしてましたね。どこのサーキットか? 覚えてないなあ、西仙台かなあ……」(橋本健)
1993年の7月末に、94年ル・マン24時間レースのレギュレーションが発表された。これを読んだホンダ栃木の二人のエンジニアは「GT」というカテゴリーに注目した。あくまでも市販車ベースのレーシングカーで24時間を走る。そういうレースがあるのだ。
「市販車で耐久っていうのが、やはりわれわれにとっては、理想のかたちだと思います。品質と耐久性が試されるわけですから」と、丸谷はメーカーのエンジニアとしての意見を述べる。橋本も、われわれの作ったものはどこまで来てるのかを知りたいという言い方を、よくする。
ル・マンを“聖化”して、だからル・マンへというのではない。たまたま好適なレースとして、ル・マンがあったということなのだ。何にとって適しているかというと、彼らのNSXにとってである。NSXが活かせる場、そのために、94年のル・マンが選ばれていた。
しかし、その参戦決定がなされたのは93年の9月である。ホンダ社内でも、驚かなかったのは丸谷だけだった。ル・マンが「6月」だというのは、誰にも変えられない。参戦決定から実戦まで、実質何ヵ月あるのだろうか。丸谷にしても、ル・マン参戦はいいとして、すぐ翌年にというのはちょっと意外だった。「でも、できるできないじゃなくって、やらなくちゃいけないんですよ」(丸谷武志)
*
「驚いたどころじゃなくて、何か、信じられなかったよね……」
特有の笑顔で、ていねいに語る人がいる。レーシング・ドライバーの高橋国光である。彼は93年の10月に、栃木でエンジンを見ていた。3リッターV6のレーシング・エンジンがいくつか、ベンチに掛かってテストを受けている。
メーカーのファクトリーで、開発中のエンジンを“乗り手”として見せてもらう。この経験は国光にとって、二輪ライダーの時以来だった。
「あの頃は白子で、規模はまったく違ったけど、これが《RC161》のエンジンだよとかいって、見せてもらったなあ!」
ちょうど、この10月。高橋国光は、土屋圭市、飯田章の三人で、日光サーキットで走行会に出席して、飯田章という若いドライバーに好感を持っていたところだった。土屋圭市とは周知の通りに、92年のグループAレースからのパートナーである。
「圭ちゃん一人じゃなくて、章君が加わって三人でしょう。そうすると、ヨーロッパあたりで何かできるかなあ、なんて思ってたのね」
三人で何かやれたらいいなと高橋国光はイメージし、そこにベンチテストで回っているル・マン用(?)のエンジンがある。それはすでに、400馬力以上出ているという。丸谷は国光に、「松・竹・梅の三種類あるんですけど、どれにします?」と笑いかけた。チューニングの違いでいくつかのエンジンを作って回しつつ、丸谷は答を探っていた。
NSXという素材があり、チームメイトもできて、こうしてエンジンが目の前で回っている。そして、高橋国光は、ル・マン24時間というレースがとても好きである。欧州で何かできるかもしれないというとき、このすばらしい耐久レースを国光が想起していたのは言うまでもない。
でも、もし可能性があるにせよ、どんなに早くても95年以降だなと、国光は思っていた。あくまで、やれるかもしれないなという話であり、エンジンがテストされているというだけで、クルマなんかどこにもないのだ。
「それが、狙いは来年のル・マンだっていうんでしょ。驚くも何も……(笑)。いや、ぼく、他のメーカーも知らないわけじゃないけど、これは、ホンダ以外のメーカーじゃ、もう、絶対に考えられない」(高橋国光)
(つづく) ──文中敬称略
○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』
この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。
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2014/02/11 22:13:24
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